愛宕神社古墳(あたごじんじゃこふん)。通称:景清塚。
場所:茨城家石岡市貝地2-6-13。国道6号線「貝地」交差点から茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)を南西へ約190m進んだところで左側道に入り、突き当りY字分岐を左(北東へ)、約50m。駐車場なし。
「愛宕神社古墳」は、直径約10m・高さ約2mの円墳とされるが、一部削平されており、発掘調査等も行われていないようなので、詳細は不明。墳頂に「愛宕神社」が勧請されているため、その名があるが、平安時代末期~鎌倉時代初期の武士で、悪七兵衛の異名で有名な藤原景清を祀るという伝承があって、「景清塚」とも呼ばれている(とすると、古墳時代の「古墳」ではなく、中世以降の「塚」かもしれない。)。景清は所謂「源平合戦(治承・寿永の乱)」(1180~1185年)で平氏方につき、「屋島の戦い」等で奮戦したので平景清と通称されるが、本姓は藤原氏(俵藤太こと藤原秀郷の後裔)で、伊勢の藤原氏ということで伊藤氏とも名乗ったとされる。平氏方の有力武将で上総介・藤原忠清の七男であるため、上総七郎とも呼ばれたということから、坂東(関東地方)に所縁があると思われ、現・石岡市生まれとする伝承もあるが、前半生は全く不明となっている。「壇ノ浦の戦い」で敗れた後に捕らえられ、八田知家(小田氏の祖、現・茨城県つくば市に「小田城」を築城。常陸国守護)に預けられたが、建久7年(1196年)、自ら食を断って果てたとも伝えられている。このようなことから、能や歌舞伎などの主人公として取り上げられ、各地に墓・供養塚などがある。
さて、この古墳の南側に日蓮宗「平等寺」があるが、その境内は「景清屋敷」とも呼ばれ、12世紀前半、在庁官吏の「国掌屋敷」のあったところと伝承されている。かつては西方に竹藪があり、明治末期までは土塁が築かれていたという。「石岡市史」では、「国掌所」は正税などの運送を分担した官衙であるとし、それがあった場所と推定している。因みに、当地の地名の「貝地(かいじ)」であるが、その語源として、①地方豪族の縄張り、即ち「垣内(かいと、かいち)」とする説、②官衙・役所を意味する「廨」がある場所、即ち「廨地(かいち)」とする説があり、「石岡市史」は後者の②説を採用しているようである。その当否は不明だが、仮に、当地に地方官衙あるいは地方豪族屋敷があり、そこに景清という名の人物がいたとすれば、悪七兵衛・藤原景清ではなかったとしても、それが有名な景清ということになって、伝説が作られたということがあったのかもしれない。
一妙山 平等寺(いちみょうざん びょうどうじ)。通称:貝地の法華様。
場所:茨城県石岡市貝地2-7-8。「愛宕神社古墳」の南側。駐車場有り。
大僧正・本雄院日舜上人の開基で、元は石岡市国府2丁目(旧・木之地町)にあって「一妙庵」といった。後に日勝上人が現在地に移転。明治12年に本堂建立。日蓮宗の寺院で、本尊は十界大曼荼羅。なお、日舜上人というのは、現・東京都大田区の日蓮宗大本山「池上本門寺」(「長栄山 大国院 本門寺」)第66世貫主(天保2年(1831年)~明治34年(1901年))のことと思われる。
写真1:「愛宕神社古墳」。墳形に沿って、道路がカーヴしている。
写真2:同上、「愛宕神社」鳥居と社号標
写真3:同上、墳頂の「愛宕神社」社殿。祭神:軻遇突智命。
写真4:同上、「平景清公之霊地」石碑
写真5:西側に隣接する「貝地町公民館」敷地端にある「茨城廃寺五重塔露盤レプリカ」と説明板。五重塔の露盤は塔の相輪の土台となるもので、本物は「きんちゃく石」(石岡市茨城1丁目、「茨城廃寺」(2018年2月3日記事)の写真6参照)とみられている。玉垣?に「茨城国廨地」と刻されている。
写真6:同上
写真7:日蓮宗「平等寺」
場所:茨城家石岡市貝地2-6-13。国道6号線「貝地」交差点から茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)を南西へ約190m進んだところで左側道に入り、突き当りY字分岐を左(北東へ)、約50m。駐車場なし。
「愛宕神社古墳」は、直径約10m・高さ約2mの円墳とされるが、一部削平されており、発掘調査等も行われていないようなので、詳細は不明。墳頂に「愛宕神社」が勧請されているため、その名があるが、平安時代末期~鎌倉時代初期の武士で、悪七兵衛の異名で有名な藤原景清を祀るという伝承があって、「景清塚」とも呼ばれている(とすると、古墳時代の「古墳」ではなく、中世以降の「塚」かもしれない。)。景清は所謂「源平合戦(治承・寿永の乱)」(1180~1185年)で平氏方につき、「屋島の戦い」等で奮戦したので平景清と通称されるが、本姓は藤原氏(俵藤太こと藤原秀郷の後裔)で、伊勢の藤原氏ということで伊藤氏とも名乗ったとされる。平氏方の有力武将で上総介・藤原忠清の七男であるため、上総七郎とも呼ばれたということから、坂東(関東地方)に所縁があると思われ、現・石岡市生まれとする伝承もあるが、前半生は全く不明となっている。「壇ノ浦の戦い」で敗れた後に捕らえられ、八田知家(小田氏の祖、現・茨城県つくば市に「小田城」を築城。常陸国守護)に預けられたが、建久7年(1196年)、自ら食を断って果てたとも伝えられている。このようなことから、能や歌舞伎などの主人公として取り上げられ、各地に墓・供養塚などがある。
さて、この古墳の南側に日蓮宗「平等寺」があるが、その境内は「景清屋敷」とも呼ばれ、12世紀前半、在庁官吏の「国掌屋敷」のあったところと伝承されている。かつては西方に竹藪があり、明治末期までは土塁が築かれていたという。「石岡市史」では、「国掌所」は正税などの運送を分担した官衙であるとし、それがあった場所と推定している。因みに、当地の地名の「貝地(かいじ)」であるが、その語源として、①地方豪族の縄張り、即ち「垣内(かいと、かいち)」とする説、②官衙・役所を意味する「廨」がある場所、即ち「廨地(かいち)」とする説があり、「石岡市史」は後者の②説を採用しているようである。その当否は不明だが、仮に、当地に地方官衙あるいは地方豪族屋敷があり、そこに景清という名の人物がいたとすれば、悪七兵衛・藤原景清ではなかったとしても、それが有名な景清ということになって、伝説が作られたということがあったのかもしれない。
一妙山 平等寺(いちみょうざん びょうどうじ)。通称:貝地の法華様。
場所:茨城県石岡市貝地2-7-8。「愛宕神社古墳」の南側。駐車場有り。
大僧正・本雄院日舜上人の開基で、元は石岡市国府2丁目(旧・木之地町)にあって「一妙庵」といった。後に日勝上人が現在地に移転。明治12年に本堂建立。日蓮宗の寺院で、本尊は十界大曼荼羅。なお、日舜上人というのは、現・東京都大田区の日蓮宗大本山「池上本門寺」(「長栄山 大国院 本門寺」)第66世貫主(天保2年(1831年)~明治34年(1901年))のことと思われる。
写真1:「愛宕神社古墳」。墳形に沿って、道路がカーヴしている。
写真2:同上、「愛宕神社」鳥居と社号標
写真3:同上、墳頂の「愛宕神社」社殿。祭神:軻遇突智命。
写真4:同上、「平景清公之霊地」石碑
写真5:西側に隣接する「貝地町公民館」敷地端にある「茨城廃寺五重塔露盤レプリカ」と説明板。五重塔の露盤は塔の相輪の土台となるもので、本物は「きんちゃく石」(石岡市茨城1丁目、「茨城廃寺」(2018年2月3日記事)の写真6参照)とみられている。玉垣?に「茨城国廨地」と刻されている。
写真6:同上
写真7:日蓮宗「平等寺」