健田須賀神社(たけだすがじんじゃ)。
場所:茨城県結城市結城195。JR水戸線「結城」駅の北、約500m。駐車場なし。
当神社は、明治3年、現在地に鎮座していた「須賀神社」に式内社「健田神社」を合祀し、「健田須賀神社」としたもの。
社伝によれば、「健田神社」は、元は現在地より約2km東南にあった。旧地は、東に霊峰・筑波山を望み、古代人が日の出を見て暦を察する祭祀の場所であったとされる。神社としての創建の時期は不明であるが、結城の国造となった竹田臣の一族が、その祖神である武渟川別命(タケヌナカワワケ)を祀ったものという。タケヌナカワワケは、崇神天皇の命により派遣された四道将軍の1人。孝元天皇の孫に当たり、「常陸国風土記」にもその名が見える。したがって、ヤマト政権による東国平定の守護神として重要視され、式内社となったと考えられる。しかし、その後は次第に衰退したようで、宝暦14年(1764年)には曹洞宗「乗国寺」(結城市小塙)の境内に遷座した。明治に入り、神仏分離令により「須賀神社」に合祀されることになったものである。
「須賀神社」は、元は「天王宮」と呼ばれ、結城家初代朝光が仁治3年(1242年)に尾張国「津島神社」(式内社「国玉神社」論社。全国約3千社あるとされる津島神社・天王社の総本社)から勧請されたもの。祭神は牛頭天王であったが、神仏分離令により須佐之男命(スサノオ)に改めた。結城城の鬼門除けの神として結城家から篤い信仰を受けた。特に、康永2年(1343年)に結城家7代直朝が「結城七社」を定めた際、当神社が結城108郷の総社とされ、隆盛を極めたという。
健田須賀神社のHP
玄松子さんのHPから(健田須賀神社)
写真1:「健田須賀神社」境内入口。地図では南側に長い参道があったように思えるが、現在は北側から入る。社号標は「縣社 健田須賀神社」
写真2:社殿(東向き)
写真3:境内の「十二社」。結城地区の主要な神社である「結城七社」のうち当神社を除く6社と、香取・松尾・羽黒・三峯・白峯・足尾の6社の合計12社を祀る。「結城七社」は北斗七星に因むもので、特に勝負事に御利益があるという。
場所:茨城県結城市結城195。JR水戸線「結城」駅の北、約500m。駐車場なし。
当神社は、明治3年、現在地に鎮座していた「須賀神社」に式内社「健田神社」を合祀し、「健田須賀神社」としたもの。
社伝によれば、「健田神社」は、元は現在地より約2km東南にあった。旧地は、東に霊峰・筑波山を望み、古代人が日の出を見て暦を察する祭祀の場所であったとされる。神社としての創建の時期は不明であるが、結城の国造となった竹田臣の一族が、その祖神である武渟川別命(タケヌナカワワケ)を祀ったものという。タケヌナカワワケは、崇神天皇の命により派遣された四道将軍の1人。孝元天皇の孫に当たり、「常陸国風土記」にもその名が見える。したがって、ヤマト政権による東国平定の守護神として重要視され、式内社となったと考えられる。しかし、その後は次第に衰退したようで、宝暦14年(1764年)には曹洞宗「乗国寺」(結城市小塙)の境内に遷座した。明治に入り、神仏分離令により「須賀神社」に合祀されることになったものである。
「須賀神社」は、元は「天王宮」と呼ばれ、結城家初代朝光が仁治3年(1242年)に尾張国「津島神社」(式内社「国玉神社」論社。全国約3千社あるとされる津島神社・天王社の総本社)から勧請されたもの。祭神は牛頭天王であったが、神仏分離令により須佐之男命(スサノオ)に改めた。結城城の鬼門除けの神として結城家から篤い信仰を受けた。特に、康永2年(1343年)に結城家7代直朝が「結城七社」を定めた際、当神社が結城108郷の総社とされ、隆盛を極めたという。
健田須賀神社のHP
玄松子さんのHPから(健田須賀神社)
写真1:「健田須賀神社」境内入口。地図では南側に長い参道があったように思えるが、現在は北側から入る。社号標は「縣社 健田須賀神社」
写真2:社殿(東向き)
写真3:境内の「十二社」。結城地区の主要な神社である「結城七社」のうち当神社を除く6社と、香取・松尾・羽黒・三峯・白峯・足尾の6社の合計12社を祀る。「結城七社」は北斗七星に因むもので、特に勝負事に御利益があるという。