神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

椎尾山 薬王院

2020-12-26 23:27:42 | 寺院
椎尾山 薬王院(しいおさん やくおういん)。通称:椎尾薬師。
場所:茨城県桜川市真壁町椎尾3178。茨城県道41号線(つくば益子線)沿いのコンビニ「セブンイレブン真壁椎尾店」付近から南西へ約500m(「筑紫橋」付近。案内板がある。)のところで左折(東~東南へ)、約700m進んだところで斜め左(東南へ)の道路に入り(入口に「椎尾山薬王院参道」という石柱がある。)、そこから約1.5km。駐車場あり。
寺伝等によれば、延暦元年(782年)、法相宗の僧・徳一によって開山された。延暦2年(783年)、天台宗の開祖・最澄の高弟である最仙上人によって第50代・桓武天皇の勅願所として天台宗に改められ、天長2年(824年)に天台座主第三代・慈覚大師が再興、談義所(学僧の養成所)としたとされる。ただし、最初から最仙上人が天台宗寺院として開山したとする説もある。建長4年(1252年)、忍性が真言律宗にしたが、観応2年(1351)年、天台宗に戻ったという。天文19年(1550年)の大火で諸堂焼失、寛文6年(1666年)に来山した本孝法印らが約40年の歳月をかけて順次再建し、本堂は延宝8年(1680年)、三重塔は宝永元年(1704年)に完成した。現在の本尊は薬師瑠璃光如来。像高50cmの金銅座像で、鎌倉時代後期の作と推定されている。御利益は病気平癒だが、特に眼病平癒が有名。また、鎌倉時代に、椎尾城主が男子誕生を祈願したところ、無事男子が生まれたとの伝承から、子授け祈願のため訪れる人も多いという。
当寺院は筑波連山の支峰の1つ「椎尾山」(標高256m)の中腹にあるが、地図で見ると「筑波山」の北西の尾根上にあるような感じで、現在も「筑波山」登山道の1つ「薬王院ルート」の入口となっている。こうしたことから、かつては「筑波山神社」(2020年9月12日及び19日記事)あるいは「筑波山 大御堂」(2020年9月26日記事)との関係が深かったものと思われる。なお、境内及び裏山斜面を覆う、スダジイ(椎)を中心とした約2.6haの自然林は 「椎尾山薬王院のスダジイ樹叢」と呼ばれる茨城県指定天然記念物となっている。樹齢300~500年の巨木が10数本、直径30cmを超えるものが100本以上あるとされ、スダジイ群生地の北限に近いということから、 非常に貴重な樹叢とされている。


桜川市観光協会のHPから(椎尾山薬王院)


写真1:「薬王院」楼門(仁王門)。桜川市指定文化財。


写真2:同上。横に巨大な草鞋が掛けられている。左の方に写っている軽トラと比べると、その大きさがわかる。


写真3:本堂(瑠璃光殿)。本尊の薬師瑠璃光如来像は、茨城県指定文化財。


写真4:三重塔。スペースの関係で、三重塔だけをきれいに撮るのが難しい。茨城県指定文化財。


写真5:境内の庭園。弁天池がある。左下に浮かんでいるのは雛人形を乗せた舟。


写真6:毘沙門堂。毘沙門天はインドの神様だから、社祠のような堂でもおかしくはないが...。実は、元々は天台宗所縁の日吉神社だったそうで、明治期の廃仏毀釈の折、別の場所に移動させられるのを恐れ、毘沙門堂と称するようになったという。


写真7:「平朝臣良兼公碑」。平良兼は現・桜川市真壁町羽鳥に居館(後に「竜ヶ井城」と称される。)があったといわれている(当寺院の北東、直線距離で約3km)。平将門は甥で婿でもあったが、対立関係にあり、争いが続く中、天慶2年(939年)に病死した。現・茨城県南西部では将門を英雄視することが多いが、流石に地元では良兼の方を顕彰しているようだ。


写真8:巨大で、変わった形のスダジイ。毎年、愛称募集をしているらしい。


写真9:参拝時に偶々、開山・最仙上人と中興・本孝上人の木像が特別御開帳となっていた(「阿弥陀堂」にて)。
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佐都ヶ岩屋古墳

2020-12-19 23:20:49 | 古墳
佐都ヶ岩屋古墳(さどがいわやこふん)。平沢古墳群1号墳。
場所:茨城県つくば市平沢584。茨城県道138号線(石岡つくば線)の「平沢官衙遺跡」(前項)入口付近から北東へ約400mのところで右折、以下、ゴルフ場「つくば国際CC」への案内看板の通り進む。約450mで同ゴルフ場入口手前に平沢古墳群の案内板があり、その道路の左側に2号墳、右側に(山道を2~3分歩いた奥に)3号墳がある。そこから「つくば国際CC」のクラブハウスに向かって急な坂道を約910m進んで、「4カーブ」という表示が出ているところの西側に1号墳(佐都ヶ岩屋古墳)がある。駐車場なし。
平沢古墳群は、筑波山の南、約5kmに位置する平沢山の北~東側斜面に分布する古墳群で、確認されたのは6基、現存は4基とされる。1~3号墳は道路から近く、観察しやすいのと、いずれも石室が開口しているのが特徴。当地には「三十六岩屋」という伝承があって、かつてはもっと多くの古墳が存在していたらしい。現存する4基のうち、1号墳の通称「佐都ヶ岩屋古墳」が最も大きく、南北約25m、東西約35m、高さ約7mの方墳とされる。南側に大きな板石を組み合わせた複室構造の横穴式石室が開口している。石室は、全長7.65m、奥室長2.15m、幅5.45m、前室長2.5m、幅2.1m、羨道長2.1m、幅2.1m、高さ1.7mという大きさで、奥室はT字形をしているとのこと。ゴルフ場の敷地の中にあるせいで、あまり訪問する人もないのか、雑草に覆われ、枯れ木が被さっていたりと、どこからどこまでが古墳なのか、どのくらいの大きさなのか、よくわからない。しかし、石室を見ると板石の積み方が精巧で、「平沢官衙遺跡」(前項)を見下ろす標高145mの場所にあることから、「平沢官衙遺跡」=筑波郡家に関係する有力者、つまり地元豪族出身の郡司等の墳墓の可能性が高いと思われる。築造時期は、羨道と前室を分ける前門が整ったL字形に加工されている特徴から、7世紀半ば~後半頃とみられている。因みに、7世紀半ば以降というと、所謂「大化の薄葬令」が出されたのが大化2年(646年)で、古墳が小型簡素化され、仏教式の葬礼も普及してくるにつれて、古墳自体が造られなくなっていく時期に当たる。
なお、開口した石室のある古墳を俗に「岩屋」といい、「佐都ヶ岩屋古墳」には、平将門の娘・瀧夜叉姫が隠れ住んだところという伝説があるとのこと。蛇足ながら、瀧夜叉姫は、歌舞伎などの創作上の人物で、京都「貴船明神」から妖術を授けられ、手下を集めて朝廷転覆を図ったという設定になっている。よって、この伝説も江戸時代頃のものだろうと思われる。


写真1:「平沢古墳群2号墳」。通称:「開山岩屋古墳」。


写真2:同上、石室開口部の前に立つ「法華一字一石経 雲外謹書」という刻字がある石柱。この先を下りていくと墓地があるが、現在、寺院は無い。代わりに「平澤八幡神社」があるが、境内に「石造六角地蔵宝幢」(茨城県指定文化財)などが現存するので、かつては寺院もあったのだろう。


写真3:同上、石室開口部。玄門の形が蓮弁を表現したもので、仏教の影響を受けているという説があるとのこと。


写真4:「平沢古墳群3号墳」。通称:「前島岩屋古墳」。一辺約19mの方墳とされる。なお、ここから南東側に少し下ったところに4号墳があるらしいが、よくわからず、行くのを断念した。


写真5:同上、石室開口部


写真6:石室内部に石仏が祀られていた。壁面に「大日堂」と刻されているとのことで、大日如来だろうか。古墳の、後世の再利用と思われる。


写真7:「佐都ヶ岩屋古墳(平沢古墳群1号墳)」。つくば市指定史跡。


写真8:同上、石室開口部


写真9:同上、


写真10:同上、石室内部。奥が明るいのは、天井板が無くなって太陽光が差し込んでいるため。
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平沢官衙遺跡

2020-12-12 23:40:34 | 史跡・文化財
平沢官衙遺跡(ひらさわかんがいせき)。
場所:茨城県つくば市平沢353ほか。国道125号線「北条新田」交差点から北西に入って約500m進み、茨城県道138号線(石岡つくば線)との交差点(案内看板あり)を右折(北東へ)、約350mで左手(北~北西側)に駐車場。そこから左折(北西へ)して約60mで案内所(案内所まで駐車場が続いている。)。
「平沢官衙遺跡」は、奈良~平安時代の常陸国筑波郡の郡家(郡衙)跡とされる。郡家は、郡庁(役人が政務を行う役所)、正倉(税として徴収された稲、布などの倉庫)、館(国司の宿泊・饗応などの旅館・宴会場)、厨(食事を作る場所)などで構成されるが、発見されたのは正倉部分と推定されている。当地は、筑波山の南方で、「平沢山」と通称される丘陵の南の比高約5~10mの台地上にあり、西側の「中台台地」(東西約500m、南北約1,000m)と東側の「平沢台地」(東西・南北約250m)からなる。この2つの台地からは、奈良~平安時代の瓦や土器等が出土し、礎石とみられる石の遺存が知られていたため、早くから郡家あるいは郡寺の跡とする説があった。昭和50年に県営住宅団地造成に先立つ調査により遺跡としての重要性が判明して保存運動が起こり、昭和55年には国の史跡となった。そして、平成5~6年度に歴史公園として復原整備するための資料収集を目的に発掘調査が実施された。その結果、東西 200m、南北160mの調査範囲内において掘立柱建物跡55棟分を確認し、そのうち約3分の2が高床式倉庫と想定される総柱式建物跡で、コの字やLの字の形に整然と配置され、一部の柱穴から炭化米が出土した。そのほか、土の基壇の上に礎石が置かれた礎石建物跡4基(礎石が移動されていたため建物の規模は不明)、北側・西側に大溝跡、東南部・北部に柵列跡が確認された。これらの遺跡は、古墳時代後期の竪穴住居跡(25棟)を壊して造られていること、出土物、建物跡の形状等から作られていることなどから、8~11世紀に造営されたものと推定されている。なお、現在では、高床式の倉庫建物が復元され、「平沢官衙遺跡歴史ひろば 」という歴史公園になっている。


茨城県教育委員会のHPから(平沢官衙遺跡)


写真1:「平沢官衙遺跡」入口


写真2:復元された倉庫建物


写真3:同上、礎石も。


写真4:同上


写真5:同上


写真6:同上、「3号建物」(第33号建物跡)。掘立柱建物は1柱穴1柱が普通であるところ、ここでは側柱穴に2本の柱痕跡が見つかった。これは、1本は床上まで伸びて桁・梁を支える通し柱、もう1本は床を支える添束(柱)と考えられ、柱の間に板壁を落とし込む板倉で復元されたという。屋根は切妻。古代の正倉はこういう形が多かったらしい。


写真7:同上、「2号建物」(第18号建物跡)。本遺跡の中で最大級の建物で、「法倉」と呼ばれるものと推定し、土壁構造が多かったとされるため、土倉で復元したという。奈良「法隆寺」の国宝「網封蔵」を参考にしたとのこと。


写真8:同上、「1号建物」(第19号建物跡)。外周柱穴列を屋根支柱と推定し、奈良「東大寺」・「唐招提寺」の校倉を参考にして復元したという。


写真9:北側に見える「筑波山」。
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北条日向遺跡(日向廃寺跡)

2020-12-05 23:06:53 | 史跡・文化財
北条日向遺跡(ほうじょうひゅうがいせき)。日向廃寺跡。
場所:茨城県つくば市北条395外。国道125号線と茨城県道19号線(取手つくば線)の「北条歩道橋」交差点から県道を北へ約500m進んだ交差点の北側に「ふれあいの郷 北条」(北条商店会)の駐車場がある。そこから約80m進んだ交差点の北東角に「毘沙門天種字板碑」があり、そこを左折(西へ)、約85m。遺跡付近の道路は狭いので、手前の駐車場に置いてきた方が良い。
「北条日向遺跡(日向廃寺跡)」は、出土した瓦の様式から12世紀後半頃(平安時代末期~鎌倉時代初め)の寺院跡とされる。当時の寺号は不明で、現在の地名により「日向廃寺跡」と称されている。建物跡は、中央堂を中心として東西に回廊をもつ阿弥陀堂建築で、京都府宇治市の「平等院 鳳凰堂」に似た全国的にも珍しい寺院跡という。つまり、中心の仏堂は東西3間・南北4間の建物で、そこから複廊が東西に張り出し、先端から南に単廊が突き出す形になっている(ただし、 東側部分は失われている部分が多い。)。なお、一度火災に遭って焼失し、規模を縮小して再建されたらしいとのこと。
建立者は不明だが、当時この地方を多気氏が治めており、居城である「多気山城」の直ぐ下に建立されていることから、多気氏によるものと推定される。多気氏は、桓武平氏のうち常陸国を本拠とした高望王流坂東平氏の本流である。桓武天皇の孫・高望王が寛平元年(889年)に平姓を下賜されて平高望となり、子の国香とともに昌泰元年(898年)に上総介として下向し、上総国・下総国・常陸国に勢力を伸ばした。その後、平国香は甥の平将門と争いとなり、承平5年(935年)に亡くなる。国香の子・平貞盛は、藤原秀郷の協力を受けて天慶3年(940年)に将門を討ち、その褒賞として常陸国に多くの所領を得た。そこで、弟・繁盛の子・維幹を養子として常陸国に赴任させた。維幹は本拠地の筑波郡多気に因んで「多気権大夫」と称し、その後裔は常陸大掾職(「掾」は国司の三等官だが、後に名誉職的な称号となった。)を代々継承し、苗字として「大掾」を名乗ったという。しかし、鎌倉幕府成立後、建久4年(1193年)に多気義幹が八田知家(下野宇都宮氏の一族で、常陸国守護職。現・茨城県つくば市の小田城主)の策謀により失脚し、常陸平氏惣領家の称号である常陸大掾職は同族の吉田氏(後の水戸城主・馬場氏)が継ぐことになったとされる。
ということで、「日向廃寺」は、平安時代末期に当地が経済的にも栄えていたこと、京都の流行が当地にも及んでいたこと、武士の間にも浄土信仰が広まっていたことなどを示す証拠になっていると思われる。


写真1:「つくば道」入口の道標(上記駐車場の東、約270m。)。茨城県道139号線(筑波山公園線)の入口にある、高さ3mを超える石造道標で、ここから北へ「筑波山神社」まで1里(約4km)。


写真2:「毘沙門天種字板碑」


写真3:同上。鎌倉時代製作のもので、材質は雲母片岩。高さ170cm、幅82cm、厚さ14cm。つくば市指定工芸品。


写真4:「北条日向遺跡(日向廃寺跡)」。南側から見る。奥の崖が「多気山」(通称:「城山」、標高129m)に多気氏の居城「多気山城」があった。昭和54年に当時の筑波町の町営住宅建設工事の際に発見、発掘調査された。つくば市指定史跡。


写真5:同上、説明板と礎石


写真6:同上、南西側から見る。


写真7:同上、北西側から見る。


写真8:同上、北東側から見る。


写真9:「北条五輪塔(伝 多気太郎義幹墓)」(「北条日向遺跡」の西、約400m)
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