神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

西浜観音堂

2022-07-30 23:32:40 | 寺院
西浜観音堂(にしはまかんのんどう)。
場所:茨城県稲敷市浮島1541。茨城県道206号線(新川江戸崎線)「浮島局東」交差点から北西へ約950m進んで左折(南西へ)、約350mで左折(東~北東へ)、狭い道路を約250m。駐車場なし。行き止まりになるので、県道から入ってきた道路を直進して約450mのところで左折して、すぐ先の「集落センター」(その北側に「姫宮神社」がある。)の前辺りに邪魔にならないように駐車させていただいて、徒歩で向かうのが良いと思われる。
「西浜観音堂」は、保元の乱(保元元年:1156年)で崇徳上皇側に味方して敗れた左京大夫三位源朝臣・藤原教長が常陸国信太郡浮島村(現・茨城県稲敷郡浮島、当時は文字通り海に浮かぶ「島」だった。)に流罪となった配所跡に建立された観音堂といわれている。教長は当地に約7年間住み、応保2年(1162年)に許されて都に帰る際、「ゆめのまにまに七歳あまりすごしなむ このうつし植えたる杉のみどりと村びとたちのこまやかなるかたちを末ながく契りて 浮島の里人と別れんとするときに」という遺墨を残した。堂の前に今もある杉の巨木は、そのときに教長が自ら植えたものとされる。堂の本尊は、一説に教長の念持仏であったといわれる聖観世音菩薩で、浮島の女性が妊娠すると安産祈願のお参りに来るのが習わしだったという(現在は、稲敷市立歴史民俗資料館に保管されている。同館では平安時代末期頃の楊柳観世音菩薩としているようである。)。
因みに、「西浜観音堂」の東側にある台地上に「姫宮神社」があるが、ここは中世城館「浮島城」の跡だという。「浮島城」の城域(広さ)については諸説あるが、「姫宮神社」が鎮座する辺りが中心部だったことは間違いないようである。伝説によれば、最初、承平年間(930年頃)に武蔵権守・興世王が築いたという。興世王といえば、平将門の側近で、「承平の乱」の首謀者の1人である。将門が常陸国府を襲撃した後、「一国を奪っても責は免れない。ならば、関東全部を奪っても同じことだ。」というようなことを言って、将門に謀反を唆した人物(軍記物語「将門記」による。)で、この言葉を言ったのが「浮島城」でのことだった、ともいう(が、根拠は乏しいようである。)。その後は、物部信太連の後裔という浮島太郎安広が修築し、浮島氏の居城として長く続いたが、天正年間(1590年頃)、佐竹氏に攻められ落城した。このとき、海(霞ヶ浦)に入水した城主の娘・小百合姫の霊を祀ったのが当神社の創始という。現在の祭神は息長帯姫命。


曹洞宗「海中山 釣船寺」のHPから(西浜観音堂)


写真1:「西浜観音堂」入口。石段(2ヶ所ある。)もすっかり草に覆われている。この場所を「京ヶ丘」という、とのこと。


写真2:同上。かなり老朽化が目立つ。


写真3:同上、藤原教長手植えの杉


写真4;同上、大師堂?


写真5:同上、石仏など


写真6:同上


写真7:「姫宮神社」鳥居


写真8:同上、拝殿


写真9:同上、本殿。姫宮だからか、ピンク色?。稲敷市指定文化財。


写真10:「茨城百景 夢の浮島」碑(場所:稲敷市浮島字西戸崎。下馬渡方面から浮島に入る橋の近く)。
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景行天皇行在所跡(茨城県稲敷市)

2022-07-23 23:33:04 | 史跡・文化財
景行天皇行在所跡(けいこうてんのうあんざいしょあと)。浮島宮推定地。
場所:茨城県稲敷市浮島4571。茨城県道206号線(新川江戸崎線、通称:カントリーライン)「浮島局東」交差点(コンビニ「ファミリーマート稲敷浮島店がある。)から、県道を南東へ約350m、「景行天皇行在所跡→」の案内標識のところで狭い道路に入る。駐車スペース有り。
「常陸国風土記」信太郡の条に、「大足日子(オオタラシヒコ)天皇が浮島の帳宮に行幸されたときに、飲み水が無かった。そこで占いをさせて、井戸を掘らせた。」(現代語訳)という記事がある。大足日子天皇というのは第12代・景行天皇のことであり、子の日本武尊(ヤマトタケル)の死後、その事蹟を偲ぶため東国巡幸を行ったとされている(「日本書紀」)。ただし、そもそも、その実在性も疑問視されていることもあり、常陸国まで行幸したかは不明だが、「常陸国風土記」の記事になるくらい、古くから信じられていたということなのだろう。この「浮島」というのが現・稲敷市浮島で、「帳宮」は通称「お伊勢の台」と呼ばれる小丘がその場所であるとの伝承がある。「帳宮(とばりのみや)」というのは、行宮(仮宮)として「帳」(布の幕)を垂らして囲っただけのものとされる。なお、「お伊勢の台」は、かつてこの丘から景行天皇(あるいは日本武尊)が「伊勢神宮」を遥拝した、ということから名付けられたという。
また、「常陸国風土記」の逸文とされるものとして、「塵袋」(鎌倉時代中期頃)に「景行天皇はこの行宮に三十日間滞在した。その間、賀久賀鳥(カクカトリ)の声を聞いて、伊賀理命(イカリ)に命じて網でこの鳥を捕まえさせた。伊賀理命がうまく捕まえたので、鳥取(トトリ)という姓を与えた。その子孫が今もここに住んでいる。」(現代語訳)というような記述がある。「賀久賀鳥」(「覚賀鳥」とも書く。)は、「カカ」あるいは「カクカク」と鳴く鳥で、今でいう「ミサゴ」(タカ目ミサゴ科の猛禽類、海岸付近に生息する。)のことだそうである。鳴き声を愛でるというイメージがあまり湧かないが、当地は今よりももっと海に近かっただろうし、もっと荒涼としていただろうから、鳥の飛ぶ姿にも癒されたのかもしれない。


写真1:「景行天皇行在所跡」入口


写真2:通称「お伊勢の台」という小さな丘になっている。南側に説明板と登り口がある。


写真3:同上


写真4:丘の上に少し平らなところがある。


写真5:「景行天皇行在所遺址」碑


写真6:北側から見る。なお、木々に遮られて丘上からの眺望はないが、北側に蒼く波立ったようなものが見えたので、一瞬、霞ヶ浦かと...思ったのだが、実は一面のソーラーパネルだった。


写真7:北西側から見る。
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尾島神社(茨城県稲敷市)

2022-07-16 23:34:24 | 神社
尾島神社(おじまじんじゃ)。
場所:茨城県稲敷市浮島5678番地イ。茨城県道206号線(新川江戸川線)「浮島局東」交差点から南西に約300mで左折(南東へ)、約750m。駐車場なし。境内地は県道沿いだが、こちらからは入れず、鳥居前にも舗装路が通っているが、この道路は狭くて、入口もわかりにくいので、上記のようにアプローチするのが行きやすいと思う。なお、「浮島局東」交差点から国道を南東へ約900m行ったところに「稲敷市農産物直売所 浮島」があり、その裏(南側)の道路を北西へ約240m戻ると、鳥居前に着く。
社伝によれば、天安年間(857~859年)の創建。旧村社。主祭神は大名持命(オオナモチ)。と、このくらいしかわからないのだが、関東~東北地方の古社寺で大同年間(806~810年)創建とするものが多い中、天安年間というのは珍しく、寧ろ何らかの根拠・由来があるのではないかと思わせる。一方、祭神のオオナモチは大国主神の別称で、出雲国一宮「出雲大社」や大和国一宮「大神神社」などの祭神として知られ、一般的には国土開発の神とされるが、国津神の主神として、本来は名もなき土着神が(ヤマト政権下において)神社に祀られる際に祭神とされた可能性も考えられる。
というのは、「常陸国風土記」信太郡条に「浮島村は長さ2千歩(約3600m)、幅は4百歩(約720m)。四方は海で、山野が入り混じっている。家は15戸、田は7~8町(約700~800a)。住民は製塩を業とし、9つの神社がある。住民は言動を慎み、禁忌に触れないようにしている。」(現代語訳)という記事がある。現在、浮島地内には当神社の外に2~3社があるが、古代にまで創建が遡るのは当神社のみと思われる。社伝では、当神社の創建は「常陸国風土記」編纂の時期(8世紀前半)より後になるが、それ以前から当地では何らかの祭祀が行われていたことがわかっているので、当神社は「常陸国風土記」にいう9つの神社のいずれかの後身ではないかとも考えられる。当神社境内を含む西側一帯で古墳時代の竪穴式住居跡、掘立柱建築跡,工房跡などが発見され、祭祀用土器・祭祀用石製品・焼け土などが出土している(総称して「尾島祭祀遺跡」という。)。浮島は古代には所謂「香取海」に浮かぶ島であり、その名の通り、「尾島」は浮島の先端にあったと考えられる。住民が15戸しかないのに、神社が9つもあるというのも凄いが、製塩を業としているということにも、何か神聖な役割があったのかもしれない。とすると、「大杉神社」(2022年6月4日記事)以上に、「香取海」の海上交通の守護神としての役割があったのではないだろうか。そういう意味で、位置的にみて、常陸国一宮「鹿島神宮」及び下総国一宮「香取神社」との関係を指摘する説もあるようだ。


写真1:「尾島神社」参道入口


写真2:参道途中


写真3:鳥居


写真4:拝殿


写真5:本殿


写真6:境内社


写真7:同上


写真8:鳥居前の道路を東に約170m進んだところにある「馬頭観世音」石碑。天保3年(1832年)銘がある。今では専ら県道206号線がメイン道路だが、かつては当神社の前を人馬が行き交ったことが窺われる。
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補陀落山 蓮華院 神宮寺

2022-07-09 23:31:36 | 寺院
補陀落山 蓮華院 神宮寺(ふだらくさん れんげいん じんぐうじ)。
場所:茨城県稲敷市神宮寺146。「髙田神社」(前項)前から県道107号線を東に約2.6km(「神宮寺」交差点の西、約100m)で左折(北西へ)、約50m。駐車場なし。
寺伝によれば、大同元年(806年)、満願上人の開山とされるが、弘仁2年(811年)の開山、また日光山を開いたとして有名な勝道上人の開山とする説もある。「髙田神社」の別当寺を務めていたことから「神宮寺」と呼ばれるようになり、かつて末寺7ヵ寺があったという。 現在は天台宗の寺院で、本尊は十一面観世音菩薩(秘仏)。また、客殿には室町時代末作の唐様入母屋造の厨子(茨城県指定文化財(建造物))が置かれ、その中に善光寺式一光三尊如来像が安置されている。その他、平安時代(12世紀後半頃)作の木造聖観音菩薩立像(茨城県指定文化財(彫刻))も安置されている。この聖観音菩薩立像は、カヤ材の寄木造で、像高152.8cmという。


全国善光寺会のHPから(神宮寺◎天台宗)


写真1:「神宮寺」仁王門。金剛力士像は湛慶作と伝わる。


写真2:本堂(観音堂)


写真3:同上


写真4:境内の石仏など


写真5:客殿
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髙田神社(茨城県稲敷市)

2022-07-02 23:34:37 | 神社
髙田神社(たかだじんじゃ)。通称:高田権現、権現さま。
場所:茨城県稲敷市高田1348。茨城県道103号線(江戸崎下総線)から同107号線(江戸崎神崎線)に入り、東に約800m。駐車場あり(ただし、進入路が狭いので注意。)。
社伝によれば、承平年間(931~937年)、朱雀天皇の命により「平将門の乱」平定祈願のため紀伊国(現・和歌山県)「熊野権現」(熊野三山の神社)から分霊を勧請して創建された。そのとき、13人の僧侶・修験が当地に来住して、社僧となって奉仕し、現在もその子孫が続いているという。 堀河天皇の寛治年間(1087~1093年)、鳥羽天皇の永久年間(1113~1118年)のときに奉幣を受け、勅願所として信太郡東條庄第一の総鎮守として崇敬された。文治・建久年間(1185~1199年)、源頼朝が奥州征伐のとき祈願して東條庄500町歩を寄進した。しかし、延元3年(1338年)、南朝方の北畠親房が「神宮寺城」(当神社の東、約2.3km)に籠城した際、当神社の神主等が味方したため、北朝方の常陸国守護・佐竹義篤らに攻められ、社領全てを奪われた。江戸時代には、慶長7年(1602年)に徳川家康から社領257石の朱印地を寄進されるなど庇護され、氏子は33ヵ村に及び、明治4年には郷社に列せられた。享保18年(1733年)に建立された社殿があったが、平成2年に焼失、平成9年に再建された。現在の祭神は、伊邪奈伎命(イザナギ)、伊邪那美命(イザナミ)、熊野神王櫛御食野命(クシミケヌ。素戔男尊(スサノオ)の別名)など8柱。


茨城県神社庁のHPから(髙田神社)


写真1:「髙田神社」一の鳥居と社号標。鳥居は、「冠木門型」という人もいるが、非常に珍しいものと思われる。


写真2:参道。当神社周辺の森林は、茨城県の自然環境保全地域に指定されている。


写真3:二の鳥居と春日燈籠


写真4:拝殿


写真5:本殿


写真6:本殿背後にある「奥宮」


写真7:末社十八柱


写真8:奉献碑(「高田大権現」)
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