神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

渭伊神社(遠江国式内社)

2012-01-28 21:28:15 | 神社
渭伊神社(いいじんじゃ)。
場所:静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1150。国道257号線「井伊谷」交差点を西に曲がり、県道303号線(新城引佐線)を約900m、「神宮寺北」交差点(コンビニ「サークルK井伊谷店」がある。)の1つ先の狭い道を西に入る。駐車場あり。
駿河国には、いかにも磐座っぽい磐座がほとんどないが、遠江国には少なくとも2つある。どちらも、式内社の境内にあることも、いかにもそれらしい。その1つが式内社「渭伊神社」境内にある、いわゆる「天白磐座遺跡」である。
「渭伊神社」の創建時期は不明。祭神は品陀和気命、玉依姫命、息長足姫命の八幡三神で、近世には「正八幡宮」と呼ばれてらしい。しかし、当神社は元々、南東約600mにある臨済宗妙心寺派「万松山 龍潭寺」の境内にあったとされ、南北朝時代に現在地に遷座したという。したがって、当神社と境内の磐座は本来、無関係だったということになる。
現在、「龍潭寺」の北に隣接して「井伊谷宮(いいのやぐう)」(後醍醐天皇の第四王子、宗良親王を祀る。)があり、紛らわしい。元々、井伊谷は江戸時代の譜代大名、近江国彦根藩主として有名な井伊氏の本貫地である。「龍潭寺」の南、約200mの田圃のなかに「元祖共保出生の井戸(井伊家の井戸)」が今も残っている。井伊氏は藤原北家の後裔ともいわれる地方豪族で、「渭伊神社」は、あるいはその氏神であったかもしれない。「渭伊神社」という名は、元は単に「井神社」で、和銅6年(713年)の「好字令」によって好字二字に変えられたのではないかと考えられている。祭神も元は八幡三神ではなく、井戸の神だったのではないか。
ところで、「天白磐座遺跡」であるが、当神社の社殿裏の「薬師山」(標高約30m)という小丘に40m四方にわたって約20個の巨石が散在している。発掘調査によれば、手こね土器などが出土し、古墳時代前期の4世紀後葉から平安時代を通じての祭祀遺跡とみられるという。また、経筒外容器も出土し、中世には経塚として利用されたらしい。こうしたことから、平成4年に県指定史跡として指定された際には、「磐座」に限定されることを避けて「渭伊神社境内遺跡」という名で登録された。


静岡県神社庁のHPから(渭伊神社)

玄松子さんのHPから(渭伊神社)

龍潭寺のHP:縁起に「元祖共保出生の井戸」についての説明があります。


写真1:「渭伊神社」境内入口の社号標


写真2:社殿


写真3:社殿背後にある巨石群


写真4:境内西側の神宮寺川岸にある巨石
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淡海國玉神社(遠江国式内社・遠江国総社)

2012-01-21 23:23:55 | 神社
淡海國玉神社(おおみくにたまじんじゃ)。
場所:静岡県磐田市見付2452-2。JR東海道本線「磐田」駅から真っ直ぐ北へ約1.8km(国道1号線の「加茂川」交差点の次の交差点)で右折(東へ)、約400m。駐車場なし(「旧見付学校」に駐車場あり。)。
「淡海」は淡水湖の意味で、琵琶湖のある「近江国」を「近淡海(ちかつあふみ)国」、浜名湖のある「遠江国」を「遠淡海(とおつあふみ)国」とも称した。「国玉」は即ち「国魂」だろうし、だから、遠江国の「淡海國玉神社」は遠江国の国(国土)そのものを神格化した神社ということになろうか。創建時期は不明であるが、古代から遠江国開発の守護神だったのだろう。主祭神は大国主命。元は岩井原というところに鎮座していたと伝えられ、「日本三代実録」にいう遠江国の「淡海石井神」は当神社のこととされているが、いつ遷座したのかなどの記録はない。
さて、当神社は単に式内社であるだけでなく、遠江国の総社として機能し、かつては「惣社大明神」とも称されていた。そのためか、式内社「御祖神社」、同「御子神神社」、同「須波若御子神社」などを合祀し、通称「雷三神社」(式内社「豊雷命神社」、同「豊雷売命神社」、同「生雷命神社」の3社を合祀したもの)と式内社「天御子神社」は当神社の境外社(飛地境内社という言い方もあり、また摂社か末社かという問題もあるが、複雑煩瑣であるので省略)となっている。 
なお、当神社入口に近世東海道の「見付宿」の碑もある。この付近は、古代からの国府、中世以降の守護所の所在地として遠江国の中心地であり、また、天竜川の東岸、今ノ浦という入江(港)があって物資の集積地など、交通の要衝であった。


玄松子さんのHPから(淡海國玉神社)


写真1:「淡海國玉神社」正面鳥居。扁額は「惣社大神」。


写真2:社殿。狛犬のかわりに白兎が社を守っている。


写真3:鳥居横にある国指定史跡の「旧見付学校」。明治8年に建てられた、現存する日本最古の木造洋風小学校校舎(何と5階建)。


写真4:「淡海國玉神社」・「旧見付学校」入口にある「夢舞台東海道」の「見付宿」石碑


写真5:式内社「雷三神社」(場所:静岡県磐田市見付2696。「淡海國玉神社」の南、約250m。駐車場なし。)


写真6:式内社「天御子神社」」(場所:静岡県磐田市見付2990。「淡海國玉神社」の南、約1km。むしろ「府八幡宮」にすぐ近い。駐車場なし。)

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府八幡宮

2012-01-14 22:12:28 | 神社
府八幡宮(ふはちまんぐう)。
場所:静岡県磐田市中泉112-1。JR東海道本線「磐田」駅北口から、真っ直ぐの道(県道58号線(袋井春野線))を北へ、約1km。駐車場あり。「遠江国分寺跡」とは、県道を挟んで隣り合っている。
「府八幡宮」は、遠江国府に伴う八幡宮の意味。社伝によれば、天平年間(729~748年)、天武天皇の曽孫である桜井王が遠江国司として赴任した際、国府の守護神として祀られたのを創建とする。なお、遠江国府は、元は御殿・二之宮地区(現・JR「磐田」駅南口付近)にあり、当神社も同地内にあったが、その後の海進により、国府ともども現在地に移転したとも伝えられている。当神社の主祭神は誉田別命(応神天皇)だが、その父母の足仲彦命(仲哀天皇)と気長足姫命(神功皇后)を併せ祀る。
実は、遠江国だけではなく、各地に国府八幡宮とか府中八幡宮とかと呼ばれる八幡宮が存在する。当神社のように、国府の守護神として勧請されたとする場合が多いが、国分寺の鎮守とする例もあるという。国府に近いことから、総社の機能を有した神社もあるようだ。個人的には、ここまで八幡信仰が広まったのは中世的な現象(平安末期からの武士、特に清和源氏の勢力拡大と最も神仏混淆的な八幡大菩薩信仰の拡大)ではないかと考えているので、国府設置時から八幡宮が勧請されていたかは疑問に思っている。国府に付属する神社があったらしいことは、ほぼ間違いないと思うけれども、それは八幡宮に限らない。むしろ、元は、国司が個人的に信仰する氏神を(国府に、というよりは、国司邸に)勧請したのではないか、と思う。
さて、当神社については、社伝のとおり国府の鎮守だったかもしれないし、(国分寺との位置関係からして)国分寺の鎮守だったかもしれない。そもそも遠江国については、式内社の論社が多くて複雑になっており、当神社も式内社「御祖神社」、同「入見神社」、同「須波若御子神社」の論社となっているという。いずれにしても、古代の遠江国の中心部に位置する古社として、今日まで信仰を集めていることは確かなことである。
ところで、遠江国府所在地のことだが、「御殿・二之宮遺跡」から墨書土器や木簡が出土し、さらには大規模建物や祭祀場らしい跡も発見されて国府跡の有力候補となった。しかし、海に近すぎる(かつては、少なくとも現在のJR東海道新幹線の線路付近が海岸線であったらしい。)ので、疑問も残る。武部健一著「古代の道」(2004年10月)によれば、JR「磐田」駅付近(「御殿・二之宮遺跡」)に遠江国府と古代東海道の「引摩(いんま)」駅家があった。その東側には「今ノ浦」という町名が残るが、その名の通り、入江になっており、国府津があった、とみられる。平安時代末期には、遠江国府は約2km北へ移転したが、駅路と「引摩」駅家はそのまま残った、という。


府八幡宮のHP

静岡県神社庁のHPから(府八幡宮)

玄松子さんのHPから(府八幡宮)

東海まちづくり研究所さんのHPから(御殿・二之宮遺跡)


写真1:「府八幡宮」大鳥居


写真2:立派な楼門。寛永12年(1635年)建立で、県指定文化財。


写真3:社殿
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遠江国分寺跡

2012-01-07 22:07:21 | 寺院
遠江国分寺跡(とおとうみこくぶんじあと)。
場所:静岡県磐田市見付。JR東海道本線「磐田」駅北口から、真っ直ぐの道(県道58号線(袋井春野線))を北へ、約1km。磐田市役所の北側に広がる、原っぱのような場所。駐車場有り。
かつて遠江国の国府は、現・磐田市にあった。国庁の所在地は未確定であるが、「御殿・二之宮遺跡」(磐田市中泉)または現・磐田北小学校(磐田市見付)付近ともいわれている。いずれにせよ、天竜川と太田川に挟まれた、いわゆる磐田原台地の中央部に遠江国の中心があったことになる。
「遠江国分寺」は、聖武天皇の天平13年(741年)の詔によって全国に建立された国分寺の1つで、詔からほどなく現在地に建立されたようである。「類聚国史」によれば、弘仁10年(819年)に焼失した旨の記事があり、いったん諸堂が灰燼に帰したとされるが、延喜式に多額の寺料の記事があり、再建されて平安時代にはなお大寺であったものらしい。しかし、室町時代以降は次第に衰え、特に戦国時代には、武田軍と徳川軍の対峙の際に、武田方に味方したため徳川方から焼き討ちされたともいい、相当衰微していったようである。江戸時代末には、天台宗「東叡山 寛永寺」の末寺となっていたが、明治初年の廃仏毀釈により無住の廃寺に追い込まれた。村人が「薬師堂」一宇のみを守っていたが、大正12年に内務省告示により史蹟に指定されたことから、「参慶山 普賢延命院 国分寺」(本尊:薬師如来)として復興し、宗派も新義真言宗に改めた。しかし、寺域の調査等も不十分であったところ、その中心付近を東西に走る道路が計画され、昭和26年に発掘調査が行われた。その結果、金堂、講堂、中門、回廊、塔などの址が良好な形で発見され、全国的な国分寺研究に画期的な意義を有するものであることがわかった。それによると、寺域は方2町(約218m)、北から講堂、金堂、中門、南大門が南北一直線に配され、金堂と中門は回廊でつながっており、その回廊の西側には塔が建てられていたらしい(いわゆる東大寺式伽藍配置)。驚くのは、塔の基壇が方52尺(約16m)とされ、ここから、七重塔の高さが224尺(約68m)と推定されたことである(石田茂作氏の推定による。)。現在、江戸時代以前の木造七重塔は存在せず、京都・「教王護国寺(東寺)」の五重塔(約55m)よりも10m以上も高い塔があったことになる。
さて、「片山廃寺跡」を「駿河国分寺」跡とできない大きな理由として、塔址が発見できないことがあげられているが、「遠江国分寺跡」の例からすると、回廊の外、(遠江とは違って)東側にあったとすれば、位置的には現在の「白山神社」付近、あるいは、その西側付近ということになる。最近、それらしい発見もあったようだが、今後も十分な調査を期待したい(「駿河国分寺」(2011年5月31日記事参照)。
参考文献:「新修国分寺の研究 第二巻」(平成3年11月)


磐田市のHPから(遠江国分寺跡)

遠江四十九薬師奉賛会さんのHPから(国分寺)


写真1:「史蹟遠江國分寺址」の石碑。広い史跡公園の東南の入口。


写真2:主要な伽藍があった場所だが、今は何もない。正面奥に見える案内板が「金堂跡」を示す。向って右奥に見える木造建物は「参慶山 国分寺」の「薬師堂」。


写真3:塔跡


写真4:塔心礎。自然のままでなく、かなり加工されたもののようだ。


写真5:「参慶山 国分寺」入口。「遠江四十九薬師霊場」第一番札所となっている。


写真6:薬師堂脇にある手洗石。もとは国分寺の礎石だったという。
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