神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

常井の井戸(茨城県茨城町)

2023-09-30 23:33:32 | 史跡・文化財
常井の井戸(とこいのいど)。
場所:茨城県東茨城郡茨城町常井489(「常井薬師堂」の住所)付近。茨城県道40号線(内原塩崎線)と同52号線(玉里水戸線)の「高田十字路」から、県道40号線を南東へ約190m進んで右折(南西~南へ)、約1.3km先の六差路を右折(西へ)、約100m。「常井薬師堂」の道路を隔てた向かい側。「常井薬師堂」に駐車スペースあり。六差路からの道路は狭いので要注意。
「常井の井戸」は、民話では、八幡太郎こと源義家が東征の際に、当地で食事を取ろうとして掘った井戸であるとされる。すぐ傍にある「常井薬師堂」は、天台宗「常井山 宝性院」(廃寺。元は現・茨城町小鶴の「龍谿山 西楽院 如意輪寺」末という。)の薬師堂で、毎月21日の縁日(「薬師講」)に唱えられる「常井山薬師和讃」では、義家が掘った井戸の伝承と薬師如来の御利益を讃える内容となっている。「常井の井戸」は、現在ではコンクリート製の四角い枠の井戸になっているが、地元の方々により今もきれいな水が維持されているとのこと。伝説では、この井戸で目を洗うと眼病が治り、お礼に魚を放つ。すると、魚の片目が白くなるが、それは魚が眼病を引き受けたからだという。因みに、義家には、各地に超人的な伝説があり、中には弓の矢で岩を突いて、そこから清水を湧き出させたというものもあるようだが(福島県本宮市にある「岩井の清水」の伝説)、当地ではそういう話は伝わっていないようだ。
ところで、古代東海道は常陸国府(現・石岡市、「常陸国府跡」(2018年1月6日記事)参照)を終点としたが、そこから奥羽国に向かう連絡路としての古代官道があった。「常陸国府」の次の駅家は「安侯」駅(現・茨城県笠間市安居が比定地、「東平遺跡」(2020年7月4日記事))で、その先は「河内」駅(現・茨城県水戸市渡里町が比定地、「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事参照))になる。「安侯」駅と「河内」駅の間は、古代官道に特徴的な直線道路の痕跡がはっきりしないようで、具体的なルートは不明だが、単純に直線で結ぶと「常井」の西側を通ることになる(国道6号線よりは、常磐自動車道のルートに近い。)。義家の軍勢が当地を通ったかどうかは不明だが、興味を惹かれる伝承ではある。


写真1:「鹿島神社」鳥居(場所:茨城町常井615。六差路の北、約100m)。鳥居前に「常井公民館」もあり、この辺りが「常井」集落の中心部と思われる。


写真2:同上、拝殿。社伝によれば、長寛元年(1163年)の創建で、旧・村社。祭神・武甕槌命。


写真3:「常井薬師堂」。創建は永禄3年(1560年)という。


写真4:「常井の井戸」。「常井」という地名も、この井戸に由来するものと思われる。


写真5:同上。手水舎の柱に説明板があり、「常井山薬師和讃」全文も記されている。


写真6:同上。かなり大きな井戸だが、今も澄んだ水が豊富に湛えられている。
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小幡北山埴輪製作遺跡

2023-09-23 23:33:46 | 史跡・文化財
小幡北山埴輪製作遺跡(おばたきたやまはにわせいさくいせき)。
場所:茨城県東茨城郡茨城町小幡2735外。国道6号線「小幡」交差点から北東へ約1km。駐車場、トイレ有り。国道の交通量が多く、駐車場への出入りに注意。
「小幡北山埴輪製作遺跡」は、これまでに発見された中では我が国最大の古墳時代の埴輪製作遺跡で、6世紀中頃~7世紀前半頃の遺跡とみられている。涸沼川の右岸(南岸)、標高22.5~27mの台地上にあり、涸沼川の支流が開析した浸蝕谷の最奥部に位置して、東西に分岐した幅5~10メートルの小支谷沿いに展開している。古くから俗に「カベット山」(壁土山)と称され、良質の粘土のとれる場所として知られていたが、昭和28年、入植者の開墾作業中に人物埴輪、円筒埴輪、馬の埴輪などが多量に出土し、埴輪製作遺跡として知られるようになった。しかし、その後は本格的な調査が行われないまま耕作地化が進んでいたが、昭和62年、西側支谷から埴輪製作の窯跡が発見され、遺跡が予想以上に広範囲に及ぶことが明らかになった。このため、急遽同年から翌年にかけて3次にわたる調査が実施され、埴輪窯59基、工房跡8棟、粘土採掘坑2ヵ所などが発見された。また、円筒埴輪、朝顔形埴輪、武人などの人物埴輪、土師器の坏、高坏、鉢、甕なども出土した。窯跡は、幅の狭い谷に向かった傾斜地を利用して造られ、2~7m間隔で整然と並んでいた。また、竪穴式住居跡らしい遺構も発見されたが、竈などが設置されておらず、工房跡だったと推定されている。当遺跡で製作された埴輪は、周辺の古墳のほか、約15kmも離れた霞ヶ浦北岸の大型古墳にも供給されていたことが判明しているという。平成4年、国史跡に指定され、現在は「小幡北山埴輪公園」として整備されている。


文化遺産オンラインのHPから


写真1:「小幡北山埴輪製作遺跡」入口。国指定史跡の標柱がある。


写真2:入口から入って直ぐの「復元前方後円墳」。埴輪の並べ方などの参考のため造られたとのこと。


写真3:少し下っていったところにある「粘土採掘坑」跡


写真4:「復元はにわ窯」


写真5:「埴輪窯跡」。植栽でうまく窯跡を表現している。
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法叡山 高岳院 圓福寺

2023-09-16 23:32:56 | 寺院
法叡山 高岳院 圓福寺(ほうえいさん こうがくいん えんぷくじ)。
場所:茨城県東茨城郡茨城町鳥羽田656。茨城県道181号線(宮ケ崎小幡線)「鳥羽田」交差点から東に約750mで左折(北東へ)、約450m。駐車場なし(境内まで自動車で入れる。)。ゴルフ場「オールドオーチャードゴルフクラブ」の南側。
寺伝によれば、弘仁3年(812年)、円仁(慈覚大師、第3代天台座主)が奥州教化の帰路、阿弥陀仏の出現を見て開山したという。円仁は下野国(現・栃木県)生まれとされ、関東~東北地方には円仁を開山とする寺院が多いが、実際には事実ではないことが多いといわれる。当寺院の場合も、弘仁3年といえば、円仁はまだ「比叡山 延暦寺」で修行中のはずで、まだ得度もしていない(得度は弘仁6年とされる。)頃なので、ちょっと早すぎるのではないだろうか。当寺院の道路を隔てた西側に「鹿島神社」があるが、その由来碑によれば、室町時代の永享7年(1435年)に鳥羽田地頭・鳥羽田大隅守が当寺院を建立し、その寺内に常陸国一宮「鹿島神宮」の分霊を勧請した。そして、元禄12年(1699年)、水戸藩の命により当寺院と分離され、現在地に遷座したとしている。また、「鹿島神社」の北西側に伸びる台地に中世城郭の「鳥羽田城」があり(「鳥羽田(とりはた)」は、地元では「とっぱた」と称するといい、これは突端という意味だろう。)、俵藤太こと藤原秀郷の子孫である那珂氏一族の江戸氏の家臣・鳥羽田氏の居城だったとされるが、ゴルフ場の造成等で城郭の名残りは殆どなくなっているようである。
さて、円仁の開山云々は別として、十分に古い歴史を有し、相応に有力な寺院だったと思われる。現在は天台宗に属し、本尊は鎌倉時代の徳治2年(1307年)銘の造立銘札がある木造阿弥陀如来三尊像(茨城県指定有形文化財)である。他にも、室町時代作とされる絹本着色阿弥陀如来像(茨城県指定有形文化財)、平安時代末~鎌倉時代初期の木造阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財。元は「水戸東照宮」別当の「大照院」の本尊で、明治初期に移されたものという。)も所蔵している。また、伝承では、当地が、浄瑠璃や歌舞伎で有名な小栗判官と照手姫の終焉の地とされ、その木像が安置された「小栗堂」もある。小栗判官は創作上の人物だが、そのモデルとなったのは常陸国小栗御厨(現・筑西市小栗)の小栗城主・小栗助重とされている。「小栗堂」は当寺院本堂の西側にあり、室町時代頃とみられる助重と照手姫の等身大の木製坐像が安置されているが、元々は単に比丘(僧)・比丘尼(尼僧)像で、助重と照手姫に仮託されたもののようである。これらの像は、かつて鳥羽田の「竜含寺」(廃寺)にあったが、「竜含寺」には檀家がなく、傷んだ坐像の修理の費用も工面できなかったため、江戸に運んで浄財を募って修理し、後に当寺院に移されたという。


茨城町商工会のHPから(天台宗 圓福寺)

茨城町観光協会のHPから(木造阿弥陀如来三尊像)


写真1:「圓福寺」寺号標(「天台宗法叡山高岳院圓福寺」)と参道石段。本堂正面(南側)だが、こちら側からは入りにくく、西側の舗装路から入るのが普通。


写真2:山門


写真3:本堂


写真4:収蔵庫(木造阿弥陀如来坐像と絹本着色阿弥陀如来像が安置されている。)。


写真5:鐘楼


写真6:旧本堂


写真7:小栗堂


写真8:「鹿島神社」(場所:茨城県東茨城郡茨城町鳥羽田663)鳥居と社号標。元は「八幡神社」だったともいう。


写真9:同上、拝殿


写真10:同上、本殿(覆屋)
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矢神神社(茨城県鉾田市)

2023-09-09 23:33:51 | 神社
矢神神社(やがみじんじゃ)。
場所:茨城県鉾田市箕輪3139。宿泊施設「いこいの村 涸沼」入口付近から茨城県道16号線(大洗友部線)を東へ約600mで右折(南へ)、道なりに約400m。交差点の東南の角。駐車場なし。
社伝によれば、日本武尊が東征の折、現・鹿嶋市角折から船に乗り、同・上釜付近に上陸した。そこから涸沼南岸の当地に至り、小憩した後、石弩を残していった。貞観元年(859年)、村人がその石弩を奉じて祠を立てたのを創祀とするという。旧村社。祭神は日本武尊。
日本武尊の東征ルートは「古事記」と「日本書紀」で異なっているが、「日本書紀」の記述によれば、上総(現・千葉県中部)から陸奥国(現・東北地方東部)に入った。そのとき、船に乗って、海路で向かったとされているので、現・香取市辺りから鹿島灘(太平洋)、あるいは北浦沿岸を北上したと考えられる。もちろん、日本武尊の実在性を疑問視する説もあるが、少なくとも、ヤマト政権軍が常陸国を通過して東北地方に進攻したということなのだろう。ということで、鹿行地域に日本武尊所縁という神社がいくつかあって、当神社もその一つとなっている。因みに、「常陸国風土記」香島郡の条に、「角折浜」という地名が出てくる。「昔、大蛇がいて、東の海(太平洋)に出たいと思い、浜を掘って穴を作ったが、角が折れてしまった。よって、その名をつけた。あるいは、別伝では、倭武天皇(日本武尊)がこの浜で宿泊することになったが、食事を差し上げるときに水が無かった。そこで、鹿の角で地面を掘り返したところ、角が折れてしまった。このことから名付けられたという。」(現代語訳)との記述があり、現・鹿嶋市角折が遺称地とされている。
蛇足:「石弩」(せきど、いしゆみ)は、西洋流にいえばクロスボウ(ボウガン)の類で、土台の上に弓を載せて弦を強く引けるようにして威力を増した武器を指し、中国では戦国時代(紀元前5世紀~紀元前221年)には既に使われていたらしい。古代日本でも使われており、律令制下の軍団に「弩手」という兵士がいたとされている。


写真1:「矢神神社」鳥居と社号標


写真2:拝殿


写真3:本殿(覆屋)


写真4:「昇格記念之碑」石碑(手前)。この碑に当神社創建の由緒が記されている。
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鹿島神社(茨城県鉾田市造谷)

2023-09-02 23:36:35 | 神社
鹿島神社(かしまじんじゃ)。
場所:茨城県鉾田市造谷491。茨城県道114号線(下太田鉾田線)・同115号線(子生茨城線)「旭村農協前」交差点から南に約300mで左折(東へ)、約450m。駐車場なし。
社伝によれば、上古、日本武尊が東征の際、角折浜から上陸して当地に至り、鹿島大神を拝して戦勝を祈願した。そのとき、谷を開墾して田を造る老人があり、日本武尊はその老人の労を慰めた。これが「造谷」という地名の起こりとする。後に村人が日本武尊の壮武を思い、和銅3年(710年)、常陸国一宮「鹿島神宮」の分社を建立したという。文政3年(1820年)に別当寺「龍蔵院」が炎上して旧記を失う。旧・造谷村の鎮守として氏子らの信仰が篤く、明治17年に村社に列格。平成2年、拝殿・玉垣等改築。現在の祭神は武甕槌命だが、古来「三社の宮」と称されたように、現在は本殿が3棟並んで建てられ、中央に武甕槌命、右に「熊野神社」として素戔嗚尊、左に「鳴神神社」として別雷神を祀る。
さて、当神社の社伝も、日本武尊の進軍に絡めた地名由来譚となっている。ただし、祭神が日本武尊ではなく、武甕槌命を祀るというのは、当地にまで「鹿島神宮」の支配が及んでいたことを示すものだろう。なお、「旭村の歴史 通史編」では、祭神について次のように記述されている。即ち、「造谷村明細帳」によると、当村鎮守は国神大明神、熊野権現、雷大明神の3社であるが、旧造谷村村社である鹿島神社の記載がない。「茨城県神社誌」によると鹿島神社の境内社として熊野神社、鳴滝神社があり、この2社は造谷村鎮守の2社とみられ、「村明細帳」にある国神大明神は明治4年の近代社格制の発足のころ、鹿島神社と名称変更が行われたとみられる。黒子(関城町)の千妙寺文書によると、上太田村の鎮守は国神明神と称し、造谷村鎮守と同名であり、明治維新ごろは国都神神社と称した(一部省略等)...。これをどう考えたらよいのだろうか。言うまでもなく、武甕槌命は天津神の主力メンバーであり、国神(国津神)と呼ばれることはない。日本武尊も天津神の子孫であり、国神とは言えないだろう。そうすると、「旭村の歴史」の通り、祭神が変わってしまったか、あるいは「造谷村明細帳」のほうが間違っているか(旧・上太田村の「国都神神社」(前項)と混同した?)、ちょっと不思議なことである。


写真1:「鹿島神社」鳥居


写真2:社号標(村社 鹿島神社)


写真3:境内の石碑


写真4:拝殿


写真5:本殿。3棟が並んでいる。


写真6:同上、背後から。
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