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マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

曼荼羅・まんだら・マンダラ

2014-05-06 14:53:39 | 日本語・古事記・歴史・日本人

曼荼羅・・・・・と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、『中将姫』の物語・・・・・・・長谷寺の観音様・・・・・・そんなものでしょうか、まあ人それぞれですよね。国文学を専門に学んだ人は別にするとしても、高校の古典で習った『かげろう日記』の辛い道綱の母が必死ですがった長谷観音・・・・・・清少納言も紫式部もふれた長谷観音・・・・・・そんな観音様の救済図を中将姫が夢に見て織り上げたのが長谷寺の曼荼羅で、阿弥陀仏を真ん中にして周囲を様々な仏様が取り囲んでおられる浄土を描いていると聞き伝えられた図です。

有難いと拝む気持ちの訳は、曼荼羅と自分とのかかわり合いの中にあるはずです。それはどんなもので、その精神構造がどうなっているのか、何を感じているのか、あれこれ不思議に思って来ました。曼荼羅とは何か????・・・・・・自分の中で腑に落ちてきた考えを記事にしたいと思います。

 

私たち多くの人に一番わかりやすい阿弥陀如来というか大日如来を中心に多くの菩薩像が取り巻いている曼荼羅図・・・・・あれは単に夢か希望かといった浄土を描いているのではありません。あれは具体的に自分であり現在の世界です。あの大日如来は『自分』でもあり『先祖』でもある・・・・・したがって『今』でもあり『昔』でもあります。また多くの菩薩像は『自分』でもあり『子孫』でもある・・・・・したがって『今』でもあり『未来』でもあります。またもっと本質的に大日如来は宇宙を生み出す根源でもあり取り巻く菩薩像は現在の宇宙の諸像でもある・・・・・そもそも曼荼羅図というものは、『現れ』というか『関わり』を描いた図なのだと思います。その中にはこの世のピンからキリまで、最大から最小まで、過去から未来までの大宇宙から今の刹那まで、見る人の立場に合わせて如何様にも解釈できるものが描かれています・・・・・・というより描いて教えてくださろうとしたのかもしれません。

要するに根源的な力の源とその力によって様々に現れた形というか姿というか・・・・・・ですからその力とその関わり・・・・・それによって二次的に出現する力とその条件・・・・・その繰り返しによって今があるという『この世の展開図』なのだろうと思います。

あの曼荼羅を単に絵としてみることも、それは可能でしょうしそれぞれの自由だろうと思います。ですがあれほどこの世の真実を語る絵もないと思います。そして私たちが祈ることができる・・・・・というより関与することができるのは、大日如来と菩薩像の間、またはその菩薩像の縁ではたらく大日如来の後ろに潜む力に対してだろうと思います。すべての背後に潜んで関与している力に対して、日々無意識に行っている条件づくり・・・・・場づくりといってもよいと思いますが・・・・・、つまり私たちの日々の思いと行い、その結果どんな菩薩像になるのか、あるいはどんな明日を迎えるのか、あるいはどんな人生を過ごすのか、すべてを決定するのだと思います。

        曼荼羅・・・まんだら・・・マンダラ

私たち日本人の心のふるさと、ワタツ人の言葉で『マンダラ』と発声すると、それはそういう説明の内容そのものを表す私たちの心の音になります。ですから日本語を大切に丁寧に丁寧に子供たちに残していかなければなりません。日本語はこの世の真実の音を今に伝える、外国語に代えがたいほとんど唯一の言葉です。曼荼羅の不思議に決着がついた今、ただただありがたくひたすら思い願っています。

 

それでは今日も:

      私たちは横田めぐみさんたちを取り戻さなければならない!!!

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邪馬台国論争

2014-03-04 15:59:58 | 日本語・古事記・歴史・日本人

我が国日本の正史には出てこないが、それでもあったとされ日本人を惹きつけずには置かない『邪馬台国』に関する積年の論争・・・・・・九州説と畿内説・・・・・・ここに欠落している問題が見えてきました。

 

随想古事記で自説をご紹介しましたとおり、我が日本列島は1万年以上も前からカタカムナのワタツ人の住む世界でした。そこに同族(蛇)の大陸に住み着いて鳥族となった殷人が落ちてきます。つまりそれが天孫降臨であって、山幸彦の伝説の通り竜宮の王女・豊玉姫と結婚されワタツ人の王である竜宮の王から統治権と言語を引き継がれたことも書き述べました。この落人鳥族のことを大陸の勝者が卑下して猪族と呼び邪馬族と呼んだことも川崎真治先生の説として発表済です。(随想古事記・海幸山幸

殷の滅亡が紀元前1300年頃と推定されていますが、由緒正しい(?)殷の落人が半島を経由して我らが『うから』ワタツ人の国にたどり着いたのは、多分紀元前1000年前後・今から約3000年くらい前のことかと思います。この山幸彦の国が、何を隠そう、大和の国つまるところの『邪馬台国』なのだというのが私の説なのです。そうしてみると、邪馬台国がどこにあったかという問題は自ずと明らかになってくると思います。

殷の落人は初めから我が国を目指してきたのではないと思います。天照大神の御神勅のように『我が皇孫の王たるべき国なり』という状況ではなかった(これについては、随想古事記の中で自説を展開しました)と思います。殷の国境から少しずつ離れて朝鮮半島を領有する時代があったかもしれないし、また周が追われ秦が追われてさらに追われたのかもしれません。そして東海の国の元同族ワタツ人に受け入れられたのだと思います。そこは確かに九州だったと思います。その後は神武東征の物語があるように畿内を中心に据えられました。そしてそこは『登美』の長髄彦がいる国『トミ・・・・・つまり鳥見(同じ殷人の国)』でした。神武東征の前から邪馬族がいたことになります。

 

邪馬台国はあちこち分族がいて、古墳時代が終わって現在でいう大和朝廷が始まる頃(魏志倭人伝・宋書に登場する頃)には、九州から畿内まで邪馬台国だったのではないかと思います。そして大和朝廷を建てた大和王統はワタツ王から王権を移譲された山幸彦王族だったのだと思います。それで・つまり、今日の問題の結論を言うと・・・・・・我が国の邪馬台国論争には、

             時空が抜け落ちている!!!!!

 

これでは如何に発掘して遺跡を発見しても混迷が増すばかりではないかと思います。我が日本はかなり広大に長期間、ワタツ人と邪馬人との大和の国だったのですから。川崎先生がおっしゃるとおり、それを卑称して大陸の史書で邪馬台国と記述したのだと思います。(追記:そしてついでに繰り返しますが、それがジャパンの語源でもあり、巡り巡って聖徳太子が『日本』という字を採用される根拠でもあるのだと思います。また台湾と高砂族、インドネシアのジャワもつながっていると思います。)

 

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六平さん

2014-02-08 16:10:51 | 日本語・古事記・歴史・日本人

雪の土曜日になりました。日本全国(とまでは行かないかもしれませんが)、見事に真っ白!!です。関が原が冬に雪で鉄道も埋もれる(?)とは知っていましたが、名古屋に雪が降るなんて・・・・・・美濃尾張地方に住んでみるまでなんとなくピンときませんでした。こんな日は雪に埋もれて(大げさですが)どこにも行かない!とばかりに、帰宅した主人とテレビを見ました。そしたら、時代劇で顔なじみの俳優さんが出ている番組で・・・・・・・

その方は六平さんという苗字(芸名?)だったんだそうで、初めて知りました。何とお読みするか、ご存知ですか?・・・・・・・ムサカさん・・・・・とお呼びするんだそうです。役柄よりかなり良さそうな(失礼ですが)方です。・・・・・・・ムサカ・ムサカ・ムサカ!!!!

 

へえ・え・え・え、『』は『サカ』、なんだあああああ・・・・・・・!!!!!やっぱり!!!!

 

大変感動しましたしこれで、「平氏は鳥、つまり猪族である」と、なんとなく残っていたモヤモヤを吹っ切りました。ついでに言うと、鳥は邪馬で、邪馬台国一族です。それを考えると平氏が西国に影響力を持っていたのも、西へ西へと落ちていったのもわかります。またそのことが邪馬台国は九州にあった(少なくとも九州で始まった)ことの根拠になるかもしれません。そしてさらに古く、『ヒラ』なる音を持つ地名はみな鳥族に由来し、我が故郷平戸もまた・・・・・・そう言えば同郷人の中には、『邪馬台国は田平町(平戸市)にあった』と主張している人もいます。

そして、ヒラヒランになりヒダにもなり、だから『平』なる文字を、ある鳥族の部族が『サカ』と読む。チャエも、サエクサも、以前記事にしたツゲもみんな同じようにして出来ていったんだろうと得心がいきました。色んなところで、川崎真治先生説を裏付ける生きた証拠に出会う今日この頃です。

 

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ネルソン・マンデラ大統領

2013-12-19 15:56:49 | 日本語・古事記・歴史・日本人

現代アフリカの偉大な指導者マンデラ大統領(Nelson Mandela)がなくなりました。アパルトヘイトの南アフリカ共和国(私たちの子供の頃は南ア連邦でした。)で、人類融和を成し遂げようとしたマンデラ大統領・・・・・・・その悲惨な歴史を思うたびに、我が朝廷の『大和政策』を思わずにはいられません。マンデラ大統領が我らが日本の歴史を知ったなら、感動で熱い涙を流さずにはいなかったでしょう!!!

民族の融和・・・・・この錬金術に成功した国が歴史上あることを私たちは自覚すべきだと思います。カテゴリー『父の背負子・随想古事記』で連載しましたが、私たちの歴史は世界のお手本だと思います。そして現代を生きている私たちも、日本人としてのその道を生き続けるべきだと思います。

 

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乳の実と柞葉(ははそば)

2013-10-05 10:38:12 | 日本語・古事記・歴史・日本人

先日ご紹介した大伴旅人の歌の冒頭、乳の実の父の命 柞葉の母の命(ちちのみのちちのみこと ははそばのははのみこと)・・・・・・これにはもう一つ忘れられない思い出があります。それはこの歌とは全く無関係に聞いた父の言葉です。私が中学生の時末っ子の妹が生まれました。その妹にお乳を飲ませる母を見ていたら父が言いました。

お乳は父の心なのだと・・・・・・その時は意味がわからないまま強烈な印象を持ちました。そしてずっと何となく、出産にも育児にも直接体を張らない男の願望のように感じてきました。そしてまた夫の愛が妻の授乳の支えのように、意味深く感じてきました。そして初めてこの歌を知った時父の言葉を忽然と思い出し、父はこの歌を知っていたに違いない・・・・・・とそう思いました。

 

あるいはこれは単に枕詞ではなく、私達の祖先は『乳は父だ』と男親の子どもとのかかわりを感じていたのかもしれません。そう思うともっともっと密接に山上憶良の、・・・・・まされる宝子にしかめやも、と詠んだ日本人の心情としてつながってきます。そしてその時『乳の実』は『いたぶ』だと心に決めていましたが、実はこの『いたぶ』イチジクの原種に近い野生の実で、平戸の自宅の庭に下る私道にあっていつも実がたくさん落ちます。乳のように白い灰汁が出ます。昔はよく食べたものです。昔は何でも食べました。『いたぶ』に『うべ』に『ぐみ』に『まきのみ』・・・・・『しいのみ』『まてのみ』・・・・・・

でも、柞葉(ははそば)はどんなものか知りませんでした。そして先月この乳の実の歌の記事を書いた後ちょっと調べてみました。そしたら、『ははそ』『ほうそ』『いすのき』とあり、その葉は虫こぶが出来る・・・・・・と書いてありました。その写真を見ると、何とこれまた平戸の自宅の生け垣に使ってある木で、その木の葉はいつもハエ(の一種・平戸では・・・・ちょっといやですね)の時期に卵を産みつけられてぷくりと膨らんだ虫こぶだらけになります。これが母のお腹なんですね・・・・・・そうだったのか・・・・・・柞葉『ははそば』でなくてはならない訳が分かりました。

これらが川崎先生のいわれるように言語伝来の秘密を解くものであったにしても、この言葉を音に重ねて選んだ万葉の時代を生きた人の心を感じます。現在の私達もそのつながりの中に生きていることを感じていたいと思います。

 

 

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大伴旅人・心尽くして思ふらん

2013-09-23 13:09:22 | 日本語・古事記・歴史・日本人

今となっては懐かしい自分の心の遍歴で『万葉集』の周囲をうろうろしていた三十代の頃、ファイルに綴じたままずっと解決されていなかった大伴旅人の長歌と短歌、そしてそれを念頭に置いていたに違いない『その子』家持の短歌があります。こういう記事を書くのも何かの御縁、ご披露したいと思います。

     乳の実の父の命 柞葉の母の命 
             おほろかに 心尽くして思ふらむ その子なれやも 
         大夫や 空しくあるべき 梓弓 末振り起こし 
                投矢以ち 千尋射渡し 剣太刀 腰に取り佩き 
             足びきの 八尋踏み越え さし任る 心障らず 
                      後の代の 語り継ぐべき 名を立つべしも

     大夫は 名をし立つべし 後の代に 聞き継ぐ人も 語り継ぐがね


家持の短歌
     士(おのこ)やも 空しくあるべき 後の代に 語り継ぐべき 名を立てずして


音を楽しんでいただきたいので、ひらがなのみで書きます。どうぞ声を出してお詠みください。

     ちちのみの ちちのみこと ははそばの ははのみこと
              おほろかに こころつくして おもふらむ そのこなれやも
          ますらおや むなしくあるべき あずさゆみ すえふりおこし 
                 なげやもち ちひろいわたし つるぎたち こしにとりはき
              あしびきの やひろふみこえ さしまくる こころさわらず
                    のちのよの かたりつぐべき なをたつべしも




さてこれが何の問題かと申しますと、久しぶりに買い足した川崎先生の本のテーマの一部だったからです。何気なくネットで注文した本が届いて驚きました。実は川崎先生の御本を何冊か読んで、ブログでご紹介したとおり、矛盾で混乱とスランプに陥り、決着を求めて心の中で温める以外ありませんでした。そして自説が纏まるにつれて、新しい矛盾にぶつかるかもしれない恐怖(?)も感じつつ、『謎の神 アラハバキ』なるご本を読みました。そこでぶつかったのが、この旅人の歌の冒頭の言葉、それも先生の中ではこうなっているんです!!!

          知智乃宝乃 父能命 波播蘇葉乃 母能美己等・・・・・
          ちちのほの ちちのみこと はばんしょぱの ははのみこと・・・・・・

そしてこれは 『父の父の 父の命 母の母の 母の命・・・・・・』という言語学的問題を含んだ、或いは日本語の問題を証明する枕詞の問題だと仰るのです。そうかもしれません。私の中で、『そうだ!』と先生のお説をすぐにさっと肯定しきれない何かは、そこにたゆたっている時間の経過の問題です。これも『バベルの塔事件はいつか』という問題の一部なのかもしれません。日本列島の中で醸成された私達の日本語・・・・・日本人の身体の『ヒビキ』です。自分の一部を開放しているのですから、大切に大切に発していきたいものです。日本語の音そのものが自分だと思って、自分の声として出てくる音を聞きたいと思います。私もまた『心尽くして思い』たいと思います。




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猿田彦・・・・・結論?!

2013-08-29 17:11:21 | 日本語・古事記・歴史・日本人
猿田彦・・・・・サル・猿・爰・万葉集の柿本人麻呂は柿本爰????・・・・川崎先生(『言語歴史学』を提唱)によって初めて開けた私の『五色人』説(カテゴリー『日本語・古事記』の『五色人の謎』を読んで頂けると有り難く思います。)・・・・・それでも日本における猿田彦についてはちょっと疑問が残っていました。それは『サル』というのが『塩』、つまりソルトのことで『牛』の一部であり、朝鮮半島には『白い石』の伝説があって、それは塩族、つまり牛族をさしていると解説なさっていたからです。

この有史以前からの民族大移動に伴う人類の歴史は、非常にスケールの大きい問題なので、そのボリュームも生半可ではありません。それにこの問題は人の数ほど変化してくる・・・・・歴史は生きている人々の暮らしの跡なのですから・・・・・そういうわけで川崎先生のご本の内容も発展形・・・・・というわけで私の頭は大混乱に陥り、いつでしたか大スランプ!!!を告白した記事を書きました。そして長い間、私の頭の中でブスブスとくすぶり続けた『猿田彦』が、やっとまとまってきました。その結論をご紹介します。


猿田彦』は牛族ではありません。犬族です。そしてその音は『猿』・・・つまり『エン』から来ていると確信します。高句麗の淵蓋蘇文の『淵』と同じ音『エン』が意味しているものと同じだったのです。天孫降臨をお迎えした猿田彦・・・・・その伝説の顔は、いわゆるところの『天狗』です。『狗』は『犬』であり、天狗に関わる『役の行者』は『エンの行者』・・・・・そしてこれは独断の類ですが、猿を意味する『エテ公』の語源は、猿田彦『エンデンヒコ』ではないかと思い当たりました。


愛知県に来て地名の漢字に驚いたと以前にも書いたことがあります。音でも訓でも、音さえ合っていれば何でもござれの自由さ・・・・・これが日本人(厳密に言えばワタツ人)の最初の漢字採用術ではと思います。そして採用されるにあっては、何がしかの意味を体現して関連しあっている・・・・・私達の歴史は整然としていると感じています。




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ホツマのイザナギ・イザナミ

2013-07-25 16:55:13 | 日本語・古事記・歴史・日本人
若い人達の悲しい、そしておぞましい事件にまたまた日本国中が揺らいでいると思います。《いじめ》の言葉に仲間内でのメールのやり取り・・・・・どうしてこんなになってしまったのか・・・・・・今度の選挙でも特に感じました。候補者の口から出る言葉の羅列に、一体その奥に何かがつながっているのか・・・・・特に『強い国より、優しい国』というスローガンには違和感を覚えてしまいました。弱い国が国民に優しくなれるのか?????国際社会の現状を思うと、言葉に酔っているとしか思えませんでした。言葉ってそんなものですか???

東京から愛知県に来て一年になりますが、道を尋ねるたびに当地方に住んでいる人々の親切さに心打たれました。一方で住んでみると報道される事件の多さにも、頻繁に移動するパトカーの騒々しさにも驚きました。愛知県というところは、このところの私のテーマであった『五色人』がもっとも古くから混在したところだと思います。それは今でも続いていて、国際的というか、外国人も多くいます。こんな親切な人々の住む地方は穏やかなはずですが、混在するがための誤解もあるだろうと思います。そしてその誤解を解くカギも言葉以外にないような気がします。


昔は良かったとは言いたくないのですが、日本人独特の良さはだんだんなくなっているのは事実だと思います。社会の風潮にもよるのでしょうし、近代化とはいつも昔気質が失われるのかもしれませんが、家庭と学校という日本人教育機関の崩壊という以外にないような気がします。動物にとって教育機関は家庭というか、親の薫陶以外にありません。そこは『見習う』というたった一つの教育方針に貫かれています。人間にとってもそれが基本に違いありません。その上に人間はよりよい向上心に支えられて社会を作り出し、家庭という教育機関の延長・学校を作ってお互いを支え合ってきました。それを考えると学校教育は個人のためでもありますが、本来の目的は社会のためなのではないかと思います。そしてその肝心要は言葉ではないかと思うのです。

親の語りかける言葉を聞き、自分も真似てみる。言葉が子供の人間形成の全てです。ホツマツタエには、荒廃した国をたて直すために、イザナギ・イザナミ両尊が国民の言葉を正されながら全国を回られる記事があります。最初ホツマツタエにふれた頃はそれほど実感的に感動しませんでしたが、『言葉』というものが認識のすべてだということを実感すると、それ以外に無いのだと心の底から思います。そしてかえりみると、社会に氾濫する『酷い言葉』、『汚い言葉』、『むなしい言葉』、『うつろな言葉』・・・・・敬語を使えとは言わないまでも、丁寧な言葉を使うべきではないのでしょうか。丁寧な言葉で《いじめ》は出来ないと思います。

テレビの番組から、少なくとも子供が見る機会のある番組から、乱暴で汚い言葉を追放するべきでは・・・・・芸人さん達も汚い言葉で笑ってもらうような、そういう風潮を捨ててもらいたいと思います。相手を貶めて人の笑いを誘うようなものの言い方はやめて欲しいと思います。《いじめ》のお手本になっているのではありませんか???相手をめちゃくちゃに言うことはおかしいことなのだと思われても仕方がありません。子供達の脳はそれを真似ていくのですから・・・・・それで脳神経を発達させていくのですから・・・・・言葉は恐ろしいと思います。毎日かしこみかしこみ口を開かなければならないと思います。




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拓殖さん

2013-06-15 08:13:58 | 日本語・古事記・歴史・日本人
先日散歩をしていたら夫が言いました。『どうして拓殖さんが、‘つげ’さんなのだろう』・・・自宅近くに拓殖○○店があったので、昔からの疑問がふと浮かんだそうです(子供時代のテレビに登場した忍者・柘植の○○・・・・・)。私もそうでした。どうして拓殖さん?どうして日下さん?・・・・川崎先生の御本に出会うまでの話です。

今では新しい発見はあっても悩みとは無縁です。タク・ショクさん、これは結論を言えば、ツゲ・ツゲさんと言っているのと同じで、もとはツカ・ツカさん・・・・・以前記事にもなった東流『ツカル』さんです。

   タク・ターク・タカ・ツク・ツカ・ツケ・チョンヌ・チョク・ショク・・・・・・

漢字一文字の拓さんでも『ツゲ』さんと読んでよかったのですが、因子が多いほど色々な組み合わせが出来ますから、同じ意味を持つ音の漢字を重ねてその家の特色を出したのでしょう。大昔の最初のころは音にだけ意味を見つけ出し、時代が下って歴史的な意味や風景や事象を同音の漢字のもつ意味に込め・・・・・そうやってたくさんの人が日本の名前や名称を考えだしたと思います。


苗字に太古の昔からの記憶をよみがえらせるきっかけがあります。地名にそこに住んだ人々をしのぶきっかけがあります。確かに音は言霊です。そして50音に並べられた行の音、つまりタ行なら自由に(というか?)チでもツでも、テでもトでも互いに変化したらしい・・・・・それでテ(手)は『掌(タナゴコロ)』になるし、『手斧(チョンナ)』になる・・・・・もしかすると『タビ』は手袋足袋かもしれません。


8/2追記:ひょっと考えつきましたので、追記します。
何故『タビ』が足袋専用になったのか・・・・・・それは多分手に袋をかけたら使いにくかったのだと思います。如何に寒くても目と手は覆うことが出来なかったのだと思いました。それで自然に足袋だけが『タビ』として生き残って、今も私達はその言葉を使っています。




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冷泉家の七夕

2013-06-11 07:47:55 | 日本語・古事記・歴史・日本人
夫が買って来た週刊新潮の小さな記事に冷泉家の御当主の出された記事がありました。冷泉家の七夕祭り『乞巧奠(きっこうてん)』のお供え物について、御当家に伝わる覚え歌が、

   うりなすび ももなしからのさかずき ささげらんかず むしあわびたい

というのだそうです。瓜と茄子、桃と梨と『空の杯』、ささげ(豆)とらんか豆、蒸しアワビと鯛・・・・・その『空の杯』の謂れが御当主さへももう分からないので何方かご存じでは・・・・・って書いてありました。 


『空の杯』・・・・・『空の杯』・・・・・『空の杯』・・・・・織姫の涙でも溜めるのでしょうか?????それとも『殻の杯』・・・貝殻なのか???『柄の逆付き』・・・蔕に蔓つきなのか???『果羅』・・・何か果物???それとも・・・・・御当主でさえ不明と仰るものを私に分かるはずも無いとは思いつつ、ついつい考えてしまう『日本語の謎』でした。




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安珍清姫

2013-05-02 21:21:41 | 日本語・古事記・歴史・日本人
安珍清姫のお話は『道成寺』として広く知られていますが、子供のころ初めてこのお話を知って第一に思ったことは、『どうして清姫が蛇になるのか?』ということでした。その後、順番はもう混乱してしまいましたが、古事記の『ホムツワケとヒナガヒメ』のお話、『女の嫉妬心が蛇になって子どもをかむ』というホツマツタエのお話・・・・・色々ありますが、恋に狂った(?)女が『蛇』であることは共通しています。

そうしているうちに、NHKで一昨年でしたか(?)放送した韓国の娯楽時代劇『トンイ』に出てくる粛宗の母后が言いました。南人(ナミン)のチャン・オクチョンをさして『あの女は“蛇”だ!』え、え、え、ここにも安珍清姫が・・・・・????・・・・・南人(ナミン)というのは蛇族の民族集団なんです。朝鮮半島というところは、私達が遠に忘れた民族の差別意識(五色人)を残している・・・・・???そこに母后の憎しみさえ感じてしまい違和感を覚えました。たとえ清姫が蛇になったとしても、怖いとは思っても・・・・・私達日本人には嫌悪感は無い???・・・・・というか清姫にも同情を禁じ得ないような気がするからです。


数年前から何度もご紹介している川崎先生の説にふれてこれもやっと得心がいきました。そして『五色人』の謎を解明し日本民族の成立に関する私なりの説(ブックマーク・随想古事記)をブログで発表しました。

要するに安珍清姫もホムツワケとヒナガヒメも『馬男に蛇女』のお話でした。そして蛇女の悲しみの裏返しである『恨み』がなぜ命をちじめることになるのか・・・・・それは確証があるわけではありませんが、オオヤマツミの娘『イワナガ姫』が醜さゆえにニニギノミコトから親元に帰されたお話にその源があるような気がします。イワナガ姫は美人の代表、通称コノハナノサクヤ姫の姉君です。少なくともイワナガ姫は名前に蛇女であることが示されています。『ナーガ』は今でも蛇のことですし、少年ケニヤにも出てきましたよね。父であるオオヤマツミが言います。イワナガ姫は永遠の命の象徴であると。それを返された天孫ニニギノミコトの命も限りがあることになると。

私達は坩堝の中で五色人を錬金して『日本人』を作り上げましたが、その坩堝の中には様々な記憶が入り混じって時々顔をのぞかせるのかもしれません。安珍清姫を思い出した時には、鎮魂の祈りを捧げるべきだろうと思います。その為にお話として私達の先祖はそういった物語を残しているのかもしれません。




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サキハエタマヘ・幸とは何か

2013-04-09 11:06:27 | 日本語・古事記・歴史・日本人

主人の親戚に『幸子』さんという方がおります。別に普通だ・・・・・と思いになられないでください。『サキコ』さんと呼ぶのです。初めて会った時私はその名前に魅かれて親しみを感じました。そしてその名前を付けられた父君が神官様だということを知りました。・・・・・・そうか~~~~『サキハエタマヘ』か~~~~~もう20年以上(あるいは30年だったか)も前のことですが、私のインスピレーションは昔も今もいつも同じ・・・・・『父の背負子』です(成長していない?????)

『サキハエタマヘ』・・・・・・何を思い出されますか。『父の背負子』としてはもちろん、アマテラスオオミカミの『天壌無窮』の御神勅です。『父の背負子』を背負ってない戦後の人間は知りませんよね。それで念のためにここに書きます。


葦原(アシハラ)の千五百穂(チイホ)秋の瑞穂(ミズホ)の国は これ我が皇孫(スメミマ)の王(キミ)たるべき国なり。爾(イマシ)皇孫行いて知らせ幸くませ(サキクマセ)。天津日嗣(アマツヒツギ)の栄えまさんこと、当(マサ)に天壌(アメツチ)と窮(キワマ)り無かるべし


こう仰ってアマテラスオオミカミは皇孫ニニギノミコトを瑞穂の国に遣わされました。『サキクいなさいね。』と、祈りを込めてアマテラスオオミカミは王たるべきかわいい孫君に丁寧語を使って『サキクマセ』と言われましたが、私達が申し上げるときは尊敬語を使って『サキハエタマヘ』です。

その『サキク』あるとはどういうことでしょうか。つまり『幸』とはどういうことでしょうか????現代人はその意味を忘れかけています。というより個人個人は知っているのだけど、社会は明確に答えることが出来ない・・・・・一昨年の大震災で私達は『当たり前』の幸せを再確認しました。十人十色の答えの表明があります。ブータンの国王陛下は『心の幸せ』をお示しになられました。

ここで思い出していただきたいのが、我が国語の言い回し『山の幸、海の幸』・・・・・山でとれる食べ物、海でとれる食べ物・・・・・・山幸彦は山の幸で暮らす人々の長官(?)、海幸彦は海の幸で暮らす人々の長官・・・・・・つまり『幸』とは『命をつなぐもの』です。私達の食べ物です。ですから『サキクある』とは命をつなぐ食べ物が豊かでそのおかげで命がつながっていることです。

もちろん祖母アマテラスオオミカから食べ物の保証としての稲を授けられた王たるべきニニギノミコトの『サキクある』あり方とは、『サキクある』国家運営です。それで、天津日嗣(アマツヒツギ)の栄えまさんこと、当(マサ)に天壌(アメツチ)と窮(キワマ)り無かるべし、と続くのです。『幸』である『イノチをつなぐ』とは『日嗣ぐこと』、つまり『代々受け継がれること』・・・・・・アマテラスオオミカミの国民の幸せの祈りを持った王の日嗣が永遠に続くように・・・・・・

これはつまり私達一人一人の家が代々受け継がれていくように・・・・・・、子供に恵まれ孫に恵まれますように・・・・という祈りと同じことです。これが幸せの根源で、その当たり前の日々の繰り返し・・・・・これをかみしめることが人間の喜びだろうと思います。ですが今は少子化の時代、イザナギノミコトが仰せられた幸せの保証は揺らぎつつあります。たくさんの孫に支えられる老人は少なくなりました。

弟が生まれた時お産婆さんが言った言葉を思い出します。『子ども二人は自分たち二人のため、三人目は社会のため・・・・・三人以上生まないといけない』・・・・・子供を持てない人がいる・・・・・それに関して発生するもろもろの不幸を包み込むシステムが『社会』という人間の発明であって欲しいと思います。アマテラスオオミカミが込められた祈りが今も息づいているはずです。今年は折しも伊勢神宮の『遷宮祭』の年・・・・・・・神々の心と知恵が『先生え(サキハエ)』ていることを感じたいと思います。『先生える』・・・・・『未来が生まれる』。相似象の宇野先生のお言葉に『サキタユ』という反対語を見つけました。

自分達の不心得のために『サキタユ』ることの無いように、社会を営んで行きたいものですね。私達は今も神々の後を生きているのだと思います。




それでは今日も:

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続追記『シシ』・鬼とは何か

2013-04-04 18:18:49 | 日本語・古事記・歴史・日本人
鬼とは何でしょうか。子供のころから慣れ親しんだ(?)恐ろしい存在・・・・・桃太郎や金太郎に出てくるおとぎ話の鬼、節分の鬼になまはげ・・・・・、鬼子母神に般若・・・・・・瓜子姫の天の邪鬼だって・・・・・・私達はたくさんの鬼を知っています。

『鬼』とは『角を持つもの』で、恐ろしいものです。荒れすさぶものです。そして荒れすさぶものの代表(?)といえば、スサノオノミコトです。ご存知ですか、スサノオノミコトを『牛頭天王』ともお呼びするのです。母なるイザナミノミコトを慕って泣きくれるスサノオノミコト・・・・・クシナダ姫を妻に迎えて歌をうたわれるスサノオノミコト・・・・・心優しい『泣いた赤鬼』も知っています。友達思いの『青鬼』も知っています。

『スサノオノミコト』と『すさぶ』は語源が同じ、というより『荒れすさんだ最も強い人』という意味なのかもしれません。角を持つ牛族の大王・スサノオノミコト・・・・・・奮戦(?)するスサノオノミコトが『鬼』なのだろうと思います。


『シシ』が各部族の『最も大きいもの』を表して、その代表が『獅子』になったことは前の記事に書きましたが、言わばそれは『美しいもの』として誇りとしてあらわされています。『鬼』はその対極にあるものです。それで似ても似つかぬものを『鬼子』と呼んだり・・・・・・大きすぎるものを『鬼・・』と呼んだりするのだろうと思います。『獅子』の反対語が『鬼』だと思います。




それでは今日も:

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『バベルの塔』道標・縦書きと横書き

2013-03-30 10:45:32 | 日本語・古事記・歴史・日本人
私達人類は圧倒的に長い文字を持たない時代を生き、文字を持った有史時代はわずか1万年・・・・・その文字によって歴史を共有し自分達の過去を認識することが出来ています。この世は、この世そのものの次に文字の恩恵によって成り立っていると言っても過言ではないと思います。文字によって時空を超えて、つまり出会わないはずの人々とも出会うことになりました。知らないはずの事柄をも認識することが出来るようになりました。私達はイエス様とも出会うことが出来るし、孔子様とも出会うことが出来ます。

その文字を最初につかった人々の必要も、現代の私達と同じように時空を超えて(具体的な程度の差はあれ)認識を共有することだったと思います。それが文字が考案された理由だと思います。その文字の配列、つまり言葉と文章を眺めてみると、その方法は今のところ縦書き(漢字文化圏)と横書き(アルファベット文化圏)の2種類しかありません。そして横書き社会には左右の起点の違いがあります。右から書き始める中近東の社会と左から書き始めるヨーロッパ系の社会です。私達現代日本人は文章を日常的に縦書きにも横書きにもしますが、基本的には東洋の縦書き社会に生きてきました。そして(あるいはそれで)明治になって横書きを併用採用した時、横書きでも右を起点としました。

ところで人類は最初から縦書き・横書きをしたわけではないようです。あちこちで発見されている超古代の文字遺跡は、それこそ『文字か?絵か?』という類で、その解読は専門家でないと難しい・・・・・?認識を共有するのではなかったのか?????と疑問に思えてくるくらいです。でも同時代に生きた人々には十分共有できたはずです。その証拠に私達日本には美しいお手本があります。和歌を詠み記した色紙に配置された文字列は左右上下に散らされ飛んでいます。それを美意識(?)によって十分共有できたわけですから。

川崎真治先生の示される線刻は私には到底判読不可能です。ですが現代社会に生きている私と違って、その石は線刻をした人々の表すべき世界であり伝達すべき領域だったのでしょうから、同じ世界に住んでいる人々にとってそれで充分だったのだろうと思います。あちこちに散らされた線刻をつなぐ意味を当然知っていたのだと思います。


私達宇宙の陰性過程に生きている人間は社会も広がり時空も広がりすべても広がって大きな石一つでは間に合わなくなっています。現代日本社会の一面である歌謡曲の歌詞もひどく散文的になっています。陽性の極致とも言える俳句の社会とはかけ離れています。私達は何もかも説明しなくてはいけない社会を生きています。僅か数百年前の大岡越前の頭の中の道理では役に立たなくなり(?)、六法全書に『いけない』と規定されていないかどうかが問題の社会にあって、長文に悩まされています。つまり書き記された文字列の長さと量に大きな違いを感じています。

それで思うのですが、あの石の線刻とロゼッタストーンとの間、それも線刻の方に近いところにあるはずの『バベルの塔』前後の文字列は、どんなものだったのでしょうか。私はそこに『渦』を思ってしまいます。楢崎先生によって現代に命をつないだ『カタカムナ』の文字の配列、『右回りの渦』を思ってしまいます。その配列も最初は僅かの音(音符)の渦、後になるにつれ長くなり、言葉(図象符)の渦・・・・・・となっています。必要量の変化だったのではと思うのです。渦こそが古代社会で発生の道筋を示す図象なのですから、そこには順番も示されている・・・・・必要量が多くなるにつれ規則性が求められたのだと思います。

線刻の散らばりから渦へ・・・・・・これが縦書き横書きへの過渡期の文字列だと私は思います。私がワタツ人と名付けた人々がこの『カタカムナ』文字の発明者であり使用者ですから、これが『バベルの塔』以前だったのか以後だったのか・・・・・もしも以前であったのなら、少なくともインド洋沿岸を南越海岸を沿ってどこかにその痕跡が出てくるのではと期待しています。ただあまりにも時間がたち過ぎて『ワタツ人』以前の蛇族の人々の遺跡があるかどうか・・・・・・もしも以後であったら、『バベルの塔』事件は文字列の規則性の問題の象徴ではないかと思います。何処を先に積むのか、指示書が判読不能になったのではないかと思います。




それでは今日も:

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東歌

2013-03-26 12:07:01 | 日本語・古事記・歴史・日本人
今年64歳になりました。この年になって64歳で亡くなった私の祖母を思い出します。その祖母の命日が今月29日です。祖母は生まれて間もない私に会いたがり、産後の母に早く戻って来て欲しいと頼んだそうです。それで母は予定を早めて戻ったらしいのです。そして私を見て腕に抱き、その2週間後に他界しました。

私はこの事を覚えているわけではないのですが、父母から何度となく聞かされたのだと思います。祖母に親近感を持って育ちました。祖母の残した本を読み、祖母の心の軌跡をたどったのだと思います。そしてそれが父祖から祖母へ、父へと受け継がれてきたものだと思います。

その祖母の年になったなあとしみじみ思うのです。23400余の日々の繰り返しを思います。そして連想してしまうのが今日の記事の題でもある東歌の中の言葉『クリタタネ

その東歌は

     君が行く 道の長手を くりたたね 
                    焼ほろぼさむ 天の火もがも


という私の感慨とは全く関係もない歌なのですが、『クリタタネ』という音につられて思い出してしまうのです。この東歌は

中学校か高校か忘れましたが、もう一つの有名な東歌、

     信濃路は 今ははりみち 刈ばねに 
                    足ふましなむ 沓はけ我が背


と一緒に教わり、心に焼き付けられた歌です。

『クリタタネ』のどこがそんな連想を生むのかというと、『タタ』という音です。『タタナヅク』と同じ音です。繰り返し繰り返しの重なる景色を見るからです。この東歌の作者の心の中に作り上げた情景が空間的なので、私の記憶という『クリタタネ』られた時間空間を反対に引き延ばして見るような・・・・・・そんな共感を感じてしまいます。


問題は昨日からの引き続き、『東』です。これらの歌は『東(あづま)歌』という東国地方の名もない庶民の歌だと教えられてきました。ここ数年前までは特に何も思いませんでした。我が国の昔の庶民は何という芸術的なのか・・・・・・と感心するだけでした。でも今はそうは思いません。この『東歌』と名付けられた歌は、歌を詠んだこともないいわゆる『庶民』の歌ではないと思います。

『随想古事記』(カテゴリーに分類しています)のシリーズを読んで下さった方にはお分かりでしょうが、結論だけを言うとこれは『ツカル』歌、或いは『ツガル』歌なのです。鳥族の、或いは鳥族の住む(住んでいた)地の歌人の歌なのです。この東歌は独特の歌人としての風格を感じさせます。オトタチバナ姫をしのんで『吾妻、はや』と悲しまれた日本武尊が東の国と名付けられたと聞かされてきました。ですがそれよりもツカルの『東』を『吾妻』と呼び変えられたか、或いは後世の人々がヤマトタケルをしのんでなぞらえたのだと思います。そして『東北』は『ツガル』の北、『道の奥』だったのです。地名方角そのものが部族名と符牒して定着してきた私達の言語学的歴史の証だと思います。




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