神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

一之宮神社(千葉県栄町)

2022-01-29 23:32:09 | 神社
一之宮神社(いちのみやじんじゃ)。通称:矢口一ノ宮明神。
場所:千葉県印旛郡栄町矢口1。国道356号線と同408号線の「長豊橋」交差点から、408号線を南西へ約600m進んだところで右折(西へ)、直ぐ(約50m)右折(北西へ)、約650m進んだところで左折(南へ)、坂道を約130m進んで突き当りの手前左(東側)に矢口集会所があり、その駐車場に自動車は止めさせていただく。突き当りのところにある「栄町消防団第2分団第4部機庫」という消防倉庫と火見櫓の前を通って、未舗装の道路を南西へ約160m進むと、鳥居がある。折り返すようにして、社殿へは参道を北東へ進む。
社伝によれば、延長2年(924年)の創建。麻生・須賀・興津・安食・佐野・北辺田・矢口の7ヶ村の氏神で、下総国埴生郡の一宮であることから、その名があるという。因みに、現・千葉県成田市松崎に「二宮神社」があり、同市郷部の「埴生神社」は通称「三ノ宮様」と呼ばれている。なお、「二宮神社」の創建年代は不明だが、その神職由緒録に「斉衡3年(856年)に(「一之宮神社」神職の)外記が相続した」とあるため、当神社の創建時期はもっと古いのではないか、ともいう。現在の祭神は経津主命(フツヌシ)。ただし、当初の祭神は饒速日命(ニギハヤヒ。物部氏等の祖)であったが、下総国一宮「香取神宮」の影響下に入り、後に主祭神を経津主命に改めたのではないか、という説もある。一方、「二宮神社」の現在の主祭神は、現在は経津主命であるが、古くは「二ノ宮埴生大明神」と称していた。「(三ノ宮)埴生神社」の祭神は現在も埴山姫命(ハニヤマヒメ)であって、古代に土師器を作る工人らの集落地域を「埴生郷」と称し、現・利根川(古代には「香取海」)方面から南下して内陸に進んで国土開発を進めた順に、一ノ宮~三ノ宮という順になったのではないか、とすれば、当神社及び「二宮神社」の本来の祭神も埴山姫命だったかもしれない。
さて、「常陸国風土記」行方郡の条に、「(行方)郡家より南へ二十里のところに、香澄(かすみ)の里がある。古伝によれば、大足日子天皇(景行天皇)が下総国印波の鳥見の丘に登られたとき、東方を望んで「海には波がゆったり漂い、陸には霞が棚引いて、(常陸)国が波と霞の中にあるように見える」と仰せられたので、それ以来「霞の郷」と呼ぶようになった。」(現代語訳)という記述がある(「香澄里」は、現・茨城県行方市富田から潮来市牛堀にかけての地域に比定されている。)。その「鳥見の丘」に鎮座するというのが「鳥見神社」で、千葉県印西市に3社あることを以前に書いた(2013年8月10日、同17日、同24日)。もうずいぶん前のことになってしまったが、その最後の記事・印西市中根の「鳥見神社」のところで、最近では「鳥見の丘」は当神社の鎮座地の方が有力説となっていることも書いたものの、その後、参拝する機会がないまま転勤になってしまった。ようやく参拝が叶ったのだが、確かに、こちらの方が「鳥見の丘」に相応しい気がしてくる。現・利根川の右岸(北岸)に当たり、古代の「香取海」に突き出した台地の端という位置にある。そして、木下良氏(國學院大學教授)によれば、奈良時代の古代東海道の「山方」駅は現・栄町興津(栄町矢口の南隣)付近にあったとし、ここから海路で「常陸国風土記」にいう「榎浦津」駅に渡ったのではないかとしている。「榎浦津」駅の比定地には諸説あるが、現在では、現・茨城県稲敷市柴崎が有力となってきているようである。また、その北に当たる現・稲敷市下君山には「下君山廃寺跡」遺跡があり、その付近に古代の常陸国「信太郡家」があったという説も有力である。そして、更に北に向かって「古東海道」という奈良時代の古代東海道が通っていたと言われている。ということで、景行天皇自身が当地に来たということは疑わしいとしても、ヤマト政権の有力者がここから常陸国に渡ったということは十分考えられる。また、補強するものとして、上記の元の祭神は饒速日命だったという説において、ニギハヤヒが高天原から出発して「鳥見の里」と呼ばれていた河内・大和(現・大阪府東部~奈良県)に降り立ち、治めるようになったという伝承があること。また、当神社に隣接する矢口集会所は、元は当神社の別当・天台宗「長見寺」(「天竺山 寂光院 龍角寺」(2012年6月30日記事)の末寺、明治39年廃寺)の跡地であるが、「長見寺」という寺号は本来は「鳥見寺」だったのではないか、という説もあること。流石に、この辺りになると、ややコジツケめいて来るが。。。


(安食)駒形神社のHPから(一ノ宮神社(矢口))


写真1:「一ノ宮神社」鳥居。扁額は「一宮大明神」。


写真2:拝殿


写真3:同上


写真4:本殿


写真5:境内社(金毘羅大権現?)


写真6:本殿背後にある塚。古墳かと思ったが、「富士塚」らしい。なお、この北側が台地の端に当たり、裏参道として急な石段がある。


写真7:「富士塚」上の石祠(「浅間神社」?)
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常陸国の古代東海道(その1・榛谷駅)

2022-01-22 23:32:41 | 古道
当ブログでは過去に、駿河国と下総国の古代東海道に関連するシリーズ記事を書いた。常陸国についても書こうと思うのだが、常陸国には他国とはちょっと違った事情がある。例えば、①他国では、史料的な制約で、「延喜式」(平安時代中期)に記載された駅家を繋ぐルートを「古代東海道」としているが、「常陸国風土記」(奈良時代初期)には「延喜式」とは異なる駅家についての記載があり、それぞれが編纂された時期によってルート変更があったらしいこと、②古代には所謂「香取海」という巨大な内海が現・茨城県南部に広がっており、陸地も低湿地が多かったなど、現在の地形と大きく異なっていたとみられること、③古代東海道は国府と国府を結ぶものではなく、(連絡路はあったとしても)国府(国庁)や郡家を素通りするルートを通っていることが多いが、常陸国では、その国府(現・茨城県石岡市、「常陸国府跡」(2018年1月6日記事)参照)が終点であったこと、などがあげられる。
ということで、具体的には、「常陸国風土記」信太郡の条に「榎浦の津(港)がある。ここに駅家が置かれている。東海道の本道で、常陸国の入口である。このため、伝駅使(はゆまつかい)らが初めてこの国に入ろうとするときに、まず口を漱ぎ、手を洗って、東を向いて香島大神(常陸国一宮「鹿島神宮」)を拝してから入るのである。」(現代語訳)という記述がある。一方、「延喜式」には「榎浦津」駅家の記載は無く、常陸国最初の駅家は「榛谷」となっている。いずれも遺称地は無く、その比定地には諸説ある。厳密にいえば「常陸国風土記」では駅家自体の名は記載されていないので、通称「榎浦津」駅と「榛谷」駅が同じ場所なのか、別なのか、これも説が分かれている。とりあえず、ここでは「延喜式」記載のルートとされるものを考える(「榎浦津」駅については別項で書く予定。)。
「延喜式」所載の下総国最後の駅家「於賦(おふ)」(2013年7月27日記事参照)比定地も未確定だが、現・茨城県利根町布川(利根町役場付近)という説が有力で、そこから北東~北へ向かって直線的な現・茨城県道4号線(千葉竜ケ崎線)が走っているのをみると、かなり納得できる説と思う。因みに、県道の東(現・利根町立木)に下総国式内社「蛟蝄神社」(2013年1月5日記事)があり、県道沿い(龍ケ崎南高校前)に日本武尊所縁の「弟橘媛の櫛塚」(2013年8月3日記事)がある。問題はその後で、古代官道の研究家・木下良氏(國學院大學教授など)によれば、「延喜式」写本の1つである九條家本に傍注があり、「榛谷」を古くは「坂田」とも書いたらしいので、これを「はんた」と読むならば、「榛谷」を「はんたに」と読んで(なお、「榛」は植物のハシバミ、またはハンノキを指す。「榛谷」の通常の読み方は「はりがや」又は「はんがい」だろうか。)、現・茨城県龍ケ崎市半田町(はんだまち)に比定する。そのため、県道4号線が関東鉄道竜ヶ崎線「竜ヶ崎」駅付近に突き当たるところで、東に向きを変えて進むと想定している(因みに、関東鉄道竜ケ崎線が下総国と常陸国の境界線に近い。)。「竜ヶ崎」駅周辺は龍ケ崎市の中心市街地で、古代とは地形も変わっているだろうから、どの辺りを通ったか不明だが、少し東に進んで茨城県道5号線(竜ケ崎潮来線)に入ると、途中で、「稲敷郡」の名の由来となったといわれる「稲塚古墳」(2020年10月24日記事)の前を通る。「稲塚古墳」が「常陸国風土記」信太郡の条にある「飯名神社」所在地であるとすれば、現・半田町も(古代)信太郡域にあったことになるだろう。平安時代中期の「和名類聚抄」では信太郡14郷のうちに「駅家郷」があるとしている。「駅家郷」の比定地は未確定だが、「和名類聚抄」と「延喜式」は成立時期が近いので、平安時代の古代東海道のルートでも信太郡内に駅家があり、それが現・半田町付近でもおかしくはないことになる。
ただし、そもそも、何故「竜ヶ崎」駅付近で方向を変えるのか、現・石岡市に向かうなら単純にそのまま北上すれば良いのではないかという疑問は残る。地形的な問題か、あるいは、平安時代中期になると、律令制維持が難しくなってきて、新たな道路を伸ばすことができなかったのかもしれない。通説では、「榛谷」駅家(現・半田町)から北東に向かい、現・茨城県稲敷市下君山から稲敷郡阿見町竹来付近に通じていた奈良時代の古代東海道に接続し、その道路を利用して現・阿見町を経て現・土浦市~石岡市方面に向かったと考えられている。どこで接続していたかは諸説あるが、現・稲敷市下君山の東側から現・牛久市奥原町の北端辺りまでの間とみられる。現・下君山には「下君山廃寺跡」遺跡があり、現・奥原町の古代集落跡「姥神遺跡」からは貴族しか使わないような「宝珠硯」(牛久市指定文化財)や多くの墨書土器が出土していることから、古代東海道との関連が指摘されている。
確かに、現在コンビニ「セブンイレブン龍ヶ崎半田町店」のある辺りが丘の下で(駅家としては丘の上よりも水などが得やすい丘の下辺りの平地の方が良い。)、ちょうど方向転換の屈曲点でもあるのが、駅家としての立地上、適当な感じはする。そして、北東へ向かい、現在、乙戸川と小野川が合流する辺りを渡って、現・牛久市奥原町を進んで、奥原町の北端辺りで奈良時代の東海道に接続したのではないかと思う。確たる根拠は無いのだが、奥原町に入ったところに「鹿嶋大神宮」が鎮座している。他国では、国土開発の神は大国主神が多いが、常陸国では鹿島神(武甕槌神:タケミカヅチ)であることも多い。古代官道の守護神であってもおかしくはない。


牛久市のHPから(姥神遺跡)


写真1:東西に走る茨城県道5号線(竜ケ崎潮来線)と南北に走る同68号線(美浦栄線)の「半田町」交差点。南東角から北西角を見る。写真の左手側(西)が龍ケ崎市市街地方面、正面やや右手奥が阿見町方面(北)になる。正面に見える丘(比高約20m)が「満願寺」のある「登城山城館跡」という中世城館の址。県道5号線は北東方向に進んできたが、この交差点を過ぎると南東方向に向かうので、これ以上進むとかなり遠回りになるだろう。


写真2:天台宗「満願寺」入口(場所:龍ケ崎市半田町993)


写真3:同上、本堂。南北朝時代の延元2年(1337年)創建という。


写真4:「鹿嶋大神宮」鳥居(場所:牛久市奥原町2222。)


写真5:同上、参道


写真6:同上、石段。かなり急な登りになる。


写真7:同上、社殿。大同元年(806年)、常陸国一宮「鹿島神宮」から分霊を勧請して創建されたという。祭神:武甕槌命。なお、茨城県神社庁のHPでは「鹿島神社」となっている。
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雀神社(茨城県古河市)

2022-01-15 23:35:11 | 神社
雀神社(すずめじんじゃ)。通称:お雀様、正一位雀大明神。。
場所:茨城県古河市宮前町4-52。国道354号線「三国橋」交差点から茨城県道9号線(佐野古河線)を北~東へ約400m進んで左折(北へ)、約500mで鳥居前に着く。駐車場は、その少し先から境内に入る。
社伝によれば、第10代・崇神天皇の御代(3世紀後半?)に、その皇子・豊城入彦命(トヨキイリヒコ)が東国鎮護のために創建したという。また、一説に、貞観元年(859年)に出雲国一宮「出雲大社」から勧請したものとされる。「雀神社」という名は、元は「鎮社(しずめのやしろ)」といったのが訛ったとされるが、鎮座地を「雀が原」といったことによるとか、源三位源頼政(「頼政神社」(前項)の祭神)の娘・雀姫が亡くなったときに幾万もの雀が集まって悲しみ、その霊を祀るため創建されたから(別当寺であった「真竜山 心誠院 神宮寺」(現・古河市横山町)の縁起による。)とかいう説もあるが、流石に雀姫の方は信じ難い。古河地方の総鎮守として崇敬を集め、平安時代末期~鎌倉時代初期に築かれたのが最初とされる「古河城」の歴代城主に篤く庇護され、室町時代には初代古河公方・足利成氏が当神社に「天下泰平 国土安穏」を祈願した。以来、この8文字を記すのは当神社の祭礼の万灯のみに許されたという。慶長5年(1600年)、徳川家康が会津征伐のため下野国小山まで進んだ時、石田三成の挙兵を聞いて古河に引き返し、当神社に戦勝を祈願をした。江戸時代を通じて幕府から朱印地15石が与えられ、現在の社殿は慶長10年(1605年)に古河藩主・松平康長が造営した。当神社例祭の際には、古河宿二丁目・高札場付近にお仮屋が建てられるため、町の東側に「祭礼道」という日光街道の迂回路を設けて、大名も含め旅行者にはそちらを通らせた(明治12年、米国元大統領(第18代)・グラントが観光のため「日光東照宮」を訪れた際には、お仮屋の方を街道から離れたところに移動し、一行を通過させたことから、以来「祭礼道」は廃止されたという。)。明治5年には猿島郡・西葛飾郡の郷社に指定されたが、昭和28年の渡良瀬川改修工事により境内地が縮小され、社殿も東に約50m移動した。現在の主祭神は大己貴命で、少彦名命と事代主命を配祀する。
蛇足:現・古河市は渡良瀬川左岸(東岸)にあり、南部で渡良瀬川が利根川と合流する。旧律令国制では、下総国に属し、常陸国・下野国・武蔵国と国境を接していた。「萬葉集」では「許我(こが)」と表記されて、2首採用されているが、いずれも渡良瀬川の渡しの情景を詠んだもので、奈良時代から水上交通の要衝だったことが窺われる。室町時代後期~戦国時代には古河公方の本拠地となり、江戸時代には古河城が将軍家の日光社参の宿城となるなど、城下町・宿場町としても栄えた。「萬葉集」2首の歌碑の1基は当神社脇の渡良瀬川土手に、もう1基はJR「古河」駅前ロータリーにある。


写真1:「雀神社」境内入口。この写真ではわかりにくいが、向かって左の欅(ケヤキ)の巨木は古河市内最高とされる(樹高約25m、根本周囲約18m、目道り周囲約8.8m。2本の木が重なりあっているため「夫婦欅」の別称があり、古河市指定天然記念物。)。また、社号標?は「西葛飾郡 猿島郡 郷社」。猿島郡で唯一の郷社であったという。


写真2:一の鳥居。扁額は「正一位雀大明神」


写真3:陶製の狛犬。表情が良い。


写真4:二の鳥居。こちらも扁額は「正一位雀大明神」


写真5:拝殿


写真6:本殿。社殿は古河市指定有形文化財


写真7:一の鳥居を潜って直進すると渡良瀬川の土手に出るが、そこに古河市に2基ある万葉歌碑の1つがある。
古河の古名である「許我」を詠み込んだ歌「真久良我の 許我の渡の 韓楫の 音高しもな 寝なへ児ゆゑに」(巻14ー3555)


写真8:もう1つの万葉歌碑はJR「古河」駅前ロータリーにある。「逢はずして 行かば惜しけむ 真久良我の 許我漕ぐ船に 君も逢はぬかも」(巻14-3558)
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頼政神社(茨城県古河市)

2022-01-08 23:46:26 | 神社
頼政神社(よりまさじんじゃ)。通称:正一位頼政大明神。
場所:茨城県古河市錦町9-4。茨城県道9号線(佐野古河線)「三国橋」交差点から北~東へ約350m進んで右折(南へ。「頼政神社参道」という石柱がある。)、狭い道路を約35m。駐車場なし。なお、当神社前を通り過ぎて、道なりに右方向に回り込んでいく(南~西~北へ)と「古河公園」という小さな公園があり、そこに駐車スペースがある。または、「三国橋」から北へ約130mのところから土手下に下りる道路があり、そこからも「古河公園」に行ける。
伝承によれば、治承4年(1180年)、源頼政が京都宇治「平等院」での戦いに敗れて自刃、従者が頼政の首を笈に入れて逃れたところ、下総国葛飾郡古河の立崎というところで笈が急に重くなったため、その地に塚を築いて祀ったのが始まりという。その従者の名は明確ではないが、「下河辺三郎行吉(または行義)」ともされ、最初に祀ったのは平安時代末期~鎌倉時代初期に当地を支配した下河辺氏といわれている。その後、古河城が築かれると、立崎郭(龍崎郭、頼政郭ともいう。)に組み込まれ、古河城の鎮護社として城主から崇敬されるようになった。ただし、神社としての創建については、江戸時代の延宝5年(1677年)、古河城主・土井利益が城内鎮護の神としたことを起源とする説があるほか、元禄9年(1696年)に初代古河藩主・松平信輝が古河城内に遠祖・源頼政が祀られていることを知り、神社として整備したことを起源とする説もある。なお、上野国高崎城(現・群馬県高崎市)内の「頼政神社」は、松平信輝の弟・輝貞が自らの居城である上野国高崎城(現・群馬県高崎市)の鎮護社として当神社の分霊を勧請したものとされる。明治時代に入ると、古河城は廃城になったが、当神社は残され、明治20年に村社に列した。大正元年、渡良瀬川の河川改修工事により、現在地である旧・古河城北西端の観音寺郭の土塁上に遷座した。河川改修工事の際、社殿のあった場所は削平されたが、社殿下からは何も出ず、その南西約4mのところから石棺が発見され、人骨・金環・管玉等が出土した。これらは明らかに古墳時代のものだったが、更に少し南側で朝鮮高麗青磁の壺や板碑などが出土し、これらは中世のものだった。板碑は「東京国立博物館」(東京都台東区上野)に納められたが、古墳出土物は当神社の社宝となり、壺は現社殿の下に埋納されたという。現在の祭神は、源三位頼政。
参考:源頼政の孫・顕綱の後裔は大河内氏を名乗って室町時代に三河国・吉良家の家老となり、戦国時代に吉良家が没落すると、徳川家の家臣となった。天正15年(1587年)、当主・正綱が徳川家康の命により長沢松平家分家である松平正次の養子となり、以後、松平姓を名乗った。正綱の甥で養子となった松平信綱の孫が松平信輝に当たる。ということで、家系図上、松平信輝の遠祖は源頼政ということになる。
蛇足:古河市側では、龍ケ崎市の地名の由来について、同地を支配した下河辺氏の一族が当神社の鎮座地であった立崎(たつさき)郭から名を採って、龍崎氏を名乗ったことによるとしている。一方、龍ケ崎市側では、諸説あるとする中の1つとして龍崎氏(読み方は「りゅうさき」か「りゅうがさき」か不明。)に因むとする説も挙げているものの、地名の方が先とする説もあるとしている(龍ケ崎市のHPによる。)。


写真1:「頼政神社」参道入口。


写真2:境内入口の石段。この石段の向かって左側が宮司さん宅(御朱印あり。)。


写真3:一の鳥居


写真4:どっしりとした石灯籠。高崎藩主・松平輝貞が寄進した大燈籠で、手水鉢や狛犬などとともに古河市指定文化財(歴史資料)。


写真5:二の鳥居


写真6:狛犬(吽形)


写真7:社殿


写真8:境内社「水神宮」。「頼政神社」(社殿は東向き)の向かって左に鎮座し、社殿は南向き。


写真9:「水神宮」に向かう石段。「古河公園」側にある。扁額は「水神宮 大杉神社 舩玉神社」
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頼政神社(茨城県龍ケ崎市)

2022-01-01 23:33:59 | 神社
頼政神社(よりまさじんじゃ)。通称:頼政さま。
場所:茨城県龍ケ崎市寺後4072。茨城県道5号線(竜ケ崎潮来線)「市役所前」交差点の1つ東の交差点(コンビニ「ミニストップ龍ヶ崎寺後店」がある。)を右折(南西へ)、約60mのところから狭い路地を南に約70m進む。この路地には自動車は入れない。駐車場なし(龍ケ崎市役所の駐車場が利用可能と思われる。徒歩約5分)。
源三位入道・源頼政(1104~1180年)は、平安時代末期の武将・歌人で、平氏が政権を独占する中で源氏の長老として公卿に上ったが、平氏を打倒しようとした以仁王の挙兵に味方して敗れ、治承4年(1180年)に自害して亡くなった。軍記物語「平家物語」によれば、第76代・近衛天皇を悩ませた「鵺(ぬえ)」(頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇という怪物)を弓矢で退治したという伝説がある。このように、武芸にも秀でていたが、当時としては異例な従三位にまで上ったというのは、歌人としての名声が高かったことによるといわれている。最期は、京都の宇治「平等院」(現・京都府宇治市)での戦いに敗れて自刃したため、墓は「平等院 鳳凰堂」の裏手(北西側)の塔頭「最勝院」境内にある。ただし、頼政の首は郎党らが運び去ったとの伝承があり、それを葬ったとされる頼政の墓(首塚)が現・京都府亀岡市、岐阜県関市、千葉県印西市などにも存在する(印西市のものについては「晴天山 西光院 結縁寺」(2013年9月7日記事)参照)。そして、関東には頼政を祭神とする「頼政神社」が数ヵ所あり、このうち現・茨城県古河市と龍ケ崎市のそれには、頼政の首塚の伝説が残っている。
龍ケ崎市の「頼政神社」は、伝承によれば、頼政が自害したとき、家臣・下河辺行吉がその首を持って東国に落ち延び、首桶が重くなって動かなくなった場所が当地であり、それが創祀とされる。下河辺行吉(行義)は、現・茨城県古河市を中心とした皇族領有の荘園である下総国下河辺荘の庄司(荘官)として実質的に下河辺荘を支配したとされ、その子・下河辺政義は源頼朝に仕えて常陸国南郡の地頭職を任されたという。下河辺政義が現・龍ケ崎市周辺の最初の開発領主とされており、現・「竜ヶ崎第二高校」のある台地上に「龍ヶ崎城」を築いたという伝承がある(一般には、永禄11年(1568年)に江戸崎城主・土岐治英の二男・胤倫が築城して居城としたとされている。)。このようなことから、当神社は、鎌倉時代に下河辺氏(後の龍崎氏)が一族の守護神として創建したものとみられている。なお、宇治「平等院」の戦いにおいて、源頼政とともに子の仲綱も自害しており、ここに葬られたのは仲綱の首とする説もある。現在の祭神は源頼政。
現在は周りが駐車場となっており、「神社」といっても狭いフェンスに囲まれた小さな石祠しかないが、それが逆に、如何にも「首塚」のようではある。ただし、かつては水田の中に小さな塚があり、そこに明治初期までは立派な社殿もあったといわれ、歌人などが盛んに参拝にきていたとのこと。
因みに、当神社から南東へ少し行ったところに「渋栗卵塔(しぶくりらんとう)」と呼ばれる墓地がある。妙な名前だが、「渋栗」は「下河辺」が訛ったもので、下河辺氏一族の墓所だったとの伝承があるという。


写真1:「頼政神社」に至る狭い路地の入口。


写真2:同上、参道


写真3:同上、社号標?


写真4:同上、石祠。「頼政神社」と刻されている。


写真5:同上、南側の道路から見る。


写真6:南側の道路は「頼政通り」と名付けられている。


写真7:「渋栗卵塔」入口(「頼政通り」を南東へ約150m、「松井建材店」裏の西側)


写真8:同上。現在は、卵型をした「卵塔」は1基もない。
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