神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

相馬惣代八幡宮

2021-09-25 23:13:23 | 神社
相馬惣代八幡宮(そうまそうだいはちまんぐう)。茨城県神社庁のHPでは、単に「八幡神社」となっている。
場所: 茨城県取手市寺田4816-1。国道294号線「取手二中入口」交差点から北へ入って直ぐ、「取手郵便局」の角を右折(西へ)、道なり(旧国道294号線)に約1.4km。駐車場なし。
社伝によれば、大同2年(807年)、 現・茨城県守谷市の「西林寺」(2021年7月31日記事)二世・寛海法師が山城国「石清水八幡宮」(現・京都府八幡市)の分霊を勧請したのが創祀という(ただし、「西林寺」の創建が延喜2年(902年)とされているのと合わない。大同2年というのは関東~東北の古社寺によくある創建年号で、当てにならないことが多い。)。後に、守谷城主・相馬家累代の氏神として崇敬され、「相馬惣代」(相馬郡総鎮守の意)の名がある。江戸時代にも、五石の八幡領があったという。現在は取手市寺田(旧・寺原村寺田)に編入されているが、かつては、この境内だけ守谷の飛び地であったとされる。現在の祭神は、誉田別命。
創建年代はともかく、なぜ相馬氏が飛び地にしてまで当神社を祀ったか、ということについては、当地が平将門の出生地であるとの伝承によるとの説がある。「尊卑文脈」(南北朝時代頃成立)等によれば、将門の母は縣犬養春枝の娘であるとしており、その母の実家の居館が当地辺りにあったという伝承がある。当時は「妻問婚」だったので、幼少時には母の実家で育てられただろうということになる。このことは「平将門公鎌輪之宿址」(2020年3月27日記事)のところでも書いたが、当地では、将門は相馬郡で育ったので「相馬小次郎」と呼ばれたというのが根拠となっている。因みに、縣犬養春枝という人物のことは詳細不明だが、「萬葉集」にみえる縣犬養浄人(奈良時代の官吏で、天平勝宝7年(755年)、下総少目(しもふさのしょうさかん。目は国司の第4等官)のとき、防人部領使(さきもりことりづかい。防人の訓練を行う役人)として筑紫国(現・福岡県)に赴任した。)の末裔とする説がある。浄人の末裔ではなくても、縣犬養の一族が下総国に定住していた可能性は高いが、縣犬養春枝の居館が当地にあったということについては、特に証拠はないようである。相馬氏が信じていたかどうかは別にして、これも相馬氏が将門の直系の子孫であるとすることの宣伝のためであった可能性があるのだろう。


写真1:「相馬惣代八幡宮」鳥居と社号標(「惣代八幡宮」)


写真2:鳥居前の弘法大師堂


写真3:鳥居横の玉垣から西を見る。奥が利根川方面で、ここからずっと下がっているのがわかる。


写真4:境内の巨木(スダジイとシラカシ)


写真5:社殿
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米井山 無量寿院 龍禅寺

2021-09-18 23:43:52 | 寺院
米井山 無量寿院 龍禅寺(べいせいざん むりょうじゅいん りゅうぜんじ)。
場所:茨城県取手市米ノ井467。関東鉄道常総線「稲戸井」駅の南側(なお、「稲戸井」駅は北側にしか出入口がない。)の国道294号線沿い(自動車販売店「ネッツトヨタ(株)マイネ取手」向かい)に「桔梗塚」があり、その東側の信号機があるところから南西へ入る。突き当りを左折(南東へ)、国道から約400m。駐車場有り。ただし、途中は住宅地で、道路が狭いので、注意。
寺伝等によれば、延長2年(924年)、伝誉大阿闍梨が「三仏堂」を道場として開き、承平7年(937年)には平将門が武運長久を祈願して参詣し、仁王門と鐘楼を寄進して盛り立てたという(将門が創建したとの説もある。)。このとき、「三仏堂」前の井戸から米が噴出し、これを吉祥として将門が大変喜んだという伝説があって、山号は(当地の地名も)これに由来するとされる。将門の死後に荒廃したが、建久3年(1192年)に源頼朝が千葉常胤(桓武平氏良文流千葉氏の一族で、千葉氏中興の祖)に命じて修復したという。江戸時代には19石3斗の朱印地があった。現在は天台宗で、茨城県守谷市の「西林寺」(2021年7月31日記事)の末寺。本尊は阿弥陀如来。
境内にある「三仏堂」は、釈迦如来・阿弥陀如来・弥勒菩薩の3体の仏像が安置されているため、その名がある。桁行三間・梁間四間の三間堂で、左右と背面に裳階(もこし)が付いているが、三方に裳階が付く形式の建物は他に例を見ないという。屋根は寄棟造で茅葺。内部は外陣と内陣に分かれ、内陣には禅宗様の須弥壇が置かれて、三仏が安置されている。なお、不動明王立像もあるが、この像の顔は削られている。将門を調伏したのが「成田山 新勝寺」(2014年1月25日記事)の不動明王だ、ということで嫌われたようである。昭和60~61年に解体修理が行なわれて創建当初の姿に復原されたが、このとき、永禄12年(1569年)銘のある木札が発見されたことと、建物の様式等からみて16世紀前半の建立と推定されている。取手市唯一の国指定重要文化財。
なお、将門が「三仏堂」で生まれた、という伝説もある。将門の母は紅龍の化身で、将門を産むとき、「三仏堂」に21日間籠った。この間、扉を開けてはならないと伝えていたが、父の良持が20日目に中を覗いてしまった。すると、中に大蛇がいて、火を噴き、赤子をぺろぺろと舐めていた。21日間舐めると全身が鉄のようになって矢を通さないようになるのだが、1日足りずに、こめかみ(目と耳の間。ボクシング等でいう「テンプル」で、急所の一つ)は生身のままとなり、後にこめかみを射られて死ぬことになったというのである。当然、これは後世の作り事だろうが、将門が当地付近で出生したという説は根強く、それはまた別項で。
また、国道からの入口付近に「桔梗塚」がある。将門の愛妾・桔梗姫(桔梗御前)は、将門が戦死したことを聞いて、当地まで逃げてきたが、ここで捕まり、殺された。その菩提を弔うためのものという。当地では、桔梗(キキョウ)は生えても、花が咲かないという伝説がある。これは、キキョウの根は薬用になるが、花を咲かせると薬効が落ちるとして、花が咲く前に摘み取ってしまうことによるものとの説がある(因みに、キキョウの根はサポニンを含み、現在でも去痰薬等に用いられる。)。当地以外でも、桔梗姫の伝説があるところでは同様の話になっているが、桔梗姫の素性は様々に伝えられている。大別すると、①藤原秀郷が送り込んだ美女(秀郷の妹とするものもある。)で、将門の弱点を秀郷に教えた、というもの。この場合、そうした卑怯な策略が露見するのを恐れて、秀郷が桔梗姫を殺すことになり、キキョウが咲かないのは、将門の恨みによる。②桔梗姫も将門を愛しており、将門の死により、自らも悲劇の死を遂げるというもので、この場合、キキョウが咲かないのは桔梗姫の恨みによるもの、ということになる。当地周辺では、②の話の方が主流であるようだ。


茨城県教育委員会のHPから(竜禅寺三仏堂)


写真1:「龍禅寺」参道入口。入って、山門前の右手に駐車場が有る。


写真2:山門。脚に比べて、屋根が重厚な気が。


写真3:本堂。本堂前(写真向かって右)の木は金木犀(キンモクセイ)で、高さ15m、幹回り(株立ちの合計)5.79m、樹齢約200年という巨樹で、幹回りでは日本一クラスとされる。


写真4:鐘楼


写真5:本堂前の弘法大師堂。「新四国相馬霊場八十八ヵ所」第79番札所。


写真6:「三仏堂」。ちょっと映えないアングルだが、「三仏堂」前にも駐車スペースがあり、正面から写真が撮りづらいところに駐車している車があったため。


写真7:「三仏堂」前の大師堂。「新四国相馬霊場八十八ヵ所」第47番札所。


写真8:「桔梗塚」。当寺院が管理している模様。
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将門土偶之墓

2021-09-11 23:28:38 | 古墳
将門土偶之墓(まさかどどぐうのはか)。
場所:茨城県取手市市之代。茨城県道328号線(谷井田稲戸井停車場線)「みずき野十字路」交差点から北東に約1.7km、小貝川に架かる「稲豊橋」西側の感応式信号機のある交差点を左折(北西へ)、約50m。駐車場なし。
「将門土偶之墓」は、明治7年の道路改修の折、甲冑を着た武者の土偶が出土したのを、平将門軍の兵士とみて、再び埋葬したものとされる。ただし、どこから出土したかは不明。因みに、当地の南に「島広山」という地名(将門の本拠地とされる「島広山・石井営所跡」(2012年10月13日記事)と同じ。)があったといわれている。現在、現・茨城県守谷市みずき野となっているところは、元は「郷州原」(字郷州)と呼ばれる荒地、雑木林だったらしい(同町内に「郷州小学校」がある。)。昭和54年から広い住宅団地が開発され、古い面影は殆どないが、かつて「郷州海道」という道があり、ここから、現・取手市の高井~山王とを結んでいたとされる。現・取手市下高井に「(下総)高井城址」があり、伝承では、将門の敗死により、常陸国信太郡(現・稲敷市ほか)に逃げた将門の後裔が長治年間(1104~1106年)に戻ってきて築いた城で、ここから相馬氏を名乗ったともいう。その真偽は不明だが、戦国時代の相馬氏の支城であったことは間違いなく、「郷州海道」というのは、市之代~高井~山王と、小貝川沿いの河岸段丘を進む軍事道路だったのかもしれない。また、みずき野の南西に「乙子(おとご)」という地名があるが、これは「守谷城」の落とし口(脱出路)、即ち「落口(おとご)」に由来するともいう(「守谷城址」(2021年7月24日記事参照))。つまり、この地区でも、相馬氏により将門伝説が流布された可能性がある。
さて、土偶であるが、市之代の小貝川沿いに「市之代古墳群」(前方後円墳2基、円墳19基の計21基)があり、土偶はこれらの古墳からの出土品だろうと思われる。築造時期は5世紀後半~6世紀中葉とされている(「市之代古墳群第3号墳調査報告書」による。)ので、もちろん将門の時代のものではないことは明らかだが、武者といえば将門に結び付けられることの素地があったのだろう。
また、近くに「姫宮神社」がある。江戸時代の創建で、現在の祭神は櫛稲田姫命ということしかわからないが、地元では、将門の愛妾、または娘を祀っているとの伝承があるとされる。この姫様は、餅草で目を突き、片目になったという。民俗学的には、神様が植物の根に躓いて目を傷め、その植物の実を食べないという伝承は各地にあるが、この場合はどういう意味なのだろうか。


写真1:「将門土偶之墓」。コンクリート製らしく、昭和12年銘がある。現在も、水などを手向ける人があるようだ。もちろん、祟りなどという話は聞かない。なお、碑は右に傾いているし、覆屋もゆがんでいる。


写真2:「市之代古墳 第三」石碑(「稲豊橋」西詰。駐車場なし。交通量が結構多いので注意。)。第3号墳は長さ約20mの前方後円墳(だったが、道路工事により後円部は消滅)。土師器、人物形埴輪などが出土したという。


写真3:写真2の奥は竹林になっていて、どこがどう古墳なのか、よくわからない。


写真4:「姫宮神社」鳥居(場所:茨城県取手市市之代500。「将門土偶之墓」から北西へ約300mのところで右折(北東へ)、約100m。駐車場有り。)。元は「西蔵寺」(廃寺)の敷地だったらしく、地区の集会所や共同墓地、ポスト、火の見櫓、ごみ集積所などが集められている場所にある。


写真5:同上、社殿


写真6:同上、社殿の「比め美屋」という額。もう1つ「稲田姫尊」という額も掛かっている。比較的最近のものとみられるが、彫刻がリアル。


写真7:同上、鳥居横の仏堂。中央は如来像だが、手指が欠けている。隣接して市之代地区の共同墓地があることから、阿弥陀如来かもしれない。他に石造の大師像らしきものもある。
コメント (2)
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高野のお化け石

2021-09-04 23:31:33 | 名石・奇岩・怪岩
高野のお化け石(こうやのおばけいし)。成田不動明王霊石碑。
場所:茨城県守谷市高野1366(「仲坪公民館」の住所)。「大雄山 海禅寺」(前項)境内入口の北東約200mのところ(「守谷市消防団第九分団 消防機械器具置場」がある。また、下の写真1の案内板がある。)から南東に入って直進、約50mの突き当り。駐車スペース有り。
「高野のお化け石」は、「成田山」という文字と不動明王像の線刻などがある石碑で、昭和50年7月、地元の小学生が「石碑に人の顔が映っている」と言い出したのをきっかけに、近所の人々が見に行くようになった。その噂が広がり、週刊誌やテレビなどでも大きく取り上げられるようになって、全国から見物客が押し寄せる騒ぎになった。付近の畑や空き地が俄か駐車場になったり、露店が出たりなどして、大渋滞が発生した。肝心の「人の顔」については、見える人・見えない人がいる中で、見える人も「死んだおじいちゃん」、「白い着物を着た女性と子供」、「猫(?)」など様々で、中には「平将門の亡霊」という人もいたらしい。因みに、当時の「広報もりや」によれば、立正佼成会取手教会が昭和50年1月から毎月、将門の命日とされる22日に追善供養を行っていて、教会長が「供養を半年間続けたら何らかの顕示があるだろう」という予言をしていたという。
さて、当時、見物客の中には石碑に御賽銭をあげる人がいて、大分貯まったある時、御賽銭箱ごと盗まれてしまった。ところが、盗まれて一週間ほど経った頃、御賽銭を返しに来た人がいた。その人の話によると、御賽銭を盗んだ人がその後バイクで交通事故を起こし、「これはお化け石の祟りだろうから、代わりに御賽銭を返して来てくれ」と頼まれたのだと言ったという。そのようなこともあって、お盆の8月になると、ますます見物客は増え、「成田山 新勝寺」(2014年1月25日記事)から僧侶が来て祈祷して行くという騒ぎにまでなった。しかし、秋風が吹く頃になると訪れる人もめっきり少なくなり、心無い誰かがスプレーで落書きして以来、人の顔は見えなくなってしまったという。
この石碑のある場所は、平将門所縁の「大雄山 海禅寺」(前項)本堂の裏手に当たる。「成田山 新勝寺」の不動明王といえば、将門調伏のために京都から運ばれ、21日間の祈祷の末、将門を敗死させたというもので、相性が悪い。何故、ここに成田山不動明王の石碑を建てたか不明だが、将門と関係があるなら、昭和50年になってから亡霊が現れるというのも不思議である。その頃の世相として、昭和48年に「ノストラダムスの大予言」(五島勉・著)と「日本沈没」(小松左京・著)が刊行され、オカルト・ブームあるいは終末論的な不安の時代がもたらされたということで、これとの関連を指摘する説もあるが、どうだろうか。
蛇足:「怨霊地図 関東一都六県」(宝島社)というムックには、この石碑も心霊スポットとして採り上げられているが、石碑の写真にはモザイクが掛けられ、「近隣の方に迷惑をかけることを考慮し、地図の掲載を省略いたします。」と書いてある。しかし、守谷市のHPには「守谷の歴史・文化」の小中学生向けコンテンツとして「守谷の七不思議」の1つとなっていて、場所も明示されている。


守谷市のHPから(高野のお化け石)


写真1:「成田不動明王霊石碑 入口」の案内板。手作り感一杯。


写真2:「高野のお化け石(成田不動明王霊石碑)」


写真3:同上。高さ150cm、幅107cm、厚さ29cm。筑波郡福岡村(現・つくばみらい市)の弘明講の行者・卓雄により明治31年に建立されたものという。


写真4:隣にある「日光大権現」社(というか、本来は「日光大権現」(日光神社)の境内に石碑、公民館があるというべきだろう。)。通称:日光様。文政9年(1826年)創建で、祭神は徳川家康公。


写真5:青面金剛などの石碑もある。
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