神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

静御前の墓(埼玉県久喜市)

2024-10-05 23:31:30 | 史跡・文化財
静御前の墓(しずかごぜんのはか)。
場所:埼玉県久喜市栗橋中央1ー2ー7。JR東北本線・東武日光線「栗橋」駅東口から北へ約90m。駐車場なし(隣接する商店街「クラッセくりはし」に、料金の安い有料駐車場がある。)。
静御前は源義経の愛妾となった「白拍子(しらびょうし)」(男装の舞妓)で、その墓とされるものが現・埼玉県久喜市にある。軍記物語「義経記」によれば、日照りが続いたとき、後白河法皇が京都「神泉苑」の池で100人の僧に読経させたものの効験がなかったので、美貌の白拍子100人に舞わせて降雨を祈らせた。99人までは雨が降らなかったが、100人目の静女が舞うと忽ち雨が降り続いたので、法皇から「日本一」の宣旨を賜ったという。その後、義経に見初められて愛妾・静御前となるのだが、歴史書「吾妻鏡」によれば、義経が兄・頼朝から疎まれ追われるようになると、文治元年(1185年)、義経とともに九州に落ち延びようとするも果たせず、義経と別れ、奈良「吉野山」で捕らえられた。鎌倉に護送されて尋問を受けた後、身籠っていた義経の子を出産したが、男児であったため殺された。頼朝の妻・北条政子の助命により解放されたが、その後の消息は不明、ということになっている。ただし、「吾妻鏡」以外には確実な資料がなく、「吾妻鏡」も歴史書とはいうものの、北条氏による編纂のため、殊更に頼朝の残忍さを強調し、政子の優しさを礼賛しているともいわれるように、全て真実とは限らないらしい。
さて、上記の通り、静御前が解放されてからの消息は不明で、終焉の時期や場所はわかっておらず、墓とされる場所が全国各地にある。その中で、当地の伝説は次のとおりである。義経が奥州に潜伏していることを知った静御前は、義経の後を追って現・茨城県古河市下辺見に辿り着いたが、文治5年(1190年)、義経の死を知り、現・久喜市伊坂にあった「高柳寺」で出家したものの同年に病没し、「高柳寺」に葬られた。その後、「高柳寺」は移転したが、江戸時代後期の享和3年(1803年)、勘定奉行・関東郡代であった旗本・中川飛騨守忠英が「静女之墳」の墓標を建立し、明治19年に東北本線「栗橋」駅が新設されたのを機に、翌年には墓域の整備が行われたという。
なお、当地の静御前伝説の真偽は不明だが、「栗橋宿」は、江戸時代には関東三大関所の1つである栗橋関所が置かれ、日光街道・奥州街道が利根川を越える水陸交通の要衝であった。静御前伝説の存在は、栗橋から古河を通って奥州に向かうルートが、少なくとも平安時代末期には確立されていたと考える根拠の1つとなっているという。

巖松山 聖徳院 光了寺(がんしょうざんしょうとくいん こうりょうじ)。
場所:茨城県古河市中田1334。茨城県228号線(原中田線)「利根川堤」交差点から北東へ約400m。駐車場あり。
元は武蔵国高柳村(現・久喜市高柳)にあり、天台宗「高柳寺」と称したが、建保年間(1213~1218年)に住職・円崇興悦が親鸞の弟子となって浄土真宗「光了寺」と改めた。5世住職・感悦のときに高柳から栗橋に移転、更に6世住職・悦信のときに現在地に移ったという。現在は浄土真宗大谷派に属し、本尊は阿弥陀如来。他に、茨城県指定文化財の木造聖徳太子立像(鎌倉時代~南北朝時代頃)があり、静御前所縁の遺品として「蛙蟆龍の舞衣」・守本尊・懐剣などを所蔵している。


久喜市のHPから(静御前の伝承)

古河観光協会のHPから(義経の愛妾 静御前)


写真1:「静御前墳塋参道」石柱。「静御前の墓」の北東、約100m。


写真2:「静御前の墓」入口


写真3:「静御前の墓」(久喜市指定史跡)。伝説では、静御前を埋葬した侍女・琴柱が墓標代わりに杉の木を植えたとされ、近世には杉の大木があったというが、弘化3年(1846年)の利根川氾濫により枯れてしまったという。現在はイチョウの木が美しい。


写真4:「静女之墳」墓石


写真5:同上、中川飛騨守が建立した墓石


写真6:左:「義経招魂碑」、右:「静女所生御曹司供養塔」


写真7:左:静女塚碑、右:江戸時代の歌人・坐泉の歌碑「舞ふ蝶の 果てや夢見る 塚のかげ」


写真8:「光了寺」山門


写真9:同上、「祖師聖人 並 静女旧跡」碑


写真10:宝物殿。県指定文化財の木像聖徳太子立像などが収蔵されている。


写真11:同上、本堂。本堂前のヒバは推定樹齢180年、樹高13m・幹周1.7mで、「古河市の名木古木」に指定されている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水海城跡

2024-09-21 23:34:18 | 史跡・文化財
水海城跡(みずうみじょうあと)。
場所:茨城県古河市水海字神明耕地760外。中世城館「水海城跡」は、古河市水海の「神明神社」から「水海小学校」にかけての地域にあったと推定されている。国道354号線「水海小入口」交差点から西へ約170m、突き当りY字路を左折(南西へ)して約190mで右折(西へ)、約40mで「神明神社」参道入口。駐車スペースあり。上記の突き当りを右折(北西へ)して約120m進むと「水海小学校」グラウンドの南東端。駐車場なし。
「水海城跡」は、鎌倉公方の家臣・簗田氏が現・古河市水海に設けた居城跡で、新・旧2つの「水海城」があったといわれている。「旧水海城跡」は国道4号線「新利根川橋」北詰、現・利根川の堤防のすぐ北側辺りとされており、「蔵屋敷」という地名(小字)があるというが、現在は全く遺構等は見当たらない(「いばらきデジタルまっぷ」では、「伝水海城跡」となっている。)。「(新)水海城跡」は、現在の「神明神社」~「水海小学校」付近にあったとされ(通称「城ノ内」というとのこと。)、平成2~4年に行われた発掘調査で「後北条様式」の城郭跡(曲輪跡)が確認されたという。ただし、現況は殆どが平坦な農地等で、遺構らしきものは見られない。簗田氏は、系図上では桓武平氏流大掾氏一門の平維茂の子・良衡を祖とし、近江国久田郡(現・滋賀県長浜市)にいたが、下野国梁田郡(現・栃木県足利市)にあった「簗田御厨」(「伊勢神宮」の荘園)に移住したことになっている。源義家に従って「前九年の役」(1051~1062年)に参戦し、その後「簗田御厨」に定住したとされているが、元々「簗田御厨」周辺の在地土豪だったのではないか、という説も有力となっている。「水海城」(新・旧)の築城時期・築城者は不明だが、旧城は南北朝時代末期頃(14世紀後半?)とされ、享徳4年(1455年)に第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移して初代古河公方となったとき、梁田氏は水海から「関宿城」(現・千葉県野田市)に本拠を移したが、天正2年(1574年)に後北条氏に敗れて「関宿城」を明け渡し、支城だった「水海城」に移ったというので、これが「(新)水海城」らしい。
さて、中世の話が長くなってしまったが、現・古河市水海の「三島神社」(前項)で書いたように、現・古河市水海は古代「猿島郡家」の所在地とする説が有力。水海は平坦な土地が広がっているところで、他の中世城館跡の所在地とはイメージが違うが、かつては東・西・南の三方を大きな沼に囲まれた場所で守りやすく、また、古代~中世の主要な交通手段だった水運の要所だったようだ。「水海」という地名は、もちろん、淡水の大きな沼に面していたことによるのだろうが、郡家の港=「御津(みつ)」があったことを示唆しているとする説もある。
ところで、奈良時代の正史である「続日本紀」宝亀4年(773年)の条に、「下総国猿嶋郡の従八位上・日下部浄人に安倍猿嶋臣(という姓)を賜る」という記事がある。この「日下部」氏の本拠地が、現・古河市水海と前林の間にあった「釈迦沼」(現在は干拓されて田圃になっている。)周辺であり、現在も「日下部」という小字が残っているほか、近世の古文書では「釈迦沼」を「日下部沼」と称しているものがあるという。詳しい考証は省略するが、日下部改め安倍猿嶋臣一族のその後なども含めて興味深いので、関心があれば「総和町史」などを参照願いたい。ただ、1つ付け加えるなら、「続日本紀」神護景雲3年(769年)の条に「下総国猿嶋郡家で火事があり、穀物6400斛(石)が焼損した」という記事がある。これは所謂「神火事件」で、古代に横行した郡司等による不正隠蔽のための放火事件とみられている。古代の郡家関連施設の比定地における発掘調査によって焼け米(炭化米)が大量に出土することがあり、逆に、炭化米が大量に出土する場所が長者伝説と結びついていて、郡家関連施設の所在地と推定されることも多い(例えば、「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事)は常陸国那賀郡家・河内駅家、「金田官衙遺跡」(2021年4月17日記事)は常陸国河内郡家の比定地となっている。)。ところが、上記の「水海城跡」の発掘調査においては、8世紀後半頃の須恵器などの土器片が多く出土したが、炭化米は発見されなかった。このことについて、「総和町史」では、日下部浄人ら(安倍猿嶋臣一族)は新興勢力で、旧・郡司らを(放火事件で)追い落とし、8世紀後半頃に自らの本拠地である水海・前林付近に「猿島郡家」を移転させたのではないか、と推測している。

神明神社(しんめいじんじゃ)。
場所:茨城県古河市水海775。
由緒不明。祭神は天御中主命。明治6年村社に列格。


写真1:「神明神社」境内入口、社号標


写真2:同上、鳥居


写真3:同上、古い鳥居につけられていたであろう神額


写真4:同上、拝殿


写真5:同上、本殿。ちょうど屋根瓦の補修中? 丁寧な仕事ぶりでした。


写真6:「水海小学校」南側から。正門は北側。


写真7:同上、南東側から見る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関戸の宝塔

2024-09-07 23:32:13 | 史跡・文化財
関戸の宝塔(せきどのほうとう)。
場所:茨城県古河市関戸906(コミュニティセンター「関戸田園都市センター」内)。茨城県道190号線(境間々田線)「関戸」交差点から南に約100m。駐車場あり。ただし、扉が閉鎖されていることが多いようなので、注意。
「関戸の宝塔」は、総高201cmの石塔で、現・栃木県宇都宮市大谷産出の凝灰岩(いわゆる大谷石)製。基礎部分は後補とみられるが、円柱形の塔身、笠、相輪からなり、大ぶりな笠部は本瓦葺風で、笠裏には軒や垂木も彫り出し、木造建築を模したような写実的な造作となっていて、下面には瓔珞や風鐸を付けたとみられる小孔が彫られている。円柱状の塔身上部の四面には宝珠型光背と蓮座を伴う金剛界四方仏(阿弥陀如来・薬師如来・金剛界大日如来・釈迦如来)の種子(梵字)を刻み、その間に更に小さく4つの種子(弥勒菩薩・文殊菩薩・普賢菩薩・観音菩薩)が彫られている。塔身の金剛界大日如来(バン)種子の下に「敬白」より始まる7行の銘文が刻まれているが、風化が激しく判読はかなり困難であるものの、「父母成仏」を願って造立された供養塔であるとみられている。「大願主」(造立者)の名は全く読み取れず、年号は□安4年と、一部判別し難い状態となっている。この年号については、従来、鎌倉時代の「弘安4年」(1281年)とされてきたが、□の文字は人偏らしく、平安時代末期の「仁安4年」(1169年)と考えられるようになった。なお、従来「宝塔」と称されるが、形態からすれば「笠塔婆」で、12世紀代には各地で石製や木製の笠塔婆が造立されているが、「関戸の宝塔」はそれらの初現期の重要資料とされ、古河市指定文化財となっている(旧・総和町の指定文化財第1号)。この塔の造立年代が平安時代末期にまで遡り、また、精巧な造りなどからすると、京都文化の影響が考えられ、造立者が当地の有力者であれば、当時の領主・下河辺氏の一族だったのではないか、と推定されている。下河辺氏は、俵藤太こと藤原秀郷の子孫といわれ、平安時代末期、太田行義が八条院(暲子内親王、第74代・鳥羽天皇の皇女)領の荘園・下総国下河辺荘の荘官として下河辺荘司と称し、下河辺氏を名乗った。行義は源頼政の郎等として活動し、以仁王の挙兵(治承4年(1180年))のとき、行義が敗死した頼政の首を本領である現・古河市に持ち帰り、「頼政神社」を創建したという伝説がある(「頼政神社」(2022年1月8日記事))。そして、この行義の兄が小山氏の祖・小山正光で、「下野国府」官僚組織の実質的なトップである下野大掾職を務め、官道交通路を管轄する御厩別当職も兼ねていたというところから、大谷石の石材採取や運搬には小山氏の協力が不可欠だっただろうと考えられている。


写真1:向かって右から、旧「金剛寺 不動堂」、「関戸の宝塔」覆屋、石仏等


写真2:旧「金剛寺 不動堂」。元は、天台宗「金剛寺」という寺院があったが、廃寺となり、堂宇としては不動明王を祀る「不動堂」のみが残っている。


写真3:「関戸の宝塔」保護のため設けられた覆屋と説明板


写真4:「関戸の宝塔」


写真5:同上。五輪塔の一部と思われる石造物も置かれている。


写真6:石仏等


写真7:近くにある浄土宗「関宝山 阿弥陀寺 千手堂」(通称:関戸観音)。堂本尊は千手観世音菩薩で、葛飾坂東観音霊場第29番札所(場所:茨城県古河市関戸1229、「関戸」交差点の北、約50m)。現在は観音堂のみとなっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

等覚院供養塔(伝 藤原高房供養塔)

2024-08-10 23:32:34 | 史跡・文化財
等覚院供養塔(とうがくいんくようとう)。伝 藤原高房供養塔(でん ふじわらのたかふさくようとう)。
場所:茨城県筑西市泉356。国道294号線(常総バイパス)「中館西」交差点から北へ約1kmで左折(西へ)、約1.3km進んで「←泉」という案内板がでているところで左折(南へ)(この先、道路が狭いので注意。)、約350mで突き当りを左折(東へ)、道なりに約180m進むと「等覚院(廃寺)」境内。駐車スペースあり。
伝承によれば、延喜元年(901年)、左大臣・藤原時平の讒言により、右大臣・菅原道真が九州「大宰府」の大宰権帥に左遷されたとき、中納言・藤原高房も常陸国伊佐荘に流された。高房は延長2年(924年)に当地で亡くなり、法名を東岳院殿秋山道融大居士として葬られた。また、高房の子孫である平安時代後期~鎌倉時代初期の御家人で伊達氏宗家の初代当主・伊達朝宗が、主君・源頼朝の法名を清国院殿前柳営譲与崇和大居士として、その供養塔を高房のものと並べて建てたという。「東岳院」はその後、天台宗「弥勒山 等覚院」と称し、「施無畏山 延命院 観音寺」(前項)の末寺であったという。現在も大型の五輪塔(石塔)2基のほか、小型の塔や五輪塔の一部などが10数基残っていて、最も大きな塔(高房の供養塔とされるもの)が鎌倉時代末期頃に造られたと推定されている。
ただし、史実(「日本文徳天皇実録」など)によれば、藤原高房は、藤原北家魚名流の貴族で、天長4年(827年)に従五位下・美濃介に任じられて現地に下向、善政を行って評判が高く、その後も備後守・肥後守・越前守を歴任したが、最終的な官位は正五位下に留まり(三位以上が「公卿」で、五位は下~中級クラス)、仁寿2年(852年)に背中の悪性腫瘍により58歳で亡くなったとされる。よって、上記伝承とは時代も異なり、常陸国に流されたということもない。では、何故ここに高房の供養塔とされるものがあるのか、というと、供養塔の前に建てられた「伊達氏供養塔」石碑に関係があるらしい。戦国大名・伊達政宗で有名な奥州伊達氏は、平安時代末頃から当地(常陸国伊佐郡)の領主であった伊佐氏から起こっている。そして、伊佐氏は、天永2年(1111年)、藤原北家山蔭流の藤原定任の長男・実宗が常陸介に任じられて常陸国伊佐郡に居住し、伊佐氏を称したことに始まるとされる。その山蔭の父が高房であるので、伊達氏の祖先というのは誤りではない。ただ、何故、高房なのか、という疑問はある(因みに、山蔭は仁和2年(886年)に従三位・中納言に任じられている。)。また、高房や頼朝の供養塔でないとすると、誰の供養塔なのか。五輪塔としても中々の優品とみられるし、周囲の五輪塔の数などからみても、あるいは伊佐氏一族の供養塔群かもしれない。
蛇足:茨城県や千葉県に「高房神社」という名の神社がいくつかある。これらの祭神は殆ど武甕槌神(常陸国一宮「鹿島神宮」祭神)か建葉槌神(同二宮「靜神社」祭神)で、これは「鹿島神宮」の摂社「高房社」に関連するもののようである。一方、現・栃木県日光市湯西川に鎮座する「高房神社」は祭神を高房大明神とするが、古くは藤原高房霊としていた。下野国(現・栃木県)は、平将門を討った功績により下野守などに任じられた藤原秀郷(俵藤太)以来、藤原氏の勢力が強く、その先祖で評判の高い高房を祀ったといわれている。ただし、最近では、湯西川温泉を「平家落人の里」として宣伝しているためか、高房というのは、平重盛の六男・忠房の子、あるいは落ちのびた家臣団の長の平高房であり、温泉を発見したことなどもあって、死後に神として祀られたという話になっている。


写真1:「等覚院(跡)」境内入口


写真2:同上、入口正面奥にある「伝 藤原高房供養塔」


写真3:同上、玉垣の前に「伊達氏供養塔」石碑が建てられている。昭和9年に伊達氏の遠孫という人物が建てたものらしい。


写真4:同上、向かって右が藤原高房、左が源頼朝の供養塔とされているようである。


写真5:「等覚院(跡)」から北西約70m(直線距離)にある「泉古墳」(場所:筑西市泉326)。直接関係はないと思われるが、近いので、訪問した。方墳?、墳頂に「稲荷神社」がある。


写真6:同上、「稲荷神社」鳥居


写真7:同上、「稲荷神社」社殿
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真壁城跡

2024-06-01 23:33:38 | 史跡・文化財
真壁城跡(まかべじょうあと)。
場所:茨城県桜川市真壁町古城377(「桜川市立真壁体育館」の住所)。茨城県道41号線(つくば益子線)「古城」交差点から北へ約120m、右側(東側)に「真壁体育館」駐車場への入口がある。「真壁体育館」のある場所が「真壁城」本丸跡とされる。
「真壁城跡」は、平安時代末から戦国時代にかけて常陸国真壁郡周辺を支配した真壁氏の居城(中世城館)跡とされる。常陸平氏の惣領家・多気氏の祖とされる多気直幹の四男・長幹が承安2年(1172年)に真壁郡の郡司となり、真壁氏を名乗った。長幹が源頼朝に臣従して御家人となった後、南北朝時代には、真壁氏は最初に南朝方、後に北朝方について、室町幕府の御家人(京都扶持衆)となったが、応永30年(1423年)、大掾氏の一族である小栗氏の反乱に加担したとして「真壁城」は落城、第11代城主・秀幹は戦死した。永享8年(1436年)、庶子家出身の朝幹が所領を回復し、家督を承継した(第13代)。戦国時代には佐竹氏の家臣となっていたため、慶長7年(1602年)に佐竹氏が出羽国秋田に移封となると、これに第19代・房幹らが随行し、「真壁城」は空城となった。その後、浅野氏が城主となったが、真壁を領有したまま「笠間城」(現・茨城県笠間市)に移ったため、「真壁城」は廃城になったとされる(なお、笠間藩の陣屋は旧・真壁町市街地にあった。)。
昭和56年以降の発掘調査の結果、「真壁城跡」は15世紀中頃(室町時代後半)に方形の館が築かれ、その後の改変を経て、現在の遺構は16世紀後半(戦国時代~安土桃山時代)頃のものとされている。土塁や堀跡などが良好に残っていることから、昭和9年に茨城県指定史跡、平成6年に国指定史跡となった。
さて、伝承によれば、「真壁城」は、真壁長幹が真壁郡司になったとき、「真壁郡家(郡衙)」の場所に築城したのが最初、といわれている。ただし、「真壁城跡」の発掘調査では、15世紀前葉以前の遺構は出土していない。一方で、少なくとも奈良時代~平安時代初期の白壁郡(延暦4年(785年)に真壁郡に改称)の郡家は現・桜川市真壁町下谷貝の「下谷貝長者池遺跡(谷貝廃寺跡)」(前項)付近にあったという説が有力である。そうすると、「真壁郡家」は「真壁城跡」付近に移転したのか(もちろん、最初から「真壁城跡」付近にあったとする説もある。)、移転したとするなら、いつ移転したのか、なぜ移転したのか、という問題も出てくるが、そのあたりの解明は今のところ難しそうである。


桜川市観光協会のHPから(国史跡 真壁城跡)


写真1:「国指定史跡 真壁城跡」石碑。本丸跡とされる「真壁体育館」の駐車場にある。


写真2:「真壁城跡」説明版。この奥が二の丸方面。さらに奥には中城、外曲輪などがあったとされる。お城好き(マニア)なら、いろいろ蘊蓄があるのだろうが、このブログではスルー(申し訳ない。)。


写真3:「真壁体育館」と駐車場


写真4:「子育稲荷神社」鳥居。境内は、本丸跡の北側、本丸搦手虎口に当たる。


写真5:同上、社殿。「真壁城」廃城の後の創建という。


写真6:「史蹟 真壁城址」石碑。昭和10年建立。「子育稲荷神社」社殿の近くにある。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする