神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

勝間田の池跡

2013-09-28 23:13:57 | 史跡・文化財
勝間田の池跡(かつまたのいけあと)。現在は、「勝間田公園」になっている。
場所:千葉県船橋市西船5-2。JR総武本線「西船橋」駅北口前の国道14号線を北西に約300m。駐車場なし。
現・船橋市西船の国道14号線沿いに「勝間田公園」という、妙に不整形な公園があるが、かつては「勝間田の池」という有名な池だった。この辺りは、北側の台地の下で湧水が多く、農業用の溜池として「本郷溜」と呼ばれていたらしい(「本郷」というのは、旧・葛飾郡栗原郷の中心地の「本郷村」に因む。)。それが「勝間田の池」と呼ばれるようになったのは、江戸時代後半、江戸の文人たちが成田詣の際に通りかかり、風光明媚な池の様子を見て、万葉集に載る「勝間田の池」になぞらえたことによるという。その万葉集の歌とは、「勝間田の 池は我知る 蓮(はちす)なし 然(しか)言ふ君が 髭なきごとし」(作者は新田部親王の恋人(氏名不詳))。この歌の意味については面白い話もあるのだが、長くなるので省略。万葉歌の「勝間田の池」の所在地も明確ではないが、現・奈良県奈良市七条にある「西ノ京大池」であろうというのが通説で、この「大池」越しに見る「薬師寺」三重塔の眺望が有名。
なお、風光明媚なだけではなく、現・船橋市の「勝間田の池」では昭和30年頃に行われた池の浚渫の際、池の中心部で2個の壷が発見された。5世紀前葉の五領式土器で、祭祀用に置かれたものとみられているという。ひょっとすると、道路(古代東海道というには古すぎるが)沿いの湧水と交通安全の祈願のためだったのかもしれない。「勝間田の池」のすぐ西側の丘の上には、葛飾郡の総社であるという「葛飾神社」が鎮座している。江戸時代には当地に「熊野神社」があったが、大正5年に「一郡惣社葛飾大明神」(主祭神:瓊瓊杵尊)を合祀して現在の「葛飾神社」と称するようになった。元の「葛飾大明神」は、当神社の北、約500mのところにある「葛羅の井」の西の台地上に鎮座していたという。「葛羅(かづら)の井」は「葛飾大明神」の御手洗の水であるとされ、伝説では、水脈が竜宮、あるいは富士山までつながっていて、どんな日照りにも水が涸れず、この水を飲めば瘧(マラリア?)が治るといわれていた。また、千葉氏の祖とされる平(村岡)忠常の父、忠頼の産湯を汲んだという伝承もある。傍らに「葛羅之井」という石碑が建てられているが、これは文化9年(1812年)に蜀山人こと大田南畝が揮毫したもの。永く忘れ去られていたが、永井荷風が随筆「葛飾土産」で紹介したことで再び知られるようになった(昭和40年船橋市の指定文化財に指定)。


写真1:「勝間田の池跡」(現・「勝間田公園」)。以前には「勝間田池」という石碑があったようだが、今は見当たらない。


写真2:「葛飾神社」鳥居。社殿は一段高い場所にある。(場所:船橋市西船5-3-8。勝間田公園の西側)


写真3:同上、社殿。境内に立派なクロマツがある。


写真4:「葛羅の井」入口。大きなケヤキの木が目印(場所:船橋市西船6-174-1)。


写真5:同上、「葛羅之井」石碑


写真6:同上。今は丸い池のようになっており、平成15年に船橋市によって整備された。葛飾神社が管理しているとのこと。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下総国の古代東海道(その6・浮嶋駅)

2013-09-21 23:45:29 | 古道
古代の東海道は当初、相模国(現・神奈川県)の観音崎から東京湾を船で渡って上総国(現・千葉県南部)に上陸、そこから北上して下総国を縦断(現・千葉県千葉市~佐倉市~成田市)して「香取海」に到り、再び船に乗って常陸国(現・茨城県)に入った(終点は常陸国府(現・茨城県石岡市))とされる。それが、宝亀2年(771年)には、相模国~武蔵国(現・東京都)~下総国府(現・千葉県市川市)~常陸国府というルートに変わったとされる。しかし、このルート変更に関わらず、下総国府と上総国府(現・千葉県市原市)を結ぶ支路があったようだ(ルート変更で、上りと下りが逆になるが。)。その間に、延喜式には、下総国に2つの駅家があったと記されており、それが「浮嶋(うきしま)」駅と「河曲(かわわ)」駅となる。その擬定地には諸説あるが、現在では、「河曲」駅は現在の千葉県庁付近とされていて、(発掘調査による証拠はないが)異論は少ない。また、ルートも、「下総国府」付近にあったと考えられる「井上」駅(2013年6月8日記事)から「河曲」駅までは、現在の国道14号線に沿う見事に直線的な道で、国道14号線がそのまま古代東海道の後身とまではいえないにしても、ルート自体に異論はない。このルートは、「市川砂州」と呼ばれる標高2~8m程度の砂丘上にあり、「千葉街道」、「房総往還」などとも呼ばれ、古くからの街道になっている。
そうした中で、「浮嶋」駅の擬定地はいくつかあり、現・船橋市本町付近、現・習志野市鷺沼付近、現・千葉市花見川区幕張町付近などが挙げられている。こうした「浮嶋」駅の候補地については別項で書くことにするが、「井上」駅(現・市川市市川?)から先の史跡として、まず「葛飾八幡宮」があり、かつては、その門前に海(東京湾)が広がっていたことは既に書いた(2013年3月23日記事)。更に進むと、京成電鉄本線「鬼高」駅の南に、「鬼高遺跡」がある。この遺跡は、古墳時代後期の集落跡で、海辺に住居を築いて漁撈を行っていた場所とされるもの。古墳時代後期(5~6世紀頃)には既に、この辺りが海岸線となっていた証拠となっている。


市川市のHPから(鬼高遺跡)


写真1:国道14号線(千葉街道)に面した「葛飾八幡宮」の一の鳥居と社号標(再掲)


写真2:「史跡 鬼高遺跡」の石碑(場所:千葉県市川市鬼高1-1-2。住宅展示場「ABCハウジング市川」の南側。駐車場なし)


写真3:同上。現在は「鬼高遺跡公園」になっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

摩尼珠山 医王院 松虫寺

2013-09-14 23:23:17 | 寺院
摩尼珠山 医王院 松虫寺(まにじゅさん いおういん まつむしでら)。
場所:千葉県印西市松虫7。北総鉄道北総線「印旛日本医大前」駅の北側の市道を道なりに約900m進み、狭い道を右折(東へ)。駐車場有り。
寺伝によれば、聖武天皇の第三皇女・松虫姫(不破内親王とされる。)が癩病を患い、なすすべもなかったが、下総国萩原郷に祀られた薬師如来に祈れば治癒するとの不思議な夢のお告げがあった。都から遠く下総国に来てみると、確かに夢に見た薬師如来があり、一心に祈ったところ、全快した。これを喜んだ聖武天皇が行基に命じて天平17年(745年)に建てさせたのが当寺であるという。元は三論宗であったが、後に天台宗、真言宗に改宗し、現在は真言宗豊山派に属する。本尊は七仏薬師如来で、1体の坐像に6体の立像を組み合わせたものであり、いずれも榧(カヤ)の一木造り。七仏薬師如来は天台宗で重視されたもので、制作年代は平安時代末期とされるが、鎌倉時代とする説もある。国指定重要文化財。
なお、松虫姫は病が癒えて都に帰ってしまったが、その死後、分骨されて当寺の薬師堂裏にも葬られたとされ、現在も「松虫皇女之御廟」がある。また、。松虫姫に付き添って当地に来た花井権太夫という宮中警護の武士こそ、佐倉宗吾(江戸時代の佐倉藩領の名主で、幕府への直訴により死罪を受けたが、後に義民として「宗吾霊廟」に祀られる。)こと木内惣五郎の先祖であったという(「佐倉義民伝」による。)。


「ちばの観光まるごと紹介」のHPから(松虫寺(印西市))


写真1:「松虫寺」境内入口。なかなか立派な仁王門


写真2:薬師堂


写真3:瑠璃光殿(重要文化財の七仏薬師如来像はこちらに収蔵されている。)。向って左奥に玉垣が少し見えるが、これが「松虫皇女之御廟」だろう(うっかりして写真を撮り損ねた)。


写真4:薬師堂に並んで、向って左側にある「松虫姫神社」


写真5:同じく、向って右側にある「六所神社」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

晴天山 西光院 結縁寺

2013-09-07 23:23:26 | 寺院
晴天山 西光院 結縁寺(せいてんさん せいこういん けちえんじ)。
場所:千葉県印西市結縁寺516。県道4号線(千葉龍ヶ崎線)と県道190号線(千葉ニュータウン南環状線)の「船穂中学校北側」交差点から県道4号線を南に約400mのところで左折(東へ)、約200m進んだところで南に向う狭い道に入り、更に300m。駐車場なし。
寺伝によれば、神亀年間(724~729年)に行基が当地を訪れた際、空が晴れ、草堂の脇の井戸に仏の姿が現れたことを瑞祥として自ら弥陀三尊像を刻して祀ったことを創建とする。天慶年間(938~947年)には真言宗となり、寺中6坊を有して、春秋に大掛かりな結縁灌頂の儀式を執り行ったことから、現在の「結縁寺」と称されるようになったという。本尊は高さ47cmの銅製不動明王立像で、嘉元元年(1303年)銘があるもの(大正3年に国の重要文化財に指定)。天正年間(1573~1592年)に火災により火災に遭って寺宝等を焼失したほか、元禄年間には6坊も退転するなどして伽藍も荒廃した。現在は無住で、「松虫寺」(印西市)と地区住民の手により、本堂と本尊等寺宝が守られているとのこと。
伝承によれば、平安時代末期の武将、「源三位」と呼ばれた源頼政が治承4年(1180年)に京都・宇治平等院の戦いで敗れたとき、下総国出身の家臣が頼政の首を持って脱出。当地まで来ると、首が急に重くなって、馬が動かなくなった。このため、当地に首を埋めて供養したという。当地の昔話では、首を埋める穴を掘るのに、村人が快く鍬を貸したことのお礼として、地獄花(ドクダミ)が農作業の邪魔になって困ると伝えたところ、それ以来、ドクダミが生えなくなったとする。当寺の南東、約300mのところに今も「頼政塚」とされる遺跡がある。ただし、他地区にも「頼政塚」はあり(京都府亀岡市のものが有名)、当寺を訪れたこともある民俗学の大家・柳田国男は、「頼政」とは憑坐(ヨリマシ)、霊媒のことであろうとしている。
また、当寺の鎮守である「熊野神社」の石段の下には、源頼政の遺徳を慕って伊勢国から来た女性が入定したとする墓塔が立てられた「入定塚」がある。元は大永6年(1526年)に建てられたものだが、現存のものは享保9年(1724年)に再建されたものという。


千葉ニュータウン高花第二団地のHPから(周辺地域散策)

千葉日報のHPから(銅製不動明王立像の御開帳/結縁寺(印西市))


写真1:「結縁寺」。寺の前には弁天池、背後は小山になっている。


写真2:同上。山門の前の蓮池


写真3:同上、創建伝説にいう「白蓮井戸」または「花井戸」(復元)。


写真4:同上、本堂


写真5:鎮守の「熊野神社」(住所:印西市結縁寺533)正面鳥居


写真6:同上、石段手前にある「入定塚」


写真7:「頼政塚」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする