神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

北須賀山 寿福院 満願寺

2022-06-25 23:34:57 | 寺院
北須賀山 寿福院 満願寺(きたすがさん じゅふくいん まんがんじ)。
場所:茨城県稲敷市阿波崎177。国道125号線「下阿波」交差点から東へ約2.6km。駐車スペース有り。
寺伝によれば、天平12年(740年)に行基が開山、大同6年(811年)に最澄(伝教大師)が天台宗に改宗して堂宇の再建などを行ったという。承久2年(1220年)には、「鹿島神宮」参拝の折に北条政子が当寺院に立ち寄り、夫・源頼朝の冥福のため延命地蔵坐像を運慶に彫らせて寄進した。歴代領主である土岐氏、佐竹氏、蘆名氏などに庇護されたが、天正18年(1590年)、兵火により焼失。その後、「江戸崎不動院」(前項)の末寺となり、文禄4年(1595年)に天海大僧正の法孫・音海大僧都により現在地に移転、再興された(元は現在地の東、現・阿波崎字中妻にあった。)。「江戸崎不動院」の多くの末寺の中で第二座の地位にあり、源氏ゆかりの寺院として徳川家康から朱印地20石の寺領が安堵されていた。現在は天台宗の寺院で、本尊は釈迦如来。この本尊は、高さ18.6cmの銅製釈迦如来立像で、飛鳥時代の7世紀後半頃の作とされ、茨城県内で最も古い仏像であるという(茨城県指定重要文化財)。


茨城県教育委員会のHPから(釈迦如来立像)


写真1:「満願寺」境内入口、寺号標(「天台宗 北須賀山 満願寺」)


写真2:仁王門。元禄4年(1691年)建立。


写真3:金剛力士像(吽形)。何だか庶民的というか、親しみが持てる感じ。仁王門建立の頃、阿波村の仏師・木村万之丞の作という。


写真4:境内の石像など。


写真5:薬師堂。背後の丘の上はゴルフ場になっていて、静寂を破って時折ゴルフボールを打つ音が聞こえてくる。


写真6:同上、横から見る。梁行4間のうち前方2間は外壁が無く、吹き放しになっている。


写真7:薬師堂の中を覗いてびっくり。大きな如来坐像が安置されている。印相は人差し指を曲げた定印で、薬壺を持っていない。なので、これは多分、阿弥陀如来像で、その後ろにある厨子?に薬師如来像が安置されていると思われる。


写真8:向かって左が大黒堂、右が大師堂。


写真9:延命地蔵堂。長寿のほか、安産・子育てにも御利益があるとして参詣者が多かったという。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖医王山 不動尊院 東光教寺

2022-06-18 23:38:18 | 寺院
聖医王山 不動尊院 東光教寺(せいいおうざん ふどうそんいん とうこうきょうじ)。通称:江戸崎不動尊、願満不動尊。
場所:茨城県稲敷市江戸崎甲2617。茨城県道49号線(江戸崎新利根線)「江戸崎中入口」交差点から北東へ約60m。駐車場有り。なお、「江戸崎中入口」交差点から北西へ(急な登り坂)約130m進んで右折(北東へ)すると堂宇の前に行けるが、駐車場はその先に進んで本堂の裏手に回り込む(ちょっと分かりにくい。)。
寺伝によれば、嘉祥元年(848年)、円仁(慈覚大師。第3代天台座主)の開山とされる。文明2年( 1470年)に、江戸崎城主・土岐景成を壇越として、天台宗総本山「比叡山 延暦寺」の塔頭「無動寺」の僧・幸誉法印が中興した(幸誉が開山したとの説も有力。)。戦国時代の戦火で荒廃するが、天正18年(1590年)に江戸崎城主・土岐治英が佐竹義宣と戦って滅ぶと、佐竹氏の家臣(与力)であった蘆名盛重が新たな江戸崎城主となり、天正20年(1591年)には会津黒川城稲荷堂(現・福島県会津若松市、「鶴ヶ城稲荷神社」)の僧・随風を招き、当寺院を再興した。随風は当寺院に約17年間居住したとされるが、武蔵国の「無量寿寺 北院」(後の「星野山 喜多院」。現・埼玉県川越市)の住持と兼任し、天海と名乗った。その後、南光坊・天海(慈眼大師)は100歳以上の長寿を保ち、徳川家康・秀忠・家光に仕え、江戸幕府の宗教政策に大きな影響を与えた。こうしたことから、慶長7年(1602年)、江戸崎は幕府直轄地とされ、当寺院は家康から朱印地150石が与えられた。その後、「関東八檀林」の筆頭として、800石の寺領・10万石の格式を受けるなど、隆盛を極めた。かつては、隣接する現・「江戸崎中学校」敷地に大本堂があり、境内5ヵ寺・境外4ヵ寺のほか、末寺・門徒114ヵ寺を擁していたとされる。明治9年(1876年)、仁王門と不動堂を残し、本堂以下を焼失。現在は天台宗に属し、本尊は円仁作と伝わる不動明王・両童子像で、織田信長による焼打ちまでは「無動寺」にあったものという。
蛇足:天海(慈眼大師)の前半生は詳細不明で、生年にも諸説あるが、天文5年(1536年)説が一般的で、寛永20年(1643年)没で数え年108歳になる。天海については、明智光秀と同一人物説が有名だが、当地には次のような伝承がある。即ち、土岐氏が領主のときには、当寺院の住持(院主)は、末寺のうち第一老「東光山 明王寺 圓密院」(現・稲敷市信太古渡)、第二老「北須賀山 壽福院 満願寺」(同・阿波崎。次項予定)、第三老「永平山 吉祥院 長福寺」(同・沼田)のいずれかから昇格就任するしきたりになっていた。ところが、新城主・蘆名盛重はこのしきたりを無視し、会津から連れてきた随風(天海)を住持にした。このため、第一老「圓密院」を中心に末寺門徒の不満が高まった。ところで、蘆名盛重というのは、佐竹氏第19代当主・佐竹義宣の実弟で、会津・蘆名氏の養子に入って当主になった人物である。しかし、伊達氏に攻められて会津から常陸に逃げてきて、佐竹氏から江戸崎城を与えられた、ということになる。ところが、佐竹氏が慶長7年(1602年)に出羽国秋田郡(現・秋田県)に転封になると、蘆名氏もこれに従って江戸崎を去った(天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に出陣して不在となったときという説もある。)。これを好機として、天海に不満を持っていた門徒らが当寺院に押し寄せ、天海を殺害しようとした。その物音に気付いた天海は、寝間着・裸足のまま裏門から逃げ出し、西にある「吉祥院」へ向かって駆け出した。その途中の坂で恐怖のため放屁したとして、後にその坂は「屁っぴり坂」と呼ばれるようになった。そして、何とか「吉祥院」に逃げ込み、空井戸に隠れて難を逃れたと伝えられる。さて、蘆名盛重は何故、天海を当寺院の住持にしたのか。天海の出自はよくわかっていないが、「東叡山開山慈眼大師縁起」によれば、陸奥国会津郡高田郷(現・福島県会津美里町)で生まれ、蘆名修理太夫平盛高の一族であるとされる。また、幼名を蘆名兵太郎といった、ということから、元は坂東・桓武平氏の三浦氏の流れを汲む蘆名氏の一族に属したようである(蘆名盛高は蘆名氏第13代当主。盛重はその7代くらい後になる。)。なお、天海は祈雨(雨乞い)を成功させるなど、単に蘆名氏の一族だから、ということだけでなく、それなりに法力もあったようであり、その後の活躍を見れば、政治力もあったということなのだろうが・・・。


写真1:「不動尊院」境内入口、寺号標(北関東三十六不動尊 第三十番霊場 江戸崎不動尊院」)


写真2:仁王門。中の金剛力士像は関東地方最大級のものという。手前の石碑は江戸崎八景の「醫王山の暮雪」。


写真3:仁王門を潜って、急な石段を上る。この石段は「長寿の坂」というそうな。


写真4:境内正面に本堂(祈願殿)


写真5:同上


写真6:本堂向かって左前に「願満不動尊」の銅像


写真7:本佛殿(回向堂)。 三尊一仏の釈迦如来像が安置されているとのこと。


写真8:稲荷堂


写真9:本堂前から見える小野川
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

龍華山 慈尊院 安隠寺

2022-06-11 23:34:34 | 寺院
龍華山 慈尊院 安隠寺(りゅうげさん じそんいん あんのんじ)。
場所:茨城県稲敷市阿波961-1。「大杉神社」(前項)境内西側に隣接。駐車場なし。
「大杉神社」(前項)に隣接し、その別当寺として実質一体だったのだから、少なくとも近世までの歴史は「大杉神社」と同じのはずだが、別伝がある。元々、巨杉自体を対象とする自然信仰があったのかもしれないが、まず、神護景雲元年(767年)、当地を訪れた勝道上人が疫病に苦しむ村人を見て、巨杉の下に自作の霊神不動尊を祀ったのを創建とする。そして、延暦15年(796年)、天台宗総本山「比叡山 延暦寺」(現・滋賀県大津市)の僧・快賢阿闍梨が蝦夷の賊長・悪路王の降伏を祈願するため、最澄(伝教大師)の作である「四魔降伏の不動明王像」と天竺の昆首羯摩の作である「弥勒菩薩像」を本尊として当寺院を開基した。この国家安寧祈祷の功により神領を賜り、その後、当寺院境内に「大杉明神」の社殿が建立されたという。つまり、当寺院の建立が先で、その後に境内社として「大杉神社」が造立されたが、後に「大杉神社」の名声が高まり、主客が逆転したということらしい。神仏混淆だったので、どちらが主か、ということでもないのだが、「大杉神社」の方でも勝道上人の創建としており、当寺院も江戸時代には天海大僧正が日光山座主となったため「日光山 輪王寺」(現・栃木県日光市)直兼帯寺院となっている(本末制度上は「逢善寺」(2022年5月28日記事)の末寺)ところから、日光山の修験の影響が窺われる。それは、文治年間(1185~1189年)、常陸坊海存が当寺院の僧として仕えており、後に源義経の家臣となったとされることにも表れていると思う(「海存」は一般に「海尊」と表記されるため、以下「海尊」とする。なお、海尊は義経らの都落ちに同行し、衣川の戦いでは山寺に参拝に出かけていて生き延びたとされるが、その後の消息は不明。)。海尊は巨体・紫髭・碧眼・鼻高であったとされ、最後の消息が不明であることなどから、本来「大杉明神」の眷属であり、平氏の専横を憎んで遣わされたとの伝説となり、姿形から天狗と同一視された(背景には、巨木(特に大杉)には天狗が棲むという全国共通の認識があったと思われる。)。更に、海尊には、源頼朝の追手からの逃亡中に山伏から貰った「赤い魚」を食べて長寿になったとか、枸杞(クコ)の実を常食していたため不老不死になったという伝説もできて、疫病封じの信仰も生まれたようだ。江戸時代、関東地方を中心に「大杉神社」の分社が多数創建されたが、疱瘡(天然痘)が流行したときに「大杉明神」の神面(天狗面)を借り出して祀ると疱瘡が収まったことによって各地に勧請されたものらしい。あまり遠くの村に神面を貸すと返してこないというので、「大杉神社」では9里(約36km)以内の村に限ったが、遠くても9里以内と偽る例が多く、「あんばの馬鹿九里」などといわれたとのこと。
明治時代初頭の神仏分離により当寺院は廃寺となったが、明治11年に再興された。現在は天台宗の寺院で、本尊は弥勒菩薩。なお、本堂、木造弥勒仏坐像、木造不動明王立像が稲敷市指定文化財となっている。


写真1:「安穏寺」境内入口。寺号標(「天台宗 龍華山 安隠寺」)


写真2:「常陸坊海存」石塔


写真3:本堂。境内は桜の名所となっているとのこと。


写真4:彩色が薄れてしまっているが、彫刻は精緻で多彩。


写真5:大師堂?


写真6:本堂向かって左手の小堂。「茨城百八地蔵霊場の第75番札所」なので、延命地蔵菩薩を安置していると思うのだが、石像の二臂半跏思惟像で、月待塔によくあるような如意輪観音菩薩ではないかと思う。


写真7:本堂裏の石造物。


写真8:左・地蔵菩薩石像、右手前・法華経の題目碑、右奥・大黒堂
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大杉神社(茨城県稲敷市)

2022-06-04 23:35:45 | 神社
大杉神社(おおすぎじんじゃ)。通称:あんばさま。
場所:茨城県稲敷市阿波958。国道125号線「大杉神社前」交差点の北側。駐車場は、交差点から北東へ約50m。
社伝等によれば、「常陸国風土記」行方郡の条にいう「安婆之嶋」は現・当地の台地を指し、そこに生えていた巨杉は関東平野東部に広がっていた巨大な内海である所謂「香取海」の海上交通の目印として信仰されていた。神護景雲元年(767年)、勝道上人が「香取海」を通って下野国日光(現・栃木県日光市)に向かう途中で暴風に遭い、不動尊に祈願すると「三輪明神」(大和国一宮「大神神社」の祭神・大物主神)が現れ、当地に無事上陸できた。そこで、巨杉を神籬(ひもろぎ)として、その下に祠を建てて「三輪明神」の神像を祀ったのを創建とする。一般に、「三輪明神」こと大物主神は杉の巨木に下りてくる(酒の神でもあって、新酒ができたときに酒蔵に杉玉を下げるのは、これに因む。)という伝承があるので、当初は巨杉自体を信仰対象とする自然崇拝だったのを、「三輪明神」に後付けした可能性があると思われる。延暦24年(805年)には別当寺として「安穏寺」(次項予定)が開基され、以後、神仏混淆となる。中世には、地名から「安場大杉大明神」など称され、疫病除けの御利益ありとして信仰を集めた。「応仁の乱」(1467~1477年)のとき神領を奪われるが、慶長年間(1596~1615年)には徳川幕府より「安穏寺」に領地20石が安堵された。また、常陸国が大旱魃となった折り、現・稲敷市江戸崎の「不動院」(「江戸崎不動尊」)住持だった僧・天海(後に大僧正となり、慈眼大師と諡号された。)が「大杉明神」を龍神として勧請し、大雨を降らせたとして、天海が「安穏寺」住職も兼任することとなり、以後、「安穏寺」は「日光山 輪王寺」の直兼帯寺院となったという。こうしたことから、疫病除けや水上交通の守り神として信仰圏が広がり、関東を中心に約670社あるという「大杉神社」(通称:あんばさま)の総本社となったとされる。明治時代の神仏分離により「安穏寺」は廃寺となり、明治6年に村社、後に郷社に列した。現在の主祭神は倭大物主櫛甕魂命(ヤマトノオオモノヌシクシミカタマ。大物主神の別名)。
なお、御神木は、「太郎杉」が寛政10年(1878年)に西隣の旧・神宮寺村で起きた火災の飛び火で焼失、現在「次郎杉」(幹周り約7.5m、樹高約40m。社殿の背後・駐車場の奥)と「三郎杉」(幹周り約7.5m、樹高約28m。社殿西側)がある。また、境内社として「大国神社」、「稲荷神社」、「天満宮」、「白山神社」などがあって様々な御利益に応え、さながら祈願のデパートのようになっているが、中でも異色なのは「勝馬神社」だろう。古名を「馬櫪社(ばれきしゃ)」といい、祭神は不明ながら「厩神」として民俗的な馬の守護神とされる。平安時代、常陸国信太郡に兵部省所管の官営牧場「信太馬牧」(現・茨城県美浦村信太付近?)があり、そこに貞観4年(862年)に創祀されたという。平安時代末期に馬牧が廃絶した後、鎌倉時代に「大杉神社」境内に遷座したとされる。現・美浦村には日本中央競馬会(JRA)の美浦トレーニングセンターがあり、その関係者や競馬ファンなどが多く参拝に訪れるとのこと。
蛇足:天海大僧正については、明智光秀と同一人物説があるが、当神社の伝承では、織田信長と同一人物であるとする。信長は「本能寺の変」を生き延び、江戸崎城主・土岐氏の領地である常陸国東条荘(信太東荘)に僧として身を隠していた。その後、再び世に出るきっかけは上記の通りだが、当神社の社殿前にある一対の唐金灯籠は、元は上野「寛永寺」にあった江戸幕府第3代将軍・徳川家光の廟「大猷院」から移されたものとされ、それだけ将軍家との結び付きが強かった証という(以上、読売新聞(茨城版)2021年8月25日記事による。)。ただし、天海=信長とする根拠はよくわからない。因みに、土岐氏は美濃国(現・岐阜県南部)にルーツがあり、明智氏は土岐氏の支族に当たる。いづれせよトンデモ説の域を出ないと思われるが、天海=光秀というほうがまだしも理屈が通りそうだが、どうだろうか。


あんばさま総本宮「大杉神社」のHP


写真1:「大杉神社」大鳥居。鳥居の向かって左の天狗像を「ねがい天狗」、右を「かない天狗」とし、日本唯一の「夢むすび大明神」と称する。「大杉神社前」交差点に面している。天狗信仰については次項「安穏寺」で。


写真2:二の鳥居と石灯篭


写真3:悪縁切堂


写真4:麒麟門。社殿正面(南側)だが、こちらからは入れない。天海が「安穏寺」住職に就いて以来、「開かずの門」とされたという。石段下に「茨城百景 阿波の大杉神社」石碑がある。


写真5:拝殿


写真6:本殿


写真7:境内社・大国神社など。


写真8:三郎杉


写真9:境内社・稲荷神社(正一位立身出世最勝稲荷大明神)


写真10:境内社・勝馬神社(拝殿?)。中に神馬像がある。


写真11:同上、本殿


写真12:次郎杉。写真が小さくて見にくいが、鳥居の後ろにある。高さは他の杉とさほど変わらないが、幹回りが太い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする