大日山古墳(だいにちやまこふん)。大日山古墳群第1号墳。古墳上に「岡神社」が鎮座している。
場所:茨城県取手市岡1179。「親王山 延命寺」(前々項)入口から茨城県道251号線(守谷藤代線)を東~北東へ約160m、水路に架かる橋の手前の十字路を右折(南東へ)、約110m進んで左折(北東~南東へ。水路に架かる橋を渡って水路沿いに進む。)、約140m進んだところで右折(南西へ)、道なりに約180m進んで右折(水路に架かる橋を渡る。)、水路の右を進む。道路が二岐に分かれるところで、右へ進んで約40mで「岡神社」の鳥居前(「池田屋」という工場?の裏)。駐車場はなく、道路も狭いので、「仏島山古墳」(前項)手前付近などに止めてきた方が良い。なお、「仏島山古墳」手前(西、約60m)から台地に上る狭い道があり、徒歩数分で古墳・神社社殿まで行ける。
「大日山古墳」は岡台地と呼ばれる舌状台地の先端に築かれた直径約18m、高さ約2.8mの円墳で、築造時期は6世紀頃ということで昭和14年に茨城県指定文化財(史跡)に指定されている。しかし、これを古墳とすることについて疑問の声も上がっていた。例えば、①円墳とされるが、外観は方形状で、傾斜も急である、②当地では、江戸時代初期から大日信仰が盛んになり、頂上に「大日堂」があった(「大日堂」にあった大日如来像は、現在は岡公民館に安置されている。)ことから、「大日塚」として築かれたものではないか。形状も他地区の「大日塚」に似ている、③台地上に中世城郭があったようで、その櫓台として造られたものではないか、④付近で玉類や鉄鏃などが発見されたといわれるが、「仏島山古墳」からの出土物と混同されたものではないか、等である。こうしたことから、昭和63年に、古墳の周溝部とされた部分(裾の平らな部分)のトレンチ調査が行われたが、周溝は検出されず、これといった出土物もなかった。実測では、方形で、底形13m×17m、上形5m×5m。自然地形ではなく、おそらく方形に築造されたものとされる。結局、主体部の発掘調査をしなければ結論は出せないとしているが、元の古墳を中世に城郭の櫓台に転用し、近世に大日塚に改造した可能性を指摘している。
このように、明確に古墳であるとも断定できないのだが、伝承では、ここに平将門の愛妾・桔梗姫(桔梗御前)の館があり、朝日を拝むのに最適な場所として「朝日御殿」と呼ばれていた、という。桔梗姫は、将門が討たれたのを聞いて、目の前の沼に身を投げて亡くなったという伝説もある。この沼はその後、水田となったが、「桔梗田」と呼ばれて村人が共同で耕作する田となったとされている。「大日山古墳」が古墳時代のいわゆる「古墳」であれば時代が合わないが、将門、あるいは桔梗姫の墳墓という伝承もあったようだ。
古墳の右脇(北側)に広場があり、これが「朝日御殿」跡との伝承の場所だろう。また、中世の城郭「岡城」跡ともいわれるが、その歴史、城主等は一切不明である。現在、古墳上に「岡神社」が鎮座しているが、創建時期が江戸時代というほかは不明。一説に将門の重臣の子孫が「熊野権現」を祀っていたというが、「岡神社」との関係は判然としない。元は「大龍神社」と称し、明治15年に村社となり、明治41年に村内の八幡・鹿島・稲荷・姫宮・天神・水神の各神社を合祀して、明治42年に「岡神社」と改称したという。現在の主祭神は、水波女命(ミズハノメ)。おそらく、近世になって周囲が水田開発されるにあたり、しばしば氾濫する小貝川の水害除けを祈願したものだろう。
写真1:「岡神社」鳥居。急な石段を上る。
写真2:最初の石段を上ったところに、更に一段高い場所があり、これが「大日山古墳」。手水鉢、稲荷社の石祠などがある。
写真3:古墳の周りに石祠、石仏、石塔が並ぶ。
写真4:古墳の墳頂に「岡神社」社殿がある。
写真5:北東側の石段(社殿は南東向き)
写真6:祭礼記念碑
写真7:古墳(社殿)北側の平地。ここが「朝日御殿」とされる場所だろう。
写真8:南西の麓の水田。
写真9:鳥居前から西へ約200m進むと、南側の水路手前に「桔梗田」の説明板がある。
場所:茨城県取手市岡1179。「親王山 延命寺」(前々項)入口から茨城県道251号線(守谷藤代線)を東~北東へ約160m、水路に架かる橋の手前の十字路を右折(南東へ)、約110m進んで左折(北東~南東へ。水路に架かる橋を渡って水路沿いに進む。)、約140m進んだところで右折(南西へ)、道なりに約180m進んで右折(水路に架かる橋を渡る。)、水路の右を進む。道路が二岐に分かれるところで、右へ進んで約40mで「岡神社」の鳥居前(「池田屋」という工場?の裏)。駐車場はなく、道路も狭いので、「仏島山古墳」(前項)手前付近などに止めてきた方が良い。なお、「仏島山古墳」手前(西、約60m)から台地に上る狭い道があり、徒歩数分で古墳・神社社殿まで行ける。
「大日山古墳」は岡台地と呼ばれる舌状台地の先端に築かれた直径約18m、高さ約2.8mの円墳で、築造時期は6世紀頃ということで昭和14年に茨城県指定文化財(史跡)に指定されている。しかし、これを古墳とすることについて疑問の声も上がっていた。例えば、①円墳とされるが、外観は方形状で、傾斜も急である、②当地では、江戸時代初期から大日信仰が盛んになり、頂上に「大日堂」があった(「大日堂」にあった大日如来像は、現在は岡公民館に安置されている。)ことから、「大日塚」として築かれたものではないか。形状も他地区の「大日塚」に似ている、③台地上に中世城郭があったようで、その櫓台として造られたものではないか、④付近で玉類や鉄鏃などが発見されたといわれるが、「仏島山古墳」からの出土物と混同されたものではないか、等である。こうしたことから、昭和63年に、古墳の周溝部とされた部分(裾の平らな部分)のトレンチ調査が行われたが、周溝は検出されず、これといった出土物もなかった。実測では、方形で、底形13m×17m、上形5m×5m。自然地形ではなく、おそらく方形に築造されたものとされる。結局、主体部の発掘調査をしなければ結論は出せないとしているが、元の古墳を中世に城郭の櫓台に転用し、近世に大日塚に改造した可能性を指摘している。
このように、明確に古墳であるとも断定できないのだが、伝承では、ここに平将門の愛妾・桔梗姫(桔梗御前)の館があり、朝日を拝むのに最適な場所として「朝日御殿」と呼ばれていた、という。桔梗姫は、将門が討たれたのを聞いて、目の前の沼に身を投げて亡くなったという伝説もある。この沼はその後、水田となったが、「桔梗田」と呼ばれて村人が共同で耕作する田となったとされている。「大日山古墳」が古墳時代のいわゆる「古墳」であれば時代が合わないが、将門、あるいは桔梗姫の墳墓という伝承もあったようだ。
古墳の右脇(北側)に広場があり、これが「朝日御殿」跡との伝承の場所だろう。また、中世の城郭「岡城」跡ともいわれるが、その歴史、城主等は一切不明である。現在、古墳上に「岡神社」が鎮座しているが、創建時期が江戸時代というほかは不明。一説に将門の重臣の子孫が「熊野権現」を祀っていたというが、「岡神社」との関係は判然としない。元は「大龍神社」と称し、明治15年に村社となり、明治41年に村内の八幡・鹿島・稲荷・姫宮・天神・水神の各神社を合祀して、明治42年に「岡神社」と改称したという。現在の主祭神は、水波女命(ミズハノメ)。おそらく、近世になって周囲が水田開発されるにあたり、しばしば氾濫する小貝川の水害除けを祈願したものだろう。
写真1:「岡神社」鳥居。急な石段を上る。
写真2:最初の石段を上ったところに、更に一段高い場所があり、これが「大日山古墳」。手水鉢、稲荷社の石祠などがある。
写真3:古墳の周りに石祠、石仏、石塔が並ぶ。
写真4:古墳の墳頂に「岡神社」社殿がある。
写真5:北東側の石段(社殿は南東向き)
写真6:祭礼記念碑
写真7:古墳(社殿)北側の平地。ここが「朝日御殿」とされる場所だろう。
写真8:南西の麓の水田。
写真9:鳥居前から西へ約200m進むと、南側の水路手前に「桔梗田」の説明板がある。