神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

體見神社(常陸国式外社・その12)

2021-04-24 23:46:35 | 神社
體見神社(すがたみじんじゃ)。「體」の字が常用漢字でも人名漢字でもないため、新字体とされる「体」を使って体見神社と表記されることもあるが、「すがたみ」と読むのは中々難しいだろう。
場所:茨城県つくば市上境328。茨城県道128号線(土浦大曽根線)と同201号線(藤沢荒川沖線)の交差点から、201号線を東に約450m進んだところで左折(北西へ)、約220m進んだ左側(西側)。駐車スペース有り。
創建時期は不明。社伝によれば、天津日子根命(アマツヒコネ)の14世孫・建許呂命(タケコロ)が常陸国造に任ぜられて世襲し、その子孫である菅田氏が当地(菅田郷)を治めたことから、その祖先を祀ったのが創祀という。現在の祭神は、天津日子根命、天久斯麻比土都命、建許呂命。天久斯麻比土都命(アメノクシマヒトツ)は、別名・天目一箇神(アメノマヒトツ)ともいい、天津日子根命の子で、鍛治の神である。当神社には、木造の男神像3体が伝えられており、そのうち建許呂命とされる像は室町時代頃の作で、茨城県指定文化財に指定されている。「日本三代実録」の仁和3年(887年)条に「正六位上の菅田神に従五位下を授ける」という記事があるが、当神社がその「菅田神」に比定されていて、所謂「式外社」(国史見在社)ということになっている。にしては、社号が違い過ぎるが、これは、「菅田(スガタ)」→「姿見(スガタミ)」→「體見(スガタミ)」と変化したものと伝えられている。
なお、境内に「上境滝の台古墳群」があるほか、当神社の南、約1.3km(直線距離)に常陸国河内郡家跡とされる「金田官衙遺跡」(前項)があり、後に郡司となるような古代豪族と関連があったのかもしれない。


茨城県教育委員会のHPから(木造 御神像)


写真1:「體見神社」社号標。隣の木柱は、当神社が所蔵する木造神像が茨城県指定文化財であることを示すもの。


写真2:御手洗池


写真3:鳥居。藁で作った酒樽が掲げられている。


写真4:拝殿。神額は「正一位體見大明神」となっている。


写真5:本殿。拝殿は比較的簡素だが、本殿は重厚な造り。


写真6:境内の石碑。梵字のようなものが刻されているようだが、詳細不明。


写真7:社殿南側の「上境滝の台古墳群」。元は7~8基の古墳があったとされるが、現在は3基が確認されているのみ。直径10m、高さ1~2mの円墳で、円筒埴輪・人物埴輪・動物埴輪(猪・鹿)・須恵器などが出土したとのこと。
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金田官衙遺跡

2021-04-17 23:22:15 | 史跡・文化財
金田官衙遺跡(こんだかんがいせき)。
場所:茨城県つくば市金田1473-1ほか。「つくば市立桜中学校」敷地が「金田西坪B遺跡」、その北西側に「金田西遺跡」、更にその西側に「九重東岡廃寺跡」がある。駐車場なし。
「金田官衙遺跡」は、筑波山の南方約15kmの位置にある奈良・平安時代(8世紀前葉~9世紀中葉)に営まれた古代官衙遺跡で、常陸国河内郡の郡家(郡衙)関連遺跡と見られている。「常陸国風土記」には河内郡の条が欠落しているが、他郡の記述から存在が確認されていた。かつて「河内郡家」は現・茨城県牛久市付近が有力とされていたが、昭和34年の「桜中学校」の校庭拡張工事中に総柱の掘立柱建物跡、大量の炭化米が発見されたことから、当地に古代官衙遺跡が存在することが認められた。昭和59年には、その北西に「九重東岡廃寺跡」と称される仏教遺跡が筑波大学によって発掘調査され、建物基壇、瓦溜まり、井戸等が検出された。平成11年度以降、都市整備公団による土地区画事業に先行する確認調査が行われ、大規模な古代官衙遺跡が存在することを確認したことから、茨城県及びつくば市は遺跡を現状保存することとし、平成14年度につくば市教育委員会の調査で遺跡の範囲をほぼ確定した、とされる。なお、つくば市には、当遺跡の北、約9kmのところに「平沢官衙遺跡」(2020年12月12日記事)があり、これが常陸国筑波郡の郡家(郡衙)跡とされているので、同市内に2つの郡家跡があることになる。
当遺跡は、筑波山麓付近から霞ヶ浦に向けて広がる桜川流域の沖積低地を東側に望む標高25~27mの台地上に位置し、次の3つの遺跡に細分されている。
①「金田西坪B遺跡」:幅約3m、深さ約1.3mの溝で区画された東西約110m、南北約310mの範囲に、礎石建物跡や総柱の掘立柱建物跡が確認された。炭化米が出土したという記録があり、郡家付属の「正倉院」(税として納められた米穀や調布等を収納する倉庫群)跡とみなされている。
②「金田西遺跡」:4群に分かれて品字状やL字状に配置された約100棟の掘立柱建物跡や礎石建物跡、井戸跡、柵列等が確認されており、郡家の郡庁(郡司の政務を行う施設群)遺跡跡とされている。
③「九重東岡廃寺跡」:基壇建物跡や四面庇の特殊な建物跡が確認され、多数の瓦が出土されたことから、いわゆる郡家付属寺院跡とみられている。
以上のように、正倉院、官衙地区、仏教関係遺跡が一括して把握できるという点で貴重な遺跡とされ、平成16年に国指定史跡に指定された。
ということなのだが、整備が始まったばかりで、今は何もなく、映えないこと夥しい。ただし、ここにも「長者伝説」があると知って、採り上げてみた。当地の「長者伝説」は凡そ、次のような話である。「桜中学校」敷地は「長者屋敷」と呼ばれていたところで、グラウンドの南端に「長者塚」という地名(字名)があった。ここからは大量の焼け米(炭化米)が出土した。ここに住んでいた金田の長者は、平将門が常陸国に進攻してきた際、将門軍が雷雨に遭って難儀しているのをみて、何万人もの軍勢全てに蓑笠を提供した。将門は感謝したが、長者の富と力に脅威を感じ、長者を焼き討ちして滅ぼしてしまった、という。同様な伝説は茨城県各地にある(例えば、現・水戸市の「一盛長者」など。「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事)参照。)が、他では源義家に滅ぼされたことになっていて、ここでは将門の話になっているところが面白い。


文化遺跡オンラインのHPから(金田官衙遺跡)


写真1:「桜中学校」。その敷地が「正倉院跡」とみられている。本来はグラウンドを撮りたかったが、道路沿いに校舎が建っていて、中に入ると不審者と思われそうなので、写真はこれだけ。炭化米等が出土したのは、グラウンドの南側になる。


写真2:「桜中学校」北西端の向かい側の道路の先が大型建物群の跡で、特にその西側が「河内郡衙(郡庁)」の跡と考えられている。因みに、写真奥の大きな建物はZOZOの物流倉庫。


写真3:「河内郡衙(郡庁)」跡と思われる場所。上記道路から西側を見る。実は、当地には数回来ているのだが、以前にはこの辺りに住宅が何軒かあったはずで、今後の整備のために買収したのだろう。こちらも「平沢官衙遺跡」のようになるのだろうか。


写真4:茨城県道201号線(藤沢荒川沖線)の新道側から東を見る(写真3の反対側)。


写真5:「九重東岡廃寺跡」と思われる場所。茨城県道201号線の旧道側から北東を見る。


画像:遺跡図面。写真では、あまりにも何が何だか分からないので、図面を掲載。
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春日神社(茨城県つくば市上郷)

2021-04-10 23:33:15 | 神社
春日神社(かすがじんじゃ)。通称:上郷春日神社。
場所:茨城県つくば市上郷833。茨城県道24号線(土浦境線)と同133号線(赤浜谷田部線)の交差点(「つくば市中央消防署 豊里分署」付近)から、24号線を西へ約450mのところで左折(南へ)して狭い道路に入る。道なりに約220m進むと右手(北側)に「春日神社」という社号標がある。駐車場なし。前面道路が狭く、路上駐車もできないので注意。
社伝によれば、創建は承平元年(931年)。平高望の五子・平良文が東国鎮守府将軍に任ぜられて下向の折り、随従してきた藤原春信が「豊田城」の東北にあたる台豊田上郷に、鬼門除けとして大和国式内社(名神大)「春日大社」(現・奈良県奈良市)の分霊を勧請したのが創祀とされる。以来、春信の子孫が代々社司となり、のち岡田氏に改称して現在に至るという。なお、「豊田城」は現・茨城県常総市本豊田の小貝川右岸に、正平年間(1346~1370年)に桓武平氏の一族である豊田善基が築いたとされている(小貝川の堤防に「豊田城址」の石碑がある。)。よって、場所としては、確かに小貝川を隔てた北東に位置するが、創建時期は中世以降と思われる。現在の祭神は、春日大神。
なお、境内に「福寿増長祈願碑」という高さ138cm、幅75cm、厚さ15cmの板碑がある(つくば市指定文化財)。筑波地方産出の雲母片岩製で、古墳の石棺材だった可能性があるという。上部に「日天」と「月天」、中央に七言の詩偈(しげ)が刻まれ、左端に慶長12年(1607年)の銘が刻されている。この板碑には「雨乞石」または「竜神石」という通称があるが、それは、次のような伝承による。上郷地区は「金村別雷神社」(前項。通称:雷神様)と当神社の氏子に分かれていたが、雨乞いでは雷神様の方が御利益があった。そこで、当神社の氏子の中にも、こっそり雷神様に雨乞い祈願を行う者も出てきた。「いっそのこと、当神社は雷神様の末社になった方がよかろう。」との話が出る始末で、まずは、神様自身の意向を確認しようということになった。山伏に頼んで7日間の行をしてもらったところ、「春日大神は、雷神の家来になるのは不服だ。雨乞いのときは、日天月天の大石を小貝川に投げ込め。そうすれば、雨は降る。」とのお告げがあった。以来、雨乞い祈願のため、この板碑を担いで小貝川に入る儀式が行われ、明治初期まで続いていたという(読売新聞社水戸支局編著「いばらき 民話のふるさと」による。)。


写真1:「春日神社」鳥居


写真2:由来碑


写真3:社殿(覆屋)


写真4:中に本殿


写真5:東側から社殿を見る。無粋な太陽光パネルの向こうに見える赤い社殿が印象的。社殿は宝暦6年(1756年)に大修復をしたが、老朽化のため平成11年に建替えられたものという。


写真6:社殿背後の板碑「福寿増長祈願碑」。通称:「雨乞石」、「竜神石」。
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金村別雷神社

2021-04-03 23:48:26 | 神社
金村別雷神社(かなむらべつらいじんじゃ)。通称:金村別雷神社(かなむらわけいかづちじんじゃ)、金村様、雷神様など。茨城県神社庁のHPでは、単に「別雷神社」となっている。
場所:茨城県つくば市上郷8319-1。茨城県道123号線(土浦坂東線)と同129号線(下妻常総線)の交差点から、129号線を北へ約1kmのところ(案内看板が出ている。)で右折(北東へ)、直ぐに小貝川の堤防に突き当たり、右折(南東へ)、堤防上に上がったら川の方へ下りて、道なりにターンして川の上流に橋(「福雷橋」)が見えるので、その橋を渡ったら直ぐ左折(北へ)、社殿前までは約200m。なお、堤防上の道路に最大重量2.0t、最大幅2.0mの規制標識があるので注意。駐車場有り。
社伝によれば、当地の領主であった豊田氏が霊夢に感じて、承平元年(931年)に山城国一宮「賀茂別雷神社」(通称「上賀茂神社」。現・京都市北区)の分霊を勧請して創建したという。ただし、豊田氏の祖である平政幹(平貞盛の曾孫である多気重幹の三子)が豊田将基と名乗るのは「前九年の役」(1051~1062年) の戦功で豊田郡を賜ってからであり、承平元年頃に豊田郡を支配していたのは平将門と思われる。豊田将基は「石毛荒四郎」とも称したらしく、現・茨城県常総市辺りの開発領主であったと考えられており、当神社の神宝として豊田将基の「つむぎ龍紋」の旗が残されているとのことで、創建時期はともかく、豊田氏との結び付きが強かったとみられる。豊田氏は天正3年(1575年)頃に下妻城主・多賀谷氏によって滅亡させられるが、その後も当神社は農業守護の神として信仰を集めたようである。なお、当神社は、現・茨城県水戸市の「別雷皇太神」と現・群馬県邑楽郡板倉町の「雷電神社」とともに「関東三雷神」とされる。現在の祭神は別雷大神で、御利益は家内安全、商売繁盛、交通安全、雷除け、厄除けなど。最近では、雷が「落ちない」ということで、合格祈願も多いとのこと。
因みに、次のような昔話がある。明治の初め頃、旧・千代川村(現・茨城県下妻市)の字「茂鹿」というところに飯岡家という農家があり、その主人は冗談好きな人物だった。茂鹿では毎年のように洪水の被害があるため、「金村別雷神社」にお参りして水難除けの祈願をした。そのとき、ついつい冗談で「雷神様、たまにはうちの方にも遊びに来てください。熱いお茶の一杯でも差し上げますよ。」と願った。主人はすっかり忘れていたが、ある暑い夏の日、昼頃から急に空模様が怪しくなり、飯岡家の周りが黒雲に囲まれ、大音響とともに幾条もの稲妻が落ちた。主人は土間で頭を抱えてしゃがみ込んでいたが、我に返ると、茶釜の蓋が無い。これは、雷神様が冗談を信じて、熱いお茶を飲みに来たと思い、自らの軽はずみを悔いた。後日、無くなった茶釜の蓋が旧・大穂町(現・つくば市)の麦畑で見つかり、その場所に祠を建てて、「茶釜雷神」として祀るようになった。また、当地では、雷が鳴ると、茶釜で茶を沸かして雷神様に供えるようになった、という(佐藤俊介著「大穂町の昔ばなし」ほかによる。)。なお、この「茶釜雷神」社は、現・下妻市大園木の「愛宕神社」横にある「水神宮」であろうとのこと。


写真1:「金村別雷神社」一の鳥居と社号標


写真2:二の鳥居(扁額「別雷神社」)と社号標(「茨城県指定文化財 茨城百景 金村別雷神社」)


写真3:境内の「金村別雷神社御榊山」


写真4:拝殿


写真5:本殿(覆屋)


写真6:本殿


写真7:本殿背後の末社(合祀殿)
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