神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

権現山古墳(茨城県小美玉市)

2019-01-26 23:12:34 | 古墳
権現山古墳(ごんげんやまこふん)。権現平古墳群第5号墳。
場所:茨城県小美玉市下玉里1820ほか。茨城県道144号線「高浜中央三叉路」交差点から東へ、約2.8kmのところで右折(南東へ)、「案内板」に従って「小美玉市 生涯学習センター コスモス」を目指す。その手前、「小美玉市立玉里民家園」の広い駐車場に入る。駐車場の右手奥(南西)、約150m。駐車場から先も自動車で行けないことはないが、未舗装なので、駐車場からは歩いて行く方を勧める。
権現平古墳群は、前方後円墳1基のほか、方形周溝墓2基、円墳6基(または円墳5基、方墳1基)で構成され(一部湮滅)、霞ヶ浦を見下ろす台地上にある。霞ヶ浦沿岸には古墳が多いが、「権現山古墳」(権現平古墳群第5号墳)は小美玉市最大の前方後円墳で、墳丘長89.5m、後円部径44.7m、前方部長44.8mm、同幅59.5mという大きな古墳である。盾形の周濠も残っており、これを加えると全長は約123mに達する。比較的保存状態が良く、観察もしやすい古墳である。平成8年の発掘調査によれば、後円部に箱式石棺、前方部に木棺が発見されており、ほかに直刀、鉄鏃、土師器、須恵器、円筒埴輪、形象埴輪などが出土している。特に、須恵器の筒型器台は東日本での出土は珍しいとされ、当地域の有力首長の墳墓とみられる。築造時期は5世紀末~6世紀初頭と推定されている。


小美玉観光協会のHPから(権現山古墳)


写真1:「権現山古墳」入口。道路から一段上がったところに説明板がある。


写真2:古墳前の測量図。うまく古墳全景が撮れていなかったので、かわりに。


写真3:後円部(北西から)


写真4:前方部から後円部を見る。


写真5:後円部から前方部を見る。その先は霞ヶ浦。


写真6:古墳上の石祠


写真7:前方部(南西から)


写真8:「小美玉市立玉里民家園」前から霞ヶ浦を見下ろす切通し道路。台地の端にあることがよくわかる。
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高浜神社(茨城県石岡市)

2019-01-19 23:40:46 | 神社
高浜神社(たかはまじんじゃ)。
場所:茨城県石岡市高浜865。茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)「高浜中央三叉路」交差点の直ぐ西側。コンビニ「セブンイレブン石岡高浜」店の裏側(西側)。駐車スペース有り。
当神社の創建時期は不明だが、伝承によれば、国司が国内の官社を巡拝するにあたり、常陸国一宮「鹿島神宮」(2017年10月7日記事)に向かうには広大な内海であった霞ケ浦を渡って行ったが、海が荒れると渡れないので、国府の外港であった「高浜」にススキ、マコモ、ヨシ等の青草で仮殿(「青屋」と称する。)を造り、「鹿島神宮」を遥拝した。この「青屋」(遥拝所)の場所に後世、神殿が建てられたものが当神社とされる。平安時代末期になると、国内の有力神社を合祀して巡拝を省略することが一般に行われるようになり、常陸国にも「總社神社(常陸国総社宮)」(2018年1月13日記事)が創建された。従って、「青屋」が造られたのは律令制となってから比較的早い時期の可能性があり、社殿が建立されたのは平安時代末期頃かもしれない。なお、「常陸国風土記」にも「高浜」に関する記事があり、四六駢儷体という美文で景勝地であることを強調しているが、当神社のことは言及されていない。現在の祭神は武甕槌尊(「鹿島神宮」と同じ。)。
因みに、当神社の鍵を預かる「カギ元」は代々山口太郎左衛門氏が務めてきたとされ、そこから当神社を別名「太郎明神」とも称したという。そのため、地元の人々は子供が生まれても「太郎」という名前は遠慮して付けなかったという。


石岡市のHPから(高浜神社)


写真1:「高浜神社」境内入口


写真2:拝殿。立派な萱葺。当然、「青屋」を意識してのことだろう。


写真3:境内の池。中に石祠がある(祭神不明)。


写真4:本殿


写真5:社殿を背後から見る。社殿後ろ側にも立派な鳥居がある(コンビニ側につながっているせいか、中学生?数人が屯していたので写真撮影は遠慮した。)。
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新治神社(茨城県かすみがうら市)(常陸国式内社・その13の6)

2019-01-12 23:54:59 | 神社
新治神社(にいはりじんじゃ)。
場所:茨城県かすみがうら市新治584。「胎安神社」(前項)入口前から南西へ約700mのところの交差点を左折(南東へ)、約500mで右折(「JA土浦農産物集荷所」倉庫の先)、道なりに約250m。駐車場なし。
創建時期は不明。境内の石碑の由緒によれば、「常陸国風土記」記載の「日本武尊が巡狩の折、国造毘奈良珠命に新たに井を掘らせたところ流泉浄澄、尊大いに喜ばれ、手を洗い給い御衣の袖を潰されたところ」(原文ママ。「潰」は「漬」であろう。)という。元亀年間(1570~1573年)、三村城主・三村七郎平常春が当神社を崇敬し、上田1石を寄進して永代祭祀の料としたとされる。なお、当神社の北、約300m(直線距離)のところに「新治の井」とされるものがあり、当神社の「御手洗」として例祭のとき氏子の禊場としていたという。現在の祭神は毘奈良珠命(ヒナラス)で、豊城入彦命(トヨキイリヒコ)を配祀する。
さて、上記の「常陸国風土記」の記述は総記の中にあるものだが、同様の内容は新治郡についての記述中にもある。これが問題で、古代の「新治郡」は現在の茨城県西部で、下野国(現・栃木県)と下総国(現・千葉県北部)と接していた。つまり、現在の茨城県筑西市、桜川市、笠間市辺りである(「常陸国風土記」の「新治の井」は現・筑西市門井にあったとするのが通説らしい。)。したがって、当地の「新治の井」とは全く無関係ということになる。何故こんなことになったかというと、律令制の崩壊により、郡の細分化が進み郡境が錯綜してしまった後、天下統一した豊臣秀吉が検地(「太閤検地」)を行って、郡を再編した。その際に、古代の郡名を復活をさせたのだが、古代の郡とは全く別の場所に古代の郡名を付けてしまったということになる。特に複雑なのが、「新治」という地名で、「新たに(田を)治(ひら)く」、開墾する、という意味を持つため、多くの場所に名付けられた。常陸国についていえば、上記の通り、古代の「新治郡」は現・茨城県西部だったが、太閤検地以降近世~近代までの「新治郡」は古代の「茨城郡」・「筑波郡」・「信太郡」の一部を合わせたもので、現在の石岡市、かすみがうら市、土浦市(大部分)、つくば市(一部)、小美玉市(一部)に当たる。さらに複雑なのは、近代以降でも「新治村」が2つあったことである。明治22年に東野寺村などが合併してできた「新治村」(後に「千代田村」を経て現・かすみがうら市)、昭和30年に藤沢村などが合併してできた「新治村」(後に現・土浦市に編入)がある。当神社は前者の「新治村」で、大字としても「新治」があった。これは、当神社の北側を流れる「天の川」がかつては「荒張河(あらはりがわ)」と称した、ということの遺称地であるという。ということで、式内社「夷針神社」の「夷針」を「アラハリ」と読み、同義の「新治」という地名の場所にある古社として、「子安神社」(前々項)、「胎安神社」(前項)、当神社が式内社「夷針神社」の後身ではないか、ということになったのだと思う。説としてわからなくはないのだが、じゃあ、3つのうちのどれなの、という感じで、説得力はイマイチな気はする。


写真1:「新治神社」境内入口。近世には「二荒神社」と称していたという。


写真2:社殿。


写真3:本殿は覆屋に囲われている。


写真4:「新治の井」。この先(北側)に「恋瀬川」が流れている。(場所:当神社へ向かう途中に「農業集落排水事業新治地区処理場」という施設があるが、その北側の田圃の中。大きな木の下にある。)


写真5:同上。石碑がある。今、泉は見えないが、湧き水はあって、暗渠化されているらしい。
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胎安神社(常陸国式内社・その13の5)

2019-01-05 23:44:06 | 神社
胎安神社(たやすじんじゃ)。
場所:茨城県かすみがうら市西野寺434。「子安神社」(前項)入口手前の交差点から南へ約600mのところ(右側:西側)に木製の鳥居があり(道路の反対側に案内看板がある。)、ここを入る。駐車場有り。
社伝によれば、天平宝字6年(763年)、下総国一宮「香取神宮」の祭神・経津主命(フツヌシ)を祀ったのが創祀で、このとき相殿に山城国式内社(名神大)「梅宮大社」(現・京都市右京区)の分霊として木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメ)を祀ったという。天喜2年(1054年)、鎮守府将軍陸奥守・源頼義、義家(八幡太郎)父子が奥州征討のときに隣村の下雫村(現・茨城県かすみがうら市下志筑)に在陣中、当神社の霊験著しいことを聞き、義家の妻の安産祈願をし、嫡男を無事出産したため、康平6年(1064年)の帰路に報賽し、源氏の紋章である「笹竜胆」紋の使用を許されたという。現在の祭神は、木花開耶姫命、経津主命、彦火瓊々杵命、彦火火出見命。
常陸国式内社「羽梨山神社」または「夷針神社」の論社とされるが、個人的にはあまり納得できていないものの、それほどの由緒ある古社で、近世から現在までも賑わいを見せている神社であるということなのだろう。
蛇足になるかもしれないが、神紋の「笹竜胆」紋について。「笹竜胆」は源氏の家紋として有名だが、使っていたのは公家の源氏(宇多源氏の綾小路家など)が中心で、武家の源氏が使い始めたのは室町時代中期からと言われている。したがって、源頼朝、源義経、木曽義仲なども「笹竜胆」紋を使ってはおらず、講談などでイメージ付けられたものらしい。なので、源頼義父子が当神社などを参拝したとしても、「笹竜胆」紋の使用を許したということはないと考えられる。なお、「笹竜胆」は、「笹」と「竜胆」の合成ではなく、竜胆(リンドウ)の葉が笹の葉に似ていることによる。


胎安神社のHP


写真1:「胎安神社」入口の鳥居


写真2:社号標


写真3:神門


写真4:拝殿。社殿は南向き


写真5:本殿


写真6:本殿横の「子持ち松」。推定樹齢約500年の御神木であったが、明治時代に枯れてしまった。石を抱き込んでおり(「子持ち松」という名の由来)、胎内安全の御利益があるとして今も信仰の対象になっているという。
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