神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

鏡石(千葉県市川市)

2013-02-23 23:05:48 | 名石・奇岩・怪岩
鏡石(かがみいし)。
場所:千葉県市川市真間1-11-1。京成電鉄本線「市川真間」駅の南側出入口付近。駐車場なし。
天保7年(1836年)刊行の「江戸名所図会」に、「鏡石」の記事がある。市川市国府台(下総国府想定地)から「下総国分寺」に向うには、いったん通称「持国坂」を下り、国分沼(通称「じゅん菜池」)を水源とする平川に架かる石橋を渡り、通称「石塔坂」を上って行った。その石橋の脇、川中に「鏡石」というものがあり、村人が言うのに、石の根に限りがないということから「要石」とも称したとするものである。ただし、資料によっては、「要石」の近くに(別に)「鏡石」または「夫婦石」という石があったとする。
石の根が知れないということなら移動できないはずだが、一時「真間山 弘法寺」石段下付近にあったといわれ、現在は何故か「市川真間」駅に移されている。この「鏡石」は、平たい楕円の石で、中央に窪みがある。この窪みに水を入れると水鏡となって顔が映るので、「鏡石」と呼ばれるようになったとされる。この「鏡石」は陰石(ヨニ)であって、陽石(リンガ)と対になっていたから「夫婦石」とも呼ばれていたのだろうともいう(陽石は行方不明。)。この石が元々あった場所は国府台と国分台の間の谷で、台地上は災害を受けにくくて住みやすいが、水に不自由するのに対して、谷間は水が豊かなため、古代には最初に稲作が始まった場所となる。「夫婦石」は、豊穣を祈る祭祀のための石だったのではないか、というのが有力な説であるらしい。そうした神聖なものだったから、動かしてはならぬものという意味で「要石」とされるようになったのだという。
因みに、「要石」として有名なのは、常陸国一宮「鹿島神宮」と下総国一宮「香取神宮」のものである。これらの「要石」も、水戸黄門こと徳川光圀が根元を7日7晩掘ったが、底にたどり着かなかったという。不思議なことに、「鹿島神宮」のものは上面が凹、「香取神宮」のもの上面は凸になっている(写真4、5)。


写真1:「持国坂」から下ってきた谷のところ。平川は今は暗渠になっているが、この付近に石橋があり、傍らに「鏡石」があったらしい。この先が「石塔坂」で、その台地上に「下総国分寺」がある。


写真2:「市川真間」駅にある「鏡石」。線路脇、しかもフェンスの中で、案内板も横向きとなっていて、観察しにくい。


写真3:同上。窪みに水が溜まっていて、そこに硬貨が投げ入れられている。


写真4:(参考)常陸国一宮「鹿島神宮」の要石


写真5:(参考)下総国一宮「香取神宮」の要石
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下総国分尼寺跡

2013-02-16 23:08:52 | 史跡・文化財
下総国分尼寺跡(しもふさこくぶんにじあと)。
場所:千葉県市川市国分4-19。和洋国府台女子中学校の南西辺り。駐車場なし。
「下総国分尼寺」は「下総国分寺」(現・「国分山 国分寺」)の北西約500mにあり、いわゆる「国分台地」の東に国分(僧)寺、西に国分尼寺が殆ど隣接して建てられていたようだ。しかし、「下総国分尼寺」のほうは現存せず、今は史跡公園になっている。
元々、この地は「昔堂」という地名で、古瓦の破片の散布地として有名な場所だったらしい。そこで、かつては、この地に「下総国分寺」があったとするのが一般的だったという。その場合、「下総国分尼寺」の想定地には諸説あり、例えば現・「真間山 弘法寺」がその後身ではないかとするものもあった。
しかし、昭和7年に行われた調査で、底部に「尼寺」と墨書された土器が発見されたことから、この地が「下総国分尼寺」の跡であることが判明した。昭和42年に行われた発掘調査により、東西25.5m×南北22.4mの金堂跡とされる基壇と、東西27m×南北19mの講堂跡とされる基壇が発見され、(若干ずれているが)南北直線上に金堂が南、講堂が北にある伽藍配置とされた(塔は元からなかったようだ。)。なお、更にその北側には尼坊などの関連施設があったと推定されている。
「下総国分尼寺」は、発掘調査の出土物から10世紀後半~11世紀頃までは存続したものとみられているが、その後の状況は全く不明である。廃絶後、荒廃した伽藍が瓦礫となり、近世には死んだ馬を廃棄する「馬捨場」になっていたという。


市川市のHPから(下総国分尼寺跡)


写真1:「下総国分尼寺跡」は公園になっている。


写真2:「史跡 下総国分尼寺跡」の石碑


写真3:礎石等はなく、金堂跡などの位置が示されているだけ。公園の中央から南側を見る。


写真4:公園の北側から見る。手前に金堂、奥に講堂があったようだ。奥に鉄柵が見えるが、公園を斜めに横切る道路があり、講堂はこの道路の上に建っていたらしい。


写真5:公園の北西端に「馬頭観音」を祀った石碑が並んでいる。「馬捨場」に捨てられた馬の供養をしたものだろうか。

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国分山 国分寺(下総国分寺跡)

2013-02-09 23:07:59 | 寺院
国分山 国分寺(こくぶさん こくぶんじ)。下総国分寺跡(しもふさこくぶんじあと)。
場所:千葉県市川市国分3-20-1。国分小学校の西、約400m。狭い道路を台地上に上がっていくが、見通しも悪く、わかりにくい。駐車場有り。
「下総国分寺」は、天平13年(741年)の聖武天皇の詔により全国に建立された国分寺の1つで、下総国では古くから市川市国分台地上にある「国分山 金光明寺」がその法灯を伝えるとされ、現在は改称して真言宗豊山派「国分山 国分寺(こくぶさん こくぶんじ)」となっている。
昭和40~41年の発掘調査で、現在の本堂下に金堂跡とされる31.5m×19mの基壇、金堂基壇の中心から北西40m地点で26m×南北18mの講堂跡とされる基壇、金堂基壇の中心から西39m地点で18m×18mの塔跡とされる基壇が発見され、法隆寺式伽藍配置であったと推定されている。ただし、それぞれの方位が揃っておらず、いずれも南北軸から少しずれて建てられていたという。その理由は謎で、一応、まず塔が建てられ、その後に(やや時間を置いて)金堂・講堂が建てられたためと説明されている(塔はやや西に傾き、金堂・講堂は東に傾いている。因みに、「下総国分尼寺」の金堂・講堂跡も東に傾いている)。古代では、方位は重要なもので、特に国庁や有力な寺社は大抵南向きを守っている。何か地形的な問題でもあったのかもしれない。
こうして、創建時期等についてやや疑問はあるが、「下総国分寺」は遅くとも8世紀後半には完成していただろうとされる。9世紀半ばから後半には各地で俘囚(奥羽から連行されてきた蝦夷の捕虜)が反乱を起こし、下総国では貞観17年(875年)に俘囚による官寺焼打ち事件が起きる。この「官寺」については、異説もあるが、「下総国分寺」のことであろうとされている。それ以外にも焼失などがあったようだが、中世にも国分寺領があった記録があり、寺院として存続はしていたらしい(ただし、12世紀には講堂付近が墓地になっていたとされる。)。延元年間(1336~1339年)、文明13年(1481年)に諸堂炎上の記録があるというが、その後の状況は不明。元の「国分山 金光明寺」は近世の再興ともいう。


市川市のHPから(下総国分寺跡 附 北下瓦窯跡)


写真1:千葉商科大学東側から東に下る通称「持国坂」途中にある道標(文化5年(1808年)銘)。正面に「国分寺江 五町」(5町は約545m)とあり、左側面が「真間山」、右側面が「総寧寺六所神社」となっているので、あるいは元は坂上にあったのかもしれない。(場所:市川市真間5丁目)


写真2:「国分寺」山門。かつての南大門を再現したものらしい。


写真3:同上、本堂。本尊:薬師如来。


写真4:同上、境内に塔の礎石という大石が並べられている。


写真5:同上、本堂の裏手にある墓地区域の中に「講堂址」の石碑が建てられている。


写真6:「国分寺」の北、約100mのところにある「史跡 下総国分寺跡」の石碑。現状はは単なる原っぱだが(「ドッグランではありません」という注意書きがある。)、下総国分寺関連施設(僧坊?)の跡地らしい。

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法皇塚古墳

2013-02-02 23:32:43 | 古墳
法皇塚古墳(ほうおうづかこふん)。
場所:千葉県市川市国府台2-8-30(東京医科歯科大学国府台キャンパス内)。京成電鉄本線「国府台」駅から県道1号線(市川松戸線、通称:松戸街道)北へ約1.2km。駐車場なし。大学構内なので、静かに拝見したい。
「法皇塚古墳」は「鳳凰塚古墳」ともいい(「法皇塚」というのは、曹洞宗の大寺「安国山 総寧寺」に因むものともいうが、不詳。)、北北西向きの前方後円墳で、全長約54.5m、前方部の幅約35m、後円部径約27mという市川市及びその周辺地域では最大の古墳である。明治時代以降の軍用地整備等によって、かなり削られたといわれており、復元すると全長65m程度あったとされる。後円部西側に横穴式石室の入口があり、昭和44年に本格的調査が行われた際、既に盗掘に遭っていたが、大刀・鉄鏃・馬具・装身具などが発見された。また、家型・人型の埴輪なども出土し、この古墳の築造年代は6世紀中頃~後半頃と推定されている。

明戸古墳(あけどこふん)。
場所:千葉県市川市国府台3-9(里見公園内)。「法皇塚古墳」の北西、約400m。駐車場有り。
「明戸古墳」は、全長約40m、前方部幅約28m、後円部径約21mの前方後円墳で、築造時期は6世紀後半~7世紀初頭とされている。この地は戦国時代から城の土塁として利用されたため、古墳の形は不明瞭であるが、後円部墳頂に箱式石棺が2つ並んで露出しており、「明戸古墳石棺」として市川市指定有形文化財となっている。文明11年(1479年)に太田道灌がここに築城した際、盛土が取り払われて石棺が露出したとの伝承があり、その真偽は不明だが、かなり古くから知られていたものらしい。蓋がないが、近くにある「夜泣き石」の台となっている平らな石がそれではないかともいう。

「法皇塚古墳」の規模や出土品からすると、被葬者はこの地を支配した豪族だろうということに異論はない。しかし、大化改新以後にはこの地に下総国府が置かれ、隣接して(あるいは、国府内に)葛飾郡家もあったと推定されているのに、どのような豪族だったのか全く伝わっていないのは不思議なことである。「法皇塚古墳」の石室に使われた石材は凝灰岩で、現・千葉県鋸南町と富津市境にある乾坤山(鋸山)に産する「房州石」とみられている。一方、「明戸古墳石棺」の石は(説明板によれば)黒雲母片麻岩で、筑波山麓で産出する「筑波石」であるとされている。こうしたことから、下総国北東部~常陸国南部、上総国西部とも関係を持ち、水上交通を支配して勢力を張った豪族ではないかと思われる。


市川市のHPから(法皇塚古墳)

同(里見公園)


写真1:「法皇塚古墳」後円部西側にある玄室入口


写真2:同上。後円部から前方部(南側からみる。)


写真3:同上。前方部(北西側からみる。)


写真4:同上。東側からみると、瓢箪型の古墳のくびれがよくわかる(向って右が前方部、左が後円部)。


写真5:「明戸古墳」。石棺が露出している。


写真6:同じ「里見公園」内にある「夜泣き石」。台の平たい石が「明戸古墳石棺」の蓋?


写真7:「国府台天満宮」(千葉県神社庁のHPでは「天満神社」。場所:千葉県市川市国府台3-11-11)。太田道灌が国府台城築城のときに創建し、元は「法皇塚古墳」の上に鎮座していたという。当神社境内で1月7日に行われる辻切り行事は市川市指定無形民俗文化財。
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