神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

松崎神社(千葉県多古町)

2014-03-29 23:47:10 | 神社
松崎神社(まつざきじんじゃ)。
場所:千葉県香取郡多古町東松崎1747。県道127号線(多古山田線)と県道114号線(八日市場山田線)とぶつかるT字路から、県道127号線を西へ、約250m。駐車スペースあり。
社伝によれば、宝亀3年(772年)の創建とされ、祭神は倉稲魂命、邇邇芸命、大宮比売命。延暦16年(797年)に征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征伐の途中に参拝、戦勝を祈願したという。このとき、鏡1面及び征矢を献じ、木鼓1箇を奉納したと伝えられる。その後の戦乱により、鏡と征矢は失われたが、木鼓は現在も社宝として保存されている。長さ約3尺(90cm)、径約1尺5寸(45cm)で、鼓皮は桜の木皮を樹脂貼り付けてある、という。祭神が倉稲魂命であることから五穀豊穣の神であるとともに、この木鼓のせいか、歌舞音曲の神ともされる。なお、最近では、この木鼓は、実は酒樽として献上されたものではないかともいわれているらしい。
そのほか、社殿前にある公孫樹(イチョウ)の木は、弘仁年間(810~824年)に僧・空海(弘法大師)が諸国行脚の際に参拝し、上下逆さまに地に挿した公孫樹の杖が育ったものであるという、「空海の逆さ公孫樹」の伝説がある。また、坂上田村麻呂以来、武家諸侯の崇敬が篤く、源頼朝や徳川家康による社田の寄進があったり、徳川光圀(水戸黄門)が参詣したり等、逸話には事欠かない。こうしたことから、「坂東稲荷本宮」を称していたが、明治2年、地名を採って「松崎神社」と改めた。
こうした由緒ある神社であるが、古墳ファンには「北条塚古墳」の所在地として知られている。「北条塚古墳」(「東松崎2号墳」ともいう。)は、全長74m、前方幅45m、後円径36mという前方後円墳である。後円部の直径より前方部幅の方が大きく、6世紀中葉~後葉の築造と推定されている(千葉県県指定史跡)。当神社の創建時期の真偽は別として、古墳自体を信仰の対象としていることは明らかで、古墳の保存状態も良好。


多古町のHPから(松崎神社と北条塚古墳)



写真1:「松崎神社」鳥居。道路(県道)に接している。境内に入ると右手に、ご神木の杉の大樹がある。


写真2:同上、社殿。拝殿には「坂東稲荷宮」の扁額がかかっている。


写真3:同上、「空海の逆さ公孫樹」。説明板もある。


写真4:同上、社殿背後の小丘が「北条塚古墳」。写真の奥のところが古墳の括れ部分で、そこから上る。


写真5:「北条塚古墳」。ほぼ東西を向いており、西側が前方部。墳頂に小祠(「古峯神社」)がある。


写真6:括れ部分に石碑が立っている(写真左下)。奥が後円部(東側)
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柏熊古墳群

2014-03-22 23:46:13 | 古墳
柏熊古墳群(かしわくまこふんぐん)。
場所:千葉県香取郡多古町南玉造。千葉県道16号線(佐原八日市場線)沿い、ガソリンスタンド「ENEOS 柏熊SS(加藤本店)」付近から、向かい側の狭い道路に入る(東へ)。日蓮宗「妙法山 正岳寺」(住所:多古町南玉造3756)の北側から東側にかけて散在。駐車場なし。
柏熊古墳群は、栗山川と常磐川の合流点を見下ろす標高約35mの比較的狭い台地上に分布する古墳群で、前方後円墳2基、円墳8基が確認されている。中でも、柏熊8号墳と呼ばれる古墳は、通称「杓子塚(しゃくしつか)古墳」ともいい、全長71.5m、前方部幅20.5m、後円部径42.5m(現地の説明板では、全長82m、前方部幅24m、後円部径49mとなっている。)という大型の前方後円墳。「杓子」の名のとおり、後円部に比べて前方部が大きさ・高さとも小振りで、4世紀後半頃の築造と推定されている。出土した円筒埴輪は、千葉県内でも最古クラスという。


写真1:「正岳寺」前の坂道を上る途中にある「第六神社」鳥居。「柏熊7号墳」は、この上にある。


写真2:「第六神社」社殿。背後の円墳の裾部を削って建てられている。なお、「第六神社」は旧・南玉造村柏熊新田の鎮守で、「熊野大神」の末社とされ、祭神は高皇産霊神。由緒不詳ながら、元禄時代に当地が開拓されたときに勧請されたものとみられている。


写真3:「柏熊7号墳」。径32mの円墳


写真4:「柏熊5号墳」と「柏熊6号墳」。「第六神社」前から坂道を更に上って、突き当たりのT字路を左折(北へ)、すぐ。小道の右手が5号墳、左側が6号墳。それぞれ径約15mの円墳とされる。ひょっとすると、1つの前方後円墳かもしれない。


写真5:「柏熊5号墳」には地蔵堂などが建てられ、今も信仰の地となっている。


写真6:「柏熊8号墳」、通称「杓子塚古墳」。「5・6号墳」から北に約250m進んで左折(西へ)、更に約300m。民家の裏手の雑木林のようになっている。地図で見ると「正岳寺」の背後にあるが、崖で「正岳寺」側からは上れない。大きくて、全体像が掴み難いが、前方後円墳の形状がよく残っているようだ。


写真7:同上。比較的新しい石祠が祀られている。
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大塚古墳(千葉県香取市)

2014-03-15 23:51:49 | 古墳
大塚古墳(おおつかこふん)。
場所:千葉県香取市岩部字大塚1084-1。県道16号線(佐原八日市場線)と県道44号線(成田小見川鹿島港線)が交わる「岩部」交差点から、県道44号線を東に約600m。駐車場なし。
「大塚」という名の古墳は多く、また、塚の上あるいは塚に接して神社が建てられているケースも多い。香取市岩部(旧・栗源町)にある「大塚古墳」もその1つで、殆どの地図にも史跡等を示す「∴」マークとともに記されているが、発掘調査は行われておらず、自然地形の可能性もあるとのこと。千葉県文化財地図では方墳とされているが、きれいな円墳のようにも見える。現在は円形の森のようになっており、航空写真で測ってみると、森の部分の直径は約90m。もし、これが古墳なら千葉県内でもかなり大きい方墳(または円墳)だろう。「大塚古墳」の付近では、「大畑古墳」(奈良時代頃の土師器・須恵器出土)・「コジヤ古墳」(円墳。石棺出土。現在は消滅)もあり、古墳であってもおかしくはない。因みに、「大塚古墳」の少し東の「コジヤ遺跡」から陶製の「瓦当笵」が出土している。「瓦当笵」とは、瓦当面を作るのに使用する「型」のことだが、多くは木製であったために現在まで残ることが少なく、全国的にも極めて珍しいものらしい。「コジヤ遺跡」から出土したのは、軒丸瓦の「瓦当笵」で、中央に蓮の花を図案化した「有軸素弁八葉蓮華紋」が陰刻されており、その文様から奈良時代のものと推定されているという。古代には、瓦は寺院か官衙にしか使われておらず、さほど遠くないところに古代寺院があったとすれば、この辺りに古代寺院を建立するような有力豪族が居たということだろう。残念ながら、この「瓦当笵」の文様を有する軒丸瓦は未だ発見されていないとのこと。
なお、この「大塚古墳」には「金の機足(はたあし)」が埋められているという伝説があるらしい。「機足」というのがどういうものかよくわからないのだが、織機の一部だろうか? 「大塚古墳」脇に「大畑公会堂」があり、「大畑(おおばたけ)」という地名に由来するが、本来は「大機」であり、本来は織物を製作する技術者集団が居たのではないかともいわれているようだ。そうすると、この辺りには、有力な豪族の庇護の下、機織りや瓦焼きなどの工房があったのかもしれない。
ところで、当古墳?の南西約600mのところに鎮座する「祖波鷹神社」(場所:香取市岩部1064。栗源中学校の西側)は、その名の通り「香取神宮」の第一摂社「側高神社」(香取市大倉。前項参照)の分社と思われるが、長保2年(1000年)の創建と伝えられている。ここは「大伴氏の奥津城」との伝承もあるとのことで、中世に千葉氏の一族である岩部氏の居城「岩部城」もあった場所ともされる(「岩部城」は「栗源保育園」から「栗源小学校」を含む広い範囲にあったと考えられている。)。一説に、「岩部」という地名は、本来は「祝部」ではなかったか、ともいう。


写真1:「大塚古墳」。県道に面している。


写真2:現状は、雑木が繁った小山


写真3:祠に向う参道?


写真4:墳頂にある祠。神社名・祭神等不明
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側高神社(千葉県香取市)

2014-03-08 23:28:50 | 神社
側高神社(そばたかじんじゃ)。通称:側高様。
場所:千葉県香取市大倉1。国道356号線から、東関東自動車道(高架)と交差する辺りで(巨大な看板あり)、崖下を通るJR成田線の踏切を渡り、南へ道なりに約300m。駐車スペースあり。なお、東関東自動車道下り線の「佐原PA」の北側になるが、自動車の出口はない(駐車場に止めれば、徒歩では出られる。)。
社伝では神武天皇18年の創建とするが、これは下総国一宮「香取神宮」の創建時期と同じ。元は「香取神宮」の9摂社(境内3社・境外6社)のうちの第一摂社とされ、その所縁の深さが知られるが、不思議なことに祭神は古来から神秘として口にすることが許されず、俗に「言わず語らずの神」とされている。現在では「側高大神」としているが、一説に経津主命(「香取神宮」の祭神)の后神かともいう。
当神社が鎮座する場所は、古代の香取郡と海上郡の境界付近といわれ、「香取海」を見下ろす台地の端となっている。ここからは北東に常陸国一宮「鹿島神宮」まで望むことができたのかもしれない。祭神の正体を明らかにしないこと、四季の降水量を占う「四季の甕」、奇祭「髭撫祭(ひげなでまつり)」(香取市指定無形民俗文化財)など、不思議なことの多い神社である。


水郷佐原観光協会のHPから(側高神社)


写真1:「側高神社」境内入口。大きな社号標が建てられている。


写真2:社殿。本殿は寛文5年(1665年)の建立であるが、桃山時代の様式を伝え、千葉県の有形文化財に指定されている。


写真3:ご神木の「千年杉」(高さ35m、太さ7.4m)


写真4:石段脇の「四季の甕」。石段側から春、夏、秋、冬の甕となっており、夫々の甕の水量が四季の降水量を示すという。


写真5:東関東自動車道上り線「佐原PA」にある展望台からの眺め。茨城県潮来方面を望む(水面は利根川)。古代には「香取海」が広がっていただろうと思われる。
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返田神社

2014-03-01 23:02:41 | 神社
返田神社(かえだじんじゃ))。
場所:千葉県香取市返田729。県道16号線(佐原八日市場線)、香取市大根の「香西」バス停付近(「返田神社→」という案内板がある。)から道なりに、東~北東へ約1km。駐車スペースあり。地名の「返田」は「かやだ」と読むが、神社名は「かえだ」らしい(千葉県神社庁のHPによる。)。
社伝によれば、創建は神武天皇18年とするが、これは当神社が下総国一宮「香取神宮」の9摂社(境内3社、境外6社)のうちの1つで、「香取神宮」と同時に創建されたからという。これは伝説としても、鎌倉時代中期の古文書に「返田悪王子社」とあるのが当社のことだとされ、少なくともそれ以前に存在していたことがわかる。ただし、「悪王子社」といえば京都「八坂神社」に関連するかと思うが(「八坂神社」の摂社「悪王子社」は素戔嗚尊の荒魂を祀る。)、当神社の現在の祭神は軻遇突智神(カグツチ)と埴山姫神(ハニヤマヒメ)=火の神と土の神となっている。「香取神宮」との関係では、12年に一度の「香取神宮」式年神幸祭で供奉芸能として神楽(獅子舞)が行われる(長く中断していたが、平成14年に復活。)。また、当神社の本殿は江戸時代中期の建築とされ、香取市の指定有形文化財となっているが、古来から「香取神宮」の造営時期に合わせて当神社も建造されていたとされるところから、元禄13年(1700年)の「香取神宮」本殿造営と同時に建てられたものと推定されているようだ。
さて、当神社で面白いのは、参道両脇にずらりと並ぶ石祠で、これは諸国の一宮を祀ったもの。別格扱いの伊勢神宮の内宮(皇大神宮)・外宮(豊受大神宮)を先頭に全国68ヵ国の一宮を両側35基ずつ、合計70基の石祠が建てられている。これらの石祠のほかに「天神地祇」と刻された石標があり、文化3年(1806年)に返田村の黒田三右衛門豊昌が発願人となって建てられたという由来が記されているが、なぜ、建てようとしたのかは不明。なお、現在では、風化等により神社名が判読できないものも多くなっており、なんとか再建できないものだろうか。


写真1:「返田神社」鳥居と社号標


写真2:鳥居を潜ると、参道両脇に石祠がずらりと並ぶ。


写真3:下総国一宮「香取大神宮」の石祠


写真4:社殿(香取市指定有形文化財)
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