神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

葦間山古墳(徳持古墳)

2018-07-28 23:41:31 | 古墳
葦間山古墳(あしまやまこふん)。別名:徳持古墳(とくもちこふん)。
場所:茨城県筑西市徳持317。茨城県道14号線(筑西つくば線)「下中山」交差点から南東へ約1.9km(小貝川にかかる「養蚕橋」南詰から約250m)のところで右折(西へ)、約100m。駐車場なし。
「葦間山古墳」は、小貝川左岸(東岸)に位置する前方後円墳で、現在の大きさは全長約112m(前方部長約30m、後円部径82m)だが、前方部は畑になっており、大きく削平されている。このため、推定では全長約141mと推定され、茨城県西部では屈指の大きさとなる。昭和28年に測量調査が行われたが、発掘調査は行われていない。底部穿孔壺形土器が発見されているというが、築造時期には諸説あり、4世紀末から5世紀、6世紀前半などとされる。伝承では、新治国造の祖とされる比奈良珠命(ヒナラス)の墳墓であるともいうが、「常陸国風土記」によれば、比奈良珠命は崇神天皇の命で東国の賊徒を征伐するために派遣された人物とされるので、流石に時期が合わないだろう。しかし、新治国造の支配地域内では最大級の古墳であることから、新治国造一族の首長クラスの墳墓である可能性は高いようだ。筑西市指定文化財。


茨城県のHPから(葦間山古墳)


写真1:「葦間山古墳」。県道から入って直ぐ、後円部の北東側(古墳は南東向き)に突き当たる。


写真2:近寄ると、「市指定文化財 史跡 葦間山古墳」という木碑が立っている。そこから上を見ると墳頂に小祠がある。ここから上ることもできるが、こちらは裏参道?のようだ。


写真3:道路をぐるりと回っていくと、後円部の南西側に出る。撮影日はかなり濃い霧が出ていた。川が近いせいだろうか。


写真4:後円部南西側に鳥居があり、墳頂にはここから上る。


写真5:墳頂の小祠。祭神は不明だが、かつて「稲荷山」ともいわれていたとのことから、稲荷社だろうと思われる。


写真6:墳頂部から鳥居を見下ろす。かなり高さがあることがわかる(現在の高さ:約10.5m)。


写真7:後円部南西側の麓から前方部をみる(東方向)。括れがわかる。


写真8:前方部から後円部をみる(北西方向)。前方部は畑になっており、古墳の一部という感じがない。前方部の高さは約3m。後円部とはかなり高低差があるが、これが当初からのものかどうかは不明。


写真9:後円部から前方部をみる(南東方向)。幅が狭く、かなり削られているようだ。

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稲田神社(茨城県笠間市)(常陸国式内社・その8)

2018-07-21 23:51:21 | 神社
稲田神社(いなだじんじゃ)。別名:姫の宮。
場所:茨城県笠間市稲田763。国道50号線「稲田」交差点から南西に約550mのところ(北関東道「笠間西」ICまで4kmの案内標識があるところ)で右斜め(西へ)に入り、約100mで鳥居前。駐車場なし。なお、「稲田」交差点から南西に約350mのところで右折(西へ)して約300m進むと丘の上に上っていく道があり、社殿近くまで行ける。駐車スペース有り。
創建時期は不明。伝承によれば、現社地(宮山)の北西約300mのところに大きな椎(シイ)の木があり、「百枝の椎の木」と呼ばれていた。その木の下に「好井」という泉が湧いており、ある日、若者が水を汲みに来ると、そこに美しい女性が現れた。驚いた若者が主人を連れてくると、その女性は「私は稲田姫である。私は今、ここに降りて、住もうと思う。父母、夫婦の宮を建て、「好井」の水と三田(3枚の田)の稲で酒を作って供えてほしい。」と言われた、という。後に、現社地に遷座されたが、稲田姫が現れた場所には今も「奥の院」(本宮)がある。「延喜式神名帳」に登載された「稻田神社」に比定された式内社(名神大)。ただし、それ以外に「国史」等での記載がなく、神階も不明。なぜ当神社が名神大(社)とされたのかも不明。中世には「本宮」を中心として東西2里・南北2里(各約1km)が社地で、領田は17町(約17ha)あったとされるが、元亀・天正の頃(1570~1593年)兵火に遭って以来衰退し、慶長7年(1602年)に再興されたものの、元緑7年(1694年)に水戸藩第2代藩主・徳川光圀(水戸黄門)が参拝した折には、その零落ぶりを嘆いたという。なお、社殿は弘化2年(1845年)に再び焼失、嘉永元年(1848年)に再建されている。
現在の祭神は奇稲田姫之命(クシイナダヒメ)で、夫神の素戔嗚尊(スサノオ)を(主)祭神として祀る神社は数多い(「八雲神社」、「八坂神社」、「氷川神社」、「津島神社」、「廣峯神社」、「須賀神社」など)が、稲田姫を祀るのは珍しいだろう。どういう経緯があったのかは不明だが、祀ったのは出雲出身の一族だろう。当地が属した古代「新治郡」は「新治国造」が治めており、「常陸国風土記」では「比奈良珠命(ヒナラス)」を新治国造の祖とする記述があり、また「先代旧事本紀」では「美都呂岐命(ミツロキ)」の子の「比奈羅布命(ヒナラフ)」が初代「新治国造」に任命されたとしている。そして、「美都呂岐命」は「天穂日命」の八世孫であるとされるので、「出雲国造」と同祖であるという。ということで、当神社は「新治国造」が奉斎した神社であろうといわれている。
蛇足ながら、笠間市稲田地区は「稲田石」と呼ばれる花崗岩(所謂「御影石」)の産地で、白く美しい石材は国会議事堂やJR東京駅などにも大量に使用されている。花崗岩地帯の湧き水はミネラルや有機物を殆ど含まないため美味しい水になるといわれているところから、当地に素戔嗚尊ではなく、稲田姫が祀られたのは、水、米、酒といった柔らかなイメージからではなかったかと思う。


茨城県神社庁のHPから(稲田神社)


写真1:「稲田神社」境内入口の鳥居と社号標「縣社 稻田神社」


写真2:石段脇の社号標に「延喜式内 名神大社 稲田神社」とある。


写真3:拝殿


写真4:本殿


写真5:境内社「八雲神社」(夫神・素戔嗚尊)


写真6:脚摩乳神社(父神・脚摩乳命(アシナヅチ))


写真7:手摩乳神社(母神・手摩乳命(テナヅチ))


写真8:「奥の院」入口。向かって右側が「好井」、(写真に入っていないが)左側に小さな田圃がある。現社地から北の道を下り、そのまま北へ約160m進んだところで左折(西へ)、突き当り。


写真9:「奥の院」(本宮)


写真10:「太鼓石(太古石)」。ここに稲田姫が降臨したという磐座。
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大串貝塚

2018-07-14 23:02:45 | 史跡・文化財
大串貝塚(おおぐしかいづか)。
場所:茨城県水戸市塩崎町1064-1(「大串貝塚ふれあい公園」内「水戸市埋蔵文化財センター」の住所)。国道51号線「大串公園入口」交差点から南へ約450m、突き当りを左折(東へ)、約100mで「大串貝塚ふれあい公園」入口。駐車場有り。
「大串貝塚」は縄文時代前期に形成された貝塚遺跡で、涸沼川左岸(北岸)の台地の端にある。当時は河口から涸沼側に向かって入江状になっていたらしく、シジミ、アサリ、ハマグリ、サザエ、カキなど、淡水産と海産の貝が混在しているのが特徴である。台地上は削平され、テニスコートやプールを備えた「大串貝塚ふれあい公園」として整備されているが、その東側斜面の貝層が国史跡に指定されており、貝層の断面をガラス越しに見ることができる施設も設けられている。
「常陸国風土記」那賀郡の条に、「平津の駅家の西1~2里のところに、大櫛という岡がある。昔、巨人が居て、岡の上に立ったまま手を伸ばして海辺の砂浜の大ハマグリをくじって(ほじって)食べた。その貝殻が積もって岡となった。元は「大朽」といったが、「大きくくじった」というところから今は「大櫛之岡」と呼んでいる…」というような記述がある。この「大櫛之岡」が「大串貝塚」の台地とされ、その近くに古代官道の「平津」という駅家があったと推定されている(「平津」駅家は現・水戸市平戸付近に比定。)。これにより、「大串貝塚」は、文献に記録された貝塚としては世界で最古のものとされる。なお、巨人の大きさについて、「常陸国風土記」には、足跡の長さが40歩余(1歩=6尺=約1.8mとすると、約72m)、幅20歩余(同約36m)と記載されている。「常陸国風土記」には、この巨人の名前はないが、全国各地に巨人伝説があり、「ダイダラボッチ」(大太郎法師)、「ダイダラボウ」(大太郎坊)、「「デイラボウ」などと呼ばれている。「大串貝塚ふれあい公園」内にも「ダイダラボウ像」があり、大地の端に腰を掛けて那珂川河口(太平洋)方面を眺めている。
因みに、「大串貝塚」から南東に歩いていくと茨城県道40号線(内原塩崎線)に出られるのだが、そこに「折居神社」が鎮座している。創建時期は不明であるが、「武甕槌命」(タケミカヅチ)が東方の凶賊を征討したとき、この地に泉が湧いているのを見て馬から降り、霊水を飲まれたということから、後に村人が「武甕槌命」を祀ったという。県道を隔てた向かい側に「折居の井」がある。ここは台地の麓で、きれいな水が湧いていたのだろう。


関東農政局のHPから(さらに詳しく 大津貝塚と巨人伝説)

水戸市のHPから(大串貝塚ふれあい公園)


写真1:「大串貝塚ふれあい公園」入口近くにある「大串遺跡」石碑


写真2:公園内にある縄文時代の復元住宅


写真3:同、「巨人足跡池」。大きな足の形の池で、ダイダラボウの足跡? (「常陸風土記」の記載に合わせたのだろう、長さ約73m、幅約36mという。)


写真4:同、ダイダラボウ像。高さ15m25cmで、奈良の大仏(14.7m)より少し高い。国道51号線側からもよく見える。


写真5:「国指定史跡 大串貝塚」石碑。公園の南側斜面にある。


写真6:同、貝塚の状態が見られる「貝層断面観覧施設」。


写真7:「折居神社」。「大串貝塚」から南東に住んだところに鎮座。当神社境内入口のところにも「大串貝塚入口」の木碑が立っている。


写真8:「折居の井」(「塩崎集落センター」脇)。水は湧いていないが、「折居の泉 無量水」の石碑が建てられている。
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日下ヶ塚古墳

2018-07-07 23:51:02 | 古墳
日下ヶ塚古墳(ひさげつかこふん)。常陸鏡塚古墳ともいう。
場所:茨城県東茨城郡大洗町磯浜町2865。「車塚古墳」(前項)から更に南に約90mのところ(アパートの角)で自動車は通れない狭い道に入り(以下、徒歩)、約200m。
「日下ヶ塚古墳」は、「車塚古墳」(前項)など4基が現存する磯浜古墳群の1つで、前方後円墳。名称は「瓢(ひさご)」(=ヒョウタン)に由来するのではないかと思われる。大きさは、全長約103.5m、後円部径約60m、前方部は大きく破壊されているが、前方部幅は推定約25m(約36mという推定もある。)。周溝もあったらしいので、これを含めれば更に大きいことになる(推定約125m)。葺石は無く、円筒埴輪が見つかっている。昭和24年の発掘調査により、後円部の墳頂に埋葬施設があり、粘土で覆われた木棺が発見された。木棺の内部からは、壮年の人骨と共に、青銅製の鏡、ヒスイの勾玉、碧玉の管玉、木製の櫛、刀など、総数4千点以上の副葬品が発見されたという。築造時期は、大洗町のHPでは「磯浜古墳群」全体を「4世紀代」としているが、出土した円筒埴輪などから、古墳時代前期(5世紀初頭頃?)と推定されるとのこと。
因みに、当古墳の南側、台地の端に四角いマウンドがある。これは「磯浜海防陣屋跡」といわれるもので、水戸藩により文政8年(1825年)に海防目的の「遠見番所」が設置され、天保7〜13年(1836〜1842年)に第9代水戸藩主・徳川斉昭(烈公)が「海防陣屋」に強化した施設の跡地。高台の縁に沿って、上から見た形が「L」字をした幅約36m、奥行約24m、高さ約1,5~2.0mの土壇状の遺構で、当古墳の前方部から土取りして築造されたものらしい。なお、「海防陣屋」の建物は、元治元年(1864年)の「元治甲子の変(天狗党の乱)」のときに激戦地となり、焼失したという。この跡地に立つと、足元に大洗港(太平洋)の眺望が素晴らしい。「日下ヶ塚古墳」も海側から良く見え、その威容を示したものと思われ、被葬者はこの地方の海上交通、那珂川・涸沼川の水上交通を支配した権力者であったみられる。


大洗町のHPから(日下ヶ塚古墳)


写真1:「日下ヶ塚古墳」。東側から見る。括れ部分(奥が前方部)。


写真2:北側から見る。こちらも少し削られているようだ。


写真3:後円部墳頂にある「史跡 日下ヶ塚」の石碑。


写真4:後円部から北側を見ると「車塚古墳」が直ぐ近くに見える。


写真5:前方部。大幅に削られて、随分幅が狭くなっている。


写真6:南側から見る。前方部。


写真7:古墳の南側にある「磯浜海防陣屋跡」。


写真8:「磯浜海防陣屋跡」から見る大洗港。ひときわ目立つ「大洗マリンタワー」。
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