玉砥石(たまといし)。
場所:静岡県沼津市平町18付近。沼津警察署裏手の道路沿いで、同警察署の西、約150m。駐車場なし。
沼津市に近世東海道の一里塚を保存した小さな公園がある(写真1)。この一里塚は、慶長9年(1604年)、江戸幕府によって設けられた里程標の1つで、江戸・日本橋から30里(約118km)のものという。因みに、この一里塚は、清水町伏見にあるものから計測すると距離が不足であるが、本来は本町地内に作るべきものを宿場内となるため、東方に寄せて、旧県社「日枝神社」旧参道脇の現在地に築いたとされる。一里塚は街道の両側に設置されるものだが、ここでは反対側の狩野川の川縁にあったものは現存しない。なお、終戦直後までは榎(エノキ)の大樹があったが、枯死したために植え直されたという。
さて、この「一里塚公園」内に、古代、玉(勾玉)を磨くのに使われたという「玉砥石」が2個、置かれている。ここの「玉砥石」は、「大砥石」が高さ189cm、「小砥石」が112cmの柱状のもので、幾筋かの溝が彫られており、この溝で玉の原石を磨いたらしい。
平安時代中期の承平年間(931~938年)に編纂された「和名類聚抄」に、駿河国駿河郡に「玉造郷」があったことが記されており、一説によれば、狩野川対岸の香貫地区一帯がそれに当たるという。公園近くの狩野川に架かる「黒瀬橋」を渡った橋の袂にある「玉作神社(たまつくりじんじゃ)」は、即ち式内社「玉作水神社」で、玉の製作を業とした人々(玉造部)が祖神の玉祖命(たまのおやのみこと)を祀ったものとされる。因みに、式内社には「玉作」の後ろに「水」の字が付されているが、往古から「水」の字はサイレントで、「たまつくり」と訓んでいたようである。
しかし、よくわからないのは、式内社「玉作水神社」が「延喜式神名帳」では伊豆国田方郡の神社として記載されていることである。現・「玉作神社」は、さほど広からぬ境内地が交通量の多い道路に面していて、古社の雰囲気に乏しいが、戦前までは神佐備た古木の森があったという。大正13年には境内地から約30個の玉石が出土したこともあり、かなり古くから現在地に鎮座していたらしい。もし、現・「玉作神社」が式内社「玉作水神社」であり、それが駿河郡玉作郷と関連があるとすると、これは一体どうしたことなのだろう。「延喜式神名帳」は延長5年(927年)の成立とされているので、「和名類聚抄」の編纂とほぼ同時期である。現・沼津市香貫地区は、旧・駿東郡楊原村(更にそれ以前は下香貫村・上香貫村など)で、「駿東郡」は元々「駿河郡」であったとされるので、こちらは「和名類聚抄」との矛盾はない。この辺りの事情は、古代の駿河・伊豆国境が境川か黄瀬川かという論争のほか、ある時期、伊豆国の一部が駿河国に移譲されたらしいということが絡んで、とても複雑。今のところ、これを明快に説き示した資料に行き当たっていない。なお、同じ香貫地区にある伊豆国式内社(名神大)「楊原神社」(沼津市下香貫)の伝承によれば、駿河大納言(徳川忠長)が駿河藩主となったとき(寛永元年:1624年?)、領地(55万石)に不足が生じたので、伊豆国の一部であった当地区を駿河国に移したという。
さて、この「玉砥石」2個が「日枝神社」参道脇に置かれた時期は不明であるが、江戸時代には既に置かれていたらしい。伝承によれば、元は「玉作神社」境内にあったものが狩野川の氾濫で川底に沈み、それが後に引き上げられて現在地に安置されたのだという。
沼津市のHPから(一里塚公園)
玄松子さんのHPから(玉作神社)
写真1:「一里塚公園」。近世東海道の一里塚を保存している。
写真2:「玉砥石」。静岡県指定考古資料(昭和31年指定)。「一里塚公園」の中にある。
写真3:「玉作神社」。扁額には「玉造宮」とある。(場所:沼津市黒瀬町1、駐車場なし)
写真4:「玉作神社」社殿
場所:静岡県沼津市平町18付近。沼津警察署裏手の道路沿いで、同警察署の西、約150m。駐車場なし。
沼津市に近世東海道の一里塚を保存した小さな公園がある(写真1)。この一里塚は、慶長9年(1604年)、江戸幕府によって設けられた里程標の1つで、江戸・日本橋から30里(約118km)のものという。因みに、この一里塚は、清水町伏見にあるものから計測すると距離が不足であるが、本来は本町地内に作るべきものを宿場内となるため、東方に寄せて、旧県社「日枝神社」旧参道脇の現在地に築いたとされる。一里塚は街道の両側に設置されるものだが、ここでは反対側の狩野川の川縁にあったものは現存しない。なお、終戦直後までは榎(エノキ)の大樹があったが、枯死したために植え直されたという。
さて、この「一里塚公園」内に、古代、玉(勾玉)を磨くのに使われたという「玉砥石」が2個、置かれている。ここの「玉砥石」は、「大砥石」が高さ189cm、「小砥石」が112cmの柱状のもので、幾筋かの溝が彫られており、この溝で玉の原石を磨いたらしい。
平安時代中期の承平年間(931~938年)に編纂された「和名類聚抄」に、駿河国駿河郡に「玉造郷」があったことが記されており、一説によれば、狩野川対岸の香貫地区一帯がそれに当たるという。公園近くの狩野川に架かる「黒瀬橋」を渡った橋の袂にある「玉作神社(たまつくりじんじゃ)」は、即ち式内社「玉作水神社」で、玉の製作を業とした人々(玉造部)が祖神の玉祖命(たまのおやのみこと)を祀ったものとされる。因みに、式内社には「玉作」の後ろに「水」の字が付されているが、往古から「水」の字はサイレントで、「たまつくり」と訓んでいたようである。
しかし、よくわからないのは、式内社「玉作水神社」が「延喜式神名帳」では伊豆国田方郡の神社として記載されていることである。現・「玉作神社」は、さほど広からぬ境内地が交通量の多い道路に面していて、古社の雰囲気に乏しいが、戦前までは神佐備た古木の森があったという。大正13年には境内地から約30個の玉石が出土したこともあり、かなり古くから現在地に鎮座していたらしい。もし、現・「玉作神社」が式内社「玉作水神社」であり、それが駿河郡玉作郷と関連があるとすると、これは一体どうしたことなのだろう。「延喜式神名帳」は延長5年(927年)の成立とされているので、「和名類聚抄」の編纂とほぼ同時期である。現・沼津市香貫地区は、旧・駿東郡楊原村(更にそれ以前は下香貫村・上香貫村など)で、「駿東郡」は元々「駿河郡」であったとされるので、こちらは「和名類聚抄」との矛盾はない。この辺りの事情は、古代の駿河・伊豆国境が境川か黄瀬川かという論争のほか、ある時期、伊豆国の一部が駿河国に移譲されたらしいということが絡んで、とても複雑。今のところ、これを明快に説き示した資料に行き当たっていない。なお、同じ香貫地区にある伊豆国式内社(名神大)「楊原神社」(沼津市下香貫)の伝承によれば、駿河大納言(徳川忠長)が駿河藩主となったとき(寛永元年:1624年?)、領地(55万石)に不足が生じたので、伊豆国の一部であった当地区を駿河国に移したという。
さて、この「玉砥石」2個が「日枝神社」参道脇に置かれた時期は不明であるが、江戸時代には既に置かれていたらしい。伝承によれば、元は「玉作神社」境内にあったものが狩野川の氾濫で川底に沈み、それが後に引き上げられて現在地に安置されたのだという。
沼津市のHPから(一里塚公園)
玄松子さんのHPから(玉作神社)
写真1:「一里塚公園」。近世東海道の一里塚を保存している。
写真2:「玉砥石」。静岡県指定考古資料(昭和31年指定)。「一里塚公園」の中にある。
写真3:「玉作神社」。扁額には「玉造宮」とある。(場所:沼津市黒瀬町1、駐車場なし)
写真4:「玉作神社」社殿