神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

飛澤神社

2014-12-27 23:24:11 | 神社
飛澤神社(とびさわじんじゃ)。
場所:山形県酒田市麓字麓山88。国道344号線と山形県道366号線(升田観音寺線)の交差点付近、「酒田市役所八幡総合支所」前から国道344号線を東に約500m進み、左折(北へ)、次の交差点を右折(東へ)、突き当たり。駐車スペースあり。
社伝によれば、貞観13年(871年)、「鳥海山」が大噴火した際、その神霊を鎮めるために「天降堂」を建てて祀ったのが始まりという。因みに、「天降堂」という地名は現在も残っている(当神社の西、「八幡小学校」の東側辺り)。永禄年間(1558~1570年)には、当地丘陵(通称:楯山)に有力国人であった来次氏が「観音寺城」を築き、当神社を現鎮座地に移し、深く崇敬したとされる。かつては「小物忌神社」と称していたといい、出羽国式内社「小物忌神社」の論社の1つとなっている。
現在の主祭神は豊受姫命で、当神社では「伊勢外宮御祭神と同じ」と紹介しているが、「鳥海山大物忌神社」で祀られている「大物忌大神」と同神とされることから選ばれたのではないかと思われる。


玄松子さんのHPから(飛澤神社)


写真1:「飛澤神社」参道入口の社号標と鳥居


写真2:参道脇にある境内社「古四王神社」


写真3:参道途中の赤い両部鳥居。脇に見えるのは境内社「八坂神社」


写真4:拝殿正面


写真5:この山の中に・・・と思うような、立派な本殿
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劔龍神社

2014-12-20 23:15:02 | 神社
劔龍神社(けんりゅうじんじゃ)。
場所:山形県飽海郡遊佐町当山字上戸2。JR羽越本線「遊佐」駅前付近から国道345号線を約1.7km北上、山形県道371号線(菅里直世下野沢線)に入って道なりに約900m進むと、右手に赤い大きな鳥居が見えてくるので、その下を通って直進、約700m。駐車スペースあり。
社伝によれば、創祀は大同元年(806年)。伝承では、当時、「鳥海山」に悪鬼が棲んで村人を苦しめていたことから、「大物忌神」が神剣を振るって悪鬼を切り裂いた。その際、頭が落ちたところに「鳥海山大物忌神社」の別当「龍頭寺」が建てられ、尾が落ちたところが「尾落伏村」(現・遊佐町直世落伏)と称されるようになったというが、ここに「剣龍山 剣積寺」が創始され、その宮殿(神社)に神剣が納められたとされる。現在も「鳥海山」に「稲倉岳」(1,554m)という峰があるが、ここは比較的初期の噴火で形成された峰で、古来から「鳥海山」の奥院または秘所とされていた(「稲倉岳」という名も、「大物忌神」と同神とされる倉稲魂命に因むという。)。悪鬼を両断した神剣は稲倉岳から飛び出たともいわれ、「鳥海山稲倉嶽剣龍山小物忌神社雲龍倉稲魂命の剣龍」と称し、「剣龍神社」の神体であるとされる。因みに、安永8年(1779年)に火災に遭い、本地仏の薬師如来像は焼失してしまったが、幸い「秘仏」といわれてきたものは難を逃れ、明治に入って「秘仏」の箱を開けてみたところ1口の剣がはいっていたという。こうして、当神社は、江戸時代には「剣龍山大権現」と呼ばれ、口碑に式内社「小物忌神社」であると伝えられてきたが、明治3年に「劔龍神社」と改めた。現在の祭神は大己貴命で、かつての本地仏・薬師如来から医薬の神を選んだものだろう。
なお、「剣積寺」は、慈覚大師の創建になり、延慶元年(1308年)に浄光上人が再興した天台宗の寺院(本尊:薬師如来)で、修験の宗坊6坊があり、学頭寺として「剣龍山 浄光院 剣積寺」と称し、「剣龍山薬師堂」とも呼ばれていたという。


玄松子さんのHPから(劔龍神社)


写真1:県道に面した大きな鳥居


写真2:参道途中にある「郷社 劔龍神社」という社号標


写真3:雰囲気のある参道は徒歩で直進、車道は右へ


写真4:鳥海山修験の神社に共通する参道の雰囲気


写真5:同上


写真6:拝殿


写真7:本殿


写真8:真言宗智山派「剣龍山 剣積寺」入口
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遠賀美神社

2014-12-13 23:33:30 | 神社
遠賀美神社(おがみじんじゃ)。
場所:山形県酒田市飛島勝浦乙4。「飛島港」の定期船乗り場近く。
当神社の創建時期は不明。「遠賀美」は現在では「おがみ」としているが、古くは「賀」の字は濁らないので、本来「おかみ」という呼び方が正しい。現在の「遠賀美神社」の祭神は大海津見命(オオワタツミ)など6神であるが、元々は「龗」または「淤加美」神で、水神であろうと思われる。そもそも「遠賀美神社」の本殿は、「飛島」の西沖約2kmにある「御積島(おしゃくじま)」の洞窟であり、内部は光り輝く龍の鱗が連なるような形状の岩壁となっていることから、「白龍」または「倶梨伽羅不動」等と呼ばれる龍神を祀っていたという。かつては女人禁制の島であり、龍神は人工物を嫌い、石灯籠等を設置しても直ぐに流されてしまうとされていた。こうしたことから、「御積島」と向かい合う「飛島」の西海岸に遥拝殿として「遠賀美神社」を建てた。これが現在も残る通称「明神社」である。ただし、ここも、海岸の遊歩道を徒歩で通うしか交通手段がないため不便であり、現在地に「遠賀美神社」を建立したとされる(したがって、現在の「遠賀美神社」も遥拝殿という位置づけである。)。
さて、前項で書いた「小物忌神社」(飛島)が何故「大宮神社」と呼ばれるようになったのか、ということであるが、それは次のような事情によるという。即ち、元文3年(1738年)、公儀による「神改め」が行われることになり、その際に立派な御神体は持っていかれるという噂が立った。これを恐れた島民は御神体(衣冠姿の神像とのこと。)を抱えて竹薮に身を潜め、役人には「明神社」を「小物忌神社」であるとして案内した。現在も「明神社」の屋根瓦に、丸に「小」の文字が意匠されているのは、その偽装のためだという。それ以来、本来の「小物忌神社」という名は隠され、「大宮神社」と呼ばれるようになったということである。御神体が持ち去られるということがあるはずはないが、これが他の神社に「小物忌神社」という由緒ある名を名乗らせようとする島内の真言宗「円福院」の陰謀であったということになっている。
「飛島」は周囲10.2km、面積 2.7平方km、住民300人足らずという小さな島だが、神秘の島である。

参考文献:粕谷昭二著「日本海の孤島 飛島」(2010年7月)


写真1:飛島港近くにある「遠賀美神社」


写真2:「賽ノ磧(さいのかわら)」。飛島港から遊歩道を西側に廻り込んだところにある。丸くて平たい石が大量に流れ着いたもの。「明神社」はこの先。


写真3:「明神社」入口の鳥居。神社は石塁に囲われている。


写真4:同上社殿(拝殿?)。海側、即ち、「御積島」の方を向いている。


写真5:同上(本殿?)。「明神社」の祭神は級長戸辺命・級長津彦命(「小物忌神社」(飛島)と同じ)となっている。


写真6:「御積島」。「鳥海山」山麓の吹浦の海岸から御札を流すと、この島に流れ着いて積み重なったということから、その名がついたという。


写真7:秋田県にかほ市側から見た「飛島」。テーブルのように平に見える。
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小物忌神社(山形県酒田市飛島)

2014-12-06 23:10:18 | 神社
小物忌神社(おものいみじんじゃ)。
場所:山形県酒田市飛島字中村甲178。酒田港から定期船「とびしま」に乗り75分、飛島(勝浦)港から山形県道354号線(勝浦法木線)を道なりに徒歩約1.2km、「進藤鉄工所」の裏辺りから北へ、山の上に300mほど登っていく。なお、酒田港の定期船乗り場前に駐車場あり。
当神社の創建時期は不明だが、口伝では延長元年(923年)。祭神は級長津彦尊(シナツヒコ)・級長戸辺尊(シナトベ)という風の神で、大和国「龍田大社」(式内社「龍田坐天御柱國御柱神社」)から勧請されたものと伝えられる。創祀の経緯が不明なのは残念だが、そもそも当神社が鎮座する「飛島」自体が「鳥海山」山頂が噴火により海に飛んで出来たという伝承がある。現在は山形県酒田市に属するが、位置的には秋田県にかほ市象潟の西の沖にあり、思わず頷いてしまいそうだ。何の根拠もないのだが、古代、沖に見える島に神秘を感じ、「鳥海山」(大物忌神)と対比する「小物忌神社」を創建したものの、本土側から巡拝するのは大変なので、「延喜式神名帳」編纂の頃には「出羽国府」(現・城輪柵跡)に近い場所に里宮として勧請されていたのではないだろうか(ただし、当神社を「小物忌神社」の元宮とするなら、里宮も海に近い場所に建てるのではないか、という問題もあるだろう。)。
さて、前項の「小物忌神社」と共通する「日本三代実録」・「延喜式神名帳」の記事以外には近世まで史料がなく、江戸時代には「大宮神社」と呼ばれていたという。なぜ「小物忌神社」ではなく、「大宮神社」と称するようになったのか、その事情については次項(「遠賀美神社」)で書く予定だが、そのことによって、各地で何の根拠もなく「小物忌神社」と称する神社が続出したとされる。これを嘆いた酒田市の「財団法人光丘文庫」(現・酒田市立光丘文庫)文庫長・白崎良彌氏が私費を投じて調査した結果、当神社こそが式内社「小物忌神社」であるとして陳情活動等を行い、昭和17年に「大宮神社」から「小物忌神社」に改称することが認められたという。

参考文献:白崎良彌編「延喜式小物忌神社考略説」(近代デジタルライブラリー)


玄松子さんのHPから(小物忌神社(飛島))

「庄内を遊ぼう!」のHPから(飛島で遊ぼう!)


写真1:定期船から見える「鳥海山」


写真2:「小物忌神社」参道入口。社号標は「延喜式内 小物忌神社」


写真3:鳥居


写真4:社殿正面


写真5:社殿。大きくはないが、屋根が特徴的で美しい。


写真6:県道沿いにある「テキ(狄?)穴」洞窟。全長約50m。


写真7:同上。少し奥に入ったところ。昭和39年に合計22体の平安時代の人骨や須恵器が地元の中学生によって発見されたという。
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