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実は・・・・(続き・更紗の着物)

2013-05-11 18:25:56 | 和服について
洋服に比べてお掃除もお洗濯も、実際のところ着物では生活しにくい・・・・・それでも私には6ヵ月間、それも子供3人を抱えて、着物で暮らしたことがあります。

それは3人目の息子が生まれて間もなくの頃のことです。長女と次女の間は4歳離れたのですが、次女と長男の間は1年に1週間足りません。長男を9か月の早産で生んでしまいました。子供二人の時も忙しかったのですが、三人にもなればてんてこ舞い・・・・・どうやって毎日暮らしたのか、ほとんど覚えていません。その時の願いは『誰も来ないで!!!!』というものだったことは覚えています。何しろ来客でその日のスケジュールが崩れてしまったら、離乳食の子と乳飲み子とそれから小学校1年生の希望はどれもまともに叶えてあげられなくなってしまう!!!

『育児戦闘態勢』とでも言うべき暮らしの中で、私の腹筋はたるんでいたのか、『腹壁ヘルニア』になったのか、なりかかったのか、妊婦時代の腹帯を毎日きつく巻いて暮らさなければならない事態に陥りました。お腹の筋肉がたるんでいるので、間から腸が出てきそうになったらしいのです。これは今回初めて告白するのですが、年子で子供を産んでちょっとお腹が気になって、その当時ちょっと流行っていた『産後体操』なるものを試してみたんです。もしかするとそれが原因で・・・・・・とずっと思ってきました。

しかし原因を探してもどうにもなりません。腹帯のせいで私はまた妊婦服に逆戻り・・・・・でも妊婦服を買うのにはかなり抵抗感が・・・・・・それで私は着物生活を決心しました。が、が、普段着の着物って舅が長女を生んで産後の来客対応用にこしらえてくれた紬しかありません。まあ半病人用のもので、帯も無い・・・・・・仕方がありません。翌日私の自由になるお金を全部持って歩いていける呉服屋さんに行きました。そして全財産(?)を見せて事情を話し、普段着用の長襦袢を2枚、着物を2枚、名古屋帯を1本半幅帯を1本、後は小物と下駄、『これで、どうにかしてください!!それもなるべく早く!!』って頼みました。

すると本当に僅かな予算だったのに親切に私の願いを聞いてくださって、私のたすき掛け生活が始まりました。その時のことも何が不便だったかどうだったか、何一つ覚えていません。ただ長女の同級生のお母さんから5年くらいたって『何と優雅な人がいるものだ・・・・・と思っていた』と言われました。傍目にはそれでも優雅に見えたのか????まあお互いそんなものでしょうね。

それからおよそ半年再発しないようにひたすら我慢して私の着物生活は終わり・・・・・どうやって見切りをつけたのか、マクロビオティックを知っていたなら食養生もしたでしょうが・・・・・まあ若さというものは再生能力も高い・・・・・・もう一人4年後に二男を生みました。もちろん産後の体操はしませんでした!!!それで思うのですが、慣れていなくても和服で生活出来るものです。母達もそうやって暮らしたのですから。ただその必要があるかどうか、そして外出用ではなく袖丈を短めにしたり・・・・・でも『たすき』は絶対に必要です。




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!

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更紗のきもの

2013-05-11 14:21:32 | 和服について
結婚する前自分で買った唯一の和服があります。それが今回の記事の題名、『更紗のきもの』です。もう40年も前に気に入って買った着物です。お茶のお稽古に着ていこうと・・・・・でも一度も着ないままです。洋服の便利さ、手軽さに慣れてしまって、和服を手軽に働き着に出来ない私達現代日本人・・・・・それでも和服の感触は過ぎし日の懐かしさとともにあります。

『お母さんは着物を着ていなさい。』・・・・・父の声が聞こえてきそうです。自衛官の父は帰宅すると和服に着替え、我が家では『オジブッツアァ』と呼んでいた仏壇の前で白隠禅師のお経を唱え、それから父の席に座り私達子供のその日一日の報告(?)話を聞いてくれました。そんな父の希望に応えるため(もちろん女にとって着るものを誂えるのは楽しみの一つでしょうが)、慎ましい家計を工面して母は着物をこしらえました。

当時はやった(?)ウールの着物も母を助けました。ウールの着物は単衣仕立てでしたから、母にとって簡単に縫えましたし、裏地不要だったので節約になりました。シルクウールというのもありました。ちょっと薄手だったので、外出着にもなりました。母は絵心があったので柄選びが上手でした。今でも覚えていますがそんな中に木の葉模様の着物があって、母は皆が大島と遠目に見まがうらしいと自慢げでした。また呉服屋さんから染め見本の反物を譲ってもらって、長い時間をかけ模様と色を決めて染めに出し着物を誂えました。グレーがかった薄いピンク地に焦げ茶の立涌がぼかし染めされている訪問着です。もう一つ思い出深いものは鬼しぼの黒地に赤い小さな狢菊が染めてある羽織です。これは私達の入学式・卒業式の思い出とともにあります。

私に着物を譲ると言う母にその三枚をねだりました。すると『あのウールはもう擦り切れてしまってね・・・・・』と言いながら、『安物だったけれどあれほど愛用した着物も無い・・・・・』と懐かしそうに考えながら、似たような大島に代えて望みをかなえてくれました。その大島は母が生きている間に何度か着て見せましたが、母の作品の訪問着は、母亡きあと高校の還暦同窓会に着ていきました。


婚家の母もたくさんの着物を残してくれました。長男が生まれた時には無地の紋付と絵羽織を誂えてくれました。その絵羽織はアメリカの久司インスティテュートに持って行って、ニューイヤーパーティーで着ました。今ではさすがに派手になったので、柿本の名を負う孫息子のお宮参りを機会に今年1月嫁に譲りました。そろそろ着物の始末も頭に置かなければ・・・・・と、問題の『更紗のきもの』を取り出して見ることになってこの記事を書いています。

結婚して40年・・・・・時折虫干しをする時には見ていたのです。その度に『もうこのまま娘に譲ろうか???、いや待て、娘達の暮らしは和服とは遠い・・・・・それに一度は袖を通してみたい・・・・・』とまた箪笥へ。そんな繰り返しでした。でも60を超えた頃から、『いくらなんでもあのローズ色のような裾回しでは・・・・・・』となっていました。それを今回平戸にに帰った折、一大決心をして裾回しを変えることにしました。そして今度は必ず袖を通そうと決心しています。この更紗を着て何処に行きましょうか。出来たら教室にでも現れることにしましょうかね???




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!



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