つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達(その7)

2007年04月05日 | 躰道
尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」(その7) 尾崎健一

②先生の武道家へのデビュー

自衛隊を去られて間もなく、恐らく昭和三十一年春だったと思います。
先生は満を持した如く、武道家へのデビューを華々しく果たされたのです。
当日の思い出を再現します。
ところは、神田共立講堂。舞台正面には三十数枚の瓦が積まれている。
客席の私からはよく見えないが、たぶん数枚のコンクリートブロックがその下に敷かれている筈である。
舞台右ソデから、道着姿も凛々しい先生が静かに現われ、積まれた瓦を前にして客席に一礼された。
この頃は、まだ白黒のテレビが漸く町角などに出始めた頃で、場内には武道新聞の記者らしい人たちは多くきていたが、テレビ撮影は勿論ない。
今なら早速民放でライブ放映されるはずの名場面である。
それに、残念乍ら私もまだカメラなど持っていなかった。

最前列の席で、私はその瞬間を待った。
場内寂として、観客は息を殺し、一瞬静寂が凍りつく。
下から見上げると、三十数枚の瓦は先生の腰の辺りにまで及んでいる。
何しろ、五枚の瓦割りに苦労している私である。
祈る気持ちであった。
裂帛の気合が、凍りついた静寂を破った。
全身の力が、右肩から腕に流れ先生の手刀はグズッとにぶい音をたてて瓦の上にくいこんだ。

万雷の拍手が湧く。
だが、私はまだ心配だった。
高さの半分位までは左右に割れているが、更に下方の状態がよく判らない。
成否は。
と客席は固唾をのむ。
やがて介助者が現われて、積まれた瓦の片側を静かに引き離すと、積み重ねた瓦の中心線は見事に最下部の一枚まで左右に割れたのである。

成功。
再び場内には割れんばかりの拍手が鳴りひびいた。
先生は、再び静かに一礼して舞台を去られた。
安心と、喜びが余りに大きかったせいか、遠い日の事でもあり、このあとのことを私は良く思い出せない。
先生が、武道家として躰道をひっさげて、見事にデビューされた一瞬であった。(つづく)


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祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達(その6)

2007年04月04日 | 躰道
尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」(その6) 尾崎健一

その頃立川の町は米軍の航空基地(フィンカム)を中心にまだまだ戦後の色彩が濃く町の主役は、残念乍らアメリカの兵隊さんでした。
クリスマス近くになると、町ですれちがう兵隊さんの多くは、勿論しっかりと女性と腕を組んでいます。
驚いたことに男の兵隊さんが耳にイヤリングをつけているのです。
日本では女性のイヤリングさえ珍しい頃です。
それともう一つの驚きは彼らの薄着です。
雪のチラチラする日に、半袖の私服で外出する兵隊さんなども見かけましたが、寒そうにするどころか、ツヤツヤとした赤ら顔です。

何しろ自衛隊の私たちは古い兵舎のあとを利用しているので、私たちが入った建物は、昔、馬が飼われていたとかいうところで、床はありません。
地面がむき出しで、時々馬蹄の錆びたのが出てきたりしました。
止むを得ず、古い倉庫の大扉を引きずってきて、事務机の下に敷きつめました。
ストーブの燃料は石炭で、これが一日バケツ一杯です。
残業の時など古い兵舎の板壁をはがしてきて燃やしたものです。
皆が寒がっているのを見兼ねた上官が『勤務中外套着用許可』と命令を下し、冬はオーバーを着て寒さに耐えて仕事をしました。

米兵の方は、恐らく温かい暖房の部屋からでてきて、体の冷めないうちに近くのバーへ入って、また女性と一杯やる訳ですから、たぶん雪の中でも赤い顔をしていられたのでしょう。
こんな町へも、時には空手仲間の酒好きは、先生の後にさえついていれば恐いものなしという顔で、ゾロゾロとついて歩いた事も、今となっては懐かしい思い出となりました。(つづく)

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祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達(その5)

2007年04月04日 | 躰道
尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」(その5) 尾崎健一

そして、先生もこの機会にいよいよ武道家として新たなる出発を期されて、越中島移駐後間もなく退職されたように記憶しております。
先生の去られたあとの自衛隊の仲間は、こうした先生のお言葉を忠実に守って、その後も鍛錬を重ねたことは、皆様もご存知のとおりです。
退職後間もなく、先生は都内、神田共立講堂において、華々しく武道家としてのデビュー演武を行なわれることになります。
また『新空手道教範』初版が出版されたのも、ほぼこの頃ではなかったかと思います。
こうした教範に残された先生のお言葉からは、愛弟子たちを残して新天地に向かわれる師の心が熱く伝わってくるのであります。

越中島での練習風景に少しだけふれておきます。
ここは商船大学跡で建物等はそのまま自衛隊が使用していました。
立川のような広々とした兵舎跡地は、ここにはなかったので、練習は鉄筋コンクリート隊舎の屋上で行ないました。
真夏のコンクリートは、熱く焼けていてとび上がる位でしたが、だんだんと馴れてくると、持病の水虫が知らぬうちに治ったという人も出てくるほどでした。
また近くなった他部隊からも、物珍しげ気にのぞきにきて、そのまま練習に加わる人も出てきて、人員的には立川の頃と大差なかったように思います。
コンクリートの上には『一撃流』と白墨で誰かが大書していたことを思い出します。
立川時代ほんの一時期そう命名されたことがあり、私たちは何となくその語感が好きだったのです。
玄制流では体位の基本が『旋運変転』だったのが躰道ではこれに捻位が加わり現在の『旋運変捻転』となる頃から、躰道の主流は必然的に各大学の躰道部に移り現在に到った訳です。

先生の武道家としてのデビュー当日を再現して、「私と先生との出会い」の頃を終わりにしたいと考えますが、その前に少しだけ思い出多い立川の町のことを付け加えさせて頂きます。(つづく)

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祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達(その4)

2007年04月03日 | 躰道
尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」(その4) 尾崎健一

初心者への教授方法が極めて合理的であったことは、その後間もなく出版された五百頁以上に及ぶ大部の『新空手道教範』(昭、四五、七、一 第七版、日本文芸社)によって知ることができました。

その序文には
『空手道を適切に修得するうえに最も肝要なことは、術技を組織的に系統だて、鍛練の段階に無理がないよう工夫することである』と教授の根本理念が明記されております。
また、第九章第一節『環境と適切な修練計画』では「個人で独習する場合」の心得として『よい指導書を求めれば、良師に師事していると同じように修練できるから、けして悲観することはない』とあり、
また同章第三節では「団体で修練する場合」として『学校、自衛隊、会社など団体の空手部では、気心の知った者同志が稽古するので、修練上有利な面が多くその効果も大きい。
たとえば、相手の得意とする術技を自分は不得意とし、逆に、自分が得意とする術技を相手は不得意とする場合、双方の得意技を互いに交換して会得することができるーー。』とあり、
更に別項では『部外の競技試合を利用する』『合宿を効果的に利用する』と教えられております。

創設当時の自衛隊は、組織の改編がたびたび行なわれた時期でもあったので、立川での最初の弟子たちもやがてバラバラに転属する可能性が高く、事実、立川部隊は一年半位で都内の越中島部隊に移駐しました。
幸い殆どのものが同一部隊にとどまることができましたが、何人かは他部隊へ転属し、その後の躰道から離れざるを得なかった者もいました。(つづく)
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祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達(その3)

2007年04月02日 | 躰道
尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」(その3) 尾崎健一

しかし、それに気づかれた先生からは厳しくとめられました。
基本動作と基礎体力が養われない間に技を進めることは事故につながるからで、試割りにはそれだけの鍛錬が必要で無闇に拳を傷つけてはいけないと諭されました。
この時見せて頂いた先生の手はふくよやかで、素人が考えていたような岩のような拳ではなかったのです。
空手(まだ躰道となっていない)は力ではない、技であり精神であることを、先生は徐々に教えていこうとされていたのだと思います。

他の流派には、そうでもない考え方もあるようで、ずっと後年、他流の空手を学んでいる富山の友人の案内で、彼の通っている道場へ連れていって貰ったことがあります。
道場に居並ぶ、師範に近い方が見せてくれた拳は『僕の手刀は、アバラ骨をつき破ることができる』のだと自慢気でしたが、なる程、中指には爪がなく指の先がカチカチといった感じだったことを記憶しています。

ところが、先生のお考えは『赤ちゃんを抱っこしていて、油断すると赤ちゃんの指が目に当たって痛い目にあうことがあるが、空手の急所とはそういうものだ』という意味のことをお聞きしたことがあります。
私も素人ながら、なァーる程と納得したものです。

練習が始まってしばらくたつと、先に進みたくて仕様のない弟子たちを見すかされた先生から、巻藁の作り方を教えられ、その辺から木屑や藁屑を拾い集めてきて、皆で四、五本ばかり立てました。
巻藁を実際に突いてみると当然『その場突き』と違った感触で、誰もが興奮して突いたものです。
早く拳が固くなるようにと事務室の中でも拳を引き出しに押しあてたりした記憶があります。
時には巻藁に血が沁み込んだりしていましたが、自信をもちすぎた誰かが固い電柱か何かを突いて少しケガをしてからは、空手は技でゆくべきだ、ということを皆は次第に解っていったように思います。

そろそろ先生が段級試験を考えられる頃になると、瓦割りを本格的に習う日がやってきました。
瓦は勿論古い兵舎に使ったもので年季が入った本格的なものですから、固焼きで部厚いものです。
一枚を割るにさえ余程気合いを入れないとハネ返される程でした。
段級に応じた枚数が指定され確か、初段は五枚位だったように思います。
私もその位までいったように思っていましたが、或いは三枚位だったかも知れません。
今ではこの鍛錬はもう無い事と思いますが、実戦的でワクワクする気持ちは大いにありました。

さて、実技の進度は意外に早く当時の日記によりますと、三月六日に手ほどきをうけた私たちは十日ほど後の

三月十七日 天位の型、終り ナイファンチ 始る
三月二十四日 ナイファンチ 終る

となっています。
一ヶ月ほどでナイファンチが終るほど鍛錬の進度が早かったのは、弟子たちがそれぞれ興味津々だったことに加えて、先生の教授プランが、すでにご自身の頭の中には整理されていたからだと思います。(つづく)

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祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達(その2)

2007年04月01日 | 躰道
尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」(その2) 尾崎健一

2.祝嶺正献先生との出会い

①弟子入り
のどかな飛騨の山の中から、寄るべなき青年が一人戦後間もない東京の喧騒と雑踏の中にとび出してきて、うろうろと心細げにさ迷っている。――それが宗家・祝嶺正献先生(以下先生と略)に出会う前の私でした。
一年間ほど職を転々として苦労の末、立川の自衛隊に職を得たけれど、友なし、金なし、学歴なしのないないづくしですから、何か自分を守るべきものを持ちたい。
そんな思いのなかで、私は初めて先生に巡り会った訳です。
時は忘れもしない昭和二十九年十二月三日。
一日に都内江東区越中島の陸上幕僚監部という所で入隊式を済ませて二日あとのことです。

この朝、始めて降り立った立川駅前には空っ風がごみ屑をまきあげて吹き荒れており、そうした中に自衛隊のカーゴと称するトラックが一台迎えにきてくれておりました。
荷台にとびのった仲間は、四、五人いましたが勿論お互い顔も名前も知りません。後から考えると、後に空手を習った仲間も何人かいました。
部隊につくと、三十名位の既に着任していた隊員の方たちが整列して迎えてくれました。
この中には、先生や横堀登さん、峯村千徳さんなどがすでにおられた筈です。

自衛隊ですから、翌日から運動場で朝礼があります。
そんな中に、威あって猛からず、といった一際目立つ方がいました。
そしてある朝、朝礼後人影がまばらになった運動場で、事もなげにバク転をやって見せられたのです。
並み居る私達が驚いたのは当然で、この方が空手をやられることはそのうち部隊中に知れ渡ってゆきました。
それが祝嶺正献先生でした。
希望者には、空手の手ほどきをして貰えるということが、口づてに伝わると、やがて私も希望者の一人の中に入っておりました。

記憶を確かめるために、当時の日記をみると
『昭三十、三、六 祝嶺先生から空手の手ほどきをうける』とあります。
十二月入隊ですから、約三ヶ月あとにはもう希望者に対して集団的な先生の訓練が始まっていたことになります。
人員は十五、六名位だったように思います。
先ず拳の握り方、立ち方、運足の方法、正拳突き、受け五段、蹴りと教程は進んでいきましたが、練習中には時々先生が展示演武を示され、間近にみる技のすごさに新米弟子たちはカタズをのんで見守ったものです。

気の早い連中は、早くも自分の力を試そうとあちこちから瓦をひろい集めてきて割りその枚数を競ったりしました。
実際、当時の駐屯地内は、旧軍の兵舎が荒れ果てた姿で、沢山残っていましたから、屋根から抜け落ちた瓦がごろごろと地上に散乱していました。
私たちは、空手イコール瓦割りという連想を何となく持っていたので、何気ないうちにそんなことをしていたのだろうと思います。(つづく)
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