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平・ひら・たいら・・・・・たびら・田平

2016-02-06 15:22:18 | 日本語・古事記・歴史・日本人

金毘羅様の『毘羅』・・・・・『ひら』『ヒラ』『いら』『比良』『平』『平良』『たいら』『・・・・・・』・・・・・・・これらの文字というべきか、音というべきか、ともかくも言葉の意味するものをお考えになったことはありますか。私は疑問に思うことはあっても、突き詰めることはなく・・・・・というより日本国中にあふれている『ひら』を見て、途方に暮れて長年暮らしました。そして川崎真治先生の御本に触れることにより、『五色人』の謎を解き、苗字と地名の謎を開き、日本人の真実に辿り着き、自分のアイデンティティを確立することが出来ました。僭越かもしれませんが、それを広く我が同胞・日本人と分かち合いたいと思い、このブログカテゴリー『随想古事記』『日本語・古事記』でご紹介することにして、エッセイのような記事を書くことにしたのです。こうした問題はそれぞれが深く得心すること無しには何の意味もありません。私の記事は単なる導火線のようなものですが、皆様の心の中にくすぶっている『もやもや』に火をつけたいと思っています。これは今日本人が置かれている混迷の平和、あるいは平和による混迷から抜け出すための役に立つと思うからです。そしてそれがいつか地球の恒久平和に役に立つと信じるからです。

 

私の故郷『平戸』もその中の町名『田平』も『平』です。平戸の男子は『平門男児(へいもんだんじ)』と自負してきました。だけど本当の意味は知らなかったのでは・・・・・?????と思います。一般的に『平』という字を見て思いだすもの・・・・・平家・平清盛・重盛・敦盛・知盛・・・・・平家の武将ばかりですね。これほど有名で耳慣れ目慣れした『平家』ですが、その出自に関してはあまり明確ではありません。俗に桓武平氏清和源氏・・・・・と言われてきましたが、平家没落後臣籍に降下した皇族で平氏を名乗った方を知りません。多分ですが、みな源氏を名乗られたのではと思います。みちのくの しのぶもじずり  たれゆえに・・・・・で有名な河原左大臣こと源融(みなもとのとおる)・・・・・百人一首でおなじみですよね。平戸の藩主松浦(まつら)家の先祖も源(みなもと)姓です。『平』はいったいどこへ行ったのでしょう?????あるのは全国の落人伝説ばかり・・・・・です。

余談ですが、松浦家が出てきたので、一言添えておきたいと思います。『松浦(まつら)』の『ら』と『平』の『ら』・・・・・そして『奈良』の『ら』・・・・・・そして朝鮮半島の『新羅』や『百済』の『ら』、『高句麗』の『り(rai)』・・・・・こうしたものはみな同じもので同じ意味なんです。古代史を探り始めて間もないころ、多分十代の終わりごろだったと思いますが、興味深い単語に出会いました・・・・・それは、『たけひらどり』・・・・・かなり荒唐無稽のシチュエーションでの出会いだったように記憶しています。要するにその単語は古代史の要所に絡んでいる言葉で、果ては有名な鳥の絵・ナスカの地上絵も『たけひらどり』だ・・・・・というようなものだったと思います(今となってはその中に潜む真実もわかるようになりました)。『たけひらどり』・・・・・これも『たけ・ひら・どり』で『武比良鳥』と示されていました。

 

結論を言います。それはみな『イル』『イリク』・・・・・天孫降臨のモデル・殷王朝の亡命劇で日本に移住してきた犬族の子孫の符丁なんです。そして後に漢字採用の時代、好き好きに漢字を当てました。同じアイデンティティを大きくとれば、『ヒラ』『イラ』『・ヒラ』『・イラ』、『ヒラ・』『イラ・』でしたが、それが細かく各部族ごとに違う漢字になりました。漢字採用の前後では漢字に対する感覚も違いますので、漢字以前の日本人の漢字による命名法は、それこそ、あきれるほどに多種多様・・・・・漢字に求めるものは意味ではなく、音だったのだと思います。これは中部地方に住んでみて実感したことの一つです。

 源氏も同じく『イル』族です。こちらは『イル』が『イン』『エン』と呼ばれるようになった(或いは本人達がそう訛った)『イル』族です。広くヨーロッパに分布した犬族と同じで、アイヌの呼称の語源だろうと思います。後の元(ゲン・エン)や清(シン・イン)、日本書記での 伊梨柯須彌(伊梨柯須弥、いりかすみ)と呼ばれた高句麗のヨンゲソムン(淵蓋蘇文)・・・・・面白く見た韓国の時代劇『チュモン』のヨンタバル・・・・・、どちらかというと北方系犬族のように感じています。『ひら』系は殷の半島由来、『ゲン・エン』系は沿海州由来では?????と思っています。(それだと、いつか記事にした『六平さん』も納得がいくように思います。)

 

それで清水の次郎長(山本長五郎)は、森の石松を讃岐の金毘羅様に派遣しました。海運の神様の中の金毘羅様・・・・・『金』も『毘羅』も『イン』と『イル』の採用字・・・・・どんな共感を次郎長は持ったのでしょうか。日本人が部族を忘れて『大和族』を錬金醸成した後、各地に残る地域社会の名残・・・・・音を採用したにしても、その漢字の持つ歴史的事実に関して共有するものを組み込んでいったに違いない私達の先祖たち・・・・・・その人々の思い入れのある地名を大事にして、脈々と受け継いできた血液の思い出と錬金の成功という日本の歴史的業績を大事につないで行きたいものだと思います。

コメント (2)
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