荒原神社(あらはらじんじゃ)。
場所:茨城県行方市手賀2907。国道355号線「手賀」交差点から東へ約260m、突き当り(茨城県道183号線(山田玉造線))を右折(南へ)、約110mで左折(東へ)、約1km。特養老人ホーム「玉寿荘」の斜め向かい。駐車場なし。
社伝によれば、大同2年(807年)、常陸国一宮「鹿島神宮」の分霊を鎮祭して創建。近世には明神様、大宮神社と称されていたが、明治時代に入り現社号に改称。明治6年、村社に列格した。現在の祭神は、武甕槌命。
「常陸国風土記」行方郡の条に記載のある「提賀里」北部の「香嶋の神子の社」(「鹿島神宮の分社」)については、現・行方市玉造乙の「(玉造)大宮神社」(前項)に比定するのが通説だが、当神社のこととする説も有力になってきている。即ち、「常陸国風土記」では「提賀里」と「曾尼村」を分けて記述していることから、「提賀里」を現・行方市手賀(遺称地)に比定するが、玉造(「曾尼村」に比定)は含まれないとすれば、当神社の方が「常陸国風土記」の記述に適合する。祭神も武甕槌命で、「鹿島神宮」の祭神と同じである。創建時期は風土記編纂の時期(和銅6年(713年))に合わないが、大同2年というのは、古代に創建されたという古社寺の創建年としてよくある年号で、信頼性が低い。もう1つ傍証として、周辺に「荒原神社馬場前遺跡」、「手賀廃寺跡」など古代の遺跡が多いことも挙げられている。「荒原神社馬場前遺跡」は平成17年に当神社境内と南~南西側の「玉寿荘」敷地を主体に発掘調査され、古墳時代後半~奈良時代末・平安時代初期までの住居跡9軒などが発見された。同時に、土師器、須恵器などの土器片も大量に発見され、主体は平安時代のものと推定されている。当地は、標高約30mと、手賀の中でも高いところにあり、「常陸国風土記」の「提賀里」の記述のように肥沃な土地として集落が形成されていたとみられる。祭祀に関連する遺物等は発見されていないが、当地が「提賀里」の中心部であり、祭祀施設もあったのではないか、それが当神社の前身ではないか、という説になっている。
写真1:「荒原神社」鳥居
写真2:拝殿
写真3:本殿
写真4:神社の杜の西側の農道脇に玉造町教育委員会による「提賀里」説明板と宮路久子氏作の銅像がある。
写真5:銅像(「提賀里」の家族?)
場所:茨城県行方市手賀2907。国道355号線「手賀」交差点から東へ約260m、突き当り(茨城県道183号線(山田玉造線))を右折(南へ)、約110mで左折(東へ)、約1km。特養老人ホーム「玉寿荘」の斜め向かい。駐車場なし。
社伝によれば、大同2年(807年)、常陸国一宮「鹿島神宮」の分霊を鎮祭して創建。近世には明神様、大宮神社と称されていたが、明治時代に入り現社号に改称。明治6年、村社に列格した。現在の祭神は、武甕槌命。
「常陸国風土記」行方郡の条に記載のある「提賀里」北部の「香嶋の神子の社」(「鹿島神宮の分社」)については、現・行方市玉造乙の「(玉造)大宮神社」(前項)に比定するのが通説だが、当神社のこととする説も有力になってきている。即ち、「常陸国風土記」では「提賀里」と「曾尼村」を分けて記述していることから、「提賀里」を現・行方市手賀(遺称地)に比定するが、玉造(「曾尼村」に比定)は含まれないとすれば、当神社の方が「常陸国風土記」の記述に適合する。祭神も武甕槌命で、「鹿島神宮」の祭神と同じである。創建時期は風土記編纂の時期(和銅6年(713年))に合わないが、大同2年というのは、古代に創建されたという古社寺の創建年としてよくある年号で、信頼性が低い。もう1つ傍証として、周辺に「荒原神社馬場前遺跡」、「手賀廃寺跡」など古代の遺跡が多いことも挙げられている。「荒原神社馬場前遺跡」は平成17年に当神社境内と南~南西側の「玉寿荘」敷地を主体に発掘調査され、古墳時代後半~奈良時代末・平安時代初期までの住居跡9軒などが発見された。同時に、土師器、須恵器などの土器片も大量に発見され、主体は平安時代のものと推定されている。当地は、標高約30mと、手賀の中でも高いところにあり、「常陸国風土記」の「提賀里」の記述のように肥沃な土地として集落が形成されていたとみられる。祭祀に関連する遺物等は発見されていないが、当地が「提賀里」の中心部であり、祭祀施設もあったのではないか、それが当神社の前身ではないか、という説になっている。
写真1:「荒原神社」鳥居
写真2:拝殿
写真3:本殿
写真4:神社の杜の西側の農道脇に玉造町教育委員会による「提賀里」説明板と宮路久子氏作の銅像がある。
写真5:銅像(「提賀里」の家族?)