神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

大日山古墳(茨城県取手市)

2021-10-30 23:44:12 | 古墳
大日山古墳(だいにちやまこふん)。大日山古墳群第1号墳。古墳上に「岡神社」が鎮座している。
場所:茨城県取手市岡1179。「親王山 延命寺」(前々項)入口から茨城県道251号線(守谷藤代線)を東~北東へ約160m、水路に架かる橋の手前の十字路を右折(南東へ)、約110m進んで左折(北東~南東へ。水路に架かる橋を渡って水路沿いに進む。)、約140m進んだところで右折(南西へ)、道なりに約180m進んで右折(水路に架かる橋を渡る。)、水路の右を進む。道路が二岐に分かれるところで、右へ進んで約40mで「岡神社」の鳥居前(「池田屋」という工場?の裏)。駐車場はなく、道路も狭いので、「仏島山古墳」(前項)手前付近などに止めてきた方が良い。なお、「仏島山古墳」手前(西、約60m)から台地に上る狭い道があり、徒歩数分で古墳・神社社殿まで行ける。
「大日山古墳」は岡台地と呼ばれる舌状台地の先端に築かれた直径約18m、高さ約2.8mの円墳で、築造時期は6世紀頃ということで昭和14年に茨城県指定文化財(史跡)に指定されている。しかし、これを古墳とすることについて疑問の声も上がっていた。例えば、①円墳とされるが、外観は方形状で、傾斜も急である、②当地では、江戸時代初期から大日信仰が盛んになり、頂上に「大日堂」があった(「大日堂」にあった大日如来像は、現在は岡公民館に安置されている。)ことから、「大日塚」として築かれたものではないか。形状も他地区の「大日塚」に似ている、③台地上に中世城郭があったようで、その櫓台として造られたものではないか、④付近で玉類や鉄鏃などが発見されたといわれるが、「仏島山古墳」からの出土物と混同されたものではないか、等である。こうしたことから、昭和63年に、古墳の周溝部とされた部分(裾の平らな部分)のトレンチ調査が行われたが、周溝は検出されず、これといった出土物もなかった。実測では、方形で、底形13m×17m、上形5m×5m。自然地形ではなく、おそらく方形に築造されたものとされる。結局、主体部の発掘調査をしなければ結論は出せないとしているが、元の古墳を中世に城郭の櫓台に転用し、近世に大日塚に改造した可能性を指摘している。
このように、明確に古墳であるとも断定できないのだが、伝承では、ここに平将門の愛妾・桔梗姫(桔梗御前)の館があり、朝日を拝むのに最適な場所として「朝日御殿」と呼ばれていた、という。桔梗姫は、将門が討たれたのを聞いて、目の前の沼に身を投げて亡くなったという伝説もある。この沼はその後、水田となったが、「桔梗田」と呼ばれて村人が共同で耕作する田となったとされている。「大日山古墳」が古墳時代のいわゆる「古墳」であれば時代が合わないが、将門、あるいは桔梗姫の墳墓という伝承もあったようだ。
古墳の右脇(北側)に広場があり、これが「朝日御殿」跡との伝承の場所だろう。また、中世の城郭「岡城」跡ともいわれるが、その歴史、城主等は一切不明である。現在、古墳上に「岡神社」が鎮座しているが、創建時期が江戸時代というほかは不明。一説に将門の重臣の子孫が「熊野権現」を祀っていたというが、「岡神社」との関係は判然としない。元は「大龍神社」と称し、明治15年に村社となり、明治41年に村内の八幡・鹿島・稲荷・姫宮・天神・水神の各神社を合祀して、明治42年に「岡神社」と改称したという。現在の主祭神は、水波女命(ミズハノメ)。おそらく、近世になって周囲が水田開発されるにあたり、しばしば氾濫する小貝川の水害除けを祈願したものだろう。


写真1:「岡神社」鳥居。急な石段を上る。


写真2:最初の石段を上ったところに、更に一段高い場所があり、これが「大日山古墳」。手水鉢、稲荷社の石祠などがある。


写真3:古墳の周りに石祠、石仏、石塔が並ぶ。


写真4:古墳の墳頂に「岡神社」社殿がある。


写真5:北東側の石段(社殿は南東向き)


写真6:祭礼記念碑


写真7:古墳(社殿)北側の平地。ここが「朝日御殿」とされる場所だろう。


写真8:南西の麓の水田。


写真9:鳥居前から西へ約200m進むと、南側の水路手前に「桔梗田」の説明板がある。
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仏島山古墳

2021-10-23 23:03:42 | 古墳
仏島山古墳(ぶっとうさんこふん)。大日山古墳群第3号墳。
場所:茨城県取手市岡926。「親王山 延命寺」(前項)入口から茨城県道251号線(守谷藤代線)を東~北東へ約160m、水路に架かる橋の手前の十字路を右折(南東へ)、約110m進んで、右折(南西へ。水路と反対方向)、約40m進み、カーブミラーのあるところで左折(南東へ)、道なりに160m。駐車場なし。なお、古墳付近で行き止まりになるので、注意。
「仏島山古墳」は岡台地の先端(北東)の麓にある円墳で、周辺に5基あった(うち3基は湮滅)「大日山古墳群」の第3号墳の通称である。元は約30mの円墳で、相当な高さがあり、周濠が巡らされていたとされる。中世には、墳丘上に仏像や石塔等が建立されて「仏島山」との名がついた。かつて一帯は草木が生い茂り、「岡不知(おかしらず)」と呼ばれ、地元の人々も迷うほどの場所だったという。平将門の墓、あるいは将門軍の武器を埋めたところとの伝承があり、地面を踏むと(反響して)音がする、あるいは、草木が異様に茂るのは武器の金気(かなけ)のせいである、ともいわれていたらしい。なお、「親王山 地蔵院 延命寺」(前項)の創建に係る、将門の墓とされる「塚」がこれだろうとされる。
しかし、明治28年に学校敷地造成のため、また昭和8年に小貝川の「岡堰」改良工事のために土取りがされ、このとき、それぞれ骨片・刀剣・曲玉等、円形埴輪等が出土している。後者の工事の時には、この古墳が完全に破壊される寸前で地元民が「将門の墓である」として反対運動を行い、原形を殆ど留めないながらも残ることになった(その経緯を記した石碑が古墳中央に建てられている。)。なお、築造時期は6世紀頃と推定されており、もちろん、将門の時代のものではないということになる。


写真1:「仏島山古墳」。東側(写真手前)が参道のようになっているが、入口側? は水路で隔てられていて、こちらから入れない。


写真2:東側正面は木の葉が茂っている。


写真3:古墳中央に石祠(「将門神社」)と石碑(「仏島山之記碑」)


写真4:「舟形地蔵と野仏」。古墳の北西、約25m(直線距離)にある。船形地蔵は舟形後背249cm・立像170cm。野仏は光背78cm、坐像55cmで、「延命寺法印順海」の名があり、ここも「延命寺」の支配地であったとみられている。


写真5:「岡台地と平将門」説明柱。古墳の北西、約110m(直線距離)にある。なお、後ろに見える墓地は現・取手市山王の「仏島山 華蔵院 金仙寺」の奥之院で、寺院は元は取手市岡にあったが、火災に遭い、寛永5年(1628年)に移転したとのこと。 「取手市史」では、「延命寺」創建のとき、覚鑁上人が泊った草庵が「金仙寺」の前身ではないかとしている。
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親王山 地蔵院 延命寺

2021-10-16 23:22:34 | 寺院
親王山 地蔵院 延命寺(しんのうさん じぞういん えんめいじ)。
場所:茨城県取手市岡987。国道294号線「ゆめみ野入口」交差点から南西~北東へ約1.1km、茨城県道251号線(守谷藤代線)との交差点を右折(南東へ)、約240mで左折(北東~東へ。県道251号線を進む。)、約1km。駐車場有り(県道側の西門から入る。)。
寺伝等によれば、保安元年(1120年)、覚鑁上人(興教大師)の夢に地蔵菩薩が現れ、「自分は下総国相馬郡岡村の地蔵である。平将門が信仰してくれたが、謀反を起こして討たれてしまった。逆賊となったので、誰も供養してもらえないのは残念である。自分を祀ってくれれば、将門の縁者も、その他の衆生も救済するだろう。」と告げた。しかし、遠い東国のことで、また、その後「高野山(金剛峯寺)」再興に忙しく、なかなか下向できなかったところ、長承3年(1134年)に再び地蔵菩薩が現れて、催促された。そこで、当地を訪れて探したが、地蔵菩薩はなかなか見つからなかった。小さな庵に泊めてもらったところ、近くの森に塚があり、光を放っていた。聞けば、そこは将門の墓と伝えられているところで、その森に入ると出て来れないと言われたが、分け入ってみると、地蔵菩薩が見つかった。そこで、これを本尊として保延元年(1135年)に「親王山 延命密寺」を建立して、庵主の覚如を初代山主とした、という。しかし、時々の領主の庇護を受けなかったため、無住の時期が長く、荒廃していたが、昭和47年に「新井山 梅照院 薬王寺」(現・東京都中野区。「新井薬師」として有名)の末寺となって再興されたという。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は延命地蔵菩薩。
将門所縁の寺院として、元は本堂裏に祀られていたという「将門大明神」石祠がある。また、境内に、「駒形塚」(駒形古墳)があり、将門が戦死したときに乗っていた馬を埋めたところと伝えられている(あるいは、武者と騎馬の埴輪を埋めた、ともいう。)。風邪をひいたときなどにお参りすると、すぐ治るとして信仰されてきたとのこと。


取手市岡 延命寺のHP


写真1:「延命寺」寺号標。県道沿い(南側)。


写真2:正門(東側)。小貝川に向かって下っていく途中にあり、石段を上る。


写真3:本堂


写真4:本堂前の塚。手前の石祠が「三峯大権現」、奥が「将門大明神」となっている。


写真5:「将門大明神」石祠


写真6:弘法大師堂


写真7;西門。駐車場へはこちらから入る。


写真8:「駒形塚」。「駒形様」の石祠がある。西門から入って直ぐ、住居のガレージの奥。径約10m、高さ約1mの円墳とされ、石棺材とみられる石板があるという。
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地蔵ケヤキ

2021-10-09 23:02:10 | 巨樹
地蔵ケヤキ(じぞうけやき)。
場所:茨城県取手市下高井1306(「高源寺」境内)。国道294号線沿いのガソリンスタンド「エネオス 永山SS」のところの交差点から北へ(すぐに関東鉄道常総線の踏切を渡るので、国道6号線方面からなら、手前の「ゆめみ野入口」交差点を左折(南~北へ)して行く方が安全)、道なりに約1.1km、「香取八坂神社」鳥居の手前を右折(東へ)、約110m。駐車場有り。
「地蔵ケヤキ」は、「高源寺」境内にあるケヤキ(欅)の大樹で、目通り幹囲約10m、高さ約15m、樹齢1600年とされている(現地説明板による。)。中心の巨大な幹は、内部が大きく空洞となっているが、これは「高源寺」が火災に遭った際に類焼したことによるものという。その空洞に、いつの時代か不明だが、その名の由来となった石造の地蔵尊が祀られている。空洞が胎内を思わせるせいか、あるいは、今なお葉を茂らせる生命力にあやかろうとしてか、特に安産・子育てに御利益があるとされる。かつては、幹の丸く空いたところを潜ると御利益あらたかといわれたようだが、現在は根元の地面を固めないよう、ケヤキの周囲への立ち入りは禁止されている。

普蔵山 高源寺(ふぞうさん こうげんじ)。
寺伝によれば、承平元年(931年)、平将門が釈迦如来の霊験によって建立したという。当初は真言宗だったが、後に相馬七左衛門胤継とその後裔が当地を治めて開基となり、応安元年(1368年)に鎌倉「建長寺」から住職を迎えて(一説に、夢想国師を開山とする。)臨済宗建長寺派に改宗し、江戸時代に臨済宗妙心寺派に属したという。本尊は釈迦如来。


取手市のHPから(地蔵ケヤキ)


写真1:「高源寺」参道


写真2:山門


写真3:「地蔵ケヤキ」。山門を入って直ぐ、本堂前にある。ケヤキは成長が速く、大樹になりやすいが、それにしても、この幹の太さには驚く。


写真4:欅の中の地蔵像


写真5:幹に空いた丸い穴。山門を入って直ぐ見えるのが、これ。


写真6:本堂


写真7:「地蔵ケヤキ」の横にあるスダジイ。これも大きい(幹回り約5.5m)。他にも、カヤノキ(幹回り約4.4m)とツバキ(ベニカラコ、幹回り約2.0m)の大樹がある。


写真8:「大師堂」。「新四国相馬霊場八十八ヶ所」の第49番札所となっている。
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戸頭神社(茨城県取手市)

2021-10-02 23:31:27 | 神社
戸頭神社(とがしらじんじゃ)。
場所:茨城県取手市戸頭1629。茨城県道47号線(守谷流山線)「新大利根橋北」交差点から通称「常総ふれあい道路」を東へ約700mで右折(南へ。ドラッグストア「ウエルシア 取手戸頭2号店」の西側の道路に入る。)、約200m進んで突き当たりを左折(東へ)、約80mで「永蔵寺 薬師堂」がある。そこを右折(南へ)して約120m。駐車場なし(鳥居前に多少の駐車スペースがある。南に少し下ると「花輪スポーツ公園」があり、駐車場がある。)。
創建年代は不詳だが、観応3年(1352)年、領主であった将軍・足利尊氏が、戸頭郷を下総国一宮「香取神宮」に寄進して祭祀料としたとされる。元は「香取神社」で、明治45年に村内の鹿島・八坂・面足・阿夫利の各神社を合併し、「戸頭神社」と改称した。現在の主祭神は、経津主神。
なお、当地「戸頭」には、近世、現・利根川の対岸である現・千葉県柏市布施との間に「七里ヶ渡し」という渡船があった。概ね国道6号線となった水戸街道やJR常磐線は、柏市からは千葉県我孫子市を経由して取手市に進むが、柏市から単純に北東に進む道もあって、水戸街道の脇往来とされていた(ただし、取手宿が寂れるのを嫌って、江戸幕府からは公認されていなかった。)。利根川は、元は東京湾を河口としていたが、江戸の町を水害から防ぐため、江戸時代初期に東遷の工事を行い、太平洋を河口としたことはよく知られている。では、その工事前は、というと、「藺沼(いぬま)」(「藺」は、藺草(イグサ)に因むものと思われる。)という東西に細長くて広い湖沼があったらしい。そこで、江戸時代以前にも、舟で渡るルートがあったのではないか、といわれている。なお、当神社は、元は現在地より西にあり、「新大利根橋」が建設されるときに敷地を売却し、昭和54年、現在地に遷座している。このように、当地は、古くから交通の要衝でもあったことになる。また、当地には「御所車」、「西御門」、「御街道」、「館ノ越」、「宮の前」などといった地名があるという。以上のようなことを踏まえて、平将門の研究家・赤城宗徳氏(元衆議院議員、現・茨城県筑西市出身)は、「戸頭」地区に将門の母(縣犬養春枝の娘)の実家があった、としているが、あくまでも推測の域を出ないように思われる(なお、「相馬惣代八幡宮」(前項)参照。)。

光燿山 等覚院 永蔵寺(こうようさん とうがくいん えいぞうじ)。
場所:茨城県取手市戸頭1438。
寺伝によれば、応和年間(961~964年)、延昌(慈念僧正。第15世天台座主)によって開山されたという。元は、現・茨城県守谷市の「西林寺」(2021年7月24日記事)の隠居寺で、盛時には48ヵ寺の門末と20石の朱印地を有した大寺院であったが、檀家がなかったため、明治時代に入り衰退して廃寺となった。現在では「薬師堂」のみが残る(なお、境内に「新四国相馬霊場八十八ヵ所」第34番と第45番の札所(弘法大師堂)がある。)。


写真1:「戸頭神社」鳥居


写真2:鳥居を潜って直ぐ右手に、境内社「天満宮」


写真3:「戸頭神社」拝殿


写真4:同上、本殿


写真5:同上、境内の石祠


写真6:同上、青面金剛石像など


写真7:同上、鳥居前の「道路元標 稲戸井村」。市町村名が上に刻されていることが標準仕様で、逆になっているのは珍しいらしい。何故ここにあるかというと、かつて、ここに稲戸井村役場があったから、とのこと。因みに、当神社の裏手にマンションが建っているが、これが旧・戸頭小学校(昭和35年廃校)の跡地という。


写真8:「戸頭神社」前から直ぐ南にある案内柱(コンクリート製?)。この写真では見えにくいが、利根川の方を指して「戸頭渡船場ヲ経テ千葉縣ニ至ル・・・」とある。


写真9:「永蔵寺 薬師堂」境内入口。大きな欅(ケヤキ)の木がある(幹周約4.9m)。


写真10:同上、薬師堂。中央に階段がないのは「西林寺」と同じ。なお、珍しい寺紋は、天台宗の古い宗紋で、「三諦紋(さんだいもん)」というらしい。
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