神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

伝 源頼朝之墓

2025-02-15 23:34:12 | その他

伝 源頼朝之墓(でん みなもとのよりとものはか)。通称:頼朝様。
場所:茨城県常総市水海道亀岡町2637(「報国寺」の住所)。茨城県道357号線(谷和原筑西線)「天満町」から北へ約500mで右折(東へ)、約100m。駐車場あり。水海道第一高校の北側。
茨城県常総市の浄土宗「亀岡山 豊田院 報国寺」境内、墓地の中央付近に石造五輪塔が4基並んでいるが、これが鎌倉幕府を開いた征夷大将軍・源頼朝の墓と伝承されてきたものである。「墓」と通称されるが、頼朝は建久10年(1199年)に亡くなり、亡骸は現・神奈川県鎌倉市の「法華堂」(現「白旗神社」)に葬られている(「法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」として国史跡に指定。)ことから、これは「供養塔」である。4基のうち、「五輪」すなわち(上から)「空・風・火・水・地」が揃ったものは1基しかないが、「水海道市史 上巻」によれば「報国寺境内の伝頼朝之墓である五輪塔は水輪を欠いている」とあるので、写真1の向かって右端のもののようである。確かに、水輪があれば、4基の中では最も大きいことになるだろう。各輪の高さは、空輪21cm、風輪13cm、火輪30cm、地輪(地表上)26cmとされている。
さて、「供養塔」としても、何故ここにあるのだろう。詳細は不明だが、旧・水海道市周辺には当寺院のほかにも同様のものが3カ所あり、「源様」とか「頼朝御石碑」ともいうらしい。その伝承によれば、頼朝に地頭に補任された報恩のためとか、頼朝が征夷大将軍になってから3ヵ年の間、年貢を減免された恩徳のために建てられた、という。五輪塔は一般に年号等はなく、建立時期は不明だが、これらの五輪塔の中には鎌倉時代まで遡るものがあるのではないか、とされている。

亀岡山 豊田院 報国寺(かめおかさん とよだいん ほうこくじ)。
寺伝によれば、元は真言宗寺院であったが、上総国・下総国・常陸国を中心に布教活動を行った浄土宗第3祖・記主禅師然阿良忠上人が弘安4年(1281年)に浄土宗に改宗して開祖となった。最初、村人らは改宗に応じなかったが、良忠上人が寺の前の沼に飛び込み、竜宮から愛宕貝という土産をもらってきたと示して、改宗させることに成功したという。なお、境内に暦応5年(1342年)銘とされる「梵字光明真言板碑」が現存し、当寺院が元は真言宗であったことの傍証ともされるが、この年号(南北朝時代の北朝のもの)は当寺院開基より61年も後のものになるので、この板碑が他所から持ち込まれたか、あるいは当寺院の開基が寺伝より遅かったか、とも考えられる。当寺院はその後、戦乱により度々諸堂焼失したが、慶安年間(1648~1652年)に9間半×6間半の本堂が再建され、また、寺領15石を拝領した。関東十八檀林の1つ「飯沼弘経寺」(「寿亀山 天樹院 弘経寺」2021年5月29日記事)の末寺筆頭を勤め、当寺院自身も末寺4ヵ寺を有した。なお、現在の本堂は慶応年間(1865~1868年)の再建で、平成7年~9年にかけて解体修理が行われたという。現在は浄土宗に属し、本尊は阿弥陀如来。


茨城県常総市 報国寺のHP


写真1:「伝 源頼朝之墓」。説明板などはなく、当寺院のHPにも触れられていない。


写真2:「報国寺」本堂


写真3:「梵字光明真言板碑」。本堂前の植え込みの中にある。


写真4:「伝 源頼朝之墓」は、本堂前のイチョウの木の背後、奧に見えるシュロの木の前辺りにある。


写真5:鐘楼。こちらのほうが本堂より古いものという。


写真6:弘法大師堂。「新四国 第五十八番 たちよりて されいのどうに やすみつつ ろくじをとなへ きゃうをよむなり(立ち寄りて 作礼の堂に 休みつつ 六字を唱え 経を読むなり)」という額が掛けられているので、四国八十八箇所霊場第58番札所「作礼山 千光院 仙遊寺」(現・愛媛県今治市)の写し。近世~近代には利根川流域地域には多くの大師講があったといわれており、必ずしも真言宗寺院だけでなく、日蓮宗を除く他宗派の寺院も参加していたようである。

写真7:新しい弘法大師堂? 手前に「五十八番 大師堂 新築記念碑」が建てられているのだが...


写真8:多くの石造弘法大師像


写真9:不動堂。中に「不動尊」碑が安置されている。


写真10:何かの講の記念碑と思われる。第1番~第6番+番外の合計7ヵ寺の現・常総市内の浄土宗寺院が刻されている。当寺院は、その第1番になっている。梵字のキリークと阿弥陀如来の名が刻されている。

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しばらく お休みします

2020-04-11 23:39:11 | その他
もともと、このブログは日記のようなものではないのですが、

新型コロナウイルス感染症による緊急事態宣言によりまして。。。不要不急の外出を避ける。。。

ということで、このブログの訪問先は、だいたい、殆ど人のいないところなんですが、しばらく外出をやめます。

それと、図書館が休館になったので、調べ物もできません。

なので、1ヵ月くらい、ブログの更新をお休みしようと思います。再開したら、またよろしくお願いします。

早く 新型コロナウイルス感染症が終息しますように。 また、感染した方々の1日も早い回復をお祈りいたします。

                                          ブログ管理人 敬白
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富士山(秋田県秋田市)

2017-03-11 23:16:51 | その他
富士山(ふじやま)。通称:日本一低い富士山、明田富士(みょうでんふじ)。
場所:秋田県秋田市東通明田。JR「秋田」駅の南、約500mの「明田地下道」(アンダーパス)から東に約380m、「北都銀行明田支店」の角を南に約370m進むと道路が急に狭くなるが、そこから正面の丘が通称「明田富士(山)」。登り口は南側にあるので、更に約420m進んで回り込む。駐車場なし。山頂へは徒歩約5分。周囲の道路は狭く、近くに駐車場もないので、徒歩か自転車利用が便利(JR「秋田」駅から約1.7km)。
静岡県と山梨県に跨る日本最高峰(標高3,776m)である「富士山」は、「不二山」(二つとない山)とも書かれるが、全国各地に「〇〇富士」と呼ばれる山は多い。山形県と秋田県に跨る「鳥海山」も一名「出羽富士」ともいうが、「富士(山)」という名の付く山のうち、標高が最も低いのが秋田県秋田市にある「明田富士」とされている。その標高、35m。山頂には、日本山岳会秋田支部の「日本一低い富士山という標柱が立っている。これは、昭和63年に静岡県富士市の富士商工会議所がその認定を行い、以来、同支部が植林やベンチ設置などの整備をしてきたというものらしい。
さて、「富士山」という名の由来であるが、伝承によれば、鎌倉時代頃、当地には「冨士太郎」という豪族の居館があったという。「秋田市史」では、「富士太郎」の名前は資料にないが、江戸時代以前には「香哥某」の居館があったとしている。香哥氏は、源頼朝に倣って「富士権現」を祀ったため「富士太郎」と呼ばれたのではないかと推測されるが、元亀元年(1570年)頃の合戦で滅んでしまったらしい。因みに、現在のJR「秋田」駅周辺は、近世以前は殆ど湿地帯であり住みよい場所ではなかったが、「富士山」の直ぐ下には太平川が流れており、近くで石器も見つかったとされているので、この辺りは太古から人が住み着いた土地だったと思われる。なお、江戸時代に佐竹氏が久保田城を築く際、「富士山」からも土地取りをしたらしく、元々の大きさの四分の一くらいになってしまったとのこと。
ところで、最近の調査では、愛知県の「佐久島」という離島にも「富士山」があり、こちらの標高は31mで、自然の山としては最も低い「富士山」ということになっている。人工の山で良ければ、秋田県大潟村に「大潟富士」があり、こちらは標高0m。どういうことかと言うと、元々、大潟村は浅い湖だった「八郎潟」を干拓してできた村で、海水面より低い土地も多い。そこに、高さ3.776m(「富士山」の千分の一)で、かつ標高(海抜)0mになるように築山を造ったということらしい。これより低い山はまず無いと思われるのだが、人工の山ということで、国土地理院の地形図には掲載されていないという。


写真1:「(明田)富士山」全景


写真2:同上、登り口


写真3:中腹にある「明田稲荷大明神」祠


写真4:山頂に祀られている「富士大権現」(祭神:木花咲耶姫)


写真5:「日本一低い富士山」標柱。山頂からは秋田市の市街地が見下ろせる。
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足柄万葉公園

2011-12-02 23:59:25 | その他
足柄万葉公園(あしがらまんようこうえん)。
場所:神奈川県南足柄市矢倉沢。静岡県道・神奈川県道78号線(御殿場大井線)沿い、足柄峠から神奈川県側に約400m下ったところ。駐車場あり。
万葉集に「足柄」を詠った歌が17首あるという。そのうちの7首を石碑にして、それらを巡る散策路を整備した公園が「足柄万葉公園」で、足柄平野や相模湾を見下ろす景色がよく、隠れた夜景スポットともなっている。
万葉歌碑は、例えば、写真2:「安思我良乃 美佐可加思古美 久毛利欲能 阿我志多婆倍乎 許知弖都流可毛」。「足柄の 御坂畏み 曇り夜の 我が下延(したばえ)を 言出(こちで)つるかも」、意味は「足柄峠の神が恐ろしく、(峠を越えるときに)心の奥に秘めていた恋人の名を告げてしまった。(言ってはいけなかったのに。)」。作者不詳。
写真3は、「足柄の 御坂に立して 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも」、意味は「足柄峠に立って袖を振ったら、家に残してきた妻ははっきりと見るだろうか。」。こちらは作者名が判っていて、埼玉郡の防人、藤原部等母麿(ふじわらのともまろ)。埼玉郡は現在の埼玉県東部とされており、そこから防人として都方面に向う途中の足柄峠で詠んだものとされる。
歌のことは全くの門外漢なので、これ以上のことは書かないが、写真2の歌では、当時「恋人の名を口に出す」ことはタブーだったとか、写真3の「袖を振る」というのは「魂を招く」ことを意味した(足柄峠から袖を振っても見えるはずはないので、テレパシーの類いだろう。)とか、研究すれば面白いことがいろいろあるようだ。
ここで、この2首について注意すべきことは2つ。1つは、どちらも足柄峠を「足柄の御坂」と敬称をつけていることで、元々、坂は「境」で、境界には神が宿っていた。まして、足柄峠は国境の坂である。敬意をもって当然だっただろう。2つ目は、そういう神が宿る場所だからこそ、タブーを破ったり、遠く離れた妻に念を送ったりという神秘的なことを行ったということである。


南足柄市のHPから(足柄万葉公園)

「南足柄の散歩道」のHPから(足柄峠と万葉公園)


写真1:「足柄万葉公園」入口付近の「かながわの景勝50選 足柄峠」の碑


写真2:万葉歌碑の1つ。この碑だけが万葉仮名による。


写真3:同上
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中清水水神公園

2011-11-15 23:41:43 | その他
中清水水神公園(なかしみずすいじんこうえん)。
場所:御殿場市中清水641-1地先。国道246号線「矢場居」交差点から東に約200m入ると、道路の中央に木が生えているところがあるので、そこを右折(南へ)。「中清水報徳会館」という公民館?の先。駐車スペースあり。
富士山麓には多くの水源があるが、「中清水水神公園」もその一つで、小祠ながら鳥居を備えた「水神社」があり、清らかな水が湧き出している。この辺りは「駒門風穴」の真北、約1.5kmの場所にあり、「横走関」や古代東海道の「横走」駅の想定地内にあるといってよい場所である(2011年11月8日記事参照)。富士山の度重なる噴火によって、地形その他風景全体が古代とは全く違ったものになっているはずなので、当時と比べることはできないが、菅原孝標女が「更級日記」に記した「えもいはず大きなる石の四方なる中に、穴のあきたる中より出づる水の、清く冷たきことかぎりなし。」という情景は、例えば下の写真2のような姿だったとは考えられられないだろうか。清水が湧く場所も長い年月には変わってしまっただろうが、古くから、このような場所が多く見られたのではないだろうか。長い旅路には、泉はまさにオアシスであり、こうしたところにこそ駅家が置かれたのだろうと思う。


「名水アルバム」さんのHPから(中清水水神公園)


写真1:「水神公園」の看板


写真2:池の北側の水源。石の祠がある。


写真3:池の中の石像。不動明王だろうか?


写真4:池の南側の「水神社」。裏手に水源がある。





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