葦間山古墳(あしまやまこふん)。別名:徳持古墳(とくもちこふん)。
場所:茨城県筑西市徳持317。茨城県道14号線(筑西つくば線)「下中山」交差点から南東へ約1.9km(小貝川にかかる「養蚕橋」南詰から約250m)のところで右折(西へ)、約100m。駐車場なし。
「葦間山古墳」は、小貝川左岸(東岸)に位置する前方後円墳で、現在の大きさは全長約112m(前方部長約30m、後円部径82m)だが、前方部は畑になっており、大きく削平されている。このため、推定では全長約141mと推定され、茨城県西部では屈指の大きさとなる。昭和28年に測量調査が行われたが、発掘調査は行われていない。底部穿孔壺形土器が発見されているというが、築造時期には諸説あり、4世紀末から5世紀、6世紀前半などとされる。伝承では、新治国造の祖とされる比奈良珠命(ヒナラス)の墳墓であるともいうが、「常陸国風土記」によれば、比奈良珠命は崇神天皇の命で東国の賊徒を征伐するために派遣された人物とされるので、流石に時期が合わないだろう。しかし、新治国造の支配地域内では最大級の古墳であることから、新治国造一族の首長クラスの墳墓である可能性は高いようだ。筑西市指定文化財。
茨城県のHPから(葦間山古墳)
写真1:「葦間山古墳」。県道から入って直ぐ、後円部の北東側(古墳は南東向き)に突き当たる。
写真2:近寄ると、「市指定文化財 史跡 葦間山古墳」という木碑が立っている。そこから上を見ると墳頂に小祠がある。ここから上ることもできるが、こちらは裏参道?のようだ。
写真3:道路をぐるりと回っていくと、後円部の南西側に出る。撮影日はかなり濃い霧が出ていた。川が近いせいだろうか。
写真4:後円部南西側に鳥居があり、墳頂にはここから上る。
写真5:墳頂の小祠。祭神は不明だが、かつて「稲荷山」ともいわれていたとのことから、稲荷社だろうと思われる。
写真6:墳頂部から鳥居を見下ろす。かなり高さがあることがわかる(現在の高さ:約10.5m)。
写真7:後円部南西側の麓から前方部をみる(東方向)。括れがわかる。
写真8:前方部から後円部をみる(北西方向)。前方部は畑になっており、古墳の一部という感じがない。前方部の高さは約3m。後円部とはかなり高低差があるが、これが当初からのものかどうかは不明。
写真9:後円部から前方部をみる(南東方向)。幅が狭く、かなり削られているようだ。
場所:茨城県筑西市徳持317。茨城県道14号線(筑西つくば線)「下中山」交差点から南東へ約1.9km(小貝川にかかる「養蚕橋」南詰から約250m)のところで右折(西へ)、約100m。駐車場なし。
「葦間山古墳」は、小貝川左岸(東岸)に位置する前方後円墳で、現在の大きさは全長約112m(前方部長約30m、後円部径82m)だが、前方部は畑になっており、大きく削平されている。このため、推定では全長約141mと推定され、茨城県西部では屈指の大きさとなる。昭和28年に測量調査が行われたが、発掘調査は行われていない。底部穿孔壺形土器が発見されているというが、築造時期には諸説あり、4世紀末から5世紀、6世紀前半などとされる。伝承では、新治国造の祖とされる比奈良珠命(ヒナラス)の墳墓であるともいうが、「常陸国風土記」によれば、比奈良珠命は崇神天皇の命で東国の賊徒を征伐するために派遣された人物とされるので、流石に時期が合わないだろう。しかし、新治国造の支配地域内では最大級の古墳であることから、新治国造一族の首長クラスの墳墓である可能性は高いようだ。筑西市指定文化財。
茨城県のHPから(葦間山古墳)
写真1:「葦間山古墳」。県道から入って直ぐ、後円部の北東側(古墳は南東向き)に突き当たる。
写真2:近寄ると、「市指定文化財 史跡 葦間山古墳」という木碑が立っている。そこから上を見ると墳頂に小祠がある。ここから上ることもできるが、こちらは裏参道?のようだ。
写真3:道路をぐるりと回っていくと、後円部の南西側に出る。撮影日はかなり濃い霧が出ていた。川が近いせいだろうか。
写真4:後円部南西側に鳥居があり、墳頂にはここから上る。
写真5:墳頂の小祠。祭神は不明だが、かつて「稲荷山」ともいわれていたとのことから、稲荷社だろうと思われる。
写真6:墳頂部から鳥居を見下ろす。かなり高さがあることがわかる(現在の高さ:約10.5m)。
写真7:後円部南西側の麓から前方部をみる(東方向)。括れがわかる。
写真8:前方部から後円部をみる(北西方向)。前方部は畑になっており、古墳の一部という感じがない。前方部の高さは約3m。後円部とはかなり高低差があるが、これが当初からのものかどうかは不明。
写真9:後円部から前方部をみる(南東方向)。幅が狭く、かなり削られているようだ。