神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

健田須賀神社(下総国式内社・その7)

2012-07-28 23:26:00 | 神社
健田須賀神社(たけだすがじんじゃ)。
場所:茨城県結城市結城195。JR水戸線「結城」駅の北、約500m。駐車場なし。
当神社は、明治3年、現在地に鎮座していた「須賀神社」に式内社「健田神社」を合祀し、「健田須賀神社」としたもの。

社伝によれば、「健田神社」は、元は現在地より約2km東南にあった。旧地は、東に霊峰・筑波山を望み、古代人が日の出を見て暦を察する祭祀の場所であったとされる。神社としての創建の時期は不明であるが、結城の国造となった竹田臣の一族が、その祖神である武渟川別命(タケヌナカワワケ)を祀ったものという。タケヌナカワワケは、崇神天皇の命により派遣された四道将軍の1人。孝元天皇の孫に当たり、「常陸国風土記」にもその名が見える。したがって、ヤマト政権による東国平定の守護神として重要視され、式内社となったと考えられる。しかし、その後は次第に衰退したようで、宝暦14年(1764年)には曹洞宗「乗国寺」(結城市小塙)の境内に遷座した。明治に入り、神仏分離令により「須賀神社」に合祀されることになったものである。

「須賀神社」は、元は「天王宮」と呼ばれ、結城家初代朝光が仁治3年(1242年)に尾張国「津島神社」(式内社「国玉神社」論社。全国約3千社あるとされる津島神社・天王社の総本社)から勧請されたもの。祭神は牛頭天王であったが、神仏分離令により須佐之男命(スサノオ)に改めた。結城城の鬼門除けの神として結城家から篤い信仰を受けた。特に、康永2年(1343年)に結城家7代直朝が「結城七社」を定めた際、当神社が結城108郷の総社とされ、隆盛を極めたという。


健田須賀神社のHP

玄松子さんのHPから(健田須賀神社)


写真1:「健田須賀神社」境内入口。地図では南側に長い参道があったように思えるが、現在は北側から入る。社号標は「縣社 健田須賀神社」


写真2:社殿(東向き)


写真3:境内の「十二社」。結城地区の主要な神社である「結城七社」のうち当神社を除く6社と、香取・松尾・羽黒・三峯・白峯・足尾の6社の合計12社を祀る。「結城七社」は北斗七星に因むもので、特に勝負事に御利益があるという。
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高椅神社(下総国式内社・その6)

2012-07-21 23:25:42 | 神社
高椅神社(たかはしじんじゃ)。
場所:栃木県小山市高椅702。JR水戸線「東結城」駅の北、約4.5km。栃木県道35号線(宇都宮結城線)と同214号線(福良羽川線)が交差・重複している付近。駐車場有り。
社伝によれば、景行天皇41年(111年)、日本武尊東征の折、当地に旗を立て、国常立尊、天鏡尊、天萬尊の3神を勧請して戦勝祈願したのを創建とする。現在の主祭神である磐鹿六雁命(イワカムツカリ)は、崇神天皇により各地に派遣された四道将軍の1人である大彦命(オオビコ)の孫で、景行天皇の侍臣。景行天皇が日本武尊東征の戦跡を巡視した際に随行していたが、老齢の故をもって当地に留まった。その後、イワカムツカリの子孫は「高橋朝臣」の姓を賜り、天武12年(684年)に社殿を建て、祖神を祀ったとされる。
「はし」の字が「椅」になっているが、神社名が高橋氏に因むことは間違いないだろう。日本武尊が祀ったという国常立尊などは「記・紀」にも登場するが、日本神話の根源神で、人格のない、いわば哲学的な神様である。古社でこの神を祀る神社はないと言われており、創建伝承は疑わしい。しかし、当神社の北、約1kmのところに「白旗の丘」があり、これは前方後円墳であって、日本武尊が旗を立てた場所だと伝えられる。「はし」という言葉は、柱(はしら)、階(きざはし)、梯子(はしご)と同語源で、長い木に関係があり、また、端(はし)とも関係がありそうである。旗を立てるということは、軍事的な意味が意味もあるだろうが、神社の根源的な形が「柱を立てる」ことであったという説もあるから、当地が古くから聖地だったのではないだろうか。
なお、イワカムツカリは景行天皇に随って安房国に来たとき、堅魚と蛤を膾に調理して献上したところ、天皇は大変喜ばれ、以来、イワカムツカリの子孫が宮中の大膳職を世襲したという。このことから、イワカムツカリは料理の神様としても信仰されている。因みに、栃木県を中心にした地方食である「しもつかれ」は、「酢憤(すむつかり)」が訛ったものらしい。
長元2年(1029年)、境内に井戸を掘ったところ、大きな鯉が出たため、霊魚として宮中に献上した。これは霊異であるとして「日本一社禁鯉宮」の勅額を賜った。以来、氏子は鯉は食べず、鯉の絵のついた器物を使わないという。現在でも、鯉を食べないだけでなく、5月に鯉のぼりも立てないらしい。よって、当社の別名を「鯉の明神様」という。
中世以降、(下総)結城氏の篤い崇敬を受けたが、結城合戦(1440年)の戦火に遭い、社殿は大破し、古文書・宝物類も散逸した。しかし、その後も修理を重ね、現在の社殿は平成8年に建て替えられたものであるという。


「延喜式内 高椅神社」のHP

栃木県神社庁のHPから(高椅神社)


写真1:「高椅神社」境内入口。社号標は「延喜式内 縣社高椅神社」


写真2:楼門(明和7年:1770年再建)は栃木県指定建造物(文化財)。その前の銅板張りの鳥居も立派。笠木の反りが特徴的。


写真3:社殿。扁額は「正一位高橋大明神」となっている。


写真4:神社の南にある「鯉の明神池(千年池)」
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天竺山 尊蓮院 龍尾寺

2012-07-14 23:51:29 | 寺院
天竺山 尊蓮院 龍尾寺(てんじくさん そんれんいん りゅうびじ)。
場所:千葉県匝瑳市大寺1856。JR総武本線「八日市場」駅付近から、県道116号(横芝山武線)を北上、約6km。駐車場あり。
寺伝によれば、開創は斉明天皇7年(661年)。旱魃の折に釈命上人が降雨の修法を行い、これに応じて雨を降らせた小龍が龍王の怒りを買い、身を3つに引き裂かれて、頭、胴(腹)、尾がそれぞれ落ちたところの寺を「龍角寺」、「龍腹寺」、「龍尾寺」と名づけたという伝承があるが、当寺では和銅2年(709年)のことであるとする。また、大同2年(807年)には弘法大師(空海)が来山し、現在も手洗水として使われている井戸を掘った。この井戸の水は、洗眼すると眼病にも効能があるという。こうしたことから、七堂伽藍を備えた大寺となったが、南北朝時代の建徳元年・応安3年(1730年)に火災に遭って堂塔ことごとく消失したとされる。なお、境内に残る板碑には応安6年(1373年)の銘があり、寺伝が正しいとすると、焼失後も(元のままとは言えないまでも)比較的早く再建されたのではないかと思われる。現在は真言宗智山派に属し、本尊は釈迦如来。
「龍」の字をつけた寺院の伝説を共有する3つの寺院のうち、「龍角寺」と「龍腹寺」は天台宗、当寺は真言宗と異なっている。長い間にはいろいろ事情もあろうから、このことはあまり大したことではないと思う。しかし、「龍角寺」と「龍腹寺」は印旛沼を挟んで直線距離で約8kmの距離だが、「龍腹寺」と当寺とは30km以上も離れているということは注目されてよいと思う。
「龍角寺」が発掘の結果、7世紀後半頃まで遡る古代寺院であったことが判明したが、実は当寺も「(八日市場)大寺廃寺」といわれる8世紀初め頃の古代寺院の後身ではないかと考えられている。そもそも「大寺」というのは古代の官寺の一般名詞であるとされる。こうした古代寺院同士のネットワークが古くから存在したのではないかとも思われる。なお、当寺の南、約4kmのところに式内社「老尾神社」(2012年5月12日記事)があることも偶然ではないと思う。因みに、更にその南、約9kmで九十九里浜に出るが、そこは横芝光町尾垂(おだれ)という場所である。現在は合併により山武郡になったが、旧・匝瑳郡光町(即ち旧・下総国に属する。)尾垂であって、かの雨を降らせた龍が天に昇るとき、尾が垂れた場所であることから、その地名となったという。


「ちばの観光まるごと紹介」のHPから(龍尾寺)

匝瑳市のHPから(大寺の龍尾寺)


写真1:「龍尾寺」入口。「関東三龍之寺」という表示も見える。


写真2:朱塗りの山門


写真3:手洗水は「弘法大師手鑿の井戸」から引いているという。


写真4:本堂。灯篭にも龍が巻きついている。


写真5:境内にある板碑。阿弥陀如来の種字、梵字で「キリーク」と刻されている。匝瑳市指定有形文化財。


写真6:本堂の西側にある朱塗りの小祠。弁天祠かと思われる。これも水に関わるものだろう。
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玄林山 龍腹寺

2012-07-07 23:30:42 | 寺院
玄林山 龍腹寺(げんりんさん りゅうふくじ)。
場所:千葉県印西市竜腹寺626。北総鉄道北総線「印旛日本医大前」駅西側から県道65号線(佐倉印西線)を北西に約2km。駐車場有り。
寺伝によれば、空海(弘法大師)の上奏を受けた平城天皇の勅願により、大同2年(807年)、空海の弟子である慈観上人を開山として創建された。当初は「慈霊山 延命院 勝光寺」と称したが、旱魃の折、釈命上人の降雨の祈祷に応じて雨を降らせた小龍が龍王の怒りを受けて身を3つに引き裂かれ、その胴(腹)が落ちてきたところであるとされ、以来「天竜山 龍腹寺」と称するようになったという。「龍角寺」に伝わる伝説(前項2012年6月30日記事参照)につながるものだが、当寺では延喜17年(917年)のできごとであるとする。伝承には多少の異動があり、釈命上人が天平年間(729~748年)に創建したともいい、元は「龍福寺」であったのを「龍腹寺」に改めたともいう。元は七堂伽藍を備え、寺中に25坊、管下の寺院は70ヶ寺を数える巨刹であったといわれ、保安3年(1122年)に国司千葉常重が講堂を再建した縁で、以来千葉氏が大旦那となって庇護したが、その後は寺勢も次第に衰えた。時代は大幅に下るが、第二次大戦後、戦災を受けた東京・深川不動堂再建に当たり、当寺の地蔵堂が移設され(売り渡され)てしまったという。
現在は天台宗の寺院で、本尊は薬師如来という。空海を開基とするなら真言宗であるはずであるが、いつ天台宗に改宗したのか不明。また、「玄林山」という山号もいつそうなったのかわからない。ただ、境内の梵鐘(写真4)は南北朝時代のものとされ、そこには「玄林山 龍腹寺」と記されているので、その頃には既に現在の山号寺号になっていたことがわかる。
あくまでも私見だが、「慈霊山 延命院 勝光寺」という名は如何にも地蔵菩薩に因んだもののように思われ、そうすると伝承で言うほどには古くはない気もする(地蔵菩薩は釈迦入滅後から弥勒菩薩出現までの間に衆生を救う役割を持つため、末法思想が流行した中世以降ではないかと思われる。)。ただし、当寺の北西約4kmのところに「木下別所廃寺跡」という古代寺院遺跡があることを考えると、そうした古代寺院の遺風を伝えるものかもしれない。


写真1:「龍腹寺」本堂入口。当寺は現在無住らしく、手前にある門は施錠されている。


写真2:仁王門。元は、左が慈覚大師(円仁:天台宗第3世座主)、右が丹慶(?)の作で、一夜にして建立されたので乳がなく、「無乳仁王尊」と呼ばれ、乳に関する祈願を叶えたという。


写真3:延命地蔵堂


写真4:梵鐘。南北朝時代のものと推定され、県指定有形文化財。


写真5:境内の日枝神社
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