神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

八柱神社(茨城県桜川市)

2024-04-27 23:33:22 | 神社
八柱神社(やはしらじんじゃ)。
場所:茨城県桜川市真壁町塙世968。茨城県道7号線(石岡筑西線)と同131号線(下妻真壁線)の「下塙世」交差点から南東へ約200mで右折(南西へ)、約240m。駐車場なし。
社伝によれば、元は、寛平2年(890年)創建とされる「牛頭天王社」(祭神:素盞鳴命)とその別当寺院の真言宗「聖天山 恵日光寺 金剛院」(本尊:不動明王)があったが、寺院の方は明治時代に入って廃寺となり、聖天堂のみが残った。明治4年、聖天堂を「牛頭天王社」の社殿とし、村内にあった「雷神社」(同:別雷命)、「愛宕神社」(同:軻遇突知命)、「富士浅間神社」(同:木花咲耶姫命)、「新宮八幡神社」(同:誉田別命)、「稲荷神社」(同:倉稲魂命)、「日枝神社」(同:大山咋命)、「厳島神社」(同:厳島姫命)の7社を合併して「八柱神社」となった。元の「金剛院」は山城国「大覚寺」(現・京都市右京区、真言宗大覚寺派大本山「旧嵯峨御所大覚寺門跡」)の直末寺として、往時は相当な有力寺院であったようで、現在の当神社本殿は、外周に彩色された華麗な装飾彫刻が施されており、茨城県の指定文化財となっている。彫刻のすばらしさから、左甚五郎作との伝承もあったが、天明5年(1785年)銘があり、下野国富田(現・栃木県足利市)住の彫物師・磯部義兵衛英信の作とされている。
聖天は大聖歓喜自在天の略称で、元はヒンズー教の障碍の神だったが、仏教に帰依してからは現世利益を叶える神として信仰された。特に、2体の象頭人身が抱き合う形の像形が多く、夫婦和合・子授けの御利益があるとされる。修法として香油を注ぎかける浴油供がよく行われ、当地「金剛院」でも聖天の祭日(旧暦3月21日)には多くの参詣客があったという。この聖天については、「食べた聖天」という民話(昔ばなし)がある。それは、「ここの住職は大の酒好きで、飲むときには「聖天様、どうぞお召し上がりください。」と唱えてから飲んでいた。いつも小僧に町の酒屋に酒を買いにやらせていたが、ある日、どうしたわけか、いつもより酒の量が多かった。そこで、小僧は桜川の堤に腰を下ろし、住職の真似をして「聖天様、どうぞお召し上がりください。」と唱えて盗み飲みした。小僧が寺に帰ると、和尚はいつもの通り聖天様に祈りをあげて酒を飲もうとしたところ、「食べた聖天、小僧さんに貰ったから、もうたくさん。」という声がした。盗み飲みがバレた小僧は、それからいっそう修行に励んだ。」という話である。


桜川市のHPから(八柱神社)


写真1:「八柱神社」入口石段。社号標「輪煥之地 八柱神社」。「輪煥(りんかん)」というのは、寺社などの建物が広大で壮麗である様子をいうとのこと。


写真2:鳥居


写真3:拝殿。昭和62年再建。


写真4:本殿


写真5:同上


写真6:同上


写真7:同上


写真8:同上


写真9:御神木。目通り幹囲8.8mというケヤキの巨木で、旧真壁町では最も大きな木であるという。桜川市指定天然記念物。


写真10:同上
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歌姫明神

2024-04-20 23:33:50 | 神社
歌姫明神(うたづめみょうじん)。古い資料では「歌女明神」としているものが多い。
場所:茨城県桜川市真壁町羽鳥1073。茨城県道41号線(つくば益子線)沿いのコンビニエンスストア「セイコーマート真壁羽鳥店」のある交差点から東に約230mで右折、約90mで突き当り左折(南東へ)、約30mで参道入口。駐車場なし。
詳細不明だが、古代に「嬥歌(かがい)」・「歌垣(うたがき)」が行われていた場所に祀られている神社で、祭神は住吉明神(仲田安夫著「真壁町の昔ばなし」)とされるが、ネット等では稚日女尊(ワカヒルメ)としていることが多く、あるいはその両神を祀るという説もある。「嬥歌」・「歌垣」は、フリーセックスの場のようなイメージもあるが、本来は、未婚男女が集まって求愛歌の掛け合いで相手を探す祭事の要素が強かったらしい。「万葉集」のほか、「常陸国風土記」の筑波郡と香島郡の条に「嬥歌」についての記述があり、特に筑波山の「夫女ヶ石」(2020年10月3日記事)付近が「嬥歌」の場所として有名である。当地は筑波山にも近く、平将門もここの「嬥歌」で正室・君の御前と結ばれたという伝承があるらしい。
蛇足1:稚日女尊は、機織りをしているときに、素戔男尊(スサノオ)に逆剥ぎにした馬の皮を投げ込まれ、驚いて機から落ちて亡くなったという話が「日本書紀」にある。天照大神の別名を大日孁貴神(オオヒルメノムチ)、あるいは大日女尊(オオヒルメ)ということから、その幼名あるいは妹神ともいわれる。ただし、所謂「古史古伝」の1つ「ホツマツタヱ」では、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冊尊(イザナミ)(「筑波山神社」(2020年9月12日及び19日記事)の祭神)の子、すなわち、天照大神など三貴子の兄弟である蛭子神(ヒルコ)、別名・和歌姫であるとする。そして、不具で生まれたために海に流されたのを住吉大神によって拾い上げられ、養育されたという。「ホツマツタヱ」は、「記紀」より古いとする説もあるが、近世の用語や習俗なども含まれ、一般的には江戸時代頃に作られた偽書と考えられている。ただ、書かれた内容は面白く、もっと真面目に研究されてもよいと思われる。なお、「歌姫明神」については、古来より住吉明神(摂津国一宮「住吉大社」、現・大阪府大阪市)・玉津島明神(「玉津島神社」、現・和歌山県和歌山市。稚日女尊を祀る。)・柿本人麻呂を「和歌三神」と称するので、「嬥歌」に因んだ祭神と言えるだろう。
蛇足2:住吉大神(通常は底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神の総称)は海上交通の守護神だが、茨城県内に「住吉神社」は少ない。茨城県神社庁傘下の神社では、水戸市に1社、桜川市に1社、石岡市に1社、結城市に2社、鹿嶋市に1社、東海村に2社となっている(ただし、石岡市の「住吉神社」の祭神は大山祇命で、通称・山王様ということから、「日吉神社」だったのが誤ったといわれている。)。
蛇足3:本文では、平将門の正室・君の御前、と書いたが、古代の通例により女性の名は伝えられていない。現・桜川市大国玉に「后神社」(「御門御墓」(2021年1月30日記事)参照)があり、将門の正室で、在地の豪族・平真樹の娘・君の御前を祀っているという伝承がある。一方、軍記物語「将門記」などをみると、将門の妻は、将門の伯父だが敵方の平良兼の娘であると読めるような書きぶりになっている(名前は不明)。良兼は当地周辺を本拠地としており、「将門記」にも「服織ノ宿(はとりのやどり)」と出てくる。当神社の北、約700mのところに「竜ヶ井城」という中世城館跡があり、これが元は良兼の居館跡だったとの伝承がある。現在も土塁・堀跡が残るというが、平地が少なく、現在の遺構は戦国時代頃のものとみられ、南方約2kmにある「真壁城」の出城として築かれたともいわれているので、真偽は不明。ただ、「竜ヶ井城」が居館ではないとしても、当地が良兼の支配地であったことは確実で、もし将門が当地の「嬥歌」に参加して知り合うとすれば、良兼の娘である方が確率は高いように思われる。
蛇足4:「羽鳥」という地名は、本来「服織」で、絹織物の里であったと思われる(「筑波山」の周辺で養蚕や機織りが行われていたことについては、「蚕影神社」(2020年11月28日記事)参照)。「羽鳥」は、「嬥歌」の「嬥」の旁を羽(は)と隹(とり)に分けたのが由来とする説もあるが、これはこじつけっぽい。
蛇足5:「筑波山」登山は、古来、羽鳥口が表参道だったが、江戸時代に「筑波山 大御堂」(2020年9月26日記事)が幕府の祈願所となってから、そちら側が表参道になったという。今でも「羽鳥古道」といって、山歩き愛好家が羽鳥側から登ることがあるようだ。


写真1:「歌姫神社」参道入口の目印になっている「二十三夜供養碑」。この左手に入ると、鳥居が見える。


写真2:立派な石鳥居


写真3:社殿のある広場入口付近にある岩。筑波山の「夫女ヶ石」に相当するものだろうか。


写真4:概ね円形のような広場の奥に社殿がある。


写真5:社殿


写真6:社殿扉の彫刻
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筑波山 大法源院 最勝王寺

2024-04-13 23:34:31 | 寺院
筑波山 大法源院 最勝王寺(つくばさん だいほうげんいん さいしょうおうじ)。
場所:茨城県桜川市真壁町東山田1644。茨城県道41号線(つくば益子線)と同148号線(東山田岩瀬線)の交差点(丁字路)から41号線を東に約950m(「筑波山 最勝王寺→」の案内板がある。)で右折(南へ)、直進約200m。駐車スペースあり。
寺伝によれば、天応元年(781年)、覚仙僧正が法相宗の寺院として開山、「四大寺」と称した。最澄(伝教大師。天台宗開祖)が第50代・桓武天皇に奏請し、延暦11年(792年)、鎮護国家の道場として「最勝王寺」の寺号を賜る。その後、衰退するも、寛文2(1662年)、第38世・本孝法印が再興した。本孝法印は「椎尾山 薬王院」(2020年12月26日記事)を兼務し、同寺の薬師堂等を再建したとされる。嘉永元年(1848年)に本堂・庫裏・書院が火災に遭い焼失、嘉永3年(1850年)に庫裏・書院を再建、本堂は安政5年(1858年)に再建されたという。なお、本堂等と少し離れて建てられていた経蔵に収められていた「宋版一切経」5535巻は火災を免れ、茨城県指定文化財となっている。一切経は大蔵経ともいい、中国の南宋(1127~1279年)時代の木版刷り折本が5195巻、残りの300余巻が江戸時代に開版された天海版一切経と呼ばれるもので、天海大僧正(慈眼大師)は当寺院の一切経を校合のために参照したという。現在は天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。


茨城県教育委員会のHPより(宋版一切経)


写真1:「最勝王寺」入口、寺号標「桓武天皇勅賜寺號 筑波山 大法源院 最勝王寺」


写真2:本堂


写真3:本堂に掲げられた万葉歌額。「伎波都久の 岡のくくみら 我れ摘めど 籠にも満たなふ 背なと摘まさね」(作者不明。巻十四東歌3444)。現代語訳は、「伎波都久(きはつく)の岡に茎韮を摘みに来たが、籠に一杯にならない。では、愛しい人と一緒に摘みなさい。」。伎波都久の岡というのが具体的にどこかは不明だが、古くから現・桜川市(旧・真壁町)にあると言われてきたとのこと。


写真4:経蔵


写真5:境内奥の神社。詳細不明。


写真6:境内から少し下りたところにある「橘の井」碑。これも詳細不明。
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筑波山 一乗院 真福寺

2024-04-06 23:32:46 | 寺院
筑波山 一乗院 真福寺(つくばさん いちじょういん しんぷくじ)。通称:筑波不動尊。
場所:茨城県つくば市上大島2594。茨城県道14号線(筑西つくば線)と同132号線(赤浜上大島線)の交差点(北東角にコンビニ「セブンイレブンつくば上大島店」がある。)から東に進んで、突き当りを右折(南へ)、約180mで左折(東へ)、道なりに進むと駐車場があり、その奥に山門がある。途中の道路が狭いので注意。
寺伝によれば、大同2年(807年)、法相宗の徳一上人により筑波山の西の山中に創建されたという。当初は現在地より2kmほど東に山を上ったところとされ、現「筑波山梅林」から「椎尾山 薬王院」(2020年12月26日記事)に向かう道路沿いに「真福寺跡」という廃寺跡がある。平安時代の布目文様の古瓦などが出土しており、その古瓦には火災に遭った跡がみられるという。後に山を少し下った「前峯」と呼ばれる場所に移転して再建、修験道の影響も受けて、室町時代には真言宗に改宗され、京都「醍醐寺 三宝院」の直末寺となり、高い格式を誇った。戦国時代末期には兵火にかかり、灰燼に帰すも、江戸時代初期の慶安元年(1648年)に源範上人が現在地に堂塔伽藍を再興、 徳川幕府より寺領を安堵され、末寺38ヵ寺を有した。江戸時代末の嘉永6年(1853年)に火災に遭い諸堂焼失、長らく仮本堂だったが、平成27年に本堂が建立された。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は不動明王。北関東三十六不動尊霊場第32番札所となっており、 厄除け・家内安全・交通安全などに御利益があるとされる。
なお、境内に「不動榧」と呼ばれる樹齢約800年といわれる榧(カヤ)の古木がある。当山中興の源範上人が伽藍復興の折、この木に落雷があり、その炎の中から不動明王が現れたとの伝説がある。雷が落ちて木が二又となっても、枯れることなく生き続けている霊木であるという。


写真1:「一乗院」山門と寺号標


写真2:本堂(明王堂)。西向き。


写真3:境内の「恵光不動尊」像


写真4:「不動榧」。南側からみる。


写真5:同上


写真6:同上、北側から見る。


写真7:同上、根元に石造の不動尊像が安置されている。
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