北須賀山 寿福院 満願寺(きたすがさん じゅふくいん まんがんじ)。
場所:茨城県稲敷市阿波崎177。国道125号線「下阿波」交差点から東へ約2.6km。駐車スペース有り。
寺伝によれば、天平12年(740年)に行基が開山、大同6年(811年)に最澄(伝教大師)が天台宗に改宗して堂宇の再建などを行ったという。承久2年(1220年)には、「鹿島神宮」参拝の折に北条政子が当寺院に立ち寄り、夫・源頼朝の冥福のため延命地蔵坐像を運慶に彫らせて寄進した。歴代領主である土岐氏、佐竹氏、蘆名氏などに庇護されたが、天正18年(1590年)、兵火により焼失。その後、「江戸崎不動院」(前項)の末寺となり、文禄4年(1595年)に天海大僧正の法孫・音海大僧都により現在地に移転、再興された(元は現在地の東、現・阿波崎字中妻にあった。)。「江戸崎不動院」の多くの末寺の中で第二座の地位にあり、源氏ゆかりの寺院として徳川家康から朱印地20石の寺領が安堵されていた。現在は天台宗の寺院で、本尊は釈迦如来。この本尊は、高さ18.6cmの銅製釈迦如来立像で、飛鳥時代の7世紀後半頃の作とされ、茨城県内で最も古い仏像であるという(茨城県指定重要文化財)。
茨城県教育委員会のHPから(釈迦如来立像)
写真1:「満願寺」境内入口、寺号標(「天台宗 北須賀山 満願寺」)
写真2:仁王門。元禄4年(1691年)建立。
写真3:金剛力士像(吽形)。何だか庶民的というか、親しみが持てる感じ。仁王門建立の頃、阿波村の仏師・木村万之丞の作という。
写真4:境内の石像など。
写真5:薬師堂。背後の丘の上はゴルフ場になっていて、静寂を破って時折ゴルフボールを打つ音が聞こえてくる。
写真6:同上、横から見る。梁行4間のうち前方2間は外壁が無く、吹き放しになっている。
写真7:薬師堂の中を覗いてびっくり。大きな如来坐像が安置されている。印相は人差し指を曲げた定印で、薬壺を持っていない。なので、これは多分、阿弥陀如来像で、その後ろにある厨子?に薬師如来像が安置されていると思われる。
写真8:向かって左が大黒堂、右が大師堂。
写真9:延命地蔵堂。長寿のほか、安産・子育てにも御利益があるとして参詣者が多かったという。
場所:茨城県稲敷市阿波崎177。国道125号線「下阿波」交差点から東へ約2.6km。駐車スペース有り。
寺伝によれば、天平12年(740年)に行基が開山、大同6年(811年)に最澄(伝教大師)が天台宗に改宗して堂宇の再建などを行ったという。承久2年(1220年)には、「鹿島神宮」参拝の折に北条政子が当寺院に立ち寄り、夫・源頼朝の冥福のため延命地蔵坐像を運慶に彫らせて寄進した。歴代領主である土岐氏、佐竹氏、蘆名氏などに庇護されたが、天正18年(1590年)、兵火により焼失。その後、「江戸崎不動院」(前項)の末寺となり、文禄4年(1595年)に天海大僧正の法孫・音海大僧都により現在地に移転、再興された(元は現在地の東、現・阿波崎字中妻にあった。)。「江戸崎不動院」の多くの末寺の中で第二座の地位にあり、源氏ゆかりの寺院として徳川家康から朱印地20石の寺領が安堵されていた。現在は天台宗の寺院で、本尊は釈迦如来。この本尊は、高さ18.6cmの銅製釈迦如来立像で、飛鳥時代の7世紀後半頃の作とされ、茨城県内で最も古い仏像であるという(茨城県指定重要文化財)。
茨城県教育委員会のHPから(釈迦如来立像)
写真1:「満願寺」境内入口、寺号標(「天台宗 北須賀山 満願寺」)
写真2:仁王門。元禄4年(1691年)建立。
写真3:金剛力士像(吽形)。何だか庶民的というか、親しみが持てる感じ。仁王門建立の頃、阿波村の仏師・木村万之丞の作という。
写真4:境内の石像など。
写真5:薬師堂。背後の丘の上はゴルフ場になっていて、静寂を破って時折ゴルフボールを打つ音が聞こえてくる。
写真6:同上、横から見る。梁行4間のうち前方2間は外壁が無く、吹き放しになっている。
写真7:薬師堂の中を覗いてびっくり。大きな如来坐像が安置されている。印相は人差し指を曲げた定印で、薬壺を持っていない。なので、これは多分、阿弥陀如来像で、その後ろにある厨子?に薬師如来像が安置されていると思われる。
写真8:向かって左が大黒堂、右が大師堂。
写真9:延命地蔵堂。長寿のほか、安産・子育てにも御利益があるとして参詣者が多かったという。