鴨之宮神社(かものみやじんじゃ)。常陸国風土記遺称地「鴨之宮」跡。
場所:茨城県行方市玉造甲。茨城県道116号線(鹿田玉造線)沿い「玉造郵便局」付近から南東へ約170m進んで左折(北東へ)、約600mで参道入口。そこから北側の台地上に上る。徒歩数分。駐車場なし。
「鴨の宮」(前項)で書いたとおり、「常陸国風土記」行方郡の条によれば、日本武尊が、行方郡と茨城郡の郡境の地で飛び渡る鴨(カモ)を射落とし、その地を「鴨野」と称するという内容の記述がある。現・行方市玉造に「加茂」という地名(字)があって、これが遺称地であることが通説になっている。この事蹟を記念するために、後世、日本武尊を祀り「鴨の宮」が創建されたというのだが、その旧社地が、今は廃線になった鹿島鉄道「玉造町」駅の跡地の東、約500m(直線距離)のところにある。旧「玉造町」駅の東側は小高い丘になっていて、そこに中世城館「玉造城」があった。その東側に「鴨の宮」が鎮座していたのだが、昭和2年の鹿島鉄道敷設工事の際に境内が大きく削られてしまったため、関口貞之助氏が境内の一画に「鴨の宮再建」という碑を建てた。昭和50年に「石神神社」跡地に前項の「鴨の宮」が建てられたが、同地にある説明板(平成14年、玉造町教育委員会によるもの)では昭和50年に「遷宮」となっている一方、当地の説明板(平成30年、玉造郷土文化研究会によるもの)では「分祀」としている。当地には、平成14年に玉造町教育委員会により「常陸国風土記遺称地「鴨の宮」跡」という石碑が建てられたが、当地には地名(字名)として「鴨の宮」が残っており、「跡」ではない、と強調されている。
写真1:「鴨之宮神社」参道入口付近にある説明板
写真2:境内
写真3:石祠。この直ぐ後ろが切通しになっていて、鹿島鉄道が通っていた。
写真4:「常陸国風土記遺称地 鴨之宮神社 倭武尊像」石碑
写真5:日本武尊が弓を引いている銅像
写真6:「大山守大塲家郷士屋敷」薬医門。(場所:茨城県行方市玉造甲4533。「鴨之宮神社」参道入口の南西、約350m。駐車場あり。)。大塲家は江戸時代歴代に亘り水戸藩の「大山守」を務めた家柄で、この住宅は、水戸藩初代藩主・徳川頼房が領内巡視の折、宿舎兼水戸藩南部の藩政事務所として寛永年間(1624~1644年)に建てられたものという。茨城県指定有形文化財。なお、見学には入館料が必要。
場所:茨城県行方市玉造甲。茨城県道116号線(鹿田玉造線)沿い「玉造郵便局」付近から南東へ約170m進んで左折(北東へ)、約600mで参道入口。そこから北側の台地上に上る。徒歩数分。駐車場なし。
「鴨の宮」(前項)で書いたとおり、「常陸国風土記」行方郡の条によれば、日本武尊が、行方郡と茨城郡の郡境の地で飛び渡る鴨(カモ)を射落とし、その地を「鴨野」と称するという内容の記述がある。現・行方市玉造に「加茂」という地名(字)があって、これが遺称地であることが通説になっている。この事蹟を記念するために、後世、日本武尊を祀り「鴨の宮」が創建されたというのだが、その旧社地が、今は廃線になった鹿島鉄道「玉造町」駅の跡地の東、約500m(直線距離)のところにある。旧「玉造町」駅の東側は小高い丘になっていて、そこに中世城館「玉造城」があった。その東側に「鴨の宮」が鎮座していたのだが、昭和2年の鹿島鉄道敷設工事の際に境内が大きく削られてしまったため、関口貞之助氏が境内の一画に「鴨の宮再建」という碑を建てた。昭和50年に「石神神社」跡地に前項の「鴨の宮」が建てられたが、同地にある説明板(平成14年、玉造町教育委員会によるもの)では昭和50年に「遷宮」となっている一方、当地の説明板(平成30年、玉造郷土文化研究会によるもの)では「分祀」としている。当地には、平成14年に玉造町教育委員会により「常陸国風土記遺称地「鴨の宮」跡」という石碑が建てられたが、当地には地名(字名)として「鴨の宮」が残っており、「跡」ではない、と強調されている。
写真1:「鴨之宮神社」参道入口付近にある説明板
写真2:境内
写真3:石祠。この直ぐ後ろが切通しになっていて、鹿島鉄道が通っていた。
写真4:「常陸国風土記遺称地 鴨之宮神社 倭武尊像」石碑
写真5:日本武尊が弓を引いている銅像
写真6:「大山守大塲家郷士屋敷」薬医門。(場所:茨城県行方市玉造甲4533。「鴨之宮神社」参道入口の南西、約350m。駐車場あり。)。大塲家は江戸時代歴代に亘り水戸藩の「大山守」を務めた家柄で、この住宅は、水戸藩初代藩主・徳川頼房が領内巡視の折、宿舎兼水戸藩南部の藩政事務所として寛永年間(1624~1644年)に建てられたものという。茨城県指定有形文化財。なお、見学には入館料が必要。