Jun日記(さと さとみの世界)

趣味の日記&作品のブログ

牧歌の郷

2017-09-25 08:32:13 | 日記

キフツゲイト・コート

 キフツゲイト・コートは広く見る物が多かったので写真がたくさんあります。一気にチャンネルにしようとしたのですが、無理なようなので、少しずつ載せます。また、写真はフイルム最後から撮影されています。カメラの構造上そうなっています。そのせいか、フォトチャンネルも時間の経過が逆の向きになってしまったようです。

 アルバムの覚書にはボダイジュとあります。ここでものどかに草を食む羊の姿を見る事が出来ました。この旅で見る羊達は皆のんびりと草を食べているか、のんびりと草原に横になっているかでした。夏の木陰で寝転ぶ羊達の姿を見た時には、呑気な私もさすがに気楽なものだなぁと思いました。が、後日、これら顔の黒い羊達は食用になるのだと聞いて、羊毛の羊達と思っていた私は複雑な思いがしました。この時期は牛が羊にとって代わっていたようです。有名な問題がありましたからね。しかし、事実を聞いた後も、やはり羊は可愛いいと思い、この旅でよく眺めたものです。

 さて、この日出発時に同行の添乗員さんが言った通り、雨が近い様でした。燕が盛んに芝の傍を飛び回っていました。

この事が私に、『燕が低く飛ぶ時には雨が降る』という日本のことわざがある事を思い出させました。雨が近いのか、もう降ったのか、燕の飛んでいる位置の低さから、確かに天候を推し量ることが出来ました。

 燕の餌の虫は、雨が近くなると地上近くに降りてきて、葉裏などに隠れ雨に備えるのです。その為その動きに合わせて虫を取る燕も、地上近くに低空飛行して虫を捉えるのです。自然を観察すると色々なことがわかります。それぞれにそうなる理由という物が有る物ですね。この時私は、言い伝えには先人の知恵があると、異国の地で感動して微笑んでいました。

 

 


近年は一年中見る秋刀魚

2017-09-25 08:17:01 | 日記

 秋刀魚に限らず1年中、鮮魚売り場でいろいろな魚を見る事が出来ます。それで、今年になってから今まで秋刀魚も何回か食べてしまいました。

思えば今が旬ですね。昨日も新鮮な秋刀魚を目にしました。冷凍ではない、捕れたての新鮮な魚、旬の秋刀魚ならまだ食べていません。

 


牧歌の郷

2017-09-24 08:43:24 | 日記

 メモは15日の午後に入ります。午後2時35分キフツゲイト・コートにいたことが走り書きで分かります。

 「ギボウシが多い、ヘラオオバコ、デイジーの原種・ひなぎく」の言葉があります。ここでメモの15日は終わります。

 (自分でも読めない、読み取るのに苦労するメモでした。チェルトナムの名門男子、女子ありと言うのは、如何やら名門校があるという意味のようです。手帳はこの講座以前に取っていた短歌講座の手帳です。折に触れてメモする訳です。)

 一方、写真アルバムの方を眺めると、ヒドコット・マナー・ガーデンの文字とペアの写真がありました。このガーデンの写真はこれ1枚のみのようです。

 記事に追加すると、後日入場券が出てきました。入場券には、15/07/00、£5,60 8:06、0048、Please retain this ticket reg. Charity No.205846 See over for membership and other property information とあります。朝早すぎて入れなかったのかと思いましたが、翻訳サイトで邦訳すると、開園期間が過ぎて入れなかったようです。 写真のペアは入り口前の木ですね。このチケットを持って行けば、後日行った時に入場できるのかもしれません。気長ですね。

 (ペア、洋ナシです。脹らむ前の状態ですね。)

 キフツゲイト・コートの写真は多くあります。広く、のんびり回れたようです。私は写真を撮る事に専念し、集中していたので、一行の列の中、何時の間にかはぐれたり、列の後方に回ってしまいます。迷子になっていたり、皆さんをお待たせしている事も多かったかもしれません。申し訳の無い事です。

 

 

(写真はキフツゲート・コート、入り口を入って直ぐの芝の道です。花々の彩が美しいです。直ぐに魅了されました。)


牧歌の郷

2017-09-23 17:47:25 | 日記

 さて、改めて見つけたシェイクスピアのガイドを読んでみると、彼の父が仕立て屋と言うのは間違いでした。手袋商人だったことが分かりました。やはり何でも買って来てみるものです。当時、帰国してからも読んだと思うのですが、このガイド、読んでみるとなかなか難しい文章でした。特に最初が取っつき難い文章で始まります。英語をそのまま翻訳したのでしょうね。机に向かって落ちついて読みはじめ、通読を終えるとそれなりにきちんと理解できる詳細なガイドでした。

 ガイドの中の写真と解説を見ている内に、私にはこの旅で訪問した、当時の彼の生家の室内が思い浮かんで来ました。軽くギシギシと音のする木の床を歩いた事、皆で二階の部屋に行った事、しっかりした身綺麗な建物であった事が思い出されてきます。

 確かに、私は再現された彼の生まれた部屋と、子供用ベッドを間近に見学していました。思い起こしてみれば、シェイクスピアが生まれた部屋が現存している事に、当時も私は感動したのでした。そしてそれを実際に目の当たりに出来た事に、この旅に出て来られた自身の身の幸福を感謝していました。当時私は実家にいて、子供を預けて来た両親も健在でした。

 (写真の冊子、右上の赤い天蓋付きベッドがお母さんのベッドです。傍らに子供用ベッドがあります。冊子にも本格的に再現されているとあります。シェイクスピアのお父さんはストラトフォードの町長をされていた時期もあるそうです。16世紀の裕福な市民階級だったのですね。)

 (ガイドにあるアン・ハザウェイのコテージの写真。先に書いたアン・ハザウェイの家と言うのもここですね。彼女の生家は別ページにに立派な写真が載っていました。)

 (ガイドの裏表紙、バックの尖塔と水辺のスワンが詩的です。シェイクスピアは詩人だったのですね。高学歴でもありません。その様な彼が後世まで高く評価される作品を生み出したことを思うと、初期の基礎学習を確りすることの大切さが分かります。彼が家族の生活や経済面を考えて都心に出、作品を手掛けて行った過程などもうかえるガイドでした。)

 私は学生時代に講義演習で日本の作家、戯曲家として菊池寛を取り上げて共同演習しました。彼はシェイクスピア同様、幼少年時代から舞台を見る機会が多く、当時は親も裕福で文化的、確りした基礎学習の可能な家庭に育っていました。後に都心に出て文学活動を始めた事もシェイクスピアと似ています。

 私達は演習で、彼が幼い頃の経験で舞台好きになり、それで戯曲を手がけるようになったと発表しました。この時、担当の教授から、それだけでは彼が戯曲を手掛けるようになった理由付けに弱い、もう少し作家活動の動機を掘り下げて欲しいとクレームをつけられたのですが、私達には芝居好き以外の動機が思いつきませんでした。

 生活の為、収入の為、より多くの収入を得るため戯曲を書いた。今ならそれが分かります。シェイクスピアはより多くの収入を得るために劇を書き継ぎ、そして多くの財を成した成功者ですね。

 菊池寛は雑誌社を作り成功しました。収益で直木賞、芥川賞を作りました。日本で作家を目指す人にとっては夢の目標です。


牧歌の里

2017-09-22 23:56:03 | 日記

  シェイクスピアの生家にやって来ました。服の仕立をされていたお家だとか、中には当時の大中小のハサミが展示してありました。年代物ですね。

  形を見て少なからず衝撃のある感動を受けました。和バサミそっくりです。金属製で、大きい物は相当大きく、1メートルはあろうかというような、いえ、もっと大きかったかもしれません。こんな大きなハサミでどうやって切るのだろう、人が使いこなせるのかしら?と疑問に思うくらいの大きさでした。そして、普段私たちが和バサミと言っている表現の道具が、我が国固有の物でないことを知りました。

  和と言うからには和製、日本独特のものと思っていましたが、イギリスにこの形のハサミがあるということは、洋の東西を問わず人の発想が同じなのか、この遠いヨーロッパの地からはるばる日本に迄伝わったのか、または本当に日本発祥の物で、昔ここまで伝えられたのか。ここで私は心の内に様々に反問したのでした。

  洋バサミ、和バサミという区別が、この昔のハサミの前では意味をなさない事に不思議な嫌悪感を感じるのでした。訳の分からない事、混乱や困惑といった感情への嫌悪感でしょうか。この時、私はこの感情が自身の愛国心から来ている事は確かな事だと感じていました。イギリスでこのハサミを見た事はやはり衝撃でした。

 さて、今私は旅の書類の中にシェイクスピアの顔のある紙袋を思い出しました。ここで何かお土産を買ったのだろうと思い至ると、何を買ったのか考えてみました。袋の大きさから言うと冊子です。パンフレットでも買ったのかなと、本棚を探してみました。

 ありました。「THE PITKIN GUIDE」とあります。冊子の上、ウイリアムシェイクスピアの文字の左に日の丸が付いています。日本語版ですね。再び紙袋を取り出してよく見ると値札が付いていました。£2.99とあります。袋入りで売られていたのでしょう。