鹿島神社(かしまじんじゃ)。同名の神社と区別して、通称:宮脇鹿島神社。
場所:茨城県小美玉市下吉影899。国道50号線沿い、「貝谷公民館」あるいは「小美玉市消防団第11分団」の辺りから1本西側の道路に入り、北へ。最初の角を左折(西へ)、道なりに進んで、突き当りは右折(北へ)。「貝谷公民館」付近からは約450mで、参道入口(社号標がある。)。ただし、道路が狭いので、参道入口付近には駐車できないし、参道には階段もあるので、徒歩となる。自動車の場合は、国道50号線を「貝谷公民館」から北へ、約400m進んだところで左折(西へ)、約150m進むと左側に当神社の社殿横に入る入口があって、駐車スペースもある。
常陸国式内社「主石神社」について、たいてい論社として紹介されているのが当神社である。ただし、どうも論拠が薄いような気がするのだが、念のため訪問してみた。
社伝によれば、創建は文治2年(1186年)。「延喜式神名帳」に登載された神社を「式内社」と称するが、それは「延喜式」が延長5年(927年)に完成したものなので、その時点で官社であった神社を指す。よって、創建が文治2年ということからすれば、「式内社」ではありえない。ところが、延享2年(1745年)に二宮茂直が著わした「常陸二十八社記」に「吉影村に主石神社がある」と書いてあるという(原文未確認)。二宮茂直は、吉影村のどの神社、と特定していないが、それがどうやら当神社のことらしいとされている。そして、境内の「本殿改築記念」碑によれば、まず「天慶年間社頭焼失」とあって、次いで「文治丙午年本社創立三神ヲ祀リ石神明神ト称ヘタリ」となっている。「天慶年間」というのは938年~947年で、「文治丙午年」というのは上記の通り、文治2年(1186年)のことである。「天慶」自体は「延長」より後の年号だが、このとき既に何らかの「(神)社」があった可能性はある。また、「石神明神」と称していたということから、神聖な「石」を祀っていた可能性もあることになる。そして、後半の記述だが、「水戸義公(徳川光圀)の命により、村内に散在していた鹿島・香取神社を合祀して「鹿島神社」と名乗った」ということが書いてある。他にも色々と合祀しているようで、現在の祭神は伊弉諾命(イザナギ)、伊弉冉命(イザナミ)、武甕槌命(タケミカヅチ)、経津主命(フツヌシ)、姫大神命(ヒメオオカミ)、國常立命(クニトコタチ)、神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコ)、天児屋根命(アメノコヤネ)としている。
式内社としては、前項の「主石神社」で良いのではないかと思うのだが...。当神社が仮に天慶年間以前に存在していたとしても、「石神明神」としたのは文治2年以降のような書きぶりであるし、徳川光圀は常陸国の式内社復興に努めた人物であって、その光圀が当神社を(「主石神社」ではなく)「鹿島神社」にしたということには何らかの根拠があってのことだったのではないかとも思う。因みに、前項の「主石神社」が現・鉾田市(旧・鹿島郡鉾田町)に所在するので、「延喜式神名帳」に「茨城郡」とされているのと矛盾するのではないか(当神社は旧・東茨城郡小川町に所在)という問題がある。しかし、近世の鹿島郡と茨城郡の境界である「巴川」は中世に拡幅されて境界となったものらしく、古代の鹿島郡(香島郡)は現在の「涸沼」の西端から概ね真南に引いたラインが想定される(現在の茨城県道50号線(水戸神栖線)の感じだろうか。)ところから、「主石神社」も古代茨城郡の域内と言えるらしいので、この点を問題にしている論者は殆どいないようだ。
写真1:「(宮脇)鹿島神社」参道入口。路地のような参道で、進むと、いったん石段を少し下り、また石段を少し上がる。途中は民家も途切れ、両脇の草木が被さってきている。
写真2:参道を進むと、鳥居と社号標がある。
写真3:社殿(拝殿)
写真4:社殿(拝殿と本殿)
写真5:境内の「鹿島神社本殿改築記念」碑
場所:茨城県小美玉市下吉影899。国道50号線沿い、「貝谷公民館」あるいは「小美玉市消防団第11分団」の辺りから1本西側の道路に入り、北へ。最初の角を左折(西へ)、道なりに進んで、突き当りは右折(北へ)。「貝谷公民館」付近からは約450mで、参道入口(社号標がある。)。ただし、道路が狭いので、参道入口付近には駐車できないし、参道には階段もあるので、徒歩となる。自動車の場合は、国道50号線を「貝谷公民館」から北へ、約400m進んだところで左折(西へ)、約150m進むと左側に当神社の社殿横に入る入口があって、駐車スペースもある。
常陸国式内社「主石神社」について、たいてい論社として紹介されているのが当神社である。ただし、どうも論拠が薄いような気がするのだが、念のため訪問してみた。
社伝によれば、創建は文治2年(1186年)。「延喜式神名帳」に登載された神社を「式内社」と称するが、それは「延喜式」が延長5年(927年)に完成したものなので、その時点で官社であった神社を指す。よって、創建が文治2年ということからすれば、「式内社」ではありえない。ところが、延享2年(1745年)に二宮茂直が著わした「常陸二十八社記」に「吉影村に主石神社がある」と書いてあるという(原文未確認)。二宮茂直は、吉影村のどの神社、と特定していないが、それがどうやら当神社のことらしいとされている。そして、境内の「本殿改築記念」碑によれば、まず「天慶年間社頭焼失」とあって、次いで「文治丙午年本社創立三神ヲ祀リ石神明神ト称ヘタリ」となっている。「天慶年間」というのは938年~947年で、「文治丙午年」というのは上記の通り、文治2年(1186年)のことである。「天慶」自体は「延長」より後の年号だが、このとき既に何らかの「(神)社」があった可能性はある。また、「石神明神」と称していたということから、神聖な「石」を祀っていた可能性もあることになる。そして、後半の記述だが、「水戸義公(徳川光圀)の命により、村内に散在していた鹿島・香取神社を合祀して「鹿島神社」と名乗った」ということが書いてある。他にも色々と合祀しているようで、現在の祭神は伊弉諾命(イザナギ)、伊弉冉命(イザナミ)、武甕槌命(タケミカヅチ)、経津主命(フツヌシ)、姫大神命(ヒメオオカミ)、國常立命(クニトコタチ)、神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコ)、天児屋根命(アメノコヤネ)としている。
式内社としては、前項の「主石神社」で良いのではないかと思うのだが...。当神社が仮に天慶年間以前に存在していたとしても、「石神明神」としたのは文治2年以降のような書きぶりであるし、徳川光圀は常陸国の式内社復興に努めた人物であって、その光圀が当神社を(「主石神社」ではなく)「鹿島神社」にしたということには何らかの根拠があってのことだったのではないかとも思う。因みに、前項の「主石神社」が現・鉾田市(旧・鹿島郡鉾田町)に所在するので、「延喜式神名帳」に「茨城郡」とされているのと矛盾するのではないか(当神社は旧・東茨城郡小川町に所在)という問題がある。しかし、近世の鹿島郡と茨城郡の境界である「巴川」は中世に拡幅されて境界となったものらしく、古代の鹿島郡(香島郡)は現在の「涸沼」の西端から概ね真南に引いたラインが想定される(現在の茨城県道50号線(水戸神栖線)の感じだろうか。)ところから、「主石神社」も古代茨城郡の域内と言えるらしいので、この点を問題にしている論者は殆どいないようだ。
写真1:「(宮脇)鹿島神社」参道入口。路地のような参道で、進むと、いったん石段を少し下り、また石段を少し上がる。途中は民家も途切れ、両脇の草木が被さってきている。
写真2:参道を進むと、鳥居と社号標がある。
写真3:社殿(拝殿)
写真4:社殿(拝殿と本殿)
写真5:境内の「鹿島神社本殿改築記念」碑