曼荼羅・・・・・と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、『中将姫』の物語・・・・・・・長谷寺の観音様・・・・・・そんなものでしょうか、まあ人それぞれですよね。国文学を専門に学んだ人は別にするとしても、高校の古典で習った『かげろう日記』の辛い道綱の母が必死ですがった長谷観音・・・・・・清少納言も紫式部もふれた長谷観音・・・・・・そんな観音様の救済図を中将姫が夢に見て織り上げたのが長谷寺の曼荼羅で、阿弥陀仏を真ん中にして周囲を様々な仏様が取り囲んでおられる浄土を描いていると聞き伝えられた図です。
有難いと拝む気持ちの訳は、曼荼羅と自分とのかかわり合いの中にあるはずです。それはどんなもので、その精神構造がどうなっているのか、何を感じているのか、あれこれ不思議に思って来ました。曼荼羅とは何か????・・・・・・自分の中で腑に落ちてきた考えを記事にしたいと思います。
私たち多くの人に一番わかりやすい阿弥陀如来というか大日如来を中心に多くの菩薩像が取り巻いている曼荼羅図・・・・・あれは単に夢か希望かといった浄土を描いているのではありません。あれは具体的に自分であり現在の世界です。あの大日如来は『自分』でもあり『先祖』でもある・・・・・したがって『今』でもあり『昔』でもあります。また多くの菩薩像は『自分』でもあり『子孫』でもある・・・・・したがって『今』でもあり『未来』でもあります。またもっと本質的に大日如来は宇宙を生み出す根源でもあり取り巻く菩薩像は現在の宇宙の諸像でもある・・・・・そもそも曼荼羅図というものは、『現れ』というか『関わり』を描いた図なのだと思います。その中にはこの世のピンからキリまで、最大から最小まで、過去から未来までの大宇宙から今の刹那まで、見る人の立場に合わせて如何様にも解釈できるものが描かれています・・・・・・というより描いて教えてくださろうとしたのかもしれません。
要するに根源的な力の源とその力によって様々に現れた形というか姿というか・・・・・・ですからその力とその関わり・・・・・それによって二次的に出現する力とその条件・・・・・その繰り返しによって今があるという『この世の展開図』なのだろうと思います。
あの曼荼羅を単に絵としてみることも、それは可能でしょうしそれぞれの自由だろうと思います。ですがあれほどこの世の真実を語る絵もないと思います。そして私たちが祈ることができる・・・・・というより関与することができるのは、大日如来と菩薩像の間、またはその菩薩像の縁ではたらく大日如来の後ろに潜む力に対してだろうと思います。すべての背後に潜んで関与している力に対して、日々無意識に行っている条件づくり・・・・・場づくりといってもよいと思いますが・・・・・、つまり私たちの日々の思いと行い、その結果どんな菩薩像になるのか、あるいはどんな明日を迎えるのか、あるいはどんな人生を過ごすのか、すべてを決定するのだと思います。
曼荼羅・・・まんだら・・・マンダラ
私たち日本人の心のふるさと、ワタツ人の言葉で『マンダラ』と発声すると、それはそういう説明の内容そのものを表す私たちの心の音になります。ですから日本語を大切に丁寧に丁寧に子供たちに残していかなければなりません。日本語はこの世の真実の音を今に伝える、外国語に代えがたいほとんど唯一の言葉です。曼荼羅の不思議に決着がついた今、ただただありがたくひたすら思い願っています。
それでは今日も:
私たちは横田めぐみさんたちを取り戻さなければならない!!!