瑞甕山 根本寺(ずいおうさん こんぽんじ)。
場所:茨城県鹿嶋市宮中2682。「鎌足神社」(前項)の北東、約20mのところを右折(南東へ)、約30m。駐車場有り。かなり狭い道路なので注意。
寺伝によれば、推古天皇21年(613年)、聖徳太子が勅を奉じて創建された勅願寺であるという。これが真実ならば、日本でも最も古い寺の1つだろう。開祖は高麗の恵潅大僧正で、本尊は薬師如来。元は三論宗で、その後は法相宗、天台宗と転じ、建久2年(1191年)、鎌倉幕府により再興され、2度目の蒙古襲来(「弘安の役」、1281年)に際しては、後宇多天皇の勅命により戦勝を祈願した。 康永年間(1342~44年)、北朝の光明天皇の勅を奉じて教外得蔵和尚が入山して堂宇を修営し、臨済宗に改めた。江戸時代には、徳川幕府から寺領100石を給されるなど栄えたが、水戸藩の尊王攘夷派らが筑波山で挙兵した「天狗党の乱」(元治元年:1864年)の際に兵火に遭い、堂宇は全て焼失した。現在の本堂は昭和56年の再建。現在は臨済宗妙心寺派に属する。
なお、上記の通り、徳川幕府から寺領100石を給されていたが、元々「鹿島神宮」から分けられたもので、次第に当寺に渡らなくなっていた。このため、21世住職の仏頂和尚が江戸に出て、「鹿島神宮」との間に訴訟を起こした。そのとき、仏頂和尚が江戸で居住していたのが深川の「臨川寺」(現・東京都江東区清住)で、松尾芭蕉が住んでいた「芭蕉庵」の直ぐそばだった。その縁で、芭蕉は仏頂和尚から禅の指導を受け、仏頂和尚が鹿島に戻った後、月見の誘いを受けて貞享4年(1687年)に当寺を訪ねた。この時に書かれた紀行文が「鹿島紀行(鹿島詣)」で、あいにく雨で月見はできなかったのだが、当寺で2句を詠んでおり、その句碑が境内に建てられている。
鹿嶋市のHPから(根本寺)
写真1:「根本寺」山門
写真2:本堂
写真3:松尾芭蕉の句碑 「月はやし 梢は 雨を持ちながら」
写真4:手前左に松尾芭蕉の句碑 「寺に寝て まこと顔なる 月見かな」、奥に本堂
場所:茨城県鹿嶋市宮中2682。「鎌足神社」(前項)の北東、約20mのところを右折(南東へ)、約30m。駐車場有り。かなり狭い道路なので注意。
寺伝によれば、推古天皇21年(613年)、聖徳太子が勅を奉じて創建された勅願寺であるという。これが真実ならば、日本でも最も古い寺の1つだろう。開祖は高麗の恵潅大僧正で、本尊は薬師如来。元は三論宗で、その後は法相宗、天台宗と転じ、建久2年(1191年)、鎌倉幕府により再興され、2度目の蒙古襲来(「弘安の役」、1281年)に際しては、後宇多天皇の勅命により戦勝を祈願した。 康永年間(1342~44年)、北朝の光明天皇の勅を奉じて教外得蔵和尚が入山して堂宇を修営し、臨済宗に改めた。江戸時代には、徳川幕府から寺領100石を給されるなど栄えたが、水戸藩の尊王攘夷派らが筑波山で挙兵した「天狗党の乱」(元治元年:1864年)の際に兵火に遭い、堂宇は全て焼失した。現在の本堂は昭和56年の再建。現在は臨済宗妙心寺派に属する。
なお、上記の通り、徳川幕府から寺領100石を給されていたが、元々「鹿島神宮」から分けられたもので、次第に当寺に渡らなくなっていた。このため、21世住職の仏頂和尚が江戸に出て、「鹿島神宮」との間に訴訟を起こした。そのとき、仏頂和尚が江戸で居住していたのが深川の「臨川寺」(現・東京都江東区清住)で、松尾芭蕉が住んでいた「芭蕉庵」の直ぐそばだった。その縁で、芭蕉は仏頂和尚から禅の指導を受け、仏頂和尚が鹿島に戻った後、月見の誘いを受けて貞享4年(1687年)に当寺を訪ねた。この時に書かれた紀行文が「鹿島紀行(鹿島詣)」で、あいにく雨で月見はできなかったのだが、当寺で2句を詠んでおり、その句碑が境内に建てられている。
鹿嶋市のHPから(根本寺)
写真1:「根本寺」山門
写真2:本堂
写真3:松尾芭蕉の句碑 「月はやし 梢は 雨を持ちながら」
写真4:手前左に松尾芭蕉の句碑 「寺に寝て まこと顔なる 月見かな」、奥に本堂