神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

玉砥石(静岡県沼津市)

2011-10-28 23:06:52 | 名石・奇岩・怪岩
玉砥石(たまといし)。
場所:静岡県沼津市平町18付近。沼津警察署裏手の道路沿いで、同警察署の西、約150m。駐車場なし。
沼津市に近世東海道の一里塚を保存した小さな公園がある(写真1)。この一里塚は、慶長9年(1604年)、江戸幕府によって設けられた里程標の1つで、江戸・日本橋から30里(約118km)のものという。因みに、この一里塚は、清水町伏見にあるものから計測すると距離が不足であるが、本来は本町地内に作るべきものを宿場内となるため、東方に寄せて、旧県社「日枝神社」旧参道脇の現在地に築いたとされる。一里塚は街道の両側に設置されるものだが、ここでは反対側の狩野川の川縁にあったものは現存しない。なお、終戦直後までは榎(エノキ)の大樹があったが、枯死したために植え直されたという。
さて、この「一里塚公園」内に、古代、玉(勾玉)を磨くのに使われたという「玉砥石」が2個、置かれている。ここの「玉砥石」は、「大砥石」が高さ189cm、「小砥石」が112cmの柱状のもので、幾筋かの溝が彫られており、この溝で玉の原石を磨いたらしい。
平安時代中期の承平年間(931~938年)に編纂された「和名類聚抄」に、駿河国駿河郡に「玉造郷」があったことが記されており、一説によれば、狩野川対岸の香貫地区一帯がそれに当たるという。公園近くの狩野川に架かる「黒瀬橋」を渡った橋の袂にある「玉作神社(たまつくりじんじゃ)」は、即ち式内社「玉作水神社」で、玉の製作を業とした人々(玉造部)が祖神の玉祖命(たまのおやのみこと)を祀ったものとされる。因みに、式内社には「玉作」の後ろに「水」の字が付されているが、往古から「水」の字はサイレントで、「たまつくり」と訓んでいたようである。
しかし、よくわからないのは、式内社「玉作水神社」が「延喜式神名帳」では伊豆国田方郡の神社として記載されていることである。現・「玉作神社」は、さほど広からぬ境内地が交通量の多い道路に面していて、古社の雰囲気に乏しいが、戦前までは神佐備た古木の森があったという。大正13年には境内地から約30個の玉石が出土したこともあり、かなり古くから現在地に鎮座していたらしい。もし、現・「玉作神社」が式内社「玉作水神社」であり、それが駿河郡玉作郷と関連があるとすると、これは一体どうしたことなのだろう。「延喜式神名帳」は延長5年(927年)の成立とされているので、「和名類聚抄」の編纂とほぼ同時期である。現・沼津市香貫地区は、旧・駿東郡楊原村(更にそれ以前は下香貫村・上香貫村など)で、「駿東郡」は元々「駿河郡」であったとされるので、こちらは「和名類聚抄」との矛盾はない。この辺りの事情は、古代の駿河・伊豆国境が境川か黄瀬川かという論争のほか、ある時期、伊豆国の一部が駿河国に移譲されたらしいということが絡んで、とても複雑。今のところ、これを明快に説き示した資料に行き当たっていない。なお、同じ香貫地区にある伊豆国式内社(名神大)「楊原神社」(沼津市下香貫)の伝承によれば、駿河大納言(徳川忠長)が駿河藩主となったとき(寛永元年:1624年?)、領地(55万石)に不足が生じたので、伊豆国の一部であった当地区を駿河国に移したという。
さて、この「玉砥石」2個が「日枝神社」参道脇に置かれた時期は不明であるが、江戸時代には既に置かれていたらしい。伝承によれば、元は「玉作神社」境内にあったものが狩野川の氾濫で川底に沈み、それが後に引き上げられて現在地に安置されたのだという。


沼津市のHPから(一里塚公園)

玄松子さんのHPから(玉作神社)


写真1:「一里塚公園」。近世東海道の一里塚を保存している。


写真2:「玉砥石」。静岡県指定考古資料(昭和31年指定)。「一里塚公園」の中にある。


写真3:「玉作神社」。扁額には「玉造宮」とある。(場所:沼津市黒瀬町1、駐車場なし)


写真4:「玉作神社」社殿
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日吉廃寺塔址

2011-10-25 22:23:40 | 史跡・文化財
日吉廃寺塔址(ひよしはいじとうあと)。
場所:静岡県沼津市大岡1282-1にある「山神社」境内。JR東海道本線「沼津」駅の東北、約1km。沼津信用金庫大岡支店(住所:沼津市大岡日吉1700-2)の向かい側(北側)の狭い道路の奥(行き止まり)。駐車場なし。
JR東海道本線の線路に接する、「山神社」(沼津市大岡)の境内に古代寺院の塔のものとされる礎石が並べられている。この付近に白鳳時代(7世紀後半)から平安時代初期(9世紀)にかけて存続していた寺院跡と推定されているが、何ら資料が残されておらず、所在地の地名をとって「日吉廃寺」と呼ばれている。最盛期には、寺域は東西1町(約109m)、南北2町(約218m)の広さがあったとされる。「山神社」境内の北側に線路が走っているが、その線路の向こう側(北側)にまで寺域が広がっていたらしい。礎石は現在17個あるが、大正6年の調査で、線路の北側から10個が発見され、境内に移されたという。その後、昭和30年代の数次の発掘調査により、地表の塔の礎石の下から更に古い形式の瓦が発見され、調査にあたった軽部慈恩氏の推論によれば、当初は飛鳥寺式の伽藍配置(塔を中心に東西に金堂)であったが、何度か火災に遭い、法起寺式伽藍配置(西に金堂、東に塔、北に講堂)で再建されたらしいという。したがって、この塔址の礎石配置は再建後のもの。「日吉廃寺」は駿河国で最古クラスの寺院で、現・沼津市指定史跡。
官寺なのか豪族の氏寺だったのかも不明だが、天武天皇9年(680年)に駿河国から伊豆国が分立されたとき、駿河郡駿河郷にあった国府を安倍郡(現・静岡市葵区)に移したとされる。駿河郡駿河郷というのは、現在の沼津市大岡付近といわれているので、まさにこの「日吉廃寺」の周辺ということになる。


沼津市のHPから(日吉廃寺)




写真1:「山神社」鳥居・日吉廃寺跡の入口


写真2:「山神社」社殿。祭神:大山祇神


写真3:境内の日吉廃寺の礎石。線路脇で、直ぐ傍を電車が通っている。
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駿河国の古代東海道(その11・長倉駅)

2011-10-21 22:14:23 | 古道
駿河国の古代東海道(駅路)は、「曲金北遺跡」(2011年6月17日記事)の発掘調査、条里制の研究、遺称地などによって、志太平野や静清平野については、殆ど異論のないルートが示されている。「蒲原」駅の場所については諸説あるものの、そこから東へは、①愛鷹山麓ルートか、②海岸沿いの砂州ルートかに絞られている。それも、当初は海岸沿いルートだったのが、山麓沿いに変更されたのではないかとも思われている。おそらく、海岸沿いに初期の古代東海道(駅路)が通っており、並行して愛鷹山麓に伝路があったが、後に(多分、平安後半の海進(海面上昇)によって)、従来の伝路が駅路に転用されたのではないかとみられている。
しかし、「蒲原」駅から先(東)の駅については、遺称地もなく、駅家の所在地は全くわかっていない。まず、「長倉」駅は、駿東郡(旧・駿河郡)長泉町、特に、その中の字名で長窪という地区が、古来から「長倉」駅の所在地として想定されてきた。ただし、「長」の字が共通するくらいで、根拠は薄弱のように思える。長泉町元長窪に鎮座する式内社「桃澤神社」(2010年9月3日記事)が駅家と関連するともいわれるが、それも特に根拠があってのことではない。
ところで、「長倉」駅は、時期による変遷があった。「続日本後紀」承和7年(840年)の条に、駿河国駿河郡の「永蔵」駅を伊豆国田方郡に移す、という記事がある。ところが、「日本三代実録」貞観6年(864年)の条(「柏原」駅廃止の記事である。)をみると、「永倉」駅は駿河郡に戻っている。駅名の表記がそれぞれ異なっているのが面白いが、元々の「長倉」駅と、いったん伊豆国に移転して再度駿河国に復した後の「長倉」駅が同じ場所なのかも、わかっていない。
さて、独断と偏見により、ルートと駅家所在地を想定してみる。まず、初期には、駿河湾沿いの砂丘上を進む。単純に進むと南に行き過ぎるので、現・沼津市片浜(因みに、JR東海道本線「片浜」駅の南側に古墳時代~近世の集落遺跡「東畑毛遺跡」がある。)付近を過ぎた辺りで、真東に向きを変える。そうすると、JR東海道本線「沼津」駅の約600m北を通る。「沼津」駅の北口周辺には「上ノ段遺跡」があり、発掘調査によれば、奈良~平安時代の住居跡141軒、掘立柱建物跡40軒以上の遺構が発見され、墨書土器、陶枕、帯金具なども出土したことから、駿河郡家址かとも思われる。そうすると、初期の「長倉」駅家もこの辺りか、もう少し東の現・沼津市大岡付近にあったのではないかと思われる。ここまで来ると、伊豆国の国府があったと思われる伊豆国一宮「三嶋大社」(静岡県三島市大宮町)付近まで、北東に4km程である。「長倉」駅がいったん伊豆国に移って、程なく駿河国に戻ったとすると、国境を僅かに越えた辺りに伊豆国の「長倉」駅があったと考えられる。ルート変更の時期は不明だが、古代東海道(駅路)が愛鷹山麓に移ったとすると、現・富士市中心部に想定される(移転後の)「蒲原」駅から、概ね現在の県道22号線(三島富士線)を東に進む。県道22号線は「江原公園」交差点で国道1号線と接した後、北東に進むが、同交差点からは真東に国道1号線が伸びている(因みに、同交差点のすぐ北に「辻畑古墳」(2010年9月17日記事)がある。)。国道1号線は、国道246号線との立体交差を過ぎると東南に向かうが、真東に直線的な道路があることがわかる。単純に東に進むと、伊豆国分寺付近を通って、「三嶋大社」に突き当たる。その道路の途中の「竹橋陸橋南」交差点を左折(北へ)すると、次の「横走」駅方面に行ける。ここまでピンポイントでなくても、その後の集落発展状況等も考慮して、黄瀬川岸の現・長泉町本宿、あるいは同下土狩付近に、後期「長倉」駅家所在地が想定されることになる。
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八畳石

2011-10-18 23:06:49 | 名石・奇岩・怪岩
八畳石(はちじょういし)。別名:三つ石(みついし。3つに割れているため。)。
場所:静岡県沼津市柳沢。国道1号線「大塚」交差点の北、約3km。東名高速道路の高架を潜ると、「赤野観音」の案内板があるが、そちらに行かずに直進、すぐ。駐車スペースあり。
「八畳石」は、寛永12年(1635年)の洪水により東方の山腹から転落してきたとされる巨大な安山岩で、石の高さは約3m。上面は平らになっていて、約50㎡の広さがあるらしい(ということは、江戸間換算で約32畳分にもなる。)。この付近は「赤野観音」(「赤野山 広大寺」)の霊地で、臨済宗中興の祖である白隠禅師(1686~1768年)が少年時代の頃、この石の上で修行したと伝えられている。白隠禅師は現・沼津市原の生まれで、地元の偉人である。白隠禅師が本当にこの石の上で修行したのかどうかはわからないが、その後、多くの雲水がここで座禅を組んだことは確からしい。
ところで、この石の裏側には、直径約2mもの丸い大きな穴が開いている。これは、この石に棲んでいた法螺貝(ホラガイ)が抜け出した穴だといわれている。伝承によれば、昔、この石に巨大な法螺貝が棲みつき、食物を探して村に下りてきては畑を荒らしていた。ある夜、大嵐が来て、激しい雷雨となった明くる朝、村人が見てみると、この石から海に向かって一筋の跡が付いていた。村人は、法螺貝が自ら風雨を起こして、海に入ったのだろうと噂したという。
実は、巨岩から法螺貝が抜け出るという話は、他の場所にもあって、例えば、愛知県岡崎市の「真福寺」境内の崖にも法螺貝穴があるらしい。いろいろな奇談集を読むと、石の中に竜が棲んでいて、風雨や雷鳴を伴って石から抜け出て昇天するという話がよく出てくる。民俗学的には、法螺貝が石から抜け出るというのは、これと同じで、法螺貝は竜(=水神)と同類とみなされていたことを示すらしい。竜でなく、法螺貝というのは、穴が渦巻状であることはもちろんだが、どうやら修験者(山伏)の持つ法螺貝のイメージが関わっているらしく、この説話の伝承に修験者が関係していたことが考えられる。
因みに、この「八畳石」はどうやら、山腹から転げ落ちてきた後、しばらく川底にあって水流で丸く抉られ、それが土石流で更に下流に流された際に裏返しになったのではないか、とも推測されている。

ところで、近くにある「赤野観音堂」であるが、本尊の十一面観音像は行基作と伝わる(実際には11世紀頃の作らしい。)。元々の地名を「阿気野」といい、「文徳実録」に記載がある「阿氣大神」を祀った(859年?)ところという。今も「阿氣神社」なるものが残っていれば式外社ということになるが、残念ながら廃絶してしまったようだ。「赤野観音」は元々「阿氣大神」の本地仏だったと伝わっているとのこと。


沼津市のHPから(八畳石)

ミノル不動産さんのHPから(柳沢の八畳石)


写真1:「八畳石」。西側の道路から見下ろす。高橋川の渓谷にある。


写真2:西側から


写真3:北側から。奥にわずかに見えるのが、東名高速道路の高架。


写真4:裏側(東側)に大きな穴が開いている(ように見える)。この下には川が流れている。
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要石神社(静岡県沼津市)

2011-10-14 23:54:13 | 神社
要石神社(かなめいしじんじゃ)。
場所:静岡県沼津市一本松。JR東海道本線「原」駅の西、約1.8km。県道380号線(富士清水線)沿いの松林の中。駐車場なし。
「要石」は、地中に居て地震を起こす鯰(ナマズ)の頭上に載せて、地震を抑える石のことである。常陸国一宮「鹿島神宮」・下総国一宮「香取神宮」境内にある「要石」が有名だが、怖いもの「地震、雷、火事、オヤジ」(因みに、オヤジは親父ではなく、大山風(おおやまじ)。台風のことらしい。)の筆頭に上げられているように、地震はどこでも最も恐ろしいものだったらしく、各地に「要石」がある。このブログでも、静岡市清水区西久保の「鹿島神社」境内にあることを紹介した(2011年7月12日記事参照)。
さて、こちらの「要石神社」の「要石」も、地上に出ている部分はわずかであるが、実は巨大な岩で、当神社の北、3町(約327m)を隔てた大橋家の井戸付近までつながっており、この巨岩が地中の大鯰の頭を抑えているという。当神社は、当地・一本松新田の開拓者である大橋家の二代目・大橋五郎左衛門が寛永年間(1624~1645年)に創建し、現在の社祠は天保14年(1843年)に再建されたものという。祭神は天津彦火瓊々杵尊(アマツヒコホノニニギノミコト)。天照大神の孫で、一般には農業の神とされる。言い伝えによれば、この「要石」より北側には津波は来ないといわれ、安政の大地震のときも当地の被害は軽微であったという。また、耳の悪い者は、当神社に祈願して穴の開いた石を供えると必ず治るともいわれている。こちらの由来はよくわからない。


沼津市のHPから(要石神社)


写真1:「要石神社」鳥居


写真2:玉垣の中に小さな石祠がある。


写真3:石祠。周りに穴の開いた石がいくつか置かれている。


写真4:「要石」?



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