神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

鴨之宮神社

2023-04-29 23:32:43 | 神社
鴨之宮神社(かものみやじんじゃ)。常陸国風土記遺称地「鴨之宮」跡。
場所:茨城県行方市玉造甲。茨城県道116号線(鹿田玉造線)沿い「玉造郵便局」付近から南東へ約170m進んで左折(北東へ)、約600mで参道入口。そこから北側の台地上に上る。徒歩数分。駐車場なし。
「鴨の宮」(前項)で書いたとおり、「常陸国風土記」行方郡の条によれば、日本武尊が、行方郡と茨城郡の郡境の地で飛び渡る鴨(カモ)を射落とし、その地を「鴨野」と称するという内容の記述がある。現・行方市玉造に「加茂」という地名(字)があって、これが遺称地であることが通説になっている。この事蹟を記念するために、後世、日本武尊を祀り「鴨の宮」が創建されたというのだが、その旧社地が、今は廃線になった鹿島鉄道「玉造町」駅の跡地の東、約500m(直線距離)のところにある。旧「玉造町」駅の東側は小高い丘になっていて、そこに中世城館「玉造城」があった。その東側に「鴨の宮」が鎮座していたのだが、昭和2年の鹿島鉄道敷設工事の際に境内が大きく削られてしまったため、関口貞之助氏が境内の一画に「鴨の宮再建」という碑を建てた。昭和50年に「石神神社」跡地に前項の「鴨の宮」が建てられたが、同地にある説明板(平成14年、玉造町教育委員会によるもの)では昭和50年に「遷宮」となっている一方、当地の説明板(平成30年、玉造郷土文化研究会によるもの)では「分祀」としている。当地には、平成14年に玉造町教育委員会により「常陸国風土記遺称地「鴨の宮」跡」という石碑が建てられたが、当地には地名(字名)として「鴨の宮」が残っており、「跡」ではない、と強調されている。


写真1:「鴨之宮神社」参道入口付近にある説明板


写真2:境内


写真3:石祠。この直ぐ後ろが切通しになっていて、鹿島鉄道が通っていた。


写真4:「常陸国風土記遺称地 鴨之宮神社 倭武尊像」石碑


写真5:日本武尊が弓を引いている銅像


写真6:「大山守大塲家郷士屋敷」薬医門。(場所:茨城県行方市玉造甲4533。「鴨之宮神社」参道入口の南西、約350m。駐車場あり。)。大塲家は江戸時代歴代に亘り水戸藩の「大山守」を務めた家柄で、この住宅は、水戸藩初代藩主・徳川頼房が領内巡視の折、宿舎兼水戸藩南部の藩政事務所として寛永年間(1624~1644年)に建てられたものという。茨城県指定有形文化財。なお、見学には入館料が必要。
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鴨の宮

2023-04-22 23:31:31 | 神社
鴨の宮(かものみや)。
場所:茨城県行方市玉造乙。茨城県道116号線(鹿田玉造線)沿い「玉造第一保育園」の北東の三叉路から南東へ約110mで参道入口(案内板がある。)。民家の間の石段を上り、数分。駐車場なし。
「常陸国風土記」行方郡条に「倭武天皇(日本武尊。ヤマトタケル)が無梶河(梶無川)から行方郡と茨城郡の郡境の地に着いたところ、鴨(カモ)が飛び渡っていた。天皇が射ると、弓弦の音がすると同時に鴨が落ちてきた。この地を鴨野という。土壌が痩せていて草木は生えない。」(現代語訳)という記述がある。現・行方市玉造に「加茂」という地名(字)があって、これが遺称地とされている。「常陸国風土記」では、ヤマトタケルが鴨を射落としたことから、その地名が名付けられたような書きぶりであるが、そうではなくて、古くから賀茂氏の一族が住んでいた地域なのだろうと思われる(なお、茨城県桜川市に賀茂氏と関係がありそうな式内社「鴨大神御子神主玉神社」(2018年8月25日記事)がある。)
さて、「鴨の宮」は、後世、日本武尊の事蹟を記念するために村人らによって祀られたということだが、本来祀られた場所は別にあり、昭和2年、関東鉄道(平成19年に廃線になった鹿島鉄道鉾田線)の建設工事により境内が削られたため、昭和50年に、元は「石神神社」(通称:石神稲荷大明神)があった当地に遷座したとされている(元地については次項で。)。


写真1:「鴨の宮」参道入口付近の路傍にある案内板。


写真2:鳥居


写真3:鳥居の横にある倭武天皇(日本武尊)が弓を引く銅像(宮地久子氏作)と説明板


写真4:燈籠と石祠


写真5:境内の「石神神社遺跡」石碑。元の「石神神社」は「大宮神社」(2023年2月18日記事)に合祀されている。
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笠掛山 神宮寺 宝幢院

2023-04-15 23:31:44 | 寺院
笠掛山 神宮寺 宝幢院(かさかけさん じんぐうじ ほうどういん)。
場所:茨城県行方市玉造乙69。「玉造郵便局」前から茨城県道116号線(鹿田玉造線)を北に約550m(途中、「鹿島鉄道玉造町駅跡」に突き当たるので、東にクランクあり。)の丁字路を右折、その先、二岐に分かれるが、左が当寺院正面(約170m)、右が当寺院の東側に行く道路で、駐車場は右側を進む(約250m)。
寺伝によれば、天台宗開祖・最澄(伝教大師)の高弟・最仙上人が延暦24年(805年)に開創したという。現・行方市玉造乙の「大宮神社」(2023年2月18日記事)の別当寺として、元はその傍(神社境内の忠魂碑付近という。)にあって「神宮寺」と称していたが、その後荒廃した。観応2年(1351年)、天台宗総本山「比叡山 延暦寺」西塔地区の「宝幢院」の僧・東範和尚が当地に来住した際に再興して、東国布教活動の一つとした。以来、当寺院は「宝幢院」と称するようになった。中世には、地理的な条件から、常陸大掾氏の庶流・玉造氏の強い影響を受けるようになり、永享3年(1431年)には第13代玉造城主・玉造憲幹が梵鐘を鋳造寄進した(行方市教育委員会による現地説明板による。ただし、憲幹は1566年没とされるので、時代が合わない。)。また、本尊の十一面観世音菩薩像は、永正5年(1508年)、玉造氏の家臣を檀那として奉納されたものとされる。江戸時代に入り、寛永3年(1626年)の石高は35石8合で、末寺2ヵ寺・門徒13ヵ寺があった。しかし、寛永12年(1635年)焼失~寛文9年(1669年)再建、天和元年(1681年)焼失~貞享元年(1684年)再建、弘化元年(1844年)焼失~万延元年(1860年)再建と、度々火災に遭う。このうち、寛文9年の再建は、水戸藩第2代藩主・徳川光圀によるものとされ、理由は不明だが、光圀は江戸幕府第3代征夷大将軍・徳川家光の忠臣・梶定良の葬儀を当寺院で行うなど、当寺院を重んじたことが窺われる。なお、当寺院の銅鐘は、寛永12年の火災により、筋割れが入り鳴らなくなってしまったが、延宝8年(1680年)に江戸・神田の鋳物師・小沼播磨守藤原正永により鋳直され、再び鳴るようになった。幕末の水戸藩による大砲鋳造のための供出や太平洋戦争時の金属回収の際も、由緒ある名鐘として残された(昭和35年、茨城県指定文化財に指定。)。
蛇足:「比叡山 延暦寺」西塔地区に約14.5mの相輪橖(そうりんとう。「橖」は「塔」と同じ。)があるが、元は同地の「宝幢院」の付属施設だった。「幢」には塔の意味があり、比叡山「宝幢院」は、最澄が経典を納めるために計画されたが、最澄の存命中には完成せず、弟子の恵亮により嘉祥年間(848~851年)に惟仁親王(第56代清和天皇)の御願寺として建立されたという。比叡山「宝幢院」は鎌倉時代~南北朝時代に廃絶して現存しないが、相輪橖は残っている(現在のものは明治29年の再建、昭和45年解体修理。)。現・行方市西蓮寺の「尸羅度山 曼殊院 西蓮寺」(2023年2月4日記事)にも「相輪橖」があり、上記のような事情を踏まえると、常陸国における天台宗の教線拡大において「西蓮寺」や当寺院に対する本山の期待が高かったことが窺われる。


写真1:「宝幢院」境内入口。寺号標、山門(仁王門)。山門は明和4年(1767年)再建。


写真2:石の仁王像(阿形)。安永5年(1776年)安置。山門が再建された後も、再び焼失を恐れて仁王像はなかなか作られなかったが、石像ならば燃えることはないとして、石の仁王像が作られたという。


写真3:鐘楼


写真4:銅鐘。竜頭までの高さ140cm、径77cm。


写真5:本堂
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常陸国の古代東海道(その5・曽尼駅)

2023-04-08 23:33:15 | 古道
曽尼駅家の跡(そねのうまやのあと)。
場所:茨城県行方市玉造甲3518付近(石碑の場所)。国道354号線と茨城県道50号線(水戸神栖線)の「泉北」交差点から県道を南東へ約650m。葬祭場「霞ヶ浦セレモニーホール」駐車場の南東端の西側にある民家の前。駐車場なし。
「常陸国風土記」行方郡の条に、「ここ(提賀の里)から北に、曽尼(そね)の村がある。昔、佐伯(土着の先住民)の疏禰毘古(ソネヒコ)という者が住んでいて、その名をとって村の名とした。今、ここに駅家を置き、曽尼の駅という。」(現代語訳)という記述がある。「提賀」は現・行方市手賀が遺称地で、当地の南、約1.6kmのところに「手賀長者館跡」(2023年2月11日記事)がある。旧・玉造町域では県道50号線が台地の分水嶺を走っており、旧・北浦町境ともほぼ一致している。このため、行方郡の古代東海道も現・県道50号線とほぼ同じルートだったと考えられる。こうしたことから、「常陸国風土記」でいう「曽尼」駅家の比定地としては、現・行方市玉造甲の通称「泉」地区というのが通説になっている。ただし、「曽尼」の遺称地はなく、駅家跡のような遺跡も未発見のため、ピンポイントの場所は特定されていない。そのような中、当地に「曽尼駅家の跡」碑が建てられたのは、ここが通称「うまやの畑」と呼ばれていたことによる。伝承によれば、ここには、土塁と空堀に囲まれた約3haという広い土地があったという。因みに、県道50号線は更に直線的に北上し、現・茨城空港・航空自衛隊百里基地の東側に至る。古代東海道の終点は「常陸国府」(現・茨城県石岡市。2018年1月6日記事)なので、どこかで北西に進路変更する必要があり、その屈曲点がこの辺りとも考えられる。また、単純に北上するルートも支路として考えられ、「常陸国風土記」那賀郡の条に見える「平津(ひらつ)」駅家(現・茨城県水戸市平戸町を遺称地とするのが通説。「大串貝塚」(2018年7月14日記事)の東側あたり。)に向かった可能性が高い。
蛇足:「延喜式」に記載された「曾禰」駅家が、「常陸国風土記」の「曽尼」駅家と同じものかどうかについて論争があったが、現在では別地であるというのが通説となっている。「延喜式」の「曾禰」も遺称地が無く、河岸段丘等を示す地形地名だろうとされていて、比定地は現・茨城県土浦市上高津付近が有力とされている(「曾禰駅」については2022年3月26日記事参照)。「常陸国風土記」では、「曽尼」という地名は昔住んでいた佐伯の名から採った、ということになっているが、どうだろうか。「曽尼」も、「延喜式」の「曾禰」と同じような地形地名だとすると、「夜刀神社」(前項)下の「椎井池」付近は谷津になっているので、それに対する高台という意味かもしれない。その場合、曽尼村は駅家を維持するための駅戸の集落だろうということを前提として、村としては現在の「玉造小学校」や「行方市泉野球場」付近を想定する説もある。


写真1:「曽尼駅家の跡」碑と説明板


写真2:「曽尼駅家の跡」碑


写真3:同上、北西側から見る。奥が茨城県道50号線。手前の狭い道路もしばらく直線的に続いており、こちらが古代東海道の跡だろうか。
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夜刀神社(常陸国式外社・その17)

2023-04-01 23:35:32 | 神社
夜刀神社(やとじんじゃ)。愛宕神社の境内社「夜刀神社」。
場所:茨城県行方市玉造甲3451-1。国道354号線と茨城県道50号線(水戸神栖線)の「泉北」交差点から、県道を南へ約120m(ホームセンター「コメリ玉造店」がある。)で右折(南西へ)、約500m進んで「行方市泉配水場」の案内板のところを左折(東へ)して、直ぐに右折(南へ)、約250mで二岐に分かれるところで左へ(南~南東へ)、約120mのところで右折(南西へ)、約130m。駐車場有り。文字で書くとわかりにくいが、谷の下へ下へ進む感じ。
「常陸国風土記」行方郡の条に、次のような記述がある。「古老が言うには、第26代・継体天皇の時代に箭括氏麻多智(やはずのうじのまたち)という者がおり、郡家より西の谷の葦原を開墾して新田を作った。その時、夜刀の神たちが群れ来て色々と妨害したため、田を耕すことができなかった(俗に、蛇のことを夜刀の神という。身は蛇のようだが、頭に角がある。・・・郡家の側の野原に多く棲んでいる。)。麻多智は大いに怒り、鎧兜を着け、矛を取って、夜刀の神を打ち殺して追い払った。そして、山の入口の堀に境界を示す柱を立てて、「これより上は神の土地とすることを許す。これより下は人が田を作る場所とする。今後は私が神主になって永く敬い祀るので、どうか祟ったり恨んだりしないようにしてほしい。」と告げ、社を設けて祀り始めた。そして、新田を増やして10町余になり、麻多智の子孫が代々神主を受け継ぎ、今も絶えていない。その後、第36代・孝徳天皇の時代に、壬生連麿(みぶのむらじまろ)がこの谷を治めることになり、池に堤を築いた。そのとき、夜刀の神は、池のほとりの椎の木に登って集まり、なかなか去らなかった。麿は、大声で「堤を築くのは民を活かすためである。どこの天津神か国津神かわからないが、なぜ従わないのか」と叫び、労役の民には「目に見える様々な物や魚・虫の類は、憚り恐れることなく全て打ち殺せ」と命じた。すると、妖しい蛇たちは逃げ隠れた。その池は、今は椎井の池と呼ばれている。」(現代語訳、一部省略)
「夜刀の神」は角のある蛇となっているが、実際は谷津(やつ。低湿地)に住む土着の民で、ヤマト政権側の新田開発を妨害したのを、ヤマト政権側が武力で征圧した話と考えられる。そして、箭括氏麻多智のときには、征圧した後は神として祀り、住む場所を分けている一方、時代が下って、壬生連麿のときになると、皇化を振りかざして脅し、問答無用で追い払っていることが対比されている。なお、壬生連麿は茨城国造として行方郡を建郡したことが「常陸国風土記」に記されているが、箭括氏麻多智の素性は不明で、弓矢や太刀を擬人化した創作上の人物ではないかという説もある。
さて、現在も「椎井の池」とされる場所があり、その湧水の上の台地に「愛宕神社」と「夜刀神社」が鎮座している。元は、現在地の南、約200mの台地の端、字「滝の入」というところにあった「夜刀神社」に、享禄2年(1529年)、常陸大掾氏の一族で玉造城第13代城主・玉造憲幹が京都の「愛宕神社(愛宕大権現)」(現・京都市右京区)から分霊を勧請して合祀し、それ以来、「愛宕神社」と称されるようになった。現在地への遷座は、第2代水戸藩主・徳川光圀によるものという。現在の祭神は、「愛宕神社」が軻遇突知命、「夜刀神社」が夜刀神。


写真1:「椎井の池」。別名「天龍の御手洗」(近くに「天龍寺」という寺院があり、当地を「天龍山」といったらしい。)。鳥居の扁額は「愛宕神社」となっている。


写真2:同上。水源地は玉垣で囲われている。


写真3:池の傍に立つ銅像(宮路久子氏の作)。壬生連麿だろうか。


写真4:今も水が湧いているのがわかる。なお、かつては、湧泉の南側の谷全部が「椎井の池」だったのだろうと思われる。


写真5:「愛宕神社」へは、池の左手から上る。


写真6:「愛宕神社」(通称:天龍山愛宕神社)社殿


写真7:境内の「天龍山愛宕神祠」石碑


写真8:境内社「夜刀神社」鳥居


写真9:社殿(祠)と社号標
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