神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

肥付石

2011-06-28 22:28:02 | 名石・奇岩・怪岩
肥付石(こえつきいし)。
場所:老人ホーム「社会福祉法人東桜会 麻機園」(静岡市葵区東527-1)とその駐車場の間の路傍。県道74号線(山脇大谷線)から「県立こども病院」前の道路を更に北上、「麻機園」の案内板が出ているところで東に入る。
「肥付石」は、上部が丸くなった、特に変哲もないような石だが、説明板によれば、「罪深い人が触ると、足や身体が腫れる」というもの。「肥付」という名前からすると、単なる「腫れ」ではなく、かなり膨らんでしまうというイメージだろう。それで連想されるのが象皮病。象皮病は、フィラリアという寄生虫によってリンパ管に炎症が起きて浮腫(むくみ)ができ、皮膚が象のようになってしまう病気で、特に陰嚢に発症すると、陰嚢が腫れて人頭大まで巨大化することもある。この例で有名なのが西郷隆盛で、西郷が西南戦争で敗れて自害した際、首のない死体(首は政府軍に取られるのを恐れて隠された。)を識別したのは、巨大な陰嚢であったという。それはさておき、フィラリアは蚊によって媒介されるので、かつては広大な麻機沼を含む湿地帯だった、この地区に象皮病が蔓延していてもおかしくはない(わが国では、現在では根絶されている。)。 
なお、この石は、かつては山の中腹にあったものが、下ろされて現在の場所に置かれたともいい、また、一説には、舟の舫い綱を結びつける石だったともいわれている。「罪深い・・・」はともかく、触ると病気になる、祟られる、というのは、その石が神聖なものだったのかもしれない(因みに、病を治すには、針金で造った鳥居を供えて祈るしかないとされる。)。ひょっとすると、行政的な権威の象徴として尊重されるべきもの、例えば、古代官道には標識として「立石」が建てられたケースが多い。この場合、石自体は特に変哲もないが、政権の権威を示すものとしてアンタッチャブルだったかもしれない。この辺りも、安倍郡家の何らかの施設があった可能性がある場所である。
ところで、老人ホーム「麻機園」の裏山には、もう1つ奇石があるそうだ。「鈴石天神」といい、大きな石の横腹に丸い穴があいていて、小石を投げ込むと鈴のような音がいつまでも続く、といわれた石である。かつては、この石自体を御神体として祀り、「鈴石天神」と称したという(現在、「天神社」は「日賀美神社」(静岡市葵区東123)に合祀されている。)。実は、むしろ、この石が見たくて何回か探したのだが、よくわからず断念してしまった。とても残念に思っている。


「鈴石天神」のカラー写真は、「静岡ミステリーツアー情報局」さんのブログから(麻機の石信仰)


写真1:「肥付石」


写真2:隣の「延命地蔵堂」。明和5年(1768年)に疫病が流行ったとき、峠の切り通しに建てられたもの。その後、改修工事により道路との高低差ができてしまったため、現在地に下ろしたという。
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川合の水神

2011-06-24 22:42:27 | 神社
川合の水神(かわいのすいじん)。「神明社」(静岡市葵区川合)の境内社「水神社」。
場所:静岡市葵区川合2丁目29。「静岡東高校」の東北角(「竜南通り」の突き当たり交差点)から東南へ約250m。駐車場なし。
通称「川合神明社」の創建は不明。最古の棟札には天正2年(1574年)のものという。祭神は天照大神。
徳川第11代将軍家斉の時(在位:1787~1837年)、江戸城内の紅葉山に怪物が出た。駿州小島藩一万石の領主であった松平丹後守は、若いが武勇に優れており、志願して怪物に立ち向かった。しかし、怪物は強く、丹後守が危うくなった時、白髪の老人が現われて加勢してくれ、とうとう怪物を仕留めることができた。この怪物の正体は年経た狸で、加勢してくれた老人は小島藩領内の川合の神であった。丹後守は褒美として加増になり、川合の「神明社」の社殿を再建した、という。
また、「川合神明社」の境内には「水神社」(祭神:弥都波能売命)の小祠がある(写真3)が、この社は元々、日本武尊が喉の渇きを癒すため、剣で地面を突くと、清水が湧き出したので、この地に水神を祀ったのだという伝承がある。「川合神明社」の鳥居前に神橋があるが、これは単なる飾りではなく、地下に暗渠の水路が通っている。その流れを辿っていくと、神社の北、約180mのところ(長尾川右岸の土手下)に水源がある。そこに「川合水源之神池」の石碑が建てられている(写真4)。川合の水神から流れ出る泉は日照り続きでも枯れないが、おりおり色が変わる。夏、日照りが続くと、夜明け方から日の出少し前までは濃い茶色になり、底が見えない。それが何日も続くと、その年は天災や地震があるという。地下に竜神が棲んでいて、そうするのだという。(伝説については、小山枯柴編著「駿河の伝説」(昭和18年3月)による。)。
「川合の神明」の伝説では、神は「白髪の老人」となっていて、祭神の天照大神(一般に女神とされる。)と異なるが、日本武尊と天照大神とは縁が深い。駿河国では、式内社「焼津神社」、同「草薙神社」など日本武尊を祀る神社も多いが、日本武尊自身が神助を祈って祀ったのは天照大神だった。
日本武尊に関わる伝説はともかく、当神社の創建がかなり古く遡るかもしれないのは、当神社が「安倍郡家」跡と考えられる「川合遺跡」と隣接しているからである。「川合遺跡」は、竜爪山・文珠岳から連なって静岡平野に突き出した南沼上丘陵先端の南麓にあり、長尾川と巴川に挟まれた交叉地に当たる。弥生時代中期以降の集落の遺構があり、奈良時代から平安時代にかけての掘立柱建物遺構、「専當」と記された須恵器などの出土物を伴う官衙遺跡が発見された。長尾川・巴川を利用した水運の要所で、後背湿地、背後に低い丘陵地などの立地が、志太郡家跡に比定される「御子ヶ谷遺跡」(2011年4月11日記事)に類似していることが指摘されている。
「川合遺跡」では、約4.7m四方の方形、深さ約1.2mの井戸跡も発掘されており、ひょっとしたら、「川合の水神」はこの井戸を祀ったものだったかもしれない。


写真1:「神明社」境内入口


写真2:正面鳥居。鳥居前に神橋があるが、地下に水路が通っている。


写真3:末社の「水神社」(「神明社」本殿の向かって右奥)。背後に見える高架道路は国道1号線(静清バイパス)で、「川合遺跡」はその工事中に発見された。


写真4:「川合水源之神池」石碑


写真5:川合の水源
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沼の婆さん

2011-06-21 22:38:59 | 神社
諏訪神社(すわじんじゃ)。通称:沼の婆さん。
場所:静岡市葵区南沼上994。入口がわかりにくいが、流通センター(卸団地)の北側に何軒か民家があるところの狭い道路から西へ進む。駐車場なし。
細長く南に伸びた賤機山(静岡市)の東側の山麓に沿って「麻機街道」が南北に走っている。静岡平野では、「○○街道」というのは殆どが安倍川等の自然堤防の微高地にできた道で、「麻機街道」もかつての安倍川の支流である北川に沿って形成されたとみられている。徳川家康公が薩摩土手(2010年12月28日記事)を築くまでは、安倍川は賤機山の西側山麓を流れ下ってきて、そのうちの1本の枝川が賤機山の先端を巡って、今度は東側山麓を北上していた。これを北川という。「徳願寺」(2011年2月1日記事)開基とされる北川殿(北条早雲の妹)は、この北川河畔に館を構えていたことから、その名で呼ばれたという。南下してきた川が一転して北上するのは妙だが、賤機山と竜爪山に挟まれた麻機地区は、南に安倍川と長尾川の扇状地ができて、相対的に低い場所になり、かつては「麻機沼」という大きな沼が広がっていたという。麻機街道を北上すると、賤機山を越えて梅ヶ島方面に行けるのだが、長い急な坂を上って、峠にあるトンネルを抜けると大きな池があって、吃驚する。この池は「鯨ヶ池」といって、元は鯨の形をした丘だったのが、天平19年(747年)、突然水が噴出し、鯨が潮を吹いたようだということから、その名がついたというのだが・・・、それはさておき、この池の水源は安倍川の伏流水なのだという。つまり、この池の標高は安倍川と等高であって、麻機地区のほうが約50mも低いらしい。昭和49年7月7日、静岡市を豪雨が襲い、24時間連続雨量は静岡地方気象台観測史上最高記録508mmを記録した。いわゆる「七夕豪雨」だが、麻機地区から巴川沿いに旧・清水市方面まで、湖のようになってしまったのを記憶している人も多いだろう。
さて、建武2年(1335年)、新田義貞の弟の脇屋義助と足利尊氏の弟の足利直義が戦った「手越河原の合戦」の際、麻機の豪族、岩崎国隆の子の時光が脇屋側に味方をし、脇屋側が勝利した。脇屋義助は岩崎家の屋敷を訪れ、時光の手柄を褒めたが、時光の姉の秋野とその娘の小菊も来ており、脇屋義助は小菊を見初めた。やがて小菊は女の子を産み、小葭(こよし)と名付けたが、産後の肥立ちが悪くて小菊はお産して3日目に死んだ。小葭は祖母の秋野に育てられたが、美しい娘に育った。小葭が14歳の夏、祖母が病気になり、心配した小葭は、信仰する浅間神社にお参りしようと、舟に乗って川の中ほどまで進んだ時、突然川の水が濁り、渦の中に引き込まれた。これを聞いた秋野は、病を押して河畔に赴き、小葭を水中に引き込んだのは河童であるとして、「この婆が、憎い河童を退治して沼の守り神となろう。」と言って、川に飛び込んでしまった。村人たちが秋野と小葭を哀れんで、河畔で大施餓鬼を催したとき、急に川の水が激しく逆巻き、何者かが水中で戦っているようにみえた。やがて、水が鎮まると、その後河童に殺される者はいなくなった。村人たちは、秋野を「諏訪大明神」として祀った。これが、現在の南沼上「諏訪神社」であるという。
寺院のほうでは、「瑞現山 大正寺」(静岡市駿河区大谷3660-1)と「多聞山 大安寺」(静岡市葵区南沼上661、写真3)で祀られている。因みに、「大安寺」は、最澄が彫ったという毘沙門天を本尊としており、山上に毘沙門天堂がある(写真4)。この毘沙門天堂は元々、南向きに建てられていたが、馬に乗った者が前を通ると必ず落馬するというので、西向きに建て替えたという。


静岡東方見聞録さんのHPから(「沼のばあさん」7年ぶりの大祭)


写真1:南沼上「諏訪神社」正面


写真2:麻機遊水地。規模はかなり小さくなったが、今も池や湿地が広がる。遊水地や大谷川放水路・巴川治水工事などの整備によって、川の氾濫はなくなった。


写真3:「多聞山 大安寺」


写真4:同上「毘沙門天堂」


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駿河国の古代東海道(その6・曲金北遺跡)

2011-06-17 21:52:39 | 史跡・文化財
曲金北遺跡(まがりかねきたいせき)。
場所:静岡市駿河区曲金・池田・長沼。JR東海道線「東静岡」駅南口を降りて直ぐ、JRの線路と「静岡県コンベンションアーツセンター」(グランシップ)に挟まれた歩道の地下。専用駐車場なし。
「曲金北遺跡」は、平成6年、「グランシップ」造成工事中に発見された古代東海道の遺構で、道幅約9m(両側側溝を含めると12m)の道路遺構が約350mにわたって確認された。古代道路の遺構そのものが発見されるのは珍しく、古代東海道のものとしては初めてのものだった。発掘調査後、地下1.5mのところに埋め戻されたが、案内板が設置されているほか、歩道のタイル張り部分が道路、両側の植栽部分が側溝を示す形で再現?されている(写真2)。8世紀初頭から10世紀初頭(奈良~平安時代)のもので、遺跡からは須恵器や木簡等も出土している。道路遺跡から木簡などが出土するのは極めて珍しく、しかも、その木簡に「常陸國鹿嶋郡」との文字が記されていたことから、この道路が古代東海道であることが明らかになった(古代には、常陸国は東海道に属していた。)。この遺跡の発見により、古代東海道が現・静岡市駿河区手越付近から現・静岡市清水区清見寺付近まで一直線のルートであったことがほぼ確実となり、その意義は大きい。古代東海道は、現在の東海道新幹線とほぼ同じルートであることが明らかになったわけで、今も昔も、高速交通のルート設定は同じ発想をしていたということは面白いと思う。


写真1:「夢舞台東海道」の「曲金」石碑。「軍神社」の北西側道路脇(近世東海道を示す)


写真2:「曲金北遺跡」


写真3:「旧東海道記念碑」。場所:静岡市駿河区栗原。「北村地下道」の西側。国鉄操車場建設に伴い、旧(近世)東海道が分断されてしまったことを惜しんで建てられたもの。なお、説明碑の御影石は、現・静岡市役所付近にあった「静岡御用邸」で使われていたものという。後ろに見えるのは、JRの線路を跨いで越える静鉄清水線。

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軍神社

2011-06-14 22:39:15 | 神社
軍神社(ぐんじんじゃ)。
場所:静岡市駿河区曲金2-7-15。西豊田小学校の西側。駐車場なし。
社伝によれば、延暦20年(801年)、桓武天皇の命を受け坂上田村麻呂が蝦夷を平定したことを記念して創建されたという。一説には、日本武尊が東国平定を祈願して創建されたともいう。祭神は武甕槌命(タケミカヅチ)。かつては、隣接する曹洞宗の寺院「仏国山 法蔵寺」と一体で、祭神は摩利支天とされており、今川氏以来、武家の信仰を受けた。なお、祭神については、武甕槌命と経津主命(フツヌシ)の2神とするともいわれるが、一方でこの2神は同一とする説がある(これは当神社に限ったことではなく、フツヌシはタケミカヅチの別名であるとする説があることによる。)。タケミカヅチは「鹿島神宮」(常陸国一宮)、フツヌシは「香取神宮」(下総国一宮)の祭神で、どちらも武神とされて、武家の信仰を集めた。
ところで、当神社は、かつては「軍人坊」と称されていた。「坊」という言葉には、僧侶の住む場所(僧坊)という意味もあるが、奈良・平安時代には4町(約436m)四方に区切られた方形の行政区画を意味した。元は、ここに有度軍団が置かれ、軍人が集まる場所ということで「軍人坊」と称したのではないかとされている。当神社の北側を古代東海道が通過しており、「横田駅」想定地は当神社の南西、約1kmのところにある。また、この付近では、古代東海道は近世東海道とほぼ重なっており、近世東海道は当神社の少し西側からカーヴして横田見附~府中宿に向かった。こうしたことから、駿河国府の東側入口の警備を固めていた場所ではないかと考えられる。なお、「グン」の音から、ここを「有度郡家」所在地とする説もある。因みに、当神社の東南に「蔵屋敷」という小字があり(現・曲金四丁目付近。現在も「蔵屋敷公民館」などにその名が残っている。)、昭和初期頃まで「この地に古代正倉が40数戸建てられていた。」という案内板が立っていた、という。
さて、当神社には次のような昔話が伝えられている。即ち、村の悪童らが軍神社の神像を持ち出し、首に縄をかけて道に引き回して遊んでいたのを、村の老人が見咎め、神像を洗い清めて社に戻した。ところが、その夜、その老人が病気になって神懸り、「子供らと楽しく遊んでいたのに、なぜ邪魔をしたのか。」とうわ言をいうようになった。驚いた家族が神に謝罪すると、老人は回復したという。実は、似たような話は他所にもあるが、子供に悪戯されるのは地蔵菩薩であることが多い(地蔵菩薩は子供の守り神と考えられたため。)。そして、当神社のこの昔話では、「神像」と言っているので、神仏混淆後に作られた話ということになる(神像が作られるようになるのは、仏教の影響であり、本地垂迹説の影響で僧形の神像等も多数作られた。)。昔話と言っても案外新しく、せいぜい江戸時代頃に僧侶が作った話ではないか、とも思われる。


写真1:「軍神社」正面鳥居。それにしても、境内には立派なクスノキがたくさんある。


写真2:社殿


写真3:境内にある砲弾型の慰霊塔

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