蚕影神社(こかげじんじゃ)。通称:蚕影山神社(こかげさんじんじゃ)。
場所:茨城県つくば市神郡1998。茨城県道138号線(石岡つくば線)と同139号線(筑波山公園線)の交差点から、139号線を北へ約1.9km、「蚕影山神社→」という案内板が出ているところを右折(東へ)、道なりに約1.2km。駐車場なし。道路は行き止まりになるので、自動車は少し手前に置いてきた方が良い。
創建年代について諸説あるが、社伝によれば、第13代・成務天皇の御代(131~190年?)に筑波国造に任命された阿閉色命(アヘシコ)が「筑波山神社」(2020年9月12日及び19日記事)を奉斎するとともに、当地(字「豊浦」)に稚産霊命(ワクムスビ)を祀ったとされる。稚産霊命は、「古事記」では豊受比売神(トヨウケヒメ)の親神で、「日本書紀」では頭の上に蚕と桑が、臍の中に五穀が生じたとしている。よって、食品と養蚕の神なのだが、特に養蚕関係者の守り神として、別当寺「蚕影山 桑林寺」により「蚕影山大権現」と称され、江戸時代から昭和時代中期にかけて参拝客が多かったとされる。関東各地に「蚕影(山)神社」の分社や神社境内に「蚕影山大権現」石碑などが建てられた。しかし、養蚕が衰退した現在では、かなり寂れた状態となっている。現在の祭神は、稚産霊命・埴山姫命・木花開耶姫命。
さて、茨城県には日本で最初に養蚕を始めたと称する神社が3社あり、当神社(「日本一社」と称する。)、現・日立市川尻町鎮座の「蚕養(こがい)神社」(「日本最初」と称する。)、現・神栖市日川鎮座の「蚕霊(さんれい)神社」(「日本養蚕事始」と称する。)がそれである。そして、養蚕の起源については、共通して「金色姫伝説」というものがあって、細部は微妙に違うが、当神社の伝承を中心に記せば、凡そ次の通りである。「昔、天竺(インド)に「霖夷(りんい)大王」という王がいて、「金色姫」という名の娘がいたが、后が亡くなり、後添えの后を娶った。後添えの后(継母)は、金色姫を憎み疎んじて四度も秘かに殺そうとした。后の悪意を知った大王は、桑の木で造った舟に姫を乗せて、海に流した。その舟が日本・常陸国の「豊浦」という浜に流れ着き、漁師の「権大夫」夫婦に助けられた。しかし、看病の甲斐なく、姫は亡くなり、亡骸は唐櫃に納められた。ある夜、権太夫夫婦の夢枕に姫の姿が立ったので、唐櫃を開けてみると亡骸は無数の虫に変わっていた。この虫が蚕で、やがて繭になった。権太夫夫婦は、筑波山に住む「影道(ほんどう)仙人」から、繭から絹糸に紡ぐ方法を教えられ、また、欽明天皇の皇女「各谷姫(角谷姫)」に神衣を織る技術を教わった。これが日本における養蚕と機織の始まりである。」。この話から、当神社の創祀を6世紀(欽明天皇の在位:539~571年)とする説もある。また、「権太夫」というのを、筑波国造・権太夫良平として、延長4年(926年)の創祀とするものもある。因みに、「金色姫」が流れ着いたのが「豊浦」で、現・日立市川尻や神栖市日川は太平洋の近くだが、古代には「香取海」という内海が筑波山の近くまで入り込んでおり、それで当地にも「豊浦」という地名があるのだという(もう少し南部になるが、つくば市内の桜川沿いに縄文時代の貝塚がいくつか発見されているので、強ち否定もできないと思われる。)。この伝説は、養蚕が海外起源であることを示唆するが、「日本書紀」の神話に反する。よって、多分、別当寺であった「桑林寺」によって広められた話だったものと思われる。ただし、「万葉集」の中に「筑波嶺の 新桑(にいぐわ)繭(まよ)の 衣はあれど 君が御衣(みけし)し あやに着欲しも」(筑波山の新桑で作った絹衣は素敵だけど、あなたの衣を着てみたい)(万葉集巻14・3350)などの歌があり、近くに鬼怒川(衣川・絹川)、小貝川(蚕飼川)、糸繰川などといった絹糸に関係する地名があるために、筑波が養蚕の本場となっていて、(他の地区よりも)当神社の養蚕起源信仰が広く信じられようになったものと思われる。
写真1:「蚕影神社」境内入口
写真2:参道途中の鳥居。石段が続く(全部で205段あるそうな。)。
写真3:同上
写真4:社殿前の石段
写真5:拝殿
写真6:同上
写真7:本殿
場所:茨城県つくば市神郡1998。茨城県道138号線(石岡つくば線)と同139号線(筑波山公園線)の交差点から、139号線を北へ約1.9km、「蚕影山神社→」という案内板が出ているところを右折(東へ)、道なりに約1.2km。駐車場なし。道路は行き止まりになるので、自動車は少し手前に置いてきた方が良い。
創建年代について諸説あるが、社伝によれば、第13代・成務天皇の御代(131~190年?)に筑波国造に任命された阿閉色命(アヘシコ)が「筑波山神社」(2020年9月12日及び19日記事)を奉斎するとともに、当地(字「豊浦」)に稚産霊命(ワクムスビ)を祀ったとされる。稚産霊命は、「古事記」では豊受比売神(トヨウケヒメ)の親神で、「日本書紀」では頭の上に蚕と桑が、臍の中に五穀が生じたとしている。よって、食品と養蚕の神なのだが、特に養蚕関係者の守り神として、別当寺「蚕影山 桑林寺」により「蚕影山大権現」と称され、江戸時代から昭和時代中期にかけて参拝客が多かったとされる。関東各地に「蚕影(山)神社」の分社や神社境内に「蚕影山大権現」石碑などが建てられた。しかし、養蚕が衰退した現在では、かなり寂れた状態となっている。現在の祭神は、稚産霊命・埴山姫命・木花開耶姫命。
さて、茨城県には日本で最初に養蚕を始めたと称する神社が3社あり、当神社(「日本一社」と称する。)、現・日立市川尻町鎮座の「蚕養(こがい)神社」(「日本最初」と称する。)、現・神栖市日川鎮座の「蚕霊(さんれい)神社」(「日本養蚕事始」と称する。)がそれである。そして、養蚕の起源については、共通して「金色姫伝説」というものがあって、細部は微妙に違うが、当神社の伝承を中心に記せば、凡そ次の通りである。「昔、天竺(インド)に「霖夷(りんい)大王」という王がいて、「金色姫」という名の娘がいたが、后が亡くなり、後添えの后を娶った。後添えの后(継母)は、金色姫を憎み疎んじて四度も秘かに殺そうとした。后の悪意を知った大王は、桑の木で造った舟に姫を乗せて、海に流した。その舟が日本・常陸国の「豊浦」という浜に流れ着き、漁師の「権大夫」夫婦に助けられた。しかし、看病の甲斐なく、姫は亡くなり、亡骸は唐櫃に納められた。ある夜、権太夫夫婦の夢枕に姫の姿が立ったので、唐櫃を開けてみると亡骸は無数の虫に変わっていた。この虫が蚕で、やがて繭になった。権太夫夫婦は、筑波山に住む「影道(ほんどう)仙人」から、繭から絹糸に紡ぐ方法を教えられ、また、欽明天皇の皇女「各谷姫(角谷姫)」に神衣を織る技術を教わった。これが日本における養蚕と機織の始まりである。」。この話から、当神社の創祀を6世紀(欽明天皇の在位:539~571年)とする説もある。また、「権太夫」というのを、筑波国造・権太夫良平として、延長4年(926年)の創祀とするものもある。因みに、「金色姫」が流れ着いたのが「豊浦」で、現・日立市川尻や神栖市日川は太平洋の近くだが、古代には「香取海」という内海が筑波山の近くまで入り込んでおり、それで当地にも「豊浦」という地名があるのだという(もう少し南部になるが、つくば市内の桜川沿いに縄文時代の貝塚がいくつか発見されているので、強ち否定もできないと思われる。)。この伝説は、養蚕が海外起源であることを示唆するが、「日本書紀」の神話に反する。よって、多分、別当寺であった「桑林寺」によって広められた話だったものと思われる。ただし、「万葉集」の中に「筑波嶺の 新桑(にいぐわ)繭(まよ)の 衣はあれど 君が御衣(みけし)し あやに着欲しも」(筑波山の新桑で作った絹衣は素敵だけど、あなたの衣を着てみたい)(万葉集巻14・3350)などの歌があり、近くに鬼怒川(衣川・絹川)、小貝川(蚕飼川)、糸繰川などといった絹糸に関係する地名があるために、筑波が養蚕の本場となっていて、(他の地区よりも)当神社の養蚕起源信仰が広く信じられようになったものと思われる。
写真1:「蚕影神社」境内入口
写真2:参道途中の鳥居。石段が続く(全部で205段あるそうな。)。
写真3:同上
写真4:社殿前の石段
写真5:拝殿
写真6:同上
写真7:本殿