上田原の戦に敗れて退いた村上義清は、退路を断たれて城に入ることが出来ず
そのまま峠を越えて山中に入り、北を目指して越後に落ち延び越後府内に入り、長尾景虎に対面した
義清は「某は十年にわたり武田家と戦いを重ねてきたが、去る二十四日上田原の一戦で、敵大将武田晴信と一騎打ちを行った、晴信の近臣がわが馬腹を突いた為に落馬して鼻を打ち目がくらみて討ち死にとなるところを、わが郎党馳せ参じて助け、換え馬に乗り次いで窮地を出した
されども居城葛尾には入ること能わず、腹を掻き切らんと思えども、死は安し生きるは難じと思い、ここまで来りて候なり
公の父祖とわが先祖は代々武威を争ってきたが、義清、今日は恥辱を忘れて降を請う、公の英雄の名声は天下にとどろき、某の心中を察して今一度、葛尾に帰住するを叶え給われば大いなる幸、莫大な厚恩を賜ることになります
越後にある某の領地も返し奉らん」と頭を下げて頼むを見て、景虎は村上を哀れと思い、上田原の合戦模様をしばし尋ねてから
「御言葉、まことに痛ましきなれ、某の父、信濃守為景は加賀能登越中の間に、数年合戦を挑み、武威を示したけれども越中に於いて不慮の討死を遂げた
父の孝養の為、越中の敵を討ち、加賀能登越前を始め、東国を幕下につけ、帝都に上洛して、将軍義晴公に謁し天下の権を掌に握り、武名を四海に残さんと思う
しかし、某今年十八歳、若年なれど、某を頼み思召すとの一言、黙視できず越中攻めはひとまず差し置き、この上は晴信と一戦交えて公を更科に帰国させ申さん」と熱く語った。
そして、晴信の軍立ては如何なるやと問えば、義清は景虎の信義の熱きことに恩を謝し、「某は数年、晴信の父、信虎と戦ったが、甚だ強き矛先であり天晴なる豪傑の勇将でありました、されども晴信は、その父、信虎にも勝る大将にて、武略に長じて、軍を大事と心得、そこつの働き無く、勝てばいよいよ慎む者にて候」と言う
景虎はしばし話を聞き「さては晴信とは人数の扱いうまく陣法をもって勝つと見えたり、我まずは信州に打ち出て試しの一戦を挑み、敵の奇術を確かめん」
先と申す
先陣は長尾越前守、二陣は直江山城守、古志駿河守、柿崎和泉守、安田上総介、そのほか宇佐美駿河守をはじめ、越後の勇将を引率して其の勢は六千余騎
十月九日、府内を出て信州に押し出し、敵国を放火して勢い大にして民郷を侵し、所々に狼藉をおこない、従う者は恩をもってなづけ、城に籠って出てこぬ者は無視して少しもかまわず、これ味方に降らすための謀りである。
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