神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

鹿島神社(茨城県つくば市大形)

2020-08-29 23:46:47 | 神社
鹿島神社(かしまじんじゃ)。
場所:茨城県つくば市大形1356。国道125号線と茨城県道53号線(つくば千代田線)の交差点から、国道を南東へ約700mのところで側道に入り約180mのところ(「つくば市消防団筑波支団第3分団」の倉庫がある。)で左折(北へ)、約350m進んで突き当り、左側(西側)直ぐ。駐車場有り。
創建時期は不明だが、次のような伝承がある。昔、当地の辺りは水に囲まれ、島のようになっていた。日本武尊(ヤマトタケル)が東征の折、当地を舟で通過しようとしていたとき、兵士たちが喉の渇きを訴えたので、この島に上陸して水を探したが、泉は見つからなかった。そこで、日本武尊が剣で岩に切りつけたところ、そこから水が湧き出して、兵士たちの喉を潤すことができた。その泉を「剣井戸」といい、この島を「岩崎山」(岩裂き山)と呼ぶようになった。その後、当地から日本武尊に随従して甲斐国(現・山梨県)まで転戦した人々が戻ってきて、日本武尊から授かった神宝を祀ったのが当神社の創建であるというものである。御神体は石であると伝えられており、これを守護するようにして二体の武将神坐像(室町時代作という。)が本殿内に安置されているとのこと。中世には小田氏の崇敬が篤かったという(当地は小田氏の本拠地である現・つくば市小田の南東隣にある。)。現在の祭神は、武甕槌神。
本殿は覆い屋の中にあるが、華麗な彫刻がふんだんに飾られている(昭和52年に茨城県指定建造物に指定。)。これだけでも見る価値があるが、本殿の後ろに花崗岩の巨石があり、これが古くから磐座として信仰されていたらしいという。関東地方の平野部で磐座とされるものは珍しく、日本武尊の伝説はともかく、聖地としての古さを感じさせる。


写真1:「鹿島神社」一の鳥居。傍らの四角い石柱は社号標ではなく、「大形尋常小学校入口」となっている。当神社の背後(北側)の台地上に「大形小学校」があった(明治12年開校、平成20年閉校。現在は「つくば市総合教育研究所」になっている。)。当地は桜川の左岸(北岸)に当たり、当神社から北側が台地となっていて、前面(南側)は今も水田が広がっている。


写真2:鳥居前には仏堂や石仏も。


写真3:石段を上って、二の鳥居。


写真4:更に進んで、拝殿。


写真5:一段高い石垣の上に本殿があるが、覆い屋の中。


写真6:本殿


写真7:同上。本殿の横にも扉があるのが珍しい。また、回廊下にも立派な彫刻がある。本殿背後に巨石が露出している。


写真8:覆い屋が巨石の一部を取り込んでいる。


写真9:境内社の「愛宕神社」
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日枝神社(茨城県土浦市小田)

2020-08-22 23:19:14 | 神社
日枝神社(ひえじんじゃ)。愛称:沢辺山王権現。
場所:茨城県土浦市沢辺・小野・東城寺入会地127-1(HPの表記。住居表示では「小野127-1」で良い模様。)。茨城県道199号線(小野土浦線、通称「フルーツライン」)「朝日トンネル南」交差点から西へ約300m、交差点を左折(南西へ)、約400mのところに「日枝神社」という大きな社号標が立っている。そこを右折(北西へ)、約300mで社殿前。駐車場有り。
社伝によれば、大同2年(807年)に五穀豊穣の作神として近江国式内社「日吉大社」(現・滋賀県大津市)の神霊を勧請して創建。延暦15年(796年)に創建された「東成寺」(現・「東城寺」、前項)の鎮守であり、神仏混淆が長く続き、宝永5年(1708年)には「正一位沢辺山山王権現」の称号を賜り、「山ノ荘」地区8カ村の総社とされた。 明治2年、「日枝神社」に改称。現在の祭神は、大山咋命。
さて、当神社の神事として行われる流鏑馬(やぶさめ)は、日本三大山王流流鏑馬の1つとされる(他の2つは滋賀県大津市「日吉大社」と東京都千代田区「日枝神社」(所謂、赤坂の日枝神社)という。)。長さ150mの馬場に3本の的に対して7回(合計21本)、馬上から鎧武者姿で的を射る古式ゆかしい行事で、弘仁元年(810年)に始まったと伝えられ、 現在の形になったのは鎌倉時代頃とされる。毎年4月の第1日曜日に開催され、茨城県の無形民俗文化財に指定されている。この神事の始まりについては、次のような伝説がある。昔、当神社の境内に「幸加」(ネムノキ)の大木があり、そこに大猿が棲みついて、村の作物を喰い荒らすなど村人を困らせていた。供物を捧げても一向に収まらず、ついには「東成寺」の稚児を人身御供にするほどまでになった。これを聞いた大志戸甲山城主・小神野従羅天が弓の達人・市川将監に助力を頼み、大猿を退治した、というものである。流鏑馬祭にストーリーがあること、農村の平和と五穀豊穣を祈る目的であることというのは珍しいらしい。
ところで、全国に約3,800社あるという「日吉神社」、「日枝神社」、「山王神社」などは、基本的に「日吉大社」(「山王総本宮」と称する。)の分社といわれており、謂れは不明だが、猿を神使としている。これを「真猿(まさる)」といい、狛犬の代わりに猿像が置かれているところも多い。それが、ここでは退治される存在となっていることは意外で、面白いが、それだけ身近な存在だったということなのだろう。


茨城県神社庁のHPから(日枝神社)

土浦市のHPから(日枝神社流鏑馬祭)


写真1:「日枝神社」一の鳥居。この先、真っ直ぐな参道で流鏑馬祭が行われる。


写真2:二の鳥居。鳥居の後ろの石灯篭は永正8年(1511年)に奉納されたもので、茨城県の指定文化財。


写真3:流鏑馬祭の碑


写真4:拝殿。現在の社殿は延享3年(1746年)に再建されたものという。


写真5:本殿
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朝望山 東光院 東城寺

2020-08-15 23:34:17 | 寺院
朝望山 東光院 東城寺(ちょうぼうさん とうこういん とうじょうじ)。
場所:茨城県土浦市東城寺650。茨城県道53号線(つくば千代田線)沿い「沢辺郵便局」の西、約180mの信号のある交差点から北東へ進み、約80mで(「東城寺」という小さな案内標識がある。)左折(北へ)、道なりに約1.3kmで山門。本堂までは、ここから更に狭くて長い坂道を上るが(約400m)、山門脇から舗装路があり、自動車でも本堂近くまで行ける。駐車スペース有り。
寺伝によれば、延暦15年(796年)に第50代・桓武天皇の勅願により、天台宗の開祖・最澄(伝教大師)の高弟である最仙により開山された。当地では法相宗の僧・徳一の影響力が強く、布教に苦労したが、開山後は常陸国における天台宗の拠点の一つとなった。天台宗は鎮護国家の意識が強く、「朝望山」という山号は「朝廷を望む」という意味だという。本尊は薬師如来で、創建当初は「薬師寺」といったが、後に「東成寺」と改称した。鎌倉時代初期、小田氏の支配が及ぶと真言宗に改宗され、江戸時代になると土浦藩主・土屋氏の帰依により「土」の字を受け、「東成寺」から「東城寺」に改められたという。本堂裏手の山の斜面に経塚群があり、 発掘調査により保安3年(1122年)、元治元年(1124年)銘のある経筒が確認されている(茨城県指定文化財(史跡))。 本堂は平成9年の火災(放火)により焼失、平成16年に再建された。


茨城県教育委員会のHPから(東城寺経塚群)

同上(東城寺結界石)


写真1:「東城寺」山門。ここの扁額には「東成寺」とある。


写真2:自動車で上って行くと通り過ぎてしまうが、こんな雰囲気の良い石段もある。


写真3:結界石。寺域を示すための境界石で、当寺院の近辺に5基残っていたもののうち、建長5年(1253年)という年号銘のあるものを境内に移したものという。雲母片岩製で、高さは約1.2m。


写真4:本堂


写真5:地蔵堂


写真6:本堂の後ろにある「佛窟」。戦国時代、当寺院には300人の僧兵がいたとされるが、小田氏側について敗れ、山中に散らばって埋葬された。それを纏めて供養したものらしい。なお、平成9年の火災の際に焼け残った仏典なども納められているとのこと。昭和62年建立。


写真7:経塚群(一部)。
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小野小町の腰掛石

2020-08-08 23:49:29 | 名石・奇岩・怪岩
小野小町の腰掛石(おののこまちのこしかけいし)。
場所:茨城県土浦市小野。茨城県道199号線(小野土浦線)「朝日トンネル南」交差点から北西へ約300m(次の交差点)で右折(北東へ)、約450m進んだところで左折(北西へ)、約200mで「小野の里」という観光施設(観光案内、土産物・農産品販売、そば処など)があり、駐車場がある。「小町の里」入口付近から、西側の道路を(小川を遡るように)北へ約280m。
小野小町は平安時代前期(9世紀)の女流歌人で、六歌仙の1人。「世界三大美女」の1人とも言われるように絶世の美人であったとされるが、肖像画などは残っておらず、あくまでも伝説である。ただし、教養があって、有名な「花の色は・・・」の歌からすれば、自らの美貌を意識していたとも取れるので、美人であったことを否定するものでもない。ただし、出自も最期も不明で、各地に生まれ故郷や墓がある。生まれは、従三位参議・小野篁の孫に当たり、出羽国郡司・小野良真の娘とする説が有名だが、これも確証はないらしい(秋田県湯沢町に遺跡とされるものが多い。「小野小町遺跡(小町堂)」2016年8月6日記事ほか参照)。晩年も不明だが、不遇のまま各地を放浪したとの伝説があって、各地に「小町の墓」と呼ばれるものが存在する。
ということで、茨城県土浦市小野にも「小町の墓」と伝えられる五輪塔がある。また地名も、朝日峠の南側が土浦市小野、 朝日峠を越えた北側が石岡市小野越として残っている。小町は、京都から故郷の奥州へ向かう途中、「清瀧観音」(前項「清瀧寺」)から「北向観音」(石岡市小野越)に向かってお参りした後、病に倒れた。 この地の一族の長、小野源兵衛宅に身を寄せていたが、元慶7年(883年)、69歳で亡くなったとされる。「小町の墓」は昔から婦人病に御利益があるとされ、「焙烙(ほうろく)」を奉納するならわしがあった。 また、参拝すると美人になるとの評判で、多くの参拝者があったという。現在は、個人宅の中にあるようで、参拝謝絶となっているとの情報がある(小生が訪問したときには特に謝絶とされていなかったが、参道途中にゴミが捨てられていたりして、参拝客のマナーの問題だったら残念だ。)。このため、「小町の里」の場所の案内は遠慮した。
「小野小町の腰掛石」は、小町が「北向観音」に参詣の際に、峠越えの途中で腰を掛けて休憩した石とされる。階段状になった石で、確かに面白い形をしている。管見ながら、三段になっているところが重要で、3枚の平たい石が積み重なったようにも見えるのが仏教用語の「三昧(さんまい)」(瞑想、精神集中などの意味)に通じる。あるいは「清瀧寺」の関係者が作り出した伝説かもしれない。


土浦市のHPから(小野の館)


写真1:「小野小町の腰掛石」入口。小川を渡る。


写真2:「小野小町の腰掛石」


写真3:「小野小町の墓」参道入口(門の左側)


写真4:「小野小町の墓」


写真5:同上、五輪塔。
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南明山 慈眼院 清瀧寺

2020-08-01 23:33:18 | 寺院
南明山 慈眼院 清瀧寺(なんめいさん じがんいん きよたきじ)。通称:清滝観音。
場所:茨城県土浦市小野1151。茨城県道199号線(小野土浦線)「朝日トンネル南」交差点から北東へ、約140mで左折(北へ)、道なりに約650mで参道入口(石段)。自動車はそのまま北へ進み、約70mで駐車場。
伝承によれば、筑波山から伊弉諾(イザナギ)・伊弉冉(イザナミ)の二神が飛来し、鉾を突き立てたところから南北2ヵ所に清明な泉が湧きだした。後に、僧・行基(668~749年)が南方の泉のところに聖観音像を安置したのを創建とする。これが山号・寺号の由来であるという。一方、寺伝では、推古天皇15年(607年)に聖徳太子作の聖観音像を「竜ヶ峰」(現在地の背後の山)の山頂に安置したのが創建で、大同年間(806~810年)に徳一上人が再興して山の中腹に移された。鎌倉時代には、この地を治めた小田氏に庇護されて繁栄したが、その後の戦乱により焼失し、元禄年間(1688~1704年)に現在地に再建されたという。昭和44年、同48年と相次いで不審火に遭い焼失、現在の本堂は昭和52年に鉄筋コンクリート造で建立されたものという。なお、本尊の聖観音像も焼失してしまった(昭和54年に再製)が、山門(仁王門)は天保年間(1830~1844年)に建てられたものが残っている。現在は真言宗豊山派に属し、坂東三十三観音霊場の第26番札所となっている。


坂東三十三観音のHPから(南明山 清瀧寺)


写真1:「清瀧寺」参道入口。石段の上に寺号標がある。


写真2:山門


写真3:本堂


写真4:境内の大師堂
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