神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

結城廃寺跡 附結城八幡瓦窯跡

2012-08-25 23:15:42 | 史跡・文化財
結城廃寺跡 附結城八幡瓦窯跡(ゆうきはいじ つけたりゆうきはちまんかわらがまあと)。
場所:茨城県結城市上山川。県道20号線(結城坂東線)「矢畑」交差点の1つ南の交差点を東に入り、約400m。「結城市上山川就業改善センター」(住所:結城市大字上山川乙38)への道路の角に、写真1の案内表示があり、同センターの前に写真2の説明板がある。駐車場は、同センター駐車場を利用。
JR水戸線「結城駅」の南約4.5km、また「備中塚古墳」(前項:2012年8月18日記事)の南西約1kmのところに、「結城廃寺跡」という古代寺院の遺跡がある。8世紀前半頃に建立され、10世紀頃に一度火災で焼失したが、鎌倉時代に再建されて室町時代中頃まで存続した寺院の跡だとされている。発掘調査によれば、寺域は東西約180m、南北250mという広大な敷地に、南向きで、回廊のある中門を入ると、塔(東側)と金堂(西側)が並び立ち、奥に講堂、僧坊が建てられていた(いわゆる「法起寺式伽藍配置」)と推定されている。
出土品では、塔心礎舎利孔の石蓋や「せん仏」(粘土で型押しした小さな仏像)など珍しいものも見つかっているが、「法城寺」と刻まれた瓦が見つかったことも重要である。これは、「将門記」(成立:鎌倉時代?)に出てくる「結城郡法城寺」が実在したことを証明するものとなった。それまでは、「法城寺」は「結城寺」の誤記ではないかとも言われていたものである。
また、「結城廃寺跡」の北東約500mのところに、瓦を焼いた登り窯の跡も発見されている(「結城八幡瓦窯跡」)。この辺りは昔から「瓦塚」という地名で呼ばれていたという。因みに、「結城廃寺跡」の北約16kmのところに、「下野薬師寺跡」(現・栃木県下野市薬師寺)がある。「下野薬師寺」は天武天皇の時代(7世紀末)に創建されたとされており、奈良の國分金光明寺(東大寺)・福岡の筑紫観世音寺とともに天下三戒壇といわれ、東国で正式に僧侶となるには「下野薬師寺」で授戒を受けなければならなかったという大寺であった(道鏡が左遷されて任命されたのが、この寺院の造寺別当でもある。)。また、「結城廃寺跡」の北西約18kmのところに、「新治廃寺跡」(現・茨城県筑西市古郡)がある。これらの古代寺院で使われた瓦は同系統のものといわれており、「結城廃寺」と「新治廃寺」は「下野薬師寺」の影響下で創建されたのではないかとされている。

ところで、結城市に「結城寺」という寺院が現存する。新義真言宗「清浄蓮華山 結城寺」の寺伝によれば、当寺は、正式には「清浄蓮華山 密厳華蔵院 大金剛宝寺(しょうじょうれんげさん みつごんけぞういん だいこんごうほうじ」と号する。白鳳9年(680年?)、鬼怒川の水害に悩んだ当地の有力者が、下野国「薬師寺」を創建した祚蓮(それん)律師を招いて開山したものとされる。祚蓮律師が、鬼怒川岸に壇を設けて薬師如来を安置し、悪竜に戒を授けて水害を鎮め、一寺を開いて「大金剛宝寺」と称したのが始まりという。しかし、結城合戦の兵火にかかり、嘉吉元年(1441年)に焼失、後に結城氏の一族である山川綾戸城主・山川氏重らによって、永禄8年(1565年)頃に上山川(結城廃寺跡)から現在地に移転、再建されたと伝えられている。


結城市のHPから(結城廃寺跡附結城八幡瓦窯跡)


写真1:この表示がある辺りが「結城廃寺跡」の寺域の北限のようだ。右手の道路を進む(南へ)と「結城市上山川就業改善センター」がある。同センター敷地も寺域の一部だったようだ。


写真2:「結城廃寺跡」の説明板。畑が広がるばかりで、寺を偲ばせるものは何もない。


写真3:「結城八幡瓦窯跡」の説明板。こちらも、今は何もない。


写真4:樹木が生い茂っているところが窯跡(南西の道路から)。写真3の説明板は、右手に見える民家の前の農道を右手に進んで回り込んだところにある。


写真5:現在の「結城寺」。「結城廃寺跡」の南、約3.5km(場所:結城市山川新宿101。駐車場有り)。


写真6:同上、本堂
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備中塚古墳

2012-08-18 23:54:04 | 古墳
備中塚古墳(びっちゅうつかこふん)。
場所:茨城県結城市上山川字備中。「才光寺工業団地」の最も北にある「大島ミガキ株式会社本社工場」の西側、道路沿いにある。駐車場なし。
JR水戸線「結城」駅の東南約4km、鬼怒川右岸(西岸)の台地上に10基以上の古墳が確認されており、「林・備中塚古墳群」と呼ばれている。そのうちで最大のものが「備中塚古墳」で、直径約67m、高さ約8.5mの円墳。周溝を含めると、直径115mという規模となり、結城市内では最大、茨城県内でも五指に入るとされる。未発掘であるが、墳丘表面には葺石として川原石が置かれ、円筒埴輪が配されていたという。また、この古墳の西側に直径約25mの円墳「小備中塚古墳」があり、2つの古墳は一対のものとして造られたらしい。築造時期は、5世紀末から6世紀戦半頃と推定されている。古墳の被葬者は、鬼怒川の水運を押さえて勢力を伸ばした、この地区の豪族の首長であったのだろうと考えられている。


「結城百選探訪」pdf(備中塚古墳)


写真1:「備中塚古墳」。南東側から。結城市指定文化財。樹木が生い茂り、保存状態はあまり良くない。


写真2:同じく、北西側から。こちらから見ると、丸く見える。


写真3:「瓢箪塚古墳」。写真2は、この古墳の付近から撮影。「二十一世紀の杜」という公園になっており、駐車場・トイレもある。全長48mの前方後円墳とされているが、細長い高まりのようにしか見えない。こちらは、かつて横穴式石室が開口していたようで、瑪瑙の玉などが出土したらしい。
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見龍山 覚心院 乗国寺

2012-08-11 23:46:46 | 寺院
見龍山 覚心院 乗国寺(けんりゅうさん かくしんいん じょうこくじ)。
場所:茨城県結城市結城3073。JR水戸線「東結城」駅の北、約300m。駐車場有り。
現在は曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来。寺伝によれば、「結城城」(現・結城城跡歴史公園)の東、田川と鬼怒川の間に「福厳寺」という寺があり、「結城城」の東の出入口は「福厳寺口」と呼ばれていたという。「結城城」の築城時期は不明で、下総国結城郡の地頭となった結城朝光(下総結城家初代)が治承年間(1177~1180年)に築いたともいわれるが、「福厳寺」の創建時期は伝わっていない。その後、結城合戦(永享12年:1440年)により敗死した第12代結城持朝の菩提を弔うため伽藍が整備され、宝徳元年(1449年)に松庵宗榮(しょうあんしゅうえい)禅師を開山として、「三国山 福厳寺(さんごくさん ふくごんじ)」と号することとなった。「三国」というのは、下総・常陸・下野の3つの国の境界にあったからだとされる。文明11年(1479年)には、大洪水の被害を受けて伽藍が流失してしまったことから、現在地に移転したという。江戸時代に入っても、徳川家康の次男・秀康が結城家の養子となった縁により、徳川幕府からも篤く遇されたらしい。そして、宝暦14年(1764年)に、当寺の境内に、衰退していた式内社「健田神社」を再建したとされる。
式内社「健田神社」は、旧社地が現在も保存されていること(前項:2012年8月4日記事)から、それなりに維持はなされていたようだが、他の多くの式内社のように、中世には、律令制の崩壊により(国家が祭祀を行う)官社であるが故に却って衰退してしまったようだ。それが、江戸時代中期になると国学が盛んになり、由緒ある式内社の再建が進められるようになり、多分その流れの中で、当寺が別当として境内の鎮守として式内社「健田神社」を再建したものであろう。
明治維新により、式内社「健田神社」は当寺から分離され、結城地区の総社格であった「須賀神社」(結城市浦町)と統合されることになったことは、既に書いた。


乗国寺資料集


写真1:「乗国寺」境内入口


写真2:総門。延宝7年(1679年)建立の四脚門で、結城市指定文化財。


写真3:山門(楼門)。正徳3年(1713年)建立で、これも結城市指定文化財。


写真4:本堂
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健田神社旧址

2012-08-04 23:31:39 | 史跡・文化財
健田神社旧址(たけだじんじゃきゅうし)。
場所:茨城県結城市結城。国道50号線「小森北」交差点の西、約500m。交差点を北に入って直ぐ。駐車場なし。
下総国式内社「健田神社」(前項:2012年7月28日記事)の旧鎮座地とされる場所。当神社の創建は、古代から、当地の東に見える霊峰・筑波山の日の出を拝していたことによるものとされている。なお、地図で見ると、真東には筑波連山の加波山(標高709m)がある(筑波山は東南方向)。
現地に行ってみると、田圃の中に、小さく方形に区画されたところにある。田圃よりは一段高くなっているが、道路とはほぼ等高で、「健田神社旧址」の石碑が建てられている。宝暦14年(1764年)に式内社「健田神社」が「乗国寺」(結城市小塙)境内に遷座する際、この地に楓(カエデ)の木を植え、石碑を設置したと伝えられている。その楓の木は昭和50年に結城市の天然記念物に指定されたが、平成7年に落雷を受けて枯死し、指定解除となったという。


写真1:田圃の中のこの看板が目印。


写真2:「延喜式内 健田神社舊址」の石碑が建てられている。結城市指定文化財。


写真3:何故か三角点も。三角点は高山の山頂等にあることが多いが、平野の中では目印になる場所だったのだろうか。

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