神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

御所の前

2011-04-29 23:29:53 | 史跡・文化財
「日本坂峠」を静岡市駿河区小坂(おさか)側に下りてきても、やはり日本武尊に縁のある史跡がある。

雲梯山 瑞應禅寺(うんていさん ずいおうぜんじ)。本尊:地蔵菩薩。
場所:静岡市駿河区小坂1076。「JA静岡市 小坂支店」の南西約300m。駐車場有り。
寺伝によれば、開基は日本武尊。仏教公伝が538年とされるのに、日本武尊(伝72~113年)が開山とは不思議な話だが、次のような伝承による。即ち、日本武尊東征の際、当地から熊野権現の導きにより佐渡山(さわたりやま)に向かおうとすると、黄金の龍のような瑞雲が湧き上がり、山上に向かってたなびいた。そのため、当地に館を建て、雲梯館または金龍殿と称した。後に、その館の跡に、行基菩薩が聖武天皇の命により、天平2年(730年)「雲梯山 金龍寺」を創建した、とされることによる。その後の消長は不明であるが、戦国時代、駿河今川家の庇護を受け、現・山梨県甲州市にある「塩山 向嶽寺」を大本山とする臨済宗向嶽寺派の寺院となったらしい。

「瑞應寺」から小坂のメイン道路に戻ると、その角にある塩沢さんのお宅の庭には、「御所の石」があるという。「御所の石」は、別名「日本武尊の腰掛石」ともいい、この石に日本武尊が腰を掛けて休んだという。個人宅なので、見学は遠慮した。

御所の前(ごしょのまえ)。
場所:静岡市駿河区小坂1322-1付近。「JA静岡市 小坂支店」の西約200m。駐車場なし。うっかりすると見落として通り過ぎてしまいそうだが、「史跡 御所の前」と刻された石碑が立っている(写真3)。この辺りが、日本武尊の館のあった所だという(「御所の石」も、元々はこの辺りにあったらしい。)。


写真1:「瑞応寺」山門


写真2:本堂


写真3:「御所の前」の石碑
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駿河国の古代東海道(その3・日本坂峠)

2011-04-26 22:35:04 | 古道
日本坂峠(にほんざかとうげ)。
場所:静岡県焼津市花沢と静岡市駿河区小坂の境の峠。「花沢の里」駐車場から「高草山 法華寺」を経由して約2km歩く。「法華寺」までは舗装された道だが、「法華寺」からは狭い山道。
「法華寺」入口近くに石の道標があり(写真1)、「右 日本坂ふちう道 左 うつのや地蔵道」と刻されている。この道標は元禄15年(1702年)のものだが、「法華寺」前から左右に分かれて、右は日本坂峠を越えて府中(現・静岡市)へ、左は宇津ノ谷の「慶龍寺」(延命地蔵尊を祀る。)への道を示す。古代東海道は日本坂峠を越えるルートで、登坂角25~30度という狭い急坂だが、標高は302mとさしたる高さではなく、「法華寺」までにもかなり登って来ているので、「法華寺」からは案外すぐに越えられる。矢田勝氏(「駿河国中西部における古代東海道」)によれば、馬でも問題なく通過できたとされる。
峠の頂上に「穴地蔵」と呼ばれる石の地蔵が祀られている(写真3)。「穴地蔵」を覆う石組みを「人穴(ヒトアナ)」というが、これは横穴式石室の羨道らしい。「人穴」というのは、日本武尊がこの峠を越えるときに隠れた穴だ、という伝承による。また、「日本坂」という名も、日本武尊がこの峠を越えたことに因むという。なお、宇津ノ谷「慶龍寺」の延命地蔵尊は、元はこの峠にあったものを移したともいわれている。つまり、東海道のメインルートが日本坂峠越えから宇津ノ谷峠越えに変わっていく中で、旅人の安全を守る地蔵尊も移された、ということになるのだろう。
伝説によれば、「日本坂峠」の地蔵の前で、花沢の子供と小坂の子供が喧嘩をして、小坂の子が地蔵を坂から転がり落とした。すると、その晩にその子は死んでしまったので、慌てて地蔵を元に戻した、という。 
(参考文献「焼津市史 民俗編」(平成19年7月))


写真1:「法華寺」入口近くにある道標


写真2:峠の分かれ道の案内板


写真3:穴地蔵


写真4:静岡市小坂側から日本坂峠方面を見る。
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高草山 法華寺

2011-04-22 23:16:44 | 寺院
高草山 法華寺(こうそうさん ほっけじ)。本尊:千手観音。
場所:静岡県焼津市花沢2。「花沢の里」駐車場から徒歩約20分。
寺伝によれば、創建は天平年間(729~749年)で、本尊の千手観音像(秘仏)は行基の作であるという。寺号から、前身は国分尼寺ではないかとする説もあるが、国府や国分寺から離れて過ぎていることや山岳寺院であることなどからすると、元・国分尼寺説は首肯し難い。かつては子院が16坊あり、現在は当寺にある聖観音像(県指定文化財)は、元は奥院の東照寺(廃寺)の本尊で、聖徳太子の作であるという(実際には、いわゆる藤原時代のものらしい。)。天台宗の寺院で、元は「比叡山 延暦寺」(滋賀県大津市)の末寺だったが、永禄13年(1570年)に武田軍の兵火にかかり、伽藍は全焼した。延宝2年(1674年)に「東叡山 寛永寺」(東京都台東区)の直末寺となって再興された。
創建の事情は不明だが、旧「東照寺」聖観音像が平安時代まで遡ること、難所の「日本坂峠」の登り口にあるところから、元々は古代東海道の守り神として祀られた可能性が高い。そして、峠を越える人々を援助する「布施屋」の機能を持っていたものと思われる。


写真1:「法華寺」入口


写真2:仁王門(江戸中期)。焼津市指定文化財。


写真3:本堂
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オシャモッツアン

2011-04-20 22:54:36 | その他
焼津市「花沢の里」の道を日本坂峠に向かって上っていく途中に、「オシャモッツアン」と呼ばれる、岩が露出した場所がある。単なるゴツゴツした岩なのだが、祈ると歯痛に霊験あらたか、という。花沢の里(2011年4月19日記事)
「オシャモッツアン」とは不思議な名であるが、「焼津市史 民俗編」(平成19年7月)によれば、「花沢の里」にあるもののほかにも、同名のものについて記載されているが、全く別のものである。
それは「左口神社」で、左口公会堂(焼津市小川新町4丁目3-18)の敷地の奥に鎮座している。元々、この辺りには「左口森」という森があって、通称「オシャモッツァン」といわれる「左口神社」が祀られていた。旧・小川村の時代(明治2~昭和27年)には近くに避病院が設けられ、赤痢患者などが隔離されたが、全員が退院すると村役場から吏員がきて、この社の前で祭事を営んだ。元の避病院の跡は現在、隣接する「左口森公園」となっている。当神社の祭神は猿田彦命だが、御神体は男根状の石神とされており、男のシモの神さん、悪病避けの神さん、子宝の神さんなどと呼ばれていた、という。一般に、神社は社殿を南向き、又は東向きに建てるが、当神社は西向きになっている。南向き・東向きというのは日の出の方向で、当神社が西向きなのは、日の入り、すなわち陰の方向であり、陰=シモに関することに御利益があるのだという。
隣の藤枝市では「オシャモッサマ」というものがあり、村の隣接点に神仏を祀る例がある、という。藤枝市平島の「オシャモッサマ」は、平島・水守・市部の三ヵ村が接する水田の中にあり、こんもり土が盛られた上に榎、杉、漆、槇などの木が生い立ち、一種の塚となっている。地元の人々は「神様を祀る場所なら勝手に動かすこともできないので、揉め事にならなくてよい」と考えている、という(「藤枝市史 別編民俗」(平成14年3月)による。)。
以上、3つの「オシャモッツアン」は、名前は同じでも、「モノ」は異なる。共通するのは、①隆起したもの、あるいは凸形であること、②信仰の対象であること、があげられる。実は、「左口神社」は東日本で広く信仰される神社で、「諏訪神社」と関連が深いとされる。現在の「諏訪神社」の祭神は建御名方神であるが、一説では、元々「ミシャグヂ」という神が信仰されていたとされる。「ミシャグヂ」神がどんな神だったか不明だが、元は巨岩や巨木などに対する自然信仰だったともいわれている。この「ミシャグヂ」神に、「御左口」神という字が当てられたとされる。
「ミシャグヂ」と「オシャモッツアン」、似ているような、似てないような、という感じだが、どうだろうか。


写真1:焼津市小川新町鎮座の「左口神社」。祭神:猿田彦命


写真2:社殿脇にある御神体のレプリカ?
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花沢の里

2011-04-19 23:18:33 | 史跡・文化財
花沢の里(はなざわのさと)。
場所:静岡県焼津市花沢。国道150号線「野秋」交差点(案内板あり)から北に約600mのところに駐車場がある。そこから「花沢の里」中心部までは、まだかなり歩かないといけないのだが、殆ど駐車スペースはない。人気のハイキングコースなので、駐車場も一杯のことが多い。
駐車場から歩いてくると、南から北へ向かう道路に突き当たる。南は石脇方面で、北が「花沢の里」~「日本坂峠」方面となる。日本坂峠へは花沢川沿いの狭い道路で、古代東海道が日本坂峠越えをしていたなら、少なくとも「法華寺」までは、この道しか無かっただろう。今はハイキング客が多く(殆どが中高年)、地元では観光地化を進めているようだが、土産物店らしい店は殆ど無い。なお、道路沿いの家が長屋門形式なのは、明治以降、現金収入源としてミカン栽培が奨励されて、ミカンの保存・出荷に便利な構造としたためという。
道の途中に、「焼津」の地名を詠み込んだ万葉歌碑がある(写真4)。この歌のことは「安倍の市」の項(2010年12月7日記事)で書いたが、この歌を詠んだ春日蔵首老は国司として赴任した常陸国からの帰路のことを詠んだので、この道を通っただろう、ということで、この石碑が建てられたものである。つまり、役人の公用の旅行は官道、すなわち古代東海道によることになっていたからである。ただし、後で書くことになるが、古代東海道は、どうやら駿河国府は素通りしていたようなので、春日蔵首老が「安倍の市」を通ってきたのかには疑問もある。「安倍の市道」というのは、「安倍の市」の中の道ではなくて、「安倍の市」に向かう道ではなかったか、というのである(つまり、「宇津ノ谷峠」越えの道のことである。)。
それはさておき、不思議なのは、「焼津」という地名は、日本書紀にも日本武尊と関連付けた由緒譚が語られているにも関わらず、記録上は、この歌と式内社「焼津神社」くらいにしか出てこないことである。その代わりに「益頭(ましづ)」というのが一般的だった。これは、「焼く」というのがあまり縁起が良くないと思われたらしく、好字に変えるとき、焼津→益頭(ヤクヅ。御利益(ごりやく)のヤク)として、これがマシヅになったといわれている。


写真1:「花沢の里」~「日本坂峠」への登り口


写真2:道の途中にある「オシャモッツァン」。山肌に大岩が露出しているだけだが、歯痛などに御利益があるらしい。


写真3:「花沢の里」の懐かしいような風景


写真4:「焼津辺」の万葉歌碑
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