単に、過ぎ去る春が、春の過ぎ去ることが、他人事と思えてならない、というわけではない、と思う。
この作者の身近な親しい者に、ある変化が起こったのだ。例えば、孫が合格したとしよう。しかし、他人事にしか思えない。身内の誰かが亡くなったとしよう。しかし、他人事にしか思えない。
本来なら喜んだり悲しんだりするべきなのに、そういう感慨が湧かない自分を訝しがり、自責の念にかられているのだ。
自殺した伊丹十三監督に「お葬式」という映画があったが、制作動機はこの句の主題に他ならない。葬式に泣き屋を雇う国もあるというが、意外と現実はそんなものかもしれない。
13才になりました(モモ)