神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

飛鳥神社

2016-02-27 23:31:35 | 神社
飛鳥神社(あすかじんじゃ)。
場所:山形県酒田市飛鳥字堂之後92。国道345号線(飛鳥バイパス)沿い、「東部中学校」の南、約300m。駐車場なし。
社伝によれば、宝亀5年(774年)に大和国式内社「飛鳥坐神社」(現・奈良県明日香村)を勧請して創建、大同2年(807年)に社殿再建という。このとき、十一面観世音菩薩座像を安置し、以来「飛鳥大明神」と称したという。創建の経緯は明らかでないが、当神社の北、約2kmに「郡山」という地名があり、古代の「飽海郡家(郡衙)」の所在地と考えられている(ただし、発掘調査等で確認されたものではない。)。また、北、約9kmには平安時代の出羽国府とされる「城輪柵跡」(2015年12月26日記事)があり、北東、約1.6kmには式内社「小物忌神社」(2014年11月29日記事)がある。更に、当神社の鎮座地は、最上川と相沢川の合流点に当り、この付近に古代駅路「東山道」の「飽海」駅家があったと推定されている。当神社の西に「飛鳥沼親水公園」があるが、この付近に「船着場」という小字があるという。「飽海」駅は所謂「水駅」ではないが、1つ手前の「佐芸」駅家は水駅として馬4疋・船10隻が配置されており、その位置には諸説あるが、最上川沿いなら「佐芸」駅から「飽海」駅まで船で最上川を下ったとみられる(「飽海」駅が水駅でないのは、下りのみの利用だったからともいわれる。)。このように、当神社は古代城柵・官衙との関連が強く、式内社ではないが、「城輪柵跡」の造営年代等を考えれば、8世紀後半~9世紀初めという創建時期も強ち伝承のみとは言えない可能性がある。なお、祭神は、八重事代主命を主祭神とし、須佐之男命と大己貴命を配祀する。いずれも出雲系の神々で、出羽国ではかなり珍しいと思われる。
伝承によれば、寛治元年(1087年)、出羽守に任じられた源義家が東夷征討のため当神社に参拝、養和元年(1181年)には鎮守府将軍・藤原秀衡が運慶作の仁王尊2躯を当社に奉献したという。このように、早くから神仏混淆していて、中世以降、真言宗「飛鳥山 観音寺」とも称して十一面観世音菩薩を本地仏とし、左右に大黒天と毘沙門天を配し祀っていたという。明治時代に入り、神仏分離により境外に一宇を新築して十一面観世音菩薩と鎌倉時代の作とされる仁王尊2躯を安置したとされる。


「庄内ロケ地データベース」のHPから(平田 飛鳥神社)


写真1:「飛鳥神社」鳥居と社号標。


写真2:同上、社殿


写真3:境内社の「六所神社」。


写真4:社前にある「仁王堂」
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高泉神社

2016-02-20 23:21:47 | 神社
高泉神社(たかいずみじんじゃ)。
場所:山形県酒田市北沢字空沢32。国道345号線と山形県道367号線(北境曙線)の交差点を東へ、約400m。駐車場なし。社前の道路は狭いので、注意。
当神社の創建時期は不明。古来より、当神社の東にある「空沢山」の岩壁に滝が懸かっているところを神座として、不動明王を安置していたという。江戸時代にも、「清水の不動」と呼ばれ、「高泉参り」として白衣の道者の参拝が絶えなかったとされる。明治時代に入ると「高泉神社」と改称して村社に列せられた。なお、今も水源地には本宮(奥宮)があり、石造の不動明王像が祀られている。現在の祭神は水速女命(ミズハヤメ)。
「日本三代実録」貞観7年(865年)の記事に、出羽国の「城輪神」と「高泉神」に従五位下の神階を授けたというものがあり、当神社では、その「高泉神」が当神社のことであるとしているようで、鳥居横の社号標の上部に「国史現在」との文字が刻されている。「日本三代実録」の記事の「高泉神」については、現・秋田県秋田市寺内に鎮座する「古四王神社」(2015年8月15日記事)に比定するのが通説で、「城輪神」(「城輪神社」:2016年1月2日記事)=「出羽国府」の守護神、「高泉神」(「古四王神社」)=「秋田城」の守護神として並列させたというのは、ありそうなことである。ただ、当神社は、「城輪神社」の南東、4km弱(直線距離)という近さにあり、水源の神として信仰を集めたのかもしれない。


写真1:「高泉神社」鳥居と社号標


写真2:手水鉢の水も豊富。


写真3:社殿


写真4:同上、「境川」沿いにみる。「境川」の水量も多い。雰囲気の良い神社である。


写真5:本宮(奥宮)(場所:山形県酒田市北沢字桂沢。「高泉神社」から更に奥、狭い道を東に約1.3km、少し広い道路にでるので、そこから右折(南東へ)、約700m。道路沿いにあり、1台分くらいは駐車スペースあり。なお、この少し広い道路は、「八森自然公園」入口にある「八森温泉ゆりんこ」脇から南に向かうもので、「ゆりんこ」から約3.4km)


写真6:本宮(奥宮)の背後の不動明王像
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新田目城跡

2016-02-13 23:58:20 | 史跡・文化財
新田目城跡(あらためじょうあと)。
場所:山形県酒田市本楯字新田目89。JR羽越本線「本楯」駅から東へ約500m。駐車場有り(「酒田市北部農民センター」)。
「新田目城跡」は、最後の出羽国府と推定されている「城輪柵(跡)」の西、約2kmのところにある中世の城館跡で、出羽国司の留守職の居館との伝承がある。古代、国司に任命されながら現地に赴任しないこと(遥任)があり、平安時代末期には常態化した。国司による統治が有名無実化する中で、国司の代わりに収税・治安維持などを行ったのが留守職とされる。「新田目城跡」は、その主郭とされる現「(本楯)大物忌神社」及び「酒田市北部農民センター(旧・本楯小学校跡)の敷地は一辺が約130mの不整方形で、土塁や水堀の一部が現存している。また、古い地籍図などで見ると、東側にある3つの寺院(「正伝寺」、「悦岩寺」、「梵照寺」)の境内地もかつて堀で囲まれていたことが確認でき、さらに字地番の連続などから、東西約600m、南北約200mに及ぶ東西に長い不正長方形の外郭があったとみられている。また、安倍親任が慶応2年(1866年)に記した「筆濃餘里(ふでのあまり)」の「庄内廃城考」の中で、「古来留守殿ノ館ト称ス」としている。こうしたことなどから、「大物忌神社」境内地が昭和32年に山形県指定史跡となった。
伝承によれば、元々「出羽国府」(「城輪柵跡」)の国司に代わって職務を行う「留守殿」の居館があり、源義家が「出羽国留守職」として康平5年(1062年)に須藤氏を派遣すると、須藤氏によって「新田目城」として改修された。「後三年合戦」の陣立てには須藤主馬首助清という人物が見えるが、その後、須藤氏はその役職から留守氏を名乗るようになり、長く当地を支配したという。しかし、慶長5年(1600年)の「関ヶ原合戦」の際、当時の庄内領主・上杉家に従って西軍側に与したため、敗北して所領を没収され、その後帰農したとされる。そして、「新田目城」は、慶長20年(1615年)の「一国一城令」により元和年間(1615~1624年)に廃城になったという。
さて、昭和57~59年、「酒田市北部農民センター」建設に伴う発掘調査が行われ、調査面積約720平方メートルについて、溝状遺構12条、掘込遺構1基、埋桶遺構4基、小柱穴28基が発見された。少なくとも2時期以上にわたる建物があったとみられるが、どのような建物があったか復元できていない。なお、土坑からは平安時代後期の木製祭祀具が発見された。土器や陶器の出土物の中で、須恵器は9世紀初期まで遡れるものがあり、1点のみではあったが8世紀半ば頃まで遡り得るものがあった。また、出土した土器の大半を占める赤焼土器は、11世紀代に比定できるとされた。このほか、中世陶器類、北宋銭・唐銭・明銭などの古銭などが出土し、想定される年代は、8世紀中葉、11世紀代、14世紀代、15~16世紀代と長期にわたるとされた。このように、当遺跡の創建年代は確定できず、平安時代(後期)に遡る可能性もあるが、もっと後代のものという説も強いらしい。
なお、「大物忌神社」(通称:「本楯大物忌神社」)については、社伝によれば、天平年間(729~49年)に、出羽国一宮「鳥海山大物忌神社」の分霊を勧請したのが始まりという。「後三年合戦」(1083~1087年)の際、源義家が当神社で戦勝祈願を行い、勝利したことから、太刀を奉納したと伝えられている。その太刀は現存しており、無銘ながら鎌倉時代初期頃のものと鑑定され、革包鞘・革塗鐔・切羽が残存する貴重なものということから、大正11年に国指定重要文化財(工芸品)に指定されている。祭神は大物忌神で、旧社格は県社であった。


「山形の宝 検索navi」のHPから(新田目城跡)


写真1:「新田目城跡」説明板と堀。「酒田市北部農民センター」入口付近から東側を見る。右手奥は「大物忌神社」、左手奥は「正傳寺」。


写真2:堀と土塁。堀の東側から西側を見る。土塁の左側(南側)は「大物忌神社」境内。


写真3:「大物忌神社」鳥居と標柱、「史跡 新田目城跡」の標柱(黒い石碑)


写真4:「大物忌神社」社殿。青いネットは雪対策(冬支度)だろうか。
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観音寺廃寺跡(秋田県横手市)

2016-02-10 23:53:43 | 史跡・文化財
観音寺廃寺跡(かんのんじはいじあと)。
場所:秋田県横手市大森町上溝字観音寺130ほか。秋田県道29号線(横手大森大内線)「峠町頭」交差点(大森小学校付近)から西へ、約3.2km。「観音寺」という案内板が出ているところを左折(西へ)すぐ。「観音寺児童館」敷地内に説明板がある。駐車場なし。
「観音寺廃寺跡」は、雄物川支流の上溝川の谷底低地で発見された廃寺跡。当地では現在、上溝川左岸(北岸)の微高地に秋田県道29号線が通っており、それに沿って集落が形成され、上溝川は右岸(南岸)端に寄せられているが、かつては蛇行していたらしい。右岸の「古寺山」(標高120m)山中に経塚があって、文化6年(1809年)に、久安5年(1149年)銘の青銅製経筒が掘り出された。江戸時代の紀行家・菅江真澄が文政7年(1824年)に当地を訪れ、その経筒を実見している。そして、「日本三代実録」貞観6年(864年)の記事に見える定額寺「出羽国 観音寺」が当地に建立されていたと考えた(「雪の出羽路」)。こうした背景から、平成11年に圃場整備事業に伴って発掘調査が行われたものである。
発掘調査の結果、大別して2つの遺構群が確認され、1つは平安時代末期~鎌倉時代の掘立柱建物・井戸跡などであり、もう1つは中世後期~近世初頭の掘立柱建物などとされた。後者は、菅江真澄が訪れた際、既に田圃になっていたが、「屋敷田」という地名から定額寺「観音寺」の跡と考えた場所であったという。さて、前者の遺構群であるが、板塀跡1列、掘立柱建物跡17棟、井戸跡32基、土坑27基などであり、掘立柱建物の柱穴から「御佛殿前申」と書かれた木簡が出土した。また、土坑の1つは便所跡であると推定され、土壌サンプルの分析により、使用者は菜食中心の食生活をしていたことが判明した。年代としては、出土した柱材や土器・磁器などから、12~13世紀頃と推定されている。この結果は上記の経筒の久安5年という年号とも適合する。ところが、八戸工業大学高島成侑教授によれば、掘立柱建物の様式が、この時期の「仏堂」とは考えられないとされた。井戸跡の異常な多さも合わせて考えると、仏教的な施設ではあるが、何か水辺の祭祀を行っていたものと推定されるという結論になっており、期待された定額寺「出羽国 観音寺」跡との確証は得られなかった。しかし、地方寺院として破格ともいうべき格式の施設であり、当遺跡の北西約1kmの距離に式内社「保呂羽山波宇志別神社」(2015年5月30日記事及び2015年6月6日記事)の仁王門(神門)があるなど、同神社と何らかの関連があったのではないか、であれば、定額寺に匹敵する「観音寺」という寺院だったのではないか、とされている。


全国遺跡報告総覧のHPから(観音寺廃寺跡)

秋田県遺跡地図情報のHPから(観音寺廃寺跡)


写真1:「観音寺児童館」の敷地内に建てられた「菅江真澄の道」の標柱。「観音寺跡」についての文章が引用されている。


写真2:同、「観音寺廃寺跡」の説明板


写真3:同上、奥に見える山が「古寺山」で、その手前の田圃になっているところが「観音寺廃寺跡」
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見龍山 円通寺

2016-02-06 23:10:45 | 寺院
見龍山 円通寺(けんりゅうさん えんつうじ)。
場所:山形県酒田市麓字楯の腰50。国道344(&345)号線「酒田市観音寺」交差点から東に約700mの交差点(信号無し、横断歩道有り)を左折(北へ)、水路に沿った狭い道路を約170m進んで、右折(東へ)約100m。突き当たりの左手。駐車場有り。
寺伝によれば、当寺は「日本三代実録」貞観7年(865年)の記事にある定額寺「出羽国 観音寺」を前身とし、天和3年(1683年)に越前国滝沢村出身の大叟禅乗(たいそうぜんじょう)大和尚が当地を訪れ、山根(現・酒田市麓、八幡小学校の北側付近?)に開山した。寛保2年(1742年)に火災で焼失、翌年に現在地に移転・再建されたという。現在の宗派は曹洞宗、本尊は聖観世音菩薩(室町時代?)だが、庄内三十三観音霊場第11番札所となっていて、札所本尊は準胝観世音菩薩という。
当寺の背後の山は通称「楯山」といい、中世には清原氏の後裔を称する来次氏が「観音寺城」(「来次城」)を築いたと伝えられる。来次氏は清原氏一族の清原時衡を祖とし、「後三年の役」で清原家衡・武衡と共に戦ったが、戦列を離れて「羽黒山」に入山し、山伏となった。その後、20代を経て、戦国時代中期になると、来次氏房が武士として再興を図り、古楯に居館を築いた(現・酒田市観音寺字古楯。八幡小学校付近)。氏房の子・時秀は、平地の居館では防備が弱いと考え、元亀元年(1570年)頃、山城の「観音寺城」を築いたとされる。時秀の子・氏秀の時代にかけて、「観音寺」も来次氏の菩提寺として栄えたとされるが、氏秀は最上義光、上杉景勝らによる庄内の領地争いに巻き込まれ、終始上杉方について戦ったが、結局、「関ヶ原の戦い」の結果、敗北した上杉景勝の出羽国米沢への減移封に従い、米沢に移った。そして、「観音寺城」は慶長20年(1615年)、「一国一城令」により破却されたという。
ところで、当寺の東、約180mという近さのところに「飛澤神社」(2014年12月27日記事)がある。同神社は式内社「小物忌神社」の論社の1つで、貞観13年(871年)に「鳥海山」が大噴火した際、その神霊を鎮めるために「天降堂」を建てて祀ったのが始まりとされる。この社伝が正しければ、「観音寺」が定額寺になった少し後の創建になる。また、「天降堂」という地名は現在も「楯山」の西麓にある。そこに「天降神社」があって、今は石祠のみだが、境内?に「観音寺城跡」の説明板が設置されている(が、この付近には登り口がないようである。)。しかし、「飛澤神社」にしても、「円通寺」にしても、貞観の後の歴史がすっぽりと抜けている。勿論、これはやむを得ないことではあるが、式内社、定額寺であることの証拠に乏しいのが残念である。特に、「観音寺」という名の寺院は全国に多数あって、ある意味ありふれた名前である。地名だけなら、山形県東根市にもある。ただ、当地が、「城輪柵跡」(平安時代の出羽国府と推定)、「堂の前遺跡」(同、出羽国分寺)、「八森遺跡」(出羽国府の一時移転先?)などと近い距離にあるため、あるいは...と思わせる。


写真1:「円通寺」


写真2:同上、山門は「観音寺城」の裏門を移設したものといわれる。


写真3:同上、遠景。背後の山が「楯山」で、「観音寺城跡」がある(といっても、現在は築堤や通路の跡が残る程度。)。


写真4:「天降神社」入口。社号標があり、奥に赤い鳥居も見える。写真左手の説明板は「観音寺城跡」のもの。


写真5:「天降神社」と思われる石祠
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