神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

大井神社(茨城県水戸市)(常陸国式内社・その15の1)

2019-03-30 23:53:55 | 神社
大井神社(おおいじんじゃ)。
場所:茨城県水戸市飯富町3475。 茨城県道51号線(水戸茂木線)「飯富特別支援学校入口」交差点の1つ東の交差点から北へ約850m。駐車場有り(向かい側の「飯富集落センター」に駐車可)。
社伝によれば、第10代崇神天皇の御世、皇子・豊木入日子命(トヨキイリヒコ)を奉じて建借馬命(タケカシマ)が下総国から当地に北上してきた。建借馬命は「長者山」に館を構え、乾の方角(北西)である現社地に天照皇大神を祀ったのが当神社の創始である。奈良時代に、有力な郡領の宇治部氏が、初代仲国国造である建借馬命を奉斎した、という。建借馬命はもと肥の国(現・佐賀県及び熊本県)出身の「意冨臣(おふのおみ)」で、祖は神武天皇の長子・神八井耳命(カムヤイミミ)である。そして、「大井」という社号は元々「意冨比(おほひ)」で、「飫冨」とも書いたのが「飯富」に変化したのが鎮座地の地名の由来となっている、という。ただし、江戸時代には「鹿島大明神」と称していたようで、現在の社号に復したのは寛政年間(1789~1801年)とのことであるとのこと。因みに、「長者山」というのは「一盛長者」の伝説地で、おそらく「那賀郡家」・「河内駅家」・「那賀郡付属寺院」があった現・茨城県水戸市渡里町の辺りのことと思われる(「台渡里官衙遺跡群」2018年3月9日記事参照)。また、現在の祭神は建借馬命であるが、現・茨城県水戸市愛宕町の「愛宕山古墳」(2018年3月16日記事)は建借馬命の墳墓であるという伝承がある。
さて、当神社は「延喜式神名帳」に登載された常陸国式内社「大井神社」に比定される神社であるが、他に現・茨城県笠間市にも「大井神社」があり(次項予定)、論社ということになる。どちらも決め手がある訳ではないが、鎮座地(古代那賀郡)の関係もあって、当神社の方がやや有力のようである。


茨城県神社庁のHPから(大井神社)


写真1:「大井神社」鳥居と社号標(「延喜式内 大井神社」)


写真2:拝殿


写真3:本殿。拝殿ともども彩色豊か。


写真4:境内の「元宮 意冨比神社」


写真5:同、「八方神」


写真6:同、「意冨比弁財天 巽神社」。由緒からすれば「大井」は泉とは無関係であるはずだが。


写真7:同、「女龍神」。これも、由緒から離れて、水の神様と思われていたのかもしれない。

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曝井(茨城県水戸市)

2019-03-23 23:15:37 | 史跡・文化財
曝井(さらしい)。
場所:茨城県水戸市愛宕町2143-1。「愛宕山古墳」(前項)前から北~北東へ約250m。駐車場なし。坂道の途中にあり、道路も狭いので、徒歩で行くことをお勧めする。
「曝井」は、萬葉集・卷9-1745に「三栗の 中に向へる 曝井の 絶えず通はむ そこに妻もが」(中(那賀)に向って、流れてゆく「曝井」の泉のように絶えることなく通って行こう、そこに愛しい妻がいてくれたらもっと良いのになぁ)という歌があり、その「曝井」であるという場所がある。武蔵国にも那賀郡があり(現・埼玉県美里町及び本庄市辺り)、かつては、そちらの方に比定されるのが有力だった(現・埼玉県美里町広木に上記の萬葉歌碑がある。)が、現在では常陸国那賀郡の方が通説となっているようだ。というのも、上記の歌の作者は高橋虫麻呂とされており、虫麻呂は「常陸国風土記」の編纂にも関わった人物と言われている。そして、「常陸国風土記」那賀郡の条に「郡家の東北、粟河(現・那珂川)を渡ったところに駅家がある。河に近くて(あるいは、川に囲まれているので)「河内の駅家」といった。・・・その南に、坂の途中で水が湧き出ているところがある。・・・この泉を「曝井」という。周辺に住んでいる女たちは、夏になると集まってきて、布を洗い、日に曝して乾かすのである。」という記述がある。「河内の駅家」の所在地は確定されていないが、那珂川左岸に「上河合町」・「中河内町」という遺称地がある。現・水戸市の「曝井」は、その対岸(右岸)にある「愛宕山古墳」から那珂川に下りていく「瀧坂」という坂の途中にあり、今でも水が湧いている。坂の上には「曝台」という地名も残っているとのことで、ここが古代の「曝井」の遺跡であるということなったらしい。今では「萬葉曝井の森」という小公園として整備されている。
なお、「曝井」の比定地については、常陸国(現・茨城県)の中でも、「小岩井坂の湧き水」(茨城県水戸市渡里町)とする説、水戸市簡易水道の水源地である「田谷町の湧き水」(水戸市田谷町)とする説、那珂川左岸にある「清水洞の上公園」(茨城県那珂市東木倉219-1)内の泉とする説、等があるようだ。


水戸観光コンベンション協会のHPから(曝井)


写真1:「萬葉曝井の森」公園。「瀧坂」という石碑もある。


写真2:「曝井」石碑(明治11年建立)。直ぐ左側では今でも水が湧いている。


写真3:「常陸国風土記」の「曝井」の石碑


写真4:「曝井」万葉歌碑(昭和52年建立)
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台渡里官衙遺跡群(台渡里官衙遺跡・台渡里廃寺跡)

2019-03-16 23:32:21 | 史跡・文化財
台渡里官衙遺跡群(台渡里官衙遺跡・台渡里廃寺跡)(だいわたりかんがいせきぐん(だいわたりかんがいせき・だいわたりはいじあと))。
場所:茨城県水戸市渡里町2975他。国道123号線と茨城県道113号線(真端水戸線)の交差点から東へ約240m。道路の北側(説明板がある。)。駐車場なし。
「台渡里官衙遺跡群」は、那珂川を見下す標高約30mの台地上にあり、「長者山地区」、「観音堂山地区」、「南方地区」の3つの地区に分かれ、このうち「観音堂山地区」と「南方地区」は古代寺院跡、「長者山地区」は、常陸国那賀郡の郡家に附属する正倉(院)跡とされる(国指定史跡)。「観音堂山地区」の古代寺院は7世紀後半~末頃の創建で、9世紀後半に焼失したとされ、「南方地区」はその古代寺院が場所を変えて建て直された跡という珍しい遺跡となっている。「観音堂山地区」の古代寺院跡は東西126m、南北156mの範囲に講堂、金堂、塔、中門、経蔵(または鐘楼)と想定できる礎石建物跡が6棟確認され、「南方地区」の古代寺院跡では東西220~240m、南北210mの範囲に塔及び金堂と想定できる礎石建物跡が2棟確認されて、9世紀後半頃から造営されたものの、途中で10世紀初頭には廃絶したらしいという。「台渡里廃寺」という名は現在の地名から称されているものだが、出土物として多量の瓦、仏像の鋳型、相輪の一部とみられるものなど仏教寺院の遺物が発見され、その瓦に「徳輪寺」、「仲寺」と記されたものがあったので、当時はそういう名で呼ばれていたらしい。特に「仲寺」というのは、おそらく古代「仲郡(那賀郡)」の付属寺院であることを示す通称であると考えられる。一方、「長者山地区」も、大小2つの溝跡によって二重に囲まれた東西約300m、南北約200mの範囲に総瓦葺の礎石建物が整然と並んでいたことがわかり、当初は寺院跡と考えられていたが、現在では郡家付属の正倉(院)(正税の穀物や財物を納める倉庫)であるとされている。「那賀郡家(郡衙)」跡自体ははっきりしないが、もともと中世の「長者屋敷」があったところと言われており、「一盛長者」の伝説地でもある。因みに、渡里町の西隣に堀町という町名があるが、「堀」というのは「こほり(郡)」が訛ったものではないか、ともいわれる。また、渡里町というのも、台地下の那珂川を渡る場所という意味で、台地下には古代官道の「河内駅家」(「常陸国風土記」に、那賀郡家の東北に河内駅家があるとの記述がある。)があったと考えられている(渡里町の対岸(左岸)に現在も上河内町、中河内町という遺称地がある。)。
なお、「一盛長者」の伝説は凡そ次の通り。「台渡里の長者山(別名:飯盛山)に、一盛(一守)長者が住んでいた。八幡太郎こと源義家が「後三年の役(後三年合戦)」(1083~1087年)のとき十万余の大軍を率いて奥州に向かう途中、一盛長者の屋敷に立ち寄った。長者は酒宴を開き、三日三晩厚くもてなした。義家が奥州を平定しての帰路、再び長者屋敷に立ち寄ると、前にも増して豪華なもてなしを受けた。義家は、『このような恐ろしいほどの金持ちをこのままにしておいては、後々災いのもとになる。今のうちに滅ぼしてしまおう。』と考え、屋敷に火を放ち、一族を全滅させてしまった。この時、長者は秘密の抜け穴に逃れたが、追っ手に見つかり、出口の那珂川畔から家宝の金の鶏を抱いて川に身投げした。」
平安時代末~中世以降には各地に「長者」(単なる金持ちではなく、地域の権力者。豪族のイメージ)がいたという話が多いが、元は郡司や駅長の出身だったケースが多かったのだろうと思われる。逆にいうと、長者伝説のある場所の付近に郡家や駅家があったのではないかという手掛かりになるようである。


茨城県教育委員会のHPから(台渡里官衙遺跡群(台渡里官衙遺跡・台渡里廃寺跡))

水戸市のHPから(台渡里官衙遺跡群(台渡里官衙遺跡・台渡里廃寺跡))


写真1:「台渡里官衙遺跡群」の説明板。背後(北側)に見える八幡神社が遺跡の中心部。


写真2:「八幡神社」(通称:台渡里八幡神社)社号標。当神社は、元は同じ町内の「勝幢寺」内にあり、天保年間に「笠原神社」(水戸市文京)に移された後、昭和になってから当地に戻って来たという。


写真3:同上、鳥居


写真4:同上、一段高いところにある社殿。元は「廃寺」の塔址らしい。


写真5:「南方地区」の「台渡里廃寺跡」。八幡神社の向かい側(南)の狭い道路に入り、約90m。


写真6:同上。説明板以外は特に何もない。


写真7:「一盛長者伝説地」石碑。「長者山地区」はこの背後辺り。八幡神社前を北へ進み、交差点から東へ約300m。




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愛宕山古墳(茨城県水戸市)

2019-03-09 23:20:16 | 古墳
愛宕山古墳(あたごやまこふん)。
場所:茨城県水戸市愛宕町10-5(「愛宕神社」の住所)。国道118号線「盲学校前」信号の1つ南東の狭い道路に入り北東へ約200m、突き当りを左折(北西へ)、約150m。駐車場有り。道路が狭く、一方通行路もあるので注意。
「愛宕山古墳」は、那珂川右岸(西岸)の台地上に立地し、那珂川流域における最大規模の前方後円墳。茨城県内でも3~4番目くらいの大きさ(現・筑西市の「葦間山古墳」(2018年7月28日記事)と同じくらい)で、墳丘全長約137m、後円部径約78m、前方部幅約75m。
また、現在では宅地化されているが、約23m幅の周濠もあったとされている。後円部墳頂及び裾部において大形の円筒埴輪が発見されたことから、墳丘は有段で、3~4列に及ぶ埴輪列の存在が推定されるという。本格的な発掘調査が行われていないため、古墳の築造年代には諸説あるが、6世紀初頭と推定されている。被葬者については、その規模からみて仲国の首長とみられ、伝承では仲(那珂)国造の祖である建借間命(タケカシマ)の墳墓といわれている。
因みに、後円部墳頂には「愛宕神社」(通称:「水戸愛宕神社」)が鎮座している。社伝によれば、天慶元年(938年)に常陸大掾・平国香が現・京都府京都市の山城国「愛宕神社」(全国「愛宕神社」の総本社)から常陸国府中(現・茨城県石岡市)に分霊を勧請したのが創建。長和3年(1019年)に国香の子である大掾貞盛が旧水戸城内に安置し、更に元亀年中(1570~1572年)に領主・江戸但馬守道勝が水戸城外三の丸に遷座して、一般の崇敬参拝が許されるようになった。そして、天正8年(1580年)に佐竹義宣が現在地に移したという。祭神は火之迦具土神(ヒノカグツチ)で、水戸城の守護神であるとともに、火伏せ(防火)の神として広く信仰されている。


茨城県教育委員会のHPから(愛宕山古墳)

水戸観光コンベンション協会のHPから(愛宕神社)


写真1:「愛宕神社」鳥居と社号標


写真2:鳥居を潜って石段を上る。ここが「愛宕山古墳」の後円部。


写真3:後円部墳頂の「愛宕神社」拝殿(南向き)


写真4:同上、本殿


写真5:前方部から後円部を見る。


写真6:前方部から南東側を見る。


写真7:南側から前方部をみる。


写真8:南側からの参道にある鳥居。社殿が南向きなので、本来の参道はこちら側なのだろう。前方部から上って、一段高い後円部にある社殿に参ることになる。
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石船神社(茨城県小美玉市西郷地)(常陸国式外社・その6)

2019-03-02 23:03:00 | 神社
石船神社(いしふねじんじゃ)。
場所:茨城県小美玉市西郷地1551。国道6号線「小岩戸」から東に約750m。駐車場なし(向かい側に「西郷地公民館」があり、その広い駐車スペースに駐車可能だろうか。)。
創建年代は不明。事情が複雑なのだが、当神社が「日本三代実録」貞観16年(874年)に「常陸国飛護念神に従五位下を授ける」との記事がある、いわゆる式外社「飛護念神社(ひこねじんじゃ)」を合祀した神社であるとされている。式外社「飛護念神社」は、その後の公式記録等に登場せず、水戸藩第2代藩主・徳川光圀(水戸黄門)が漸く探し当てたが、極めて衰退していた。そこで、元禄9年(1696年)、「刺賀飛護念社(しがひこねしゃ)」に「先後稲荷明神(まつのちいなりみょうじん)」を引き「十日稲荷(とうかいなり)」を合わせて、「日本三社稲荷明神」とした、とされる。大正3年に村内の「石上神社」を合社し、「石船神社」と改称したが、「刺賀飛護念社」の祭神である「大物主命」・「事代主命」・「武雷男命」の3神が神社明細帳より抜けていたとして昭和17年に訂正した。次いで、昭和19年には、全社名を伝えようと、「石」、「飛護念」、「稲荷」を合わせた「石飛護念稲荷神社」と改称願いを出したが、終戦によりそのままになってしまった、という。合併した「石上神社」の社殿(小祠だが)が別にあって境内社のような形だが、「稲荷神社」でなく、何故「石船神社」と改号したのか、よくわからない。そもそも、「飛護念神」って、どうしてそういう名になっているのだろうか? 
さて、上記のような事情で、現在の祭神は「保食命」・「鳥石楠船神」・「大物主命」・「事代主命」・「武雷男命」となっている。ところが、河野辰雄著「常陸国風土記の探求 下」(1981年)では、「社記によると、天津彦根命が祭神になっている…」と書いてある。「社記」と合致しているか不明だが、更に「新編常陸国誌」を引いて、「飛護念は比古弥と読んで、彦根の字を当てているが、これは天津彦根命のことで、茨城国造の祖であったから、その管内に祭ったものであろう。」と記されている旨を紹介している。「天津彦根命」(アマツヒコネ、「古事記」では「天津日子根命」)は、アマテラスとスサノオの誓約の際にアマテラスの玉から生まれた男神5柱のうちの1柱で、多くの氏族の祖とされる。そして、「古事記」では「天津日子根命は茨木国造の祖」とあり、「国造本紀」では「天津彦根命の孫・筑紫刀禰(ツクシトネ)を茨城国造に定め賜う」、「新撰姓氏録」では「茨城国造天津彦根命12世の孫、建許呂命(タケコロ)」、「常陸国風土記」では「茨城国造の初祖・建祁許呂命(タケコロ)」となっており、茨城国造の初代が誰か、ということについては一定しないが、「天津彦根命」が茨城国造家の祖先神であることは確かなようである。であれば、「茨城郡」に「天津彦根命」を祀って「ヒコネ神社」とすることは大いにあり得る。長い月日の後に、当神社の所在そのものが不明となるようなことがあったので、祭神がわからなくなったこともあり得るだろう。それでも、どうして「飛護念」という字を当てたかという疑問は不明のままである。
それにしても、式内社に比べて式外社の研究は極めて少ない。どなたか奇特な方の研究を待ちたい。


写真1:「石船神社」境内入口の鳥居と社号標。社号標は2つあって、向かって右が「村社 石舩神社」、左が「正一位 日本三社稲荷大明神」。


写真2:正面の社殿


写真3:写真2の左手にある「石船神社」。祭神の「鳥石楠船神(トリノイワクスフネ)」は別名:天鳥船神とも言い、「古事記」では建御雷神の副使として葦原中国に派遣された神とされる。


写真4:境内の「如意輪観音堂」(?)
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