8年前夫の仕事の都合で平戸を留守にし上京しました。そこで新しく発見したものの一つが、同窓会の楽しみ・・・・・私にとって、これは思いもよらない感覚でした。私の同級生たちは東京同窓会をいつからかは知りませんが、ずっと毎年1月に積み重ねていました。そこには何の屈託もない高校を卒業したてのつながりが生きていました。初めて出席させてもらった時その何とも言い難い感覚がジーっと沁みて、それ以来ずっとなるべく出席することにしています。出席したくてたまらない・・・・・と言った方が当たっています。その時は『故郷は遠きにありて思うもの』という名言の通りだと心から思いました。
先週の金曜日から土曜日にかけて関西地区での一泊同窓会(神戸)に出席しました(何と私達の学年は年に2回も同窓会をするようになりました。)そして長年の懸案だった下関市吉田町訪問を実行に移しました。(昔?吉田町に関連する記事を書いていたのを見つけたので、リンクしました。)吉田町は60年前、私が小学校2・3年生を過ごした町です。新幹線を『のぞみ』から『こだま』に乗り継いで下関で降り、その夜は神戸での坂歩きでやや疲労気味だったのでホテルへ直行し休むことにしました。翌朝下関駅から山陽本線を戻って小月駅へ・・・・・60年も過ぎた小月は、「こんなところだったかなあぁ~~~~~!?!?!?」といった感じで、駅はさっぱりとしていますが、スイカも何も使えず改札口は昔のやり方でした。コインロッカーも何もなく・・・・・だけど、ともかくの目当ての『東行庵』行のバスが運良く20分くらいで巡ってきました。『ループバス』という循環バスでした。折しも東行庵は、『菖蒲祭り』とかで賑わっていました。
バスに乗るもタクシーに乗るも、記憶にはっきりしている今回の目当ては『東行庵』しかありませんでした。その東行庵は、東行先生こと高杉晋作を祀って野村望東尼が庵を結ばれた場所です。60年前は谷玉泉という庵主様がおられて、弟は東行庵の幼稚園に通いました。今はもう庵主様はおられず、山口県の主管になってどこかの曹洞宗のお寺の住職が兼任しておられるとか・・・・・それから第一の確認事項『もみじ山』。家族写真の父のコメント『もみじ山』はここだったのか。記憶に残っているのは、高杉晋作顕彰碑のある段々でお弁当を食べ、魔法瓶を倒してダメにした(何しろ昔の魔法瓶はガラスでしたから)こと・・・・・ずいぶん整備はされていましたが、確かに此処だった!!!!!と、確信しました。ひっそりとした東行先生のお墓もそのままだろうと思いました。
それから第二の確認事項『吉田小学校』へ。東行庵の幼稚園は昔も似たような感じでした(???)が、その前には近年出来たとかの『晋作の湯』・・・・・市民の温泉場になっていました。まあ、高杉晋作は喜んでいるかもしれません。何でも晋作の名がつけられて、晋作蕎麦、だの晋作餅、だのという感じでした。その前を通り過ぎて道沿いに歩くと、下関市立吉田小学校。その日は子供たちのサッカー大会だとかで、たくさん集まっていました。校舎と校庭の位置関係は同じように感じました。裏側にある土塀の名残が当時を偲ばせました。いつも利用していた『裏門』へ・・・・・これからが記憶をたどる私の通学路・家路。
ここから先の路地道はすっかり変わっていました。「確かこっち・・・・、確かこっち・・・・」と言いながら行き止まりを引き返したりして、何となく『此処だ』と思わせるやや広い道に出ました。「これがあの商店街のはず・・・・・」、だったらお店があるはず。何とも不安になりながら歩いていると、お玄関先でてっせんの手入れをしていらした老婦人に会いました。挨拶をしながらお話を・・・・・『ああ、そのお店ならあそこですよ。だけどもう閉めて・・・・・』、と人気のなくなった通りについて話してくださいました。そのお店の角を曲がった筈・・・・・と、見ると、何とも石畳になっている!!!!!?????こんなではなかった(ように思う)けれど・・・・・と思いながら進むと、『旧山陽道』と書いてある小さな石碑がありました。それを越すとやや広い道にぶつかり(多分この下は、昔川だった?)、新しいJAの建物など昔はなかった雰囲気、そこを渡って細い道を不安になりながら進み、「この辺にお醤油屋さんがあった筈・・・・・」(そこのお嬢さんと同級生でした。)それらしいお家を見つけたときは、安心してとても嬉しく思いました。でもこの道はこんな道だったっけ?????途中にあった雑木林はありませんでした。
そこを抜けると田んぼが広がっていました。奥に住宅が張り出していて昔あった樹木などは無くなっていましたが、『此処だ、此処だ!!!!!父や弟と凧揚げをした田んぼだ!!!!!』その向こう側の細い道路は大きくなって見渡すとずっと向こうに高速道路が走っています。そしてその道を渡ると、私達の家があったところ。そこには新しい住宅が建っているんだろう・・・・・と思っていました。そしたらなんとそこは草茫々の空き地と廃屋が・・・・・お友達(?)のふうちゃんの家と私達の家?????家の前にあった小川は整備されて昔の面影はありませんでした。でも家の前にあった川への降り口が、何となく確信をさせました。『此処だ、此処だ』この廃屋は父が借りた家そのものではないかもしれないけれど、それに近い・・・・・あの大きな台風の時川があふれて家の前まで迫った『あの日々』をよみがえらせる家や風景が残っていました。ひどい状況ですが、私には心の底を暖かくする廃屋でした。
今は広くなった道路の先には多分あそこで夏休みの掃除や体操をした、と思われるお寺が・・・・・懐かしさに駆られて石段を登ってみると法要か講話の会か・・・・・そしてこれまた何と、ご住職が吉田小学校の同級生でした。中に通してくださって、担任だった先生方のこと、私の仲良しだったお友達のこと、そのお友達と行った思い出のある旧商店街のこれまた同級生がいたお店のこと、あのひどかった台風の時の氾濫事件と問題の橋のこと・・・・あの橋はバス通りだったのですが、橋の手前で乗客が降ろされてぞろぞろと渡り、その後をバスがゆっくりと橋を渡ってまた乗客を乗せる・・・・・という今では考えられないくらい老朽化していたのだとか、いろいろとお話を伺うことが出来ました。
またお醤油屋さんの前を通って振り返り振り返り、多分川の上の道にあるバス停まで・・・・・そこで、父が歩いた小月基地へ続く道を眺め、再び運よく来た小月駅行きのバスに乗りました。
夫と博多駅で待ち合わせて帰宅しました。道中夫から「何でそんなに吉田にこだわるのか?」と聞かれて、つらつら考えているうちに、同窓会が懐かしく記憶の町が懐かしい理由が見えてきました。故郷というものが普通は生まれてきて住み慣れた場所(夫にとっては考えるまでもない平戸)だが、私にはあちこち父の転勤先で重複している・・・・・とどのつまりは父母と暮らした所なのだと。武田鉄矢の言うとおり、『お母さんが故郷そのもの』だと。そして幼いまま離れたところは記憶があやふやで、どうしても明らかにしたいと思ったのだと。同窓会はそんな故郷の中で最後の明白な確かめる必要のない故郷、遠きにあって思うものではなく思うために不可欠な確かな一部であることを感じているのだと。
私にはまだまだもやもやとした記憶の向う側の故郷がある。宮城県矢本の水がめに氷の張った囲炉裏のある家、浜松で入学式を迎えた家と鴨江小学校、そこから転居して鴨江小学校に越境通学した家とお隣の神社、吉田小学校から転校した豊前市の八屋小学校、築城小学校と八築中学・・・・・そこで交わった人々。だけど今回の吉田訪問で少し落ち着いた気がします。父母との暮らしを具体的に確認できてとても満足しています。生まれて4歳か5歳まで平戸で過ごして宮城県矢本に行きました。今回途中の記憶が地についたというか、とても安堵した気分です。そして、故郷とは懐かしいものかもしれませんが、その前に明白なものでなければならないと断言します。