神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

厳島神社(茨城県阿見町)

2022-02-26 23:31:50 | 神社
厳島神社(いつくしまじんじゃ)。通称:弁天の祠。
場所:茨城県稲敷郡阿見町飯倉。茨城県道34号線(竜ヶ崎阿見線)「星の里」交差点から北へ約450mで右折(東へ)して、約500m進んで(工業団地を抜けて、坂を下ったところ)右折(南へ)、約90m進んだところで右折(東へ)するが、この先の道路は狭いので、この辺りで自動車は止めたほうがよい。そこから約160m。駐車場なし。

生延山 塙不動尊(いけのべさん はなわふどうそん)。
場所:茨城県稲敷郡阿見町塙1258。上記の坂を下ったところから直進(北東へ)、約230m。更に約95m進むと、境内に入れる道があり、駐車可。
現在は真言宗豊山派「竹生山 蔵福寺(ちくぶさん ぞうふくじ)」(住所:阿見町追原633)に属する不動堂で、堂本尊は不動明王。創建は不明だが、堂内には平安時代の菩薩像があったとされる。なお、清明川を渡る道路は「池ノ辺堤」と呼ばれ、現在、水田となっているところが古くは広い池であり、難工事の末に堤を設けたという。「生延山」という山号は、「生き延びる」と「池ノ辺」をかけたものとされる。因みに、「蔵福寺」は宝知2年(1248年)に塩断上人が真言律宗として開山、室町時代に精満上人によって真言宗に改宗したという。

茨城県稲敷市下君山から北西に向かう直線的な現道及び字境が古代東海道の痕跡とされるが、阿見町飯倉に入って不明確になる。ただし、そこから、道筋を直線的に伸ばした先の台地の下、清明川右岸(南岸)にあるのが「厳島神社」(元は「弁天の祠」)である。そして、現在は藪(雑木林)になっているが、この「厳島神社」に下りる切通し道の跡とされるものがあるという。幅8~12mの盛り土された道で、これが古代東海道の痕跡ではないかとされる(茨城県教育庁文化課編「古代東海道と古代の道」による。)。よって、古代東海道は、阿見町飯倉から先も直線的に進み、阿見町南平台の西側で方向転換して西へ向かうと推定している。なお、「厳島神社」の対岸の台地上に「塙不動尊」があり、その先、阿見町追原(阿見浄水場の東側)に「諏訪廃寺跡」という古代寺院跡がある。また、「塙不動尊」の東側にある現・君原公民館付近には「大塚古墳」という大きな円墳があった。伝承では1反歩(=300坪=約990㎡)以上の面積があったとされる(直径でいうと約18m?)が、君原小学校を建設するときに削平され、そのときに掘り出された石室の天井石とされるものが君原公民館内に置かれている。
ただ、個人的にやや疑問に思うのは、当地は清明川がV字に屈曲するところで、かつては広い池だったということ、「池ノ辺堤」を造るのに大変な苦労があったということから考えると、無理してまで直進する必要があったのだろうか、ということである。直進すると、然程遠からず霞ヶ浦に突き当たり、西へ方向転換が必要になるのだから、清明川の手前で方向転換することも考えられたのではないだろうか。あるいは、直進して現・阿見町掛馬(この地名が駅路に関連するという説もある。)に至り、そこから霞ヶ浦を船で渡って常陸国府(現・石岡市)へ向かうルートがあったのかもしれない。波が穏やかであれば、船で行く方が速いだろう。ただし、その場合、駅路の基本として、天気に左右されるルートは本道ではなかったのではないかと思われる(個人的見解です。)。
蛇足:「池ノ辺堤」を築くために、巡礼娘を人柱に立てたという伝説があり、その巡礼娘は弁財天の化身だったということで、「弁天の祠」が建立されたのだという。また、この池に大蛇が棲んでいて、村人が困っていたのを、塙城主が大蛇を退治し、大蛇の霊を供養するために不動尊を祀った、という伝説もあるらしい。これらは、いずれも、水害を克服し、水田開発を進めた先人の苦労と神仏信仰を示すものとされている。


写真1:「厳島神社」入口。阿見町教育委員会の説明板がある。


写真2:同上、石祠


写真3:「厳島神社」前から北側を見る。水道管の下に清明川が流れているが、現在、水田になっている谷全部が大きな池だったらしい。この谷の対岸に進む道路が「池ノ辺堤」とされる。


写真4:「塙不動尊」参道


写真5:同上、不動堂


写真6:同上、境内の「タブノキ」。樹高約12m・幹周約46m、推定樹齢200年(茨城県のHPによる。)。


写真7:「塙不動尊」側から「厳島神社」を見る。古代東海道は、奥の丘の上から真っ直ぐ下りてきたのだろうか。


写真8:君原公民館(住所:阿見町塙171-2)に置かれている「大塚古墳」石室の石材とされるもの。縦3.68m×横2.60m×厚さ38cm(現地説明板による)の巨石で、清明川の橋として架けられた後、堰の下石として利用されていたという。古墳自体が湮滅しているため詳細不明ながら、この石材の大きさからすれば国造クラスの豪族の墳墓だった可能性が指摘されている。
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宇賀神社(茨城県稲敷市上君山)

2022-02-19 23:29:08 | 神社
宇賀神社(うがじんじゃ)。通称:稲荷さま。
場所:茨城県稲敷市上君山3493。国道408号線「松山」交差点から北西へ約3.3km、「こもれび森のイバライド」案内看板が出ているところで右折(北東~東へ)、道なりに約1.2km。駐車場なし。テーマパーク「こもれび森のイバライド」(旧称「江戸崎農業公園ポティロンの森」)とゴルフ場「江戸崎カントリー倶楽部」の間にある。
「茨城縣神社誌」(昭和48年)では、創立時期不明、明治15年に村社となり、明治39年に香取神社・天満神社・八幡神社・白山神社・皇産霊神社を合祀したとされる。祭神は保食命(ウケモチ)としている。一方、「稲敷郡郷土史」(大正15年)によれば、永正4年(1507年)、当地を領有した江戸崎城主・土岐治頼の夢枕に嫋やかな美女が立ち、「我は君山の稲荷である。我のために社を建ててくれれば、京都に走り正一位の位階を得て、領内に五穀豊穣・悪疫消除を約束する。疑うべからず。」と告げた。そこで、神社を建立して豊受比売命(トヨウケヒメ)を祀ったところ、その年から五穀豊穣となり、他の村に疫病が流行っても、君山村には疫病が入ってこなかった。そのため、周辺10ヵ村の村人の信仰が篤く、明治7年には村社に列した、というような記載がある。なお、本来、保食神、稲荷神(=倉稲魂命。ウカノミタマ)、豊受大神は別神だが、いずれも穀物・食物の神として、次第に混同されるようになったとされるので、ここでも同一視がなされたのだろう。
さて、当神社の参道のようになっている直線的な道は、現在、無舗装で、あまり通る人もいないようだが、元は古代東海道だったとする説が有力。当神社があるために、ここで道が途切れるが、この道の西側に舗装道路があり、それが稲敷市下君山から阿見町に向かう、概ね直線的な道路となっている。伝承では、中世、下君山に「保科(星名)長者」という長者がおり、この直線的な道を造ったので、これを「保科(星名)街道」と称したという。この伝承は、下君山に駅長(駅家の長)の後身である長者がいたことを推定させる理由の1つになっている。
因みに、豊崎卓(茨城大学教授)「信太郡家の探求」(1962年)では、旧・君山村の稲荷神は「常陸国風土記」信太郡条にみえる「飯名の社」(の後身)であるとの伝承が地元民の間にあった、と記している(「飯名神社」については2020年10月17日記事、「稲塚古墳」同年10月24日記事及び「女化神社」同年10月31日記事参照。)。この伝承についての根拠がよくわからず、一般にはあまり知られていないようなので、殆ど顧みられることがないが、ひょっとすると常陸国式外社の論社かもしれない。


写真1:「宇賀神社」前の道(南方向)。向かって左(東側)がゴルフ場のフェンス。


写真2:鳥居。扁額は「正一位稲荷大明神」


写真3:拝殿


写真4:本殿。なお、当神社は「沼口古墳」という前方後円墳に鎮座していて、前方部は社殿敷地として削平され、社殿背後に後円部のみ残っているらしい。


写真5:稲敷市下君山方面から来る道路


写真6:阿見町方面に行く道路
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下君山廃寺跡

2022-02-12 23:24:19 | 史跡・文化財
下君山廃寺跡(しもきみやまはいじあと)。
場所:茨城県稲敷市下君山2521外。国道408号線と茨城県道49号線(江戸崎新利根線)の「松山」交差点から国道を西へ約450m進んだところで、右側道(北側)に入る。約240m進んで右折(北へ)、狭い坂道を約170m上った台地上の右手(東側)に「鹿島神社」参道がある。その反対側(西~北西側)の畑一帯が「下君山廃寺跡」のようだが、何の痕跡もない。西側奥の竹林の中に、「下君山廃寺」の塔心礎とされる巨石があるとのことだが、訪問時には未確認。駐車場なし(「鹿島神社」境内に多少のスペース有り。)。
「常陸国風土記」によれば、「榎浦の津」に古代東海道の常陸国に入って最初の駅家があるとされ、奈良時代には下総国「山方」駅(現・千葉県栄町興津付近が有力。)または「荒海」駅(現・千葉県成田市荒海が遺称地とされる。)から「香取海」を渡海して北上するルートだったと考えられている。このことからすれば、「榎浦津」駅は、現・茨城県稲敷市のどこか、具体的には、江戸崎、柴崎、下君山、羽賀などが候補地となっている。その中で、下君山には8世紀頃の寺院跡とされる「下君山廃寺跡」がある。塔心礎と石製露盤などが残置されているほか、常陸国分寺系の布目瓦片が出土している。また、茨城県歴史館所蔵の銅造誕生釈迦仏立像(8世紀後半頃の推定)は、「下君山廃寺跡」から出土したものとの伝承がある。一方、「木瓜台」という地名(小字)があり、これは「宮裏」が訛ったものではないかということなどから、「信太郡家」推定地ともされる。「信太郡家」は現・茨城県美浦村信太付近とする説があり(「楯縫神社」(2018年3月31日記事)参照。)、「信太郡家」は元は信太にあったが、後に下君山に移動したとも考えられている。更に、「木瓜台」の西側に「長者山」という地名(小字)もあり、焼け米が出土したともいわれ、これは郡家または駅家があった可能性を示唆するものとされる。そして、下君山の北側にあるゴルフ場「江戸崎カントリー俱楽部」の西端から、その先、現在の稲敷市と牛久市の市境がほぼ直線的になっていて、今も狭いながら道路が続いているのが、古代東海道の痕跡であるとされている。また、通説では、平安時代の古代東海道は、「榛谷」駅(現・茨城県龍ケ崎市半田町付近)から更に東(または北東)に進んで、下総国から進んできた奈良時代の古代東海道に接続したのだろうとしている。
蛇足:2021年5月29日の茨城新聞の記事によれば、下君山と松山に跨る稲敷工業団地建設に伴う5遺跡の発掘調査で、山王原遺跡から古墳時代前期(3世紀後半~4世紀)の竪穴住居22棟や土師器片などが見つかった。これらの住居はいずれも焼け跡で、火災に遭ったか、あるいは移転する際に儀礼の一環で焼き払った可能性がある。また、「長者山遺跡」では「古代東海道」の駅家とみられる施設の発見を受けて、開発を取りやめて現状保存することに決めた、という。記事にはこれ以上の情報はないが、「長者山遺跡」が古代東海道の駅家跡と判断した根拠は何だろう? また、ここに駅家があったとして、それは「榎浦津」駅だろうか、「榛谷」駅だろうか、あるいは記録にない駅だろうか? 更に詳しい調査をお願いしたいところである。


写真1:稲敷市下君山の台地上にある「鹿島神社」鳥居(場所:稲敷市下君山2646)。


写真2:同上、拝殿。社殿は西向きで、東には常陸国一宮「鹿島神宮」があるので、その遥拝所でもあったのだろう(「鹿島神宮」まで直線距離で約32km)。


写真3:同上、本殿。社伝によれば、康平2年(1059年)の創建。祭神:武甕槌命。常陸国では、鹿島神が国土開発の守護神とされる例が多い。なお、当神社の西、約200mのところに「古天皇宮」という高位の人の住居跡があったという伝承があり、祭事をしたうえで調査したところ、土器等が発見されたという。


写真4:「鹿島神社」の西側が「下君山廃寺跡」らしいが、今は畑地。


写真5:「鹿島神社」の向かい側(西側)にある竹林。この中に「下君山廃寺」の塔心礎や露盤があるというのだが、詳しい人の案内がないとたどり着けないと思われる。なお、塔心礎などが元からここにあったかどうかは不明で、かつて台地下の小川の橋石に使われていたとの伝承もあるようだ。


写真6:「下君山廃寺」塔心礎。この写真は「日本の塔婆」HPからお借りした。


写真7:台地下にある「下君山公民館」。元は薬師堂だったという。流石に、これが「下君山廃寺」と関係があるとは言えないのだが、現在、集落は台地の下にしかないことを考えると、もし下君山に駅家があったとすると、それを支える駅戸の集落は台地の下に形成されていたのかもしれない(台地の下の方が湧き水等が得やすいなど、暮らしに便利。)。


写真8:同上、大師堂。元は寺院だった名残りだろうか。
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常陸国の古代東海道(その2・榎浦津駅)

2022-02-05 23:25:46 | 古道
「常陸国の古代東海道(その1・榛谷駅)」(2022年1月22日記事)で書いたが、「常陸国風土記」(養老5年(721年)成立)では、古代東海道の常陸国最初の駅家は「榎浦津(えのうらのつ)」駅だが、「延喜式」(延長5年(927年)完成)には「榎浦津」駅家の記載はなく、常陸国最初の駅は「榛谷」駅になっている。この間に、古代東海道のルート変更があったことによるものとみられるが、厳密にいえば、「常陸国風土記」には「榎浦之津」に駅家がある、と書かれているだけで、駅名はない(このため、資料によっては「榎浦」駅と称しているものもある。)。そこで、「榎浦津」駅と「榛谷」駅を同じ場所とする説もあり、別とする説も比定地には諸説ある。現・茨城県稲敷市のどこか、ということはおおむね一致するが、具体的には、江戸崎(「榎浦」と音が似ている、小野川河口に「榎浦」という浅い沼があった(現在は干拓され、稲波という地名になっている。))、羽賀(「榛谷(ハンタニ、ハンダ?)が訛ったもの)、下君島(古代廃寺跡がある等)など。そうした中で、現在、「榎浦津」駅の比定地として有力になっているのが、柴崎である(旧・新利根町)。
「常陸国風土記」によれば信太郡の南は「榎浦の流れ海」で、これが下総国との国境でもある。標高などからみて、古代信太郡の南端とみられる旧・新利根町中心部辺りは古代でも陸地で、東に舌状に伸びた半島になっていて、柴崎の西部は南に突き出した岬だったと思われる。そうすると、下総国から船で「香取海」を渡ってきた柴崎付近に港(津)があるのが自然で、羽賀や下君山、江戸崎では、岬を回っていかなければならないので船による距離が長くなり過ぎるのではないかと思われる。柴崎を南北に流れて新利根川につながる用水路があるが(「柴崎橋」の東側に堰がある。)、その用水路の東側、新利根川の南側が「榎浦流海」(「香取海」の一部)だったのではないか。とすると、「延喜式」のルートでは遠回りになるので、「榎浦津」駅と「榛谷」駅は別の場所だったと考えられる。「榎浦津」駅家の具体的な場所は、周囲より一段高くなっている現・「新利根小学校」付近と推定され、その微高地の東端にある「新宿遺跡」からは古墳時代~中世の土器の散布がみられるという(茨城県教育庁文化課「古代東海道と古代の道」)。
蛇足:軍記物語「将門記」には、承平6年(936年)、平良兼が平良正(平将門の叔父だが、敵方)に味方するため、上総国武射郡から下総国香取郡の神前の津を経て常陸国信太郡の苛前の津に渡り、そこから良正の根拠地「水守営所」(「水守城跡」(2020年9月5日記事))に着いた、という記述がある。このとき、良兼は上総・下総の国司とのトラブルを避けるため「少道」(間道)を通ったとされるので、古代東海道のルートではなく、「神前の津」から常陸国に渡ったらしい。「神前の津」というのは、下総国式外社「神崎神社」(2014年2月15日記事)が鎮座する丘(現・千葉県神崎町)が当時は「香取海」に突き出した岬のようになっていたので、その付近が津(港)になっていたと思われる。「苛前の津」(「苛」は原文では草冠に奇。この字はどの辞書にもないが、「エ」と読ませるようである。よって、「えのさきのつ」というのだろう。)は「榎浦之津」と同一とみられるが、確証はない。もし、それが「榎浦之津」と同じなら、少なくとも平安時代中期まで「榎浦之津」は機能していたことになろう。


写真1:現・稲敷市柴崎の「柴崎用水路」。新利根川につながる「柴崎堰」から北を見る。背後(南側)に新利根川が東西に流れている。古代には、この用水路の左側(西)が陸地、右側(東)が「香取海」で、その陸地側に「榎浦之津」(港)があったのではないだろうか。


写真2:水路に沿って長い真っ直ぐな道路がある。左手の方が高く、左手の方が低くなっているのがわかる。右手は住宅地、左手は水田である。


写真3:「柴崎橋」の北、約200mのところにある神社。立派な鳥居もあるが、地図にもない小社で、詳細不明。


写真4:新利根川。江戸時代寛文年間に付け替えられた利根川の新川。利根川の北を東西に流れている。
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