神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

女化神社(常陸国式外社・その10の2?)

2020-10-31 23:40:30 | 神社
女化神社(おなばけじんじゃ)。通称:女化稲荷神社。
場所:茨城県龍ケ崎市馴馬町5379。茨城県道48号線(土浦竜ケ崎線)と同243号線(八代庄兵衛新田線)の「中根台4丁目」交差点から48号線を北へ約750m進んだところで右側道に入り、約500mで一の鳥居前。そこから、鳥居を潜って自動車でも参道を進めるようだが、未舗装の道でもあり、来た道路をそのまま約450m進んで信号機のある交差点を右折(東へ)、約200mで当神社裏手の駐車場に着く。
社伝によれば、創建は永正2年(1505年)。創建の経緯は不明だが、次のような伝説がある。根本村(現・茨城県稲敷市)の農民、忠五郎が蓆を売りに行った帰り、眠っている狐を狙う猟師に気が付いた。忠五郎は咳払いをして狐を逃がし、猟師には蓆を売った代金を渡した。その夜、旅の若い娘が訪れ、やがて忠五郎の妻となった。3人の子が生まれたが、ある日、転寝をした母親に尻尾があることを子に見つけられ、狐の正体を現し、逃げ去った。狐が隠れた森は「高見ヶ原」という草原にあったが、いつしか「女化ヶ原」と呼ばれるようになり、稲荷社が祀られるようになった、というものである。伝説なので、忠五郎が忠七という名だったり、色々と尾鰭がついていたりと、ヴァリエーションがある。その大きな1つは、単に当神社の創建に係るものではなく、戦国時代の武将・栗林義長がこの狐の孫である、という伝説である。栗林下総守義長は、当地の領主・岡見氏の重臣で、北条氏側についた岡見氏(小田氏系とされる。)に従い、豊臣氏側の佐竹氏系の多賀谷氏(本拠地:現・茨城県下妻市)との戦いでは、多賀谷氏を散々に打ち破って「関東の孔明(中国・蜀漢の軍師、諸葛亮のこと)」と呼ばれたほどの武将だったという。実在を疑う説もあるが、曹洞宗「福寿山 東林寺」(現・牛久市)に位牌と過去帳が残っているという。上記の伝説は、典型的な動物報恩譚・異類婚姻譚であり、陰陽師・安倍晴明の出生譚とそっくりである。要するに、義長の超人的な活躍を強調するために、人外の血が入っていることにしたものだろう。なお、義長が当神社を創建したとする伝説もあるようだ(ただし、義長の死は天正15年(1587年)とされている。)。
一方、茨城新聞社編「茨城の史跡と伝説」によれば、次のような話になっている。義長が「稲塚」(前項「稲塚古墳」)にある「飯名権現」に参り、その後ろにある一葉松の下の「一葉稲荷」を詣でた。すると、火縄の匂いに気が付き、見ると、猟師が鉄砲で狐を狙っていた。「飯名権現」の使い姫は狐であることを思い、小石を投げて狐を助けた。後日、再び、義長が「飯名権現」を参拝すると、亡くなった妻にそっくりな娘が立っており、連れて帰って妻にした。以下は、上記の伝説と同じになるが、こちらでは、義長自身が狐を助けて、狐を妻にしたことになっている。(なお、蛇足ながら、鉄砲(火縄銃)の伝来が1543年前後とされているので、常陸国の猟師まで鉄砲を持っているというのは少し早い気がする。)
さて、伝説はともあれ、当神社の創建は16世紀頃とされるが、当神社を「常陸国風土記」の信太郡条に見える「飯名の社」とする説がある。例えば、内山信名(1787~1836年)著「新編常陸国誌」では、「現在、女化原にある稲荷(神社)のことという。」(現代語訳)とあるが、その根拠は不明で、内山信名自身も確信があって書いたわけではないだろう。思うに、「稲塚古墳」上にある(とされる)「飯名権現」又は「稲敷神社」は「筑波権現」(「筑波山神社」)と呼ばれていて、これを式外社「飯名神社」とする説が有力であるが、これが「筑波権現」であるとすれば、その下にあった「一葉稲荷」こそが、「飯名の社」なのではないか、ということである。当神社は、古名は「稲荷大明神」、「女化稲荷社」、「保食神社」、「一葉稲荷」などと称されたとされており、現社名になったのは明治17年という。また、現在の祭神は保食命(ウケモチ)であるが、これは現・つくば市の「飯名神社」(2020年10月17日記事)の主祭神・宇気母知神と(表記は違うが)同じである。当神社の別名の1つを「一葉稲荷」ということの根拠は不明だが、現在の「稲塚古墳」の近辺には「稲荷神社」が見当たらないことから、「一葉稲荷」が女化ヶ原に遷って当神社になったとすれば、当神社が古代常陸国信太郡の式外社「飯名神社」であったかもしれないということになる。あるいは単に、上記の伝説を踏まえて当神社に結び付けたものかもしれないが、今となっては何とも言い難い。
なお、当神社は農業神・商業神として近隣の信仰を集め、今も大祭(旧暦2月の初午)の際には植木市が開かれ、露天屋台が多数出て参拝客で賑うという。


茨城県神社庁のHPから(女化神社)


写真1:「女化神社」一の鳥居、参道入口。この辺りは牛久市女化町で、この先の当神社境内だけが龍ケ崎市馴馬町の飛び地になっている。


写真2:同上、参道途中の鳥居と社号標(「与福惣社 女化稲荷神社」)。


写真3:同上、拝殿。狛犬の代わりに神使の狐像があるのは稲荷神社の通例だが、栗林義長の伝説により、左右に子狐が合計3匹いる。


写真4:同上、本殿の覆い屋。


写真5:同上、社殿の背後から北へ真っ直ぐな道が続いている。奥に赤いものが見える。


写真6:同上、奥之院の入口鳥居。


写真7:同上、奥之院境内。


写真8:同上、奥之院境内。


写真9:同上、奥之院。この先が、霊狐が姿を隠した森であるとされる。なお、狐像の左側にあるのは「社日塔」(「五神名地神塔」)だが、茨城県内では珍しい。


写真10:天台宗「箱根山 宝塔寺 来迎院」本堂(場所:茨城県龍ケ崎市馴馬町2362)。当神社境内が龍ヶ崎市の飛び地になっているのは、「来迎院」が別当だったことによる。


写真11:同上、多宝塔。関東以北に唯一残る室町時代の多宝塔とされる(国指定重要文化財)。宝珠の銘文に江戸崎城主・土岐治英の援助により弘治2年(1556年)に修理されたとあるが、多分、そのときに建立されたものとみられている。「女化神社」の創建も、この頃かもしれない。
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稲塚古墳(茨城県龍ケ崎市)(常陸国式外社・その10の1?)

2020-10-24 23:57:21 | 古墳
稲塚古墳(いなつかこふん)。
場所:茨城県龍ケ崎市八代町稲塚3903。茨城県道5号線(竜ヶ崎潮来線)と同68号線(美浦栄線)の「下八代」交差点から東に約80m、県道沿いの北側。駐車場なし。
「常陸国風土記」信太郡の条に「その里の西に飯名神社がある。これは筑波山におられる飯名神の分社である。」(現代語訳)という記載があり、これによって、現・茨城県つくば市の「飯名神社」が式外社とされるようになっている(前項)。「飯名神」についての記述は「常陸国風土記」筑波郡の条には無いが、もともと無かったのか、その部分が省略されてしまったのか不明である。一方、信太郡の方では原文に「飯名社」とあって、明確に神社が存在して信仰の対象になっていたことがわかる。ただし、その所在地については、「その里」というのがよくわからないので不明。その前の部分で地名らしいのは「葦原」くらいだが、これは「土俗の諺に『葦原の鹿肉は美味しい』とあり、食べてみると山の鹿肉とは違う」という記述であり、「葦原」は地名ではなく、一般名詞だろう。
ということなのだが、信太郡の方の式外社「飯名神社」については、古くから現・茨城県龍ケ崎市(旧・八原村)に存在する「稲塚古墳」上の「稲敷神社」と称する小祠に比定されてきた。「稲塚古墳」は現存するものの、民有地(個人住宅)内にあって非公開・参観謝絶ということなので、墳上の祠の現況も不明となっている。情報が少ないのだが、ネット等で調べると、古墳としては円墳で、径約14m、高さ4m。「稲塚古墳」のことかどうか確定できないが、「茨城縣に於ける古墳の分布」(川角寅吉著)という資料に「八原村大字八代字稲塚臺」の古墳の情報として「石棺中に白骨二人分あり」というのがある。「稲敷神社」については、民有地上の神社にも関わらず、戦前の神社明細帳に「無格社」とあって、「創建祭神不詳」、「大正10年に倒壊、後再建」という記載があるとのこと。また、内山信名(1787~1836年)著「新編常陸国誌」に「土地の人は、稲塚を筑波山と呼び、その頂上に石祠がある。」(現代語訳)などという記述がある。
以上の通り、「稲塚古墳」上に今も神社があるのか、あるとして、それは式外社「飯名神社」なのか、という問題は解決できないのだが、「飯名神社」が当地の地名の元になったというのが通説化している。まず、「八代町(やしろまち)」は「飯名神社」の「社(やしろ)」であり、近代以降の「稲敷郡」の「稲敷」は、「飯名神社」の敷地ということに由来するという。


写真1:「稲塚古墳」


写真2:近寄って見る。写真に写っていないが、塀の中にある。


写真3:記念碑のようなものが見える。
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飯名神社(茨城県つくば市)(常陸国式外社・その9)

2020-10-17 23:55:24 | 神社
飯名神社(いいなじんじゃ)。通称:稲野(飯名野)の弁天様。
場所:茨城県つくば市臼井(字稲岡)1。茨城県道138号線(石岡つくば線)と同139号線(筑波山公園線)の交差点(「これより つくば道」という大きな道標石が立っている。)から、139号線を北に約2.8Kmのところで左折(西へ)、約400m進んだところで右折(北へ。民家の塀に「飯名神社入口」という案内看板が掛けられている。)、約300m。鳥居前に1~2台の駐車スペースあり。県道を含め途中の道路はかなり狭いところが多いので注意。また、当神社から更に上に(北へ)向かえば「筑波山神社」(2020年9月12日及び19日記事)に行けるが、道路は更に狭く、急坂になるので、自動車では無理に上っていかない方がよい。
創建年代は不明だが、ちょっと変わった形での「式外社」とされている神社である。「常陸国風土記」信太郡の条に「その里の西に飯名神社がある。これは筑波山におられる飯名神の別属(分社)である。」(現代語訳)という記述があり、間接的に、筑波山に「飯名神社」の本社が存在したことがわかる。これが、当神社のこととされている。また、「萬葉集」に東歌として「筑波嶺に 雪かも降らる 否をかも 愛しき児ろが 布乾さるかも」(第14巻・3351)(現代語訳:筑波山に雪がふったのだろうか、そうではあるまい、可愛いあの娘が(白い)布を干しているのだろう。)があり、「否をかも」というところが「稲岡も」と掛詞になっているではないかとされている。  
一方、「六所神宮」(前項「六所皇大神宮」のこと)大宮司・長戸家文書の中に「飯奈野神社伝記」があり、これによれば「当社の勧請は康正2年(1456年)で、飯奈野の地に社殿を造立して保食神(ウケモチ)が鎮座した。」、「天正19年(1591年)に遷宮した。」、「万治3年(1660年)に弁財天(社)を造立した。祭神は市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)である。」(現代語訳)とのこと。ということで、現在の祭神も宇気母知神と市杵嶋姫命であるが、古代の「飯名神社」とは別、ということになるのだろうか?
「飯名神社」については、「筑波山神社」の里宮だったとか、「歌垣」の場所であったとかの説もあり、また、「稲野」・「稲岡」という地名の方が先にあり、その名から引かれて保食神(宇気母知神)が後から勧請されたのかもしれない(保食神(宇気母知神)は稲荷神社に祀られる倉稲魂命(ウカノミタマ)と同一視されることがある。)。なお、「筑波山神社」摂社の「稲村神社」(祭神:天照大神、「筑波山神社」2020年9月19日記事の写真4)に比定する説もある。
思うに、当神社の創始は筑波山そのもの、あるいは巨石(磐座)に対する信仰で、人格的な祭神は意識されていなかったのではないだろうか。もちろん、それでも(あるいは、そうであるからこそ)、ここがパワースポットであることには違いないのだろう。


写真1:「飯名神社」鳥居と社号標


写真2:拝殿


写真3:本殿は覆い屋の中。背後の巨石を祀っていることがわかる。


写真4:「磐座」と思われる巨石で、これが「陰石(女石)」(縦に割れ目がある。)と思われる。


写真5:巨石の上に小祠と並んで「立石」があり、これが「陽石(男石)」だろう。これは人工的に立てたもの。


写真6:巨石の後ろには小川(歌枕で有名な男女川の支流)が流れている。


写真7:境内の万葉歌碑


写真8:境内にはこんな岩もある(注連縄が掛けられているが、詳細不明)。
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六所皇大神宮霊跡地

2020-10-10 23:28:09 | 神社
六所皇大神宮霊跡地(ろくしょこうたいじんぐうれいせきち)。通称:六所神社跡。
場所:茨城県つくば市臼井2047。茨城県道14号線(筑西つくば線)と国道125号線・茨城県道138号線(石岡つくば線)の「内町下」交差点から県道14号線を北へ約1.7km、ガソリンスタンド「エネオス大貫SS(つくばね石油)」の角を右折(東へ)、約3.3km道なりに進んで、突き当りを左折(西へ)、約100mで「第2駐車場」。そこから左手の方の道路を約100m進んだところ。
「六所皇大神宮」(六所神社)は、社伝によれば、神武天皇4年(紀元前657年?)に筑波地方の総社として創建されたという。「伊勢神宮」の分社ということで「皇大神宮」と称するが、「筑波山神社」(2020年9月12日及び19日記事)の里宮であるともされる。「六所」というのは6柱の神のことをいうが、ここでは、それを「筑波山神社」の2座(伊弉諾尊・伊弉冊尊)とその摂社の4座(天照大御神・素盞鳴尊・月読尊・蛭子命)に当てる。因みに、「六所」というのは「録所」(管内の神社を登録・統括する役所・役職)から転じたものという説があり、全国各地の「総社」にも「六所神社」というものがある(例えば下総国総社「六所神社」(2013年1月19日記事))。第13代・成務天皇の時代(5世紀頃?)に忍凝見命(オシコリ)の孫・阿閑色命(アヘシコ)が筑波国造に任じられたとき、祭政一致の政務に基づき奉仕したとされる。延暦20年(801年)に征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征討の帰路、当地に馬具・宝剣・神鏡を納めたといい、明治3年に老杉が倒れて鳥居が破壊された際に銅鏡が出土し、その銅鏡に「石鳥居 征夷大将軍坂上田村麻呂 建立之」の銘があったという。「筑波山」の登山ルートはいくつかあるが、元々は当地から「夫女ヶ石」(前項)を通って山頂に向かうのがメイン・ルートであったとされ、当地も「歌垣」の場所だったという説もある。いずれにしても「筑波山神社」との結び付きが強く、現在も行われている「筑波山神社」の例大祭「御座替祭(おざがわりさい)」での神輿渡御は「一の鳥居」(「筑波山神社」(2020年9月12日記事の写真1)までとなっているが、明治43年以前は当地までの渡御であったという(「御座替祭」について詳細は省くが、民俗学でいう「春秋去来の伝承」で、春に山の神が下って田の神となり、秋に再び山に戻るという信仰とされる。)。同年に「六所神社」は廃社となり、神霊は「蚕影神社」(現・茨城県つくば市神郡)に移された。その後、大正始め、新興宗教団体・奣照修徳会(おうしょうしゅうとくかい)の初代会長・高木福太郎が荒廃した「六所神社」跡地の復興を提唱し、整備に努めたという。
さて、「筑波山神社」と同様、「筑波山」そのものの信仰が創祀とすれば、一体とされる「六所神社」の創祀も古代より前に遡ってよいのかもしれないが、神社としての創建は古くて平安時代だろう。史料的には、近世の「六所神社」の神宝目録に建久6年(1195年)勧請の銘がある「聖観音の御正体」の記載により、遅くとも12世紀には存在していたというのが最古らしい。上記の坂上田村麻呂の銅鏡が本物であるとすると、次のようなことも考えられるだろうか。「常陸国風土記」には既に「筑波山神社」の存在が示されており、また「飯名神社」(次項予定)もあったとすれば、その「飯名神社」は「筑波山神社」の里宮だったのではないか。それが、延暦年間(782~806年)の初め頃?に僧・徳一が「筑波山」の中腹に「筑波山寺」(現・「筑波山 大御堂」(2020年9月26日記事))を創建すると、仏教勢力が「筑波山」の祭祀を掌握、これに対抗して神道側が「六所神社」を創建した。坂上田村麻呂は、創建されたばかりの「六所神社」に参拝して「筑波山」の神に凱旋報告した・・・。ただし、坂上田村麻呂の蝦夷征討といえば、常陸国一宮「鹿島神宮」(2017年10月7日記事)との関係が深い(例えば、同神宮の社宝に「悪路王の首」(木製)というものがある。悪路王は蝦夷の大将・阿弖流為(あてるい)のことであるという。)。道順からいっても、奥羽地方に向かうには「鹿島神宮」から太平洋沿いに進軍したのではないかと考えると、筑波山の方に来るのは遠回りになる。あるいは、本人ではなく、代参だったかもしれないが。さて、どうだろうか。


奣照修徳会のHPから(六所)


写真1:「六所皇大神宮霊跡地」東側の入口(女坂)の石碑。こちらに「第1駐車場」があるが、訪問時には廃車? が一杯置かれていて駐車できなかった。


写真2:境内入口の石段と鳥居


写真3:石柱と由来碑。この石柱が円柱なのは、元は鳥居の柱だったからで、明治3年に鳥居が倒壊した際に、この柱の下から「坂上田村麻呂」銘のある銅鏡が出土したとされる。


写真4:「天照大神 御腰掛之石」


写真5:社殿跡地


写真6:社殿跡地の中央に立つ「六祖神霊之碑」


写真7:同上、向かって右側「高木奣照大人尊之碑」


写真8:同上、向かって左側「六所大神宮跡之碑」


写真9:「六所要石」。社殿跡地の背後に(埋められた?)巨石。


写真11:「六所の滝」


写真12:社殿跡地から更に山道を登っていくと、途中にある巨石。いかにも磐座のようだが、祭祀が行われていたか、不明。なお、この先にも山道が続いていて、「夫女ヶ石」(前項)の下(南)辺りに出る。
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夫女ヶ石

2020-10-03 23:45:51 | 名石・奇岩・怪岩
夫女ヶ石(ぶじょがいし)。夫女之石、陰陽石ともいう。
場所:茨城県つくば市臼井2090-20(つくば市が運営する宿泊・キャンプ場施設「筑波ふれあいの里」内)。茨城県道42号線(笠間つくば線)を「筑波山神社大鳥居」交差点から東に約1km、日帰り温泉施設「つくば湯」のところから右折(南~南東へ)、急坂を下って突き当り左折(東へ)して、約650mで「筑波ふれあいの里 」駐車場。「夫女ヶ石」は、「宿泊施設」前の雑木林の中。
「夫女ヶ石」は、筑波山の南斜面、「筑波山神社」(2020年9月12日及び19日記事)拝殿から南東に下ったところ(標高約170m)で比較的なだらかなところにある2つ並んだ巨石。現在は疎らな雑木林の中だが、かつては「夫女之原」という草原で、古代には、この巨石の周りで「嬥歌(うたがき、かがい)」が行われたと伝えられている。「常陸国風土記」筑波郡の条でも、「筑波峯之会(つくばねのつどい)」とあって、「坂(足柄山)から東の諸国の男女が飲食物を持ち寄って遊び楽しむ」というようなことが記されている。「嬥歌」・「歌垣」というと、おおらかな古代人のフリー・セックスの場のようなイメージもあるが、本来は求愛歌の掛け合いで未婚男女が相手を探す呪術的信仰、あるいは祝祭の要素が強かったようだ。
因みに、「筑波山名跡誌」(江戸中期頃)によれば、この2つの巨岩の上にそれぞれ桜の木が生えていて、相対して枝を交えていたということで、非情の木石でも陰陽不離の道理を顕すのは、筑波山の2神(伊弉諾尊・伊弉冊尊)の御神徳だろう、としているとのこと。


茨城県のHPから(夫女ヶ石)


写真1:「筑波ふれあいの里」宿泊施設の前にある「万葉歌碑」。横に、歌の内容を解説した説明板もある。高橋虫麻呂の歌(第9巻・1759)とその反歌(同・1760)で、「他妻(ひとづま)に 我も交はらむ 我が妻に 人も言問へ」というフレーズが含まれる有名な歌。


写真2:「夫女ヶ石」。「陰陽石」というからにはそれぞれ男女の別があるはずだが、特に区別できるような特徴はなさそう。


写真3:同上


写真4:同上
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