神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

龍燈山 永福寺

2021-06-26 23:11:02 | 寺院
龍燈山 永福寺(りゅうとうざん えいふくじ)。通称:高野大せがき寺。
場所:埼玉県北葛飾郡杉戸町下高野396。埼玉県道372号線(下高野杉戸線)「万願寺橋」交差点から北東へ約90mのところで左折(北西へ)、約650m。駐車スペース有り。こちらが表門だが、前の道路が狭いので、上記「万願寺橋」交差点から県道を北西へ約650m進んだところに裏門側の駐車場があり、こちらの方が入りやすい。
寺伝によれば、天平勝宝5年(753年)、僧・行基(行基菩薩)の開基で、かつては「阿弥陀寺」と呼ばれたという。承平天慶の乱において、天慶3年(940年)、首謀者の1人として武蔵権守・興世王が討たれたとき、その妾といわれる妙喜尼が寺に火を放って焼死し、寺も焼け落ちた。天慶5年(942年)、平将門が京都に滞在していた時に生まれた子といわれる抜山優婆塞が東国に下り、父の戦場で死者の菩提を弔いながら当地に来た折、土中で光る阿弥陀仏の木像を発見した。これが行基作と伝わる「阿弥陀寺」の本尊であったとされ、寺を再興したという(因みに、当寺院は現・大落古利根川(古代の利根川本流=武蔵国と下総国の国境)の左岸(北岸)にあり、下総国の領域内にあったと考えられる。)。また、第51世・日尊上人の父は因幡前司・藤原長福朝臣で、貞治元年(1362年)、高野浅間台に高野城を築き、田宮庄近郷を領していた。長福は後に酒食遊芸に溺れて非道な行いがあったので、日尊上人(幼名・藤王)は父の乱行を憂い、仏門に帰依して比叡山で修行し、当寺院を再建した。一方、長福は狂死して葬られたが。ある日暴風雨が襲来して、その墓所の辺りは流出して付近一帯が池となった。日尊上人は閻魔大王のお告げを受け、亡父が地獄に落ちていることを知り、閻魔大王から伝授された施餓鬼(せがき)の秘法を修行した。すると、ある夜、龍燈が現れて光を照らし、長福を始め無数の亡霊が蓮の葉に乗っているのを見て、人々が驚嘆したという。これが、明徳3年(1392年)のことで、現在まで続く当寺院の「大施餓鬼」の始まりとされる。なお、この縁により「長福密寺」と改名されたが、江戸幕府・徳川将軍家で子息に長福と名づけたことがあり、それに遠慮して「永福寺」と名乗るようになったという。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は阿弥陀如来。
さて、当寺院は、「関東三大施餓鬼」寺院の1つで、他の2つは「宝珠山 玉蔵院」(さいたま市浦和区)と「誦経山 四萬部寺」(埼玉県秩父市)とされ、「関東」と言いながら、いずれも現・埼玉県であるのが面白い。当寺院の大施餓鬼は「どじょう施餓鬼」と言われ、先祖供養のため放生(ほうじょう)として泥鰌(ドジョウ)を池に放つ。これは、ドジョウを龍に準え、ドジョウの背中に乗って先祖の霊が極楽浄土へ旅立つとするものであるという。


永福寺のHP


写真1:「永福寺」境内入口、寺号標(「高野大せがき寺」が大きく刻され、台座部分に「龍燈山 永福寺」とある。)


写真2:山門


写真3:地蔵堂


写真4:焔魔堂


写真5:閻魔大王


写真6:本堂。扁額は「観自在王」


写真7:本堂の華麗な装飾
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将門の首塚(埼玉県幸手市)

2021-06-19 23:38:11 | 史跡・文化財
将門の首塚(まさかどのくびづか)。
場所:埼玉県幸手市神明内1469-1(「浄誓寺」の住所)。国道4号線と埼玉県道371号線(下吉羽幸手線)の「幸手市役所入口」交差点から県道を東に約2kmのところ(「浄誓寺」の小さな案内看板がある。)で右折(南へ)、約400m。駐車場有り。県道から入る道路は狭いので注意。
「平将門の首塚」というと、東京都千代田区大手町にあるのが有名だが、埼玉県幸手市の浄土真宗東本願寺派「通光山 平親院 浄誓寺」境内にもある(全国では10数ヵ所あるらしいが・・・。)。本堂裏に高さ約3mの塚があり、その上にかなり風化した五輪塔が建てられている。ここに、「承平天慶の乱」において天慶3年(940年)、平貞盛・藤原秀郷等の連合軍と戦って討ち死にした平将門の首が埋められたとの伝承があり、幸手市指定史跡となっている。将門が討たれたのは、軍記物語「将門記」によれば「辛島郡北山」とされるが、その場所は不明である。「辛島郡」というのは「幸島郡」の誤りで、「猿島郡」であるということについては異論がないが、「北山」がどこかには諸説ある。終焉の地に創建されたという現・茨城県坂東市の「國王神社」(2012年10月6日記事)付近が最有力のようだが、同地から当地までは直線距離で約13km。途中の利根川は江戸時代に開削された流路で、古代には現・埼玉県杉戸町の西側を流れる大落古利根川が利根川の本流で、それが下総国と武蔵国の国境であったらしい。よって、当地も下総国領内であったことになる。当地の伝承では、将門が討たれたとき、家臣が首だけを運んできた、あるいは愛馬が首を咥えて運んできた、とされる。将門の首は、京都に運ばれて晒し首になったということが史実で、その後、首が飛んで関東に向かったというのが伝説だが、当地の伝承が正しいとすると、晒し首になったのは誰なのだろう? 
さて、「浄誓寺」は慶長9年(1604年)、久念の開基という。久念は、元は広川民部通光といい、和泉国堺(現・大阪府堺市)の生まれで、浄土真宗の門徒として、織田信長と石山本願寺との戦いにも参加したが、両者の和睦により、関東に下った。縁あって当地の草庵に辿り着くと、勧められて堂守となり、入道して当寺院を開いたとされる。当然ながら、当寺院の開山よりも首塚の方が早いはずだが、もともと草庵があったということなので、将門を供養するような人物がいたのかもしれない。因みに、当寺院境内に薬師堂があるが、薬師如来は将門の守り本尊で、当寺院三代目の久信が祀ったともいわれる。将門に限らず、有名人の墓とされるものは全国各地にあるが、必ずしも遺骨が埋葬されている場所とは限らない。当寺院についても、「平親院」という院号から後世「平親王」と称された将門が連想されて、境内の古墳が将門に結び付けられた可能性もあるようだ。なお、当地の北東の幸手市木立(きだち)は旧・木立村で、将門滅亡後に子孫が隠れ住んだ場所であるとして、元は「公達村(きんだちむら)」と称したという伝承がある。当地の「将門の首塚」自体には怨霊の祟りなどといった話は聞かないが、近くに、将門の血が木を赤く染めたことから名付けられた「赤木」という地名があって、この血の付いた木は何日経っても赤いままで、衣冠束帯を纏った人物が夜な夜な現れて徘徊したため、この木を御神体として将門を祀り「赤木明神」と称したと言う伝説があるとのこと。


幸手市観光協会のHPから(将門の首塚)

幸手市のHPから(「将門の首塚」の歴史)


写真1:「浄誓寺」山門


写真2:同上、本堂。本尊:阿弥陀如来


写真3:同上、「将門の首塚」。本堂の裏にある。本堂の影がかかっている。


写真4:同上


写真5:同上、塚上の五輪塔。かなり風化している。五輪塔は普通、宇宙の構成要素を表すように、下から方形(地輪)、円形(水輪)、三角形(火輪)、半月形(風輪)、宝珠形(空輪)の石材などを積み上げて造る。一番下の方形とその上の円形の石は中世のものとされ(上の3つは江戸時代以降の後補)、「(旧)北葛飾郡内最古の五輪塔の可能性が高い」(埼玉県教育委員会)らしい。


写真6:同上、薬師堂。山門から入って直ぐ左側にある。


写真7:「浄誓寺」から南西へ約750mのところにある「(赤木)集会所」。その敷地の道路沿いに石碑が立ち並んでいるが、その後ろに小祠がある。これが「赤木明神」だろうか。もちろん、近くに赤く染まった木はなく、元からここにあったかどうかも定かではないが、当地が旧・赤木村であったと思われる。


写真8:「赤木明神」? 小祠の中に小さな狐像があること、屋根の装飾に如意宝珠の図案があることから、祭神としては「稲荷神社」ではないかと思われる。


写真9:「浄誓寺」から南西へ約250mのところにある「香取神社」鳥居。「浄誓寺」の「将門の首塚」を紹介するブログ等では、この「香取神社」を「赤木明神」としているものが多い。どちらが「赤木明神」なのか断言できないので、念のため掲載。


写真10:同上、社殿
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穴薬師古墳(茨城県五霞町)

2021-06-12 23:20:14 | 古墳
穴薬師古墳(あなやくしこふん)。
場所:茨城県猿島郡五霞町川妻小字岩穴249外。国道4号線(新4号国道「春日部古河バイパス))「五霞交差点」から茨城県道268号線(西関宿栗橋線)を北西へ約2.9km(途中、約1.3kmのところで県道268号線は右折(北へ)となるので注意。)、「穴薬師古墳入口」の案内看板があるところで左折(南へ)、約130m。駐車場なし。ただし、すぐ手前の「浄雲寺」に駐車スペース有り。
「穴薬師古墳」は茨城県五霞町にある直径約30m、高さ約4mの円墳。五霞町は四方を川に囲まれ、茨城県で唯一、全域が利根川の右岸(南岸)にあるが、古代には下総国猿島郡に属した。それは、古代には利根川本流はかなり南を流れていたからで、現在では、当古墳は現・利根川堤防の直ぐ南側のような感じだが、猿島台地の一部なので河川の氾濫からは免れていたようだ。さて、当古墳には横穴式石室があり、幅約2m、長さ約7mの規模で、奥部は高さ約2mのヒョウタン型。中央部両側に長さ1.5m、0.3m角の門石で前室と奥室とに区切られている。また、下段に人頭大(30cm程)の自然石を並べて基礎とし、その上に整形した軽石を積み上げて側壁としている。奥壁には、板状の石を使って五輪の塔を思わせる模様が描かれているとのこと。古墳時代終末期(7世紀頃?)の造営とされるが、奈良時代の貴族が造ったともいわれているらしい。このような古墳は関東地方には類例がなく、学術上貴重なものとされ、長らく荒廃したまま放置されていたが、昭和47年から復元整備が行われ、茨城県指定文化財に指定された。なお、石室の奥に薬師如来像が安置されていたとのことで(古墳造営時からのものかは不明)、「穴薬師」との名がついた。当古墳の北側に浄土宗「浄雲寺」があり、本堂には阿弥陀如来・薬師如来・如意輪観世音菩薩の三尊が祀られていて、「葛飾坂東観音霊場」第6番札所ともなっていることから、観音霊場としては「岩屋観音」とも通称されているようである。当古墳と無関係ということはあり得ないだろうが、「浄雲寺」がどのような経緯で、いつ創建されたかは不明。
因みに、当古墳にも、開口した石室の古墳によくある「椀貸伝説」の伝説があり、岩屋に向かって村人が何人分かの膳椀を貸してくれるように頼むと、翌朝には希望した数の膳と椀が用意されているというもの。ここにも、岩屋が隠れ里の入口であるとの発想があったのかもしれない。


五霞町のHPから(穴薬師古墳)


写真1:「穴薬師古墳」に向かう道路の入口にある不動明王石像


写真2:浄土宗「浄雲寺」本堂(薬師堂)。


写真3:同上、境内の宝篋印塔と地蔵菩薩石像


写真4:「穴薬師古墳」入口。「浄運寺」から南へ約90m。


写真5:同上、古墳は畑の中にある。


写真6:同上、石室が開口しているが、施錠された鉄格子の扉が設置されている。


写真7:同上、石室。扉から覗くと、きれいな石組がよくわかる。


写真8:同上、墳頂にある「愛宕神社 岩屋神(社)」の石碑。今、祠はない。


写真9:同上、全景。南東側から見る。


写真10:同上、全景。北側から見る。
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神護護国聖宝寺 慈徳山 萬蔵院

2021-06-05 23:38:12 | 寺院
神護護国聖宝寺 慈徳山 萬蔵院(じんごごこくしょうほうじ じとくさん まんぞういん)。
場所:茨城県坂東市生子1617。茨城県道24号線(土浦境線)と同125号線(中里坂東線)の「生子南(道正内)」交差点から24号線を西へ約550mのところで左折(南へ)、約650m進んだところで右折(西へ)、約170mで境内入口。境内が広いので、駐車スペースはあるが、駐車場は、県道から約400m南下したところ(「万蔵院東口」という石柱が立っている。)で右折(西へ)、約200m進むと東門に突き当たり、その付近に駐車場がある(本堂にも近い。)。
寺伝によれば、貞観12年(870年)、聖宝(理源大師)の開山という。当時、下総国猿島郡の中央に本尊を安置し、四方に八間(近代では約14m。なお、古代には「間」は長さの単位ではなかった。)の大道を通じ、門前に山伏を住まわせ、前街後街を作り、都から工人多数を移して、この地方の文化的中心を形成したとされる。その後の消息は長く不明となるが、大手門(山門)は室町時代建立のもので、観音堂は江戸時代の再建だが室町時代の様式を残しているとされる。江戸時代になると、徳川幕府により篤く庇護され、大名の格式を有する寺院とされて、当地方で最高の朱印地20石を受けていた。「総本山移転地常法檀林所」(本山の行務の代行、子弟の教育のための地方大学の役割を持つ学問寺)として多くの修行僧が出入りし、境内は6万坪、坊舎数十を有していたとされる。第52世・雄弁上人が享保10年(1725年)に「猿島阪東三十三カ所観音霊場」(巳年に開帳)を開き、当寺院はその第17番札所となっている。文化年間(1804~1818年)に火災に遭い、大手門と三重塔を残して焼失(なお、三重塔は明治33年に焼失)した。明治時代に入って廃仏毀釈により荒廃したが、真言宗豊山派総本山「長谷寺」(現・奈良県桜井市)から特命住職として第72世中川大俊僧正が入寺し、再興したとされる。なお、寺宝として平安時代~鎌倉時代などの仏像や法具などがあるが、これは廃仏毀釈により破却された「筑波山 知足院 中禅寺」(「筑波山 大御堂」2020年9月26日記事)から移したものである。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は胎蔵界大日如来。
蛇足ながら、聖宝(理源大師)(天長9年(832年)~延喜9年(909年))は、空海(弘法大師)の孫弟子に当たり、寛平6年(894年)に「東寺長者」(東寺の真言宗最高位)となる名僧で、真言宗醍醐派総本山「醍醐寺」(京都市伏見区)を開山して当山派修験道の祖とされる。聖宝が当地に来ていたかは不明だが、当寺院開山のときに「門前に山伏を住まわせた」というところに、修験道の影響が窺われる(なお、聖宝が「醍醐寺」を開いたのは貞観16年(874年)とされる。)。逆に言うと、(理由は不明だが)当地に修験者(山伏)が集まり、開山を聖宝に仮託したのではないか、とも思われる。


萬蔵院のHP


写真1:「萬蔵院」境内入口と寺号標(「慈徳山 萬蔵院」)。とにかく境内が広い。


写真2:長い参道の途中にある「蔵修息遊」碑。学問で守るべき4つの道を示したものという(「礼記」に因む。)。


写真3:大手門(山門)。元亀2年(1571年)の建造で、現存建造物中で最古のものという。


写真4:本堂。文政11年(1828年)建立。


写真5:本尊:胎蔵界大日如来


写真6:観音堂(観音堂本尊:十一面観世音菩薩)。享保8年(1723年)建立で、坂東市指定文化財。


写真7:弘法大師堂


写真8:宝塔


写真9:多数の石碑、石仏。このほかにも境内には多くの石造物がある。


写真10:南門
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