白籏石尊古墳(しらはたせきそんこふん)。木原白籏古墳群第2号墳。
場所:茨城県稲敷郡美浦村木原2207ほか。国道125号線沿い、JRバス関東の「如来寺前」バス停付近から北東方面へ道なりに約550m、「日本テキサスインスツルメンツ 美浦工場」正門の向かい側。駐車場なし。
「白籏石尊古墳」は、霞ヶ浦南岸の台地上にある木原白籏古墳群の1つで、前方後円墳。大きさは、全長約55m、後円部径約30m、前方部幅約25mで、同じ木原白籏古墳群の第1号墳「(木原)愛宕山古墳」(前項)に比べれば小さいものの、その分、観察し易いように思われる。発掘調査は行われていないが、「(木原)愛宕山古墳」に比べて前方部が発達していること、後円部墳頂にある「石尊大権現」石碑が箱式石棺の一部を転用した可能性があること等から、古墳時代後期(6世紀代)の築造と推定されている。なお、この古墳からは、村内で唯一、円筒埴輪が発見されているとのこと。
因みに、「石尊大権現」とは、相模国式内社「阿夫利神社」(現・神奈川県伊勢原市大山)の祭神とされてきた御神体(現在の祭神は大山祇大神であるが、かつては霊石が祀られていた。)である。「阿夫利神社」は、江戸時代までは神仏混淆、修験の山岳信仰の聖地であり、「雨降り」の神様として、五穀豊穣の神として崇敬された。かつては関東地方を中心に「大山講」という庶民参詣の講が盛んに組織されていたことから、当地にも勧請されたものであろう。
写真1:「白籏石尊古墳」上り口。説明板がある。後円部の丸い形がわかる。
写真2:同上
写真3:後円部から前方部を見る。なお、木原白籏古墳群の前方後円墳は、いずれも前方部が北西方向、即ち「筑波山」の方向を向いているとされる。
写真4:前方部から後円部を見る。
写真5:後円部墳頂にある「石尊大権現」の石碑。箱式石棺の一部?
写真6:括れ部分もよくわかる。
場所:茨城県稲敷郡美浦村木原2207ほか。国道125号線沿い、JRバス関東の「如来寺前」バス停付近から北東方面へ道なりに約550m、「日本テキサスインスツルメンツ 美浦工場」正門の向かい側。駐車場なし。
「白籏石尊古墳」は、霞ヶ浦南岸の台地上にある木原白籏古墳群の1つで、前方後円墳。大きさは、全長約55m、後円部径約30m、前方部幅約25mで、同じ木原白籏古墳群の第1号墳「(木原)愛宕山古墳」(前項)に比べれば小さいものの、その分、観察し易いように思われる。発掘調査は行われていないが、「(木原)愛宕山古墳」に比べて前方部が発達していること、後円部墳頂にある「石尊大権現」石碑が箱式石棺の一部を転用した可能性があること等から、古墳時代後期(6世紀代)の築造と推定されている。なお、この古墳からは、村内で唯一、円筒埴輪が発見されているとのこと。
因みに、「石尊大権現」とは、相模国式内社「阿夫利神社」(現・神奈川県伊勢原市大山)の祭神とされてきた御神体(現在の祭神は大山祇大神であるが、かつては霊石が祀られていた。)である。「阿夫利神社」は、江戸時代までは神仏混淆、修験の山岳信仰の聖地であり、「雨降り」の神様として、五穀豊穣の神として崇敬された。かつては関東地方を中心に「大山講」という庶民参詣の講が盛んに組織されていたことから、当地にも勧請されたものであろう。
写真1:「白籏石尊古墳」上り口。説明板がある。後円部の丸い形がわかる。
写真2:同上
写真3:後円部から前方部を見る。なお、木原白籏古墳群の前方後円墳は、いずれも前方部が北西方向、即ち「筑波山」の方向を向いているとされる。
写真4:前方部から後円部を見る。
写真5:後円部墳頂にある「石尊大権現」の石碑。箱式石棺の一部?
写真6:括れ部分もよくわかる。