神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

丸山古墳(茨城県石岡市)

2018-10-27 23:16:55 | 古墳
丸山古墳(まるやまこふん)。丸山古墳群第1号墳。
場所:茨城県石岡市柿岡字丸山4123ほか。「佐志能神社(茨城県石岡市柿岡)」(前項)に隣接。駐車場有り。
「丸山古墳」は、恋瀬川に南面する高友丘陵と呼ばれる丘に築かれた前方後方墳で、全長約55m。前方後方墳は茨城県内では珍しく、昭和27年に行われた発掘調査において銅鏡、鉄剣、銅鏃などの武器類や玉類など豊富な副葬品のほか、遺骸の頭部とされる場所に水銀朱が撒かれていたことから、ヤマト王権に関連する貴人の墳墓とみられるという。墳形や副葬品などから、築造時期は4世紀末~5世紀初頭と推定されている(県内最古級)。
もちろん被葬者は不明であるが、第10代崇神天皇の第一皇子「豊城入彦命」の墳墓であるとの伝承がある。崇神天皇自体の実在性にも問題はあるようだが、一応、3~4世紀に実在した大王で、実質的に初代天皇とする説が有力らしい。「豊城入彦命」は、崇神天皇の命を受けて東国の平定に当たったとされるが、実際には東国には来ておらず、東国平定を行ったのはその後継者だろうという。それでも、東国平定の象徴的な人物となっていて、上野国二宮「赤城神社」、下野国一宮「宇都宮二荒山神社」などの祭神になっている。以上のことからすれば、被葬者は「豊城入彦命」ではないとしても、当地を平定するためにヤマトから派遣された将軍の墳墓である可能性は高いということなのだろう。


石岡市のHPから(丸山古墳)


写真1:県道脇に立つ「丸山古墳」石碑。この左手の狭い道路を入って「丸山古墳」と「(柿岡)佐志能神社」に向かう。


写真2:「丸山古墳」。フェンスに囲まれているが、中に入れる。


写真3:前方部。高さ約7m。


写真4:同上。


写真5:前方部から後方部を見る。


写真6:後方部にある五輪塔


写真7:万葉歌碑「庭に立つ 麻手刈り干し 布曝す 東女を 忘れたまふな」(巻4-521)


写真8:「二子塚古墳」(丸山古墳群4号墳)。「丸山古墳」の東側にある前方後円墳で、全長約35m。


写真9:同上。横穴式石室があり、開口している。明治時代に乱掘され、その後修復されたものという。
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佐志能神社(茨城県石岡市柿岡)

2018-10-20 23:21:58 | 神社
佐志能神社(さしのじんじゃ)。同名の神社と区別して、通称:柿岡佐志能神社。
場所:茨城県石岡市柿岡4120。「石岡市役所八郷総合支所」付近から茨城県道42号線(笠間つくば線)を北東へ、約850mのところ(「丸山古墳」の案内板がある。)で左折(北西へ)、約400m。駐車場は、隣接する「丸山古墳」入口付近の駐車場を利用。なお、県道から入る道路は狭いので注意。
当神社の創建時期は不明。一説に、崇峻天皇元年(587年)、神告によって創建されたという。近世には「白鳥明神」、「高友明神」(「高友」は当地の地名)とも呼ばれていたというが、西側に隣接する「丸山古墳」(墳長約55mの前方後方墳)が第10代崇神天皇の第一皇子「豊城入彦命」の墳墓であると伝承され、当神社はその慰霊のために創建されたともいう。ということで、現在の祭神は「豊城入彦命」で、その所縁から常陸国式内社「佐志能神社」の論社の1つとなっている。ただし、当地も古代には「茨城郡」内であり、「延喜式神名帳」の「新治郡」鎮座というのに合わないため、論社として有力ではない。なお、「丸山古墳」については次項で。


写真1:「佐志能神社」一の鳥居。右に小さな社号標がある。


写真2:参道の石段の途中にある二の鳥居


写真3:境内入口。大きな石碑は「聖徳太子尊」


写真4:社殿
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薬師堂古墳(茨城県石岡市)

2018-10-13 23:45:58 | 古墳
薬師堂古墳(やくしどうこふん)。染谷古墳群第27号墳。
場所:茨城県石岡市染谷934付近。「常陸風土記の丘」入口前から南へ、約550mのところで左折(側道のような道路を南東~南へ)、約200m(三叉路の角)。駐車場なし。
「薬師堂古墳」は、「常陸国風土記の丘」から南方の台地に広がる「染谷古墳群」の南端にある円墳(第27号墳)で、径約40m・高さ約4m。「染谷古墳群」は「龍神山」麓に広がる古墳群で、現在までに32基が確認されていて、29基は径10~30mの円墳であるが、方墳も3基あることが確認された。方墳の被葬者は、「龍神山」付近で採取することができる雲母片岩という石材を箱形に組み合わせて作った石棺式石室に葬られたと考えられている。このような方墳は、前方後円墳が造られなくなった古墳時代の終わり頃に多く築造されていることから、7世紀頃のものと推定されている。「常陸国風土記の丘」駐車場の奥にある「御食事処 曲屋」裏の狭い道路沿いに説明板があるが、藪が酷くて入っていく気になれない。その意味で、「薬師堂古墳」は観察しやすい古墳である。
「染谷古墳群」は古墳時代末期の築造で、大きな古墳はないが数が多く、「龍神山」の南方に集中して造られたということは、「龍神山」を信仰する人々が多く住んでいたのだろうと思われる。


写真1:「薬師堂古墳」。三叉路の角から石段が伸びている。


写真2:墳頂部はかなり広く、平坦。


写真3:薬師堂があるから「薬師堂古墳」…ということだったが、訪問時には堂宇は無かった。「薬師一二神」と刻された石塔のほか、多くの石仏などがあり、「薬師堂の」の名残を感じさせる。


写真4:「風土記の丘」の「御食事処 曲屋」の背後にある「染谷古墳群」の説明板。
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佐志能神社(茨城県石岡市村上)(常陸国式外社・その5の2)

2018-10-06 23:34:06 | 神社
佐志能神社(さしのじんじゃ)。同名の神社と区別して通称:村上佐志能神社。
場所:茨城県石岡市村上494。茨城県道7号線(石岡筑西線)「大砂」交差点から南~南西に進み、「竜神山入口」交差点から北西方面に向かう。この辺り、道がわかりにくいが、「竜神山入口」交差点から西に入ったら突き当りを右折(北へ)、直ぐ二岐の道になるので、左側の道路を進む。また二岐の道路があるので、これも左側の狭い道路に入る。「村上農村集落センター」という施設があるので、これが目印。そこから更に先へ進んで、突き当りを左(南西へ)、次の角を右折(北西へ)、直ぐ。駐車場なし。
当神社の創建時期は不明。常陸国式内社「佐志能神社」の論社とされるが、鎮座地は古代には「茨城郡」内であったため、「延喜式神名帳」の「新治郡」というのに合わず、現・茨城県笠間市の「佐志能神社」(2018年9月15日記事)に比定するのが通説。一方、「日本三代実録」仁和元年(885年)に「村上神」が「従五位上」の神階を授与された記事があって、その式外社「村上神」であるとする説が有力。ただし、その「村上神」は「染谷佐志能神社」(前項)のことであるとされていて、それは同神社が元は「村上村」にあったのだが「染谷村」を分村した際に「染谷村」内に入ったからだとし、当神社は、神社が無くなった「村上村」で新たに創建されたという。もっとも、これは「染谷佐志能神社」の方の伝承によるものであるらしく、同神社を当神社の分社とする説もある。
現在の祭神は「豊城入彦命」と「村上大神」で、「日本武尊」と「闇龗神(クラオカミ)」を配祀するとされるが、資料によっては「日本武尊」と「闇龗神」を主祭神とするものがある。そして、「染谷佐志能神社」を雌龍(「高龗神」)、当神社を雄龍(「闇龗神」)として一対の存在とする(ただし、一般的には「高龗神」=陽龍=男神、「闇龗神」=陰龍=女神、とするらしいので、逆になっている。)。当神社の方には現在も「御手洗池」として泉が湧いており、近世には「雨乞いの霊水」として信仰されていたということである。


石岡市のHPから(村上佐志能神社)


写真1:「佐志能神社」境内


写真2:社殿


写真3:今も泉が湧いている。


写真4:「御神水」と刻された石碑


写真5:境内の巨石。小祠がある。


写真6:社殿の左の鳥居


写真7:同上の鳥居を潜り、急な山道を5分程登ったところにある巨石(磐座?)


写真8:「竜神山」。「村上農村集落センター」前から撮ったもの。岩肌が剥き出しになっているところは、なかなか迫力がある。

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