尾崎前山遺跡製鉄炉跡地(おさきまえやまいせきせいてつろあとち)。
場所:茨城県結城郡八千代町尾崎404ー3外。茨城県道20号線(結城坂東線)と同217号線(皆葉崎房線)終点(常総市崎房)の交差点(コンビニ「ファミリーマート常総崎房店」がある。)から北へ約550m、案内板が出ているところで右折(東へ)、約350m。遺跡前に駐車スペースはないが、更に東に約150m進むと「史跡見学者駐車場」がある。
「尾崎前山遺跡」は、台地下の斜面から水田にかけて鉄滓(てっさい。鉄を製錬する際に出る不純物)が散布していたことから、昭和53~55年に発掘調査が行われ、旧石器時代~奈良・平安時代の複合遺跡であることがわかった。特に、南側斜面から3基の製鉄炉跡や木炭・粘土などの材料置場・作業場などの製鉄施設が発見され、台地上では、平安時代の9世紀後半頃の竪穴住居跡や鍛冶工房跡が確認された。当初、製鉄炉は、住居・工房跡と同時期に操業された竪型の炉と考えられていたが、その後の研究の進展により、8世紀まで遡る箱型の炉であった可能性が指摘されているという。
さて、この製鉄炉跡が注目されるのは、平将門が支配していた可能性である。上記の通り、当地での製鉄の開始は将門の登場よりかなり早いとみられるが、将門の本拠地とされる下総国豊田郡(延喜4年(904年)に岡田郡から改称)に所在しているのがポイント。将門の居館があったとされる「石井営所」(「島広山・石井営所跡」(2012年10月13日記事))は当地から南に直線距離で約8.5km、「鎌輪之宿」(「平将門公鎌輪之宿址」2021年3月27日記事))は北東に同じく約5kmという位置にある。そして、軍記物語「将門記」に次のような内容の記事がある。即ち、承平7年(937年)11月、敵方・平良兼は、将門の駈使(くし。雑役夫)である丈部子春丸(はせつかべのこはるまる)を買収して、スパイとして使う。子春丸等は、将門の「石井営所」に偵察に出かける際、営所内に炭を搬入している。この炭について、居館の暖房用ではなく、製鉄炉で使用する木炭ではないか、と解する説があって、そうだとすれば、将門が製鉄のために大量に木炭を集めていたとも解されるという。この辺りの解釈は何とも言えないが、武器だけではなく、農業用にも鉄の需要が大きかったと思われるので、将門が当地の製鉄施設を活用したことは大いに考えられるだろう。
蛇足:古代の製鉄では、木炭もそうだが、砂鉄が大量に必要となる。「常陸国風土記」の香島(鹿島)郡の条に、慶雲元年(704年)に国司・采女朝臣が若松浜で(砂)鉄を採って剣を造った、という記事がある。当地は内陸だが、利根川と鬼怒川に挟まれた地域で、利根川・鬼怒川の砂地から砂鉄が採取できたらしい。
写真1:斜面に造られた「製鉄炉」跡。復元された「製鉄炉」は9世紀頃のものと想定された竪型炉のようだ。フェンスに囲まれ、扉に閂が掛かっているが、施錠されていない(見学後はきちんと閉めましょう。)。
写真2:同上。正面(南側)から見る。
写真3:同上、背後(北側)から見る。
写真4:同上、横(東側)から見る。
写真5:同上、上(北東側)から見下ろす。
場所:茨城県結城郡八千代町尾崎404ー3外。茨城県道20号線(結城坂東線)と同217号線(皆葉崎房線)終点(常総市崎房)の交差点(コンビニ「ファミリーマート常総崎房店」がある。)から北へ約550m、案内板が出ているところで右折(東へ)、約350m。遺跡前に駐車スペースはないが、更に東に約150m進むと「史跡見学者駐車場」がある。
「尾崎前山遺跡」は、台地下の斜面から水田にかけて鉄滓(てっさい。鉄を製錬する際に出る不純物)が散布していたことから、昭和53~55年に発掘調査が行われ、旧石器時代~奈良・平安時代の複合遺跡であることがわかった。特に、南側斜面から3基の製鉄炉跡や木炭・粘土などの材料置場・作業場などの製鉄施設が発見され、台地上では、平安時代の9世紀後半頃の竪穴住居跡や鍛冶工房跡が確認された。当初、製鉄炉は、住居・工房跡と同時期に操業された竪型の炉と考えられていたが、その後の研究の進展により、8世紀まで遡る箱型の炉であった可能性が指摘されているという。
さて、この製鉄炉跡が注目されるのは、平将門が支配していた可能性である。上記の通り、当地での製鉄の開始は将門の登場よりかなり早いとみられるが、将門の本拠地とされる下総国豊田郡(延喜4年(904年)に岡田郡から改称)に所在しているのがポイント。将門の居館があったとされる「石井営所」(「島広山・石井営所跡」(2012年10月13日記事))は当地から南に直線距離で約8.5km、「鎌輪之宿」(「平将門公鎌輪之宿址」2021年3月27日記事))は北東に同じく約5kmという位置にある。そして、軍記物語「将門記」に次のような内容の記事がある。即ち、承平7年(937年)11月、敵方・平良兼は、将門の駈使(くし。雑役夫)である丈部子春丸(はせつかべのこはるまる)を買収して、スパイとして使う。子春丸等は、将門の「石井営所」に偵察に出かける際、営所内に炭を搬入している。この炭について、居館の暖房用ではなく、製鉄炉で使用する木炭ではないか、と解する説があって、そうだとすれば、将門が製鉄のために大量に木炭を集めていたとも解されるという。この辺りの解釈は何とも言えないが、武器だけではなく、農業用にも鉄の需要が大きかったと思われるので、将門が当地の製鉄施設を活用したことは大いに考えられるだろう。
蛇足:古代の製鉄では、木炭もそうだが、砂鉄が大量に必要となる。「常陸国風土記」の香島(鹿島)郡の条に、慶雲元年(704年)に国司・采女朝臣が若松浜で(砂)鉄を採って剣を造った、という記事がある。当地は内陸だが、利根川と鬼怒川に挟まれた地域で、利根川・鬼怒川の砂地から砂鉄が採取できたらしい。
写真1:斜面に造られた「製鉄炉」跡。復元された「製鉄炉」は9世紀頃のものと想定された竪型炉のようだ。フェンスに囲まれ、扉に閂が掛かっているが、施錠されていない(見学後はきちんと閉めましょう。)。
写真2:同上。正面(南側)から見る。
写真3:同上、背後(北側)から見る。
写真4:同上、横(東側)から見る。
写真5:同上、上(北東側)から見下ろす。