神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

石船神社(茨城県城里町)(常陸国式内社・その19)

2019-06-29 23:11:43 | 神社
石船神社(いしふねじんじゃ)。
場所:茨城県東茨城郡城里町岩船606。国道123号線と茨城県道112号線(阿波山徳蔵線)の「大桂大橋入口」交差点から県道を南西~西へ約1.9km、「ここは孫根・岩船」という緑色の案内看板の少し先を右折(北西へ。案内看板で「岩船 住谷」となっている方向)、約1km。駐車場有り。
創立年代は不明。「日本三代実録」の貞観元年(859年)条に「常陸国正六位上石船神に従五位下を授ける」という記事があり、「延喜式神名帳」に登載された「石船神社」に比定される式内社。祭神は鳥之石楠船神(トリノイワクスフネ)、別名・天鳥船神(アメノトリフネ)で、「古事記」によれば、建御雷神(カケミカヅチ、常陸国一宮「鹿島神宮」の祭神)の副使として葦原中国に派遣され、事代主神(コトシロヌシ)の意見を聞くために使者として遣わされた神とされる。また、神々が乗る船の名でもあるという。当神社の御神体は「兜石」と呼ばれる周囲約15mの巨石で、本殿はなく、この巨石を玉垣で囲ってある。社名については、祭神や鎮座地(「岩船(いわふね)」)からすれば、「いわふね」と読むのが普通だと思うのだが、茨城県神社庁のHPによれば「いしふね」となっている。
社殿前に「岩船川」という清流が流れ、その脇にも舟型をした大きな石がある。旱の時には、この巨石の上の窪みに溜まった水を汲んで祈願すると、雨が降るという。


写真1:道路沿いにある「石船神社」の社号標(「延喜式内 常陸二八社 石船神社」)


写真2:鳥居


写真3:石灯篭も大きな石の上。


写真4:石灯篭の少し下にある「矢の根石」。八幡太郎・源義家が当地に現れる怪物を矢で射て退治し、確認したところ怪物の正体は大きな石であり、「矢の根」(鏃、やじり)が喰い込んでいたという伝説がある。矢の疵跡があるらしいが、確認できず。


写真5:岩船川を渡って社殿へ。


写真6:社殿(拝殿)


写真7:本殿のように見えるが、これは中門。


写真8:藤(フジ)の巨木(目通り周囲1.3m)。「藤の群生」は城里町指定文化財。


写真9:背後から見る。玉垣と草に遮られて、巨石は見えない。


写真10:玉垣の中の巨石。わかるだろうか。


写真11:拝殿脇にある舟型の大石(「船形石」)
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高根山 閑心院 大山寺

2019-06-22 23:06:44 | 寺院
高根山 閑心院 大山寺(たかねさん かんしんいん たいさんじ)。通称:虫封じ高根山。
場所:茨城県東茨城郡城里町高根118。国道123号線と茨城県道112号線(阿波山徳蔵線)の「大桂大橋入口」から県道を南西へ約800mのところで右折(案内板がある。)、直ぐ。駐車場有り。
寺伝によれば、弘仁元年(810年)、弘法大師(空海)の開創という。「桂村史」によれば、永享10年(1438年)頃、宥阿上人が入って中興し、「符貴山 金剛王院 妙法寺(ふきざん こううごうおういん みょうほうじ)」と称した。その後、炎上焼失したが、長禄元年(1457年)に第5代大山城主・大山因幡守義成が祈願所として堂宇を造営し、「高根山 閑心院 大山寺」に改めた。第8代大山城主・大山義勝には嫡子がなかったが、当寺院の乾闥婆王尊(けんだつばおうそん)に祈願したところ、男子(のちの大山義則)が生まれたので、天文16年(1547年)に願文を奉納して感謝の意を表した(現在も「大山義勝戴書」として遺る。城里町指定文化財)。江戸時代には徳川幕府から朱印地十石を拝領し、末寺20余ヵ寺を擁していたという。現在は真言宗豊山派の寺院で、本尊は大日如来(金剛界)。上記にもあるように、古くから乾闥婆王尊の画(弘法大師の真筆という。)を祀り、虫封じ・子授け・安産の守り神として信仰され、「虫封じ高根山」という通称がある。また、「関東八十八ヵ所霊場」の第31番札所となっている。


大山寺のHP


写真1:「大山寺」県道からの参道入口。大きな寺号標がある(「虫切婆王尊高根山大山寺」)。最初は「婆王」というのが何かわからず、「お婆さんの王?」と思ってしまった。


写真2:境内に入ったところにある仁王門


写真3:更に山門がある。典型的な室町時代の様式を有しているとされる。現在は瓦葺だが、かつては萱葺だったとのこと(城里町指定文化財)。


写真4:弘法大師堂(石造の弘法大師像が祀られている。)


写真5:本堂(本尊:金剛界大日如来)


写真6:乾闥婆王尊堂。乾闥婆(ガンダルヴァ)は、元はインドの神で、インドラ(帝釈天)に仕える楽器演奏の神。乾闥婆を単独で祀る堂があるのはきわめて珍しい。


写真7:鐘楼
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阿波山上神社(常陸国式内社・その18)

2019-06-15 23:04:39 | 神社
阿波山上神社(あばさんじょうじんじゃ)。別名:降木明神、佐加利子(さがりこ)明神。
場所:茨城県東茨城郡城里町阿波山664。国道123号線と茨城県道112号線(阿波山徳蔵線)の「阿波山十字路」交差点から国道を北へ約400m、押ボタン式信号機のところのすぐ先に当神社の鳥居。「桂中学校」の西側で、国道沿いに細長い境内となっている。駐車場なし。
社伝によれば、大宝元年(701年)、大杉に童子の姿をし、手に粟(アワ)の穂を持った神が降臨した。よって、祠を建てて、この神を祀ったという。現在の主祭神は「少彦名命(スクナヒコナ)」であるが、元々は大杉を祭祀対象にしたものと言われており、「降木明神」との別名があるという。神が降臨した大杉を「降子の大杉」といい、当神社の神木であるが、二代目と言われた老杉(樹齢約1千年、高さ33m、目通り約7mあったという。)は昭和47年に落雷のため焼失したという。また、当神社の社名は、茨城県神社庁のHPでは「あばさんじょうじんじゃ」となっているが、鎮座地の地名も「阿波山(あわやま)」であり(南には「粟(あわ)」という地名もある。)、社伝からしても「あわさんじょうじんじゃ」と読むのが正しいと思われる。当地に「阿波山」、「粟」という地名があるのは、当地が常陸国に粟が最初にもたらされた場所であるという伝承があるためとも言い、あるいは粟の大産地であったためともいう。因みに、「常陸国風土記」那賀郡の条に「粟河を渡ったところに河内駅家がある」という記述があるが、この「粟河」が現・那珂川の古名であり、当地はその上流に当たる(当神社は那珂川の右岸にあり、河岸まで約500m。)。なお、社名に「山上」とあるが、鎮座地は平地であり、社伝からしても元々山の上にあったとは思われない。古代の当地は「阿波郷」(和名類聚抄による)に当たり、現在の「阿波山」と「粟」を合わせた地区と考えられるが、その北側(上)にあるところから「阿波山上神社」としたともいわれる。祭神については、スクナヒコナは大国主命(オオクニヌシ)に協力して国土開発を行った神とされ、国造りを終えた後、「淡島」で粟茎(あわがら)に弾かれて常世国に渡ったという伝説もある(日本書紀)ということで、「粟」に所縁がある(因みに、現・和歌山県和歌山市の「淡島神社」は、全国の「淡島神社」の総本社とされ、主祭神は少彦名命である。)。「日本三代実録」の仁和2年(886年)の記事に「常陸国從五位下阿波神に従五位上を授ける」という記事があり、これが当神社のこととされている。また、「延喜式神名帳」に登載された常陸国那賀郡鎮座「阿波山上神社」に比定される式内社となっている。
蛇足:「常陸国風土記」筑波郡の条に、富士山と筑波山を比較する説話が記載されている(これについては、いづれ書きたい。)。注目すべきは、「初粟新嘗(わせのにいなめ)」が神祖(みおや)の宿泊を断るほどの重要な神聖行事とされていることで、ここでの「粟」はアワではなく、脱穀されていない稲実であるとされているものの、古代における「粟」の重要性の一端が示されていると思われる。


写真1:「阿波山上神社」一の鳥居と社号標(「延喜式内 阿波山上神社」)


写真2:参道脇にある「大山草庵跡」の石碑。浄土真宗の開祖・親鸞聖人は、師である法然上人の孫弟子・行観上人が開いた当地の浄土宗「阿弥陀寺」境内に草庵を結び、建保4年(1214年)に法然の三回忌法要を行った。これを真宗興行の法要といい、大山草庵を浄土真宗開宗の地という、とのこと。なお、浄土宗「阿弥陀寺」は天保13年(1842年)に廃寺(当神社社殿の東側の共同墓地が名残り)。 大山草庵を引き継ぐ浄土真宗「阿弥陀寺」は明徳3年(139年、現・茨城県那珂市額田南郷の「額田城」内へ城の守護寺として移転、現存している。


写真3:参道途中の二の鳥居


写真4:参道途中にある「御神木由来」の石碑と御神木跡(3代目?育成中)


写真5:拝殿


写真6:本殿
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小坂神社(茨城県城里町)

2019-06-08 23:40:33 | 神社
小坂神社(おさかじんじゃ)。別名:笠宮(かさのみや)。
場所:茨城県東茨城郡城里町小坂838。「青山神社」(前項)鳥居前から茨城県道61号線(日立笠間線)を南西へ約700m、感応式信号機のある交差点(「小坂 入口」という案内標識がある。)を右折(「小坂」方面、北西へ)、突き当り丁字路を左折(西へ)、約800m進んだところで左手の側道のような道路に入る。突き当り丁字路の正面に「小坂神社」の由緒を書いた説明板が立っている。その奥に見える森が当神社だが、道路は突き当りを左折して、その先の右手が参道入口。駐車場なし(境内駐車可と思われる。)。
創建年代は不明。小坂の地にあった「笠宮」・「飯野宮」・「熊野権現」の3社を明治4年に合祀し、現社号に改めた。天正5年(1577年)、石塚城主・石塚義國が社殿を造営したとされるが、「笠宮」の御神体は笠形の石であり、一説に大同2年(807年)創建ともいう。「飯野宮」の御神体は木造神像で、この神像には文明11年(1479年)銘がある(在銘神像としては県内最古。城里町有形文化財)。現在の祭神は手力雄命(タヂカラオ)と倉稲魂命(ウカノミタマ)。
さて、常陸国二宮「靜神社」(2018年2月24日記事)に配祀されている手力雄命は、「新編常陸国誌」(江戸時代後期)によれば、小勝村(現・茨城県城里町小勝)から当地に移したもの、という記事がある。その根拠は不明で、「小勝」は当地より西方にあるが、それらしい神社は(現在は)ない。一方、「笠宮」は「靜神社」の本宮といわれ、「靜神社」の例祭には「笠宮」の神職が榊を持って行き、祭礼を行ったという伝承がある。延宝年間(1673~1681年)以降は、「笠宮」の榊を「靜神社」の境内に移植したとされる。


茨城県神社庁のHPから(小坂神社)

城里町のHPから(神像)


写真1:「小坂神社」境内入口。鳥居は見当たらず。


写真2:社号標


写真3:拝殿


写真4:本殿


写真5:社殿横の「笠懸の松」跡(切り株)。太古、手力雄命が当地で憩われた際、傍らの松に笠を懸けられたという。その後、その松は枯れたが、源義家が安倍氏征伐(「前九年の役」)のため陸奥国に向かう途中に当神社に戦勝を祈願し、帰途に枯れた松の脇に苗を植えたものとされる。その松は昭和37年に茨城県天然記念物に指定されたが、虫害により昭和48年に伐採されてしまったという。


写真6:社殿。南側から見る。社殿は南向きで、写真1の境内入口は東側にあるので、社殿の横に出る形。境内の南側にも道路があるのだが、その道路に出る参道がないのが不思議。集落が東側にあるためだろうか。
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青山神社(茨城県城里町)(常陸国式内社・その17)

2019-06-01 23:45:07 | 神社
青山神社(あおやまじんじゃ)。
場所:茨城県東茨城郡城里町上青山229。国道123号線と茨城県道61号線(日立笠間線)の交差点「石塚二本松」から県道を西へ約2.6km。駐車場スペース有り。
社伝によれば、宝亀3年(772年)、神託により紀伊国式内社(名神大)「伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)」(現・和歌山県和歌山市)の祭神である五十猛神(イソタケル)を勧請して創建された。 「日本書紀」によれば、高天原を追放された素戔嗚尊(スサオノ)とその子・五十猛神は新羅に降り立つが、その地が気に入らず、出雲国に移動した。素戔嗚尊は高天原から持ってきた木の種を五十猛神に渡し、その種を蒔くように命じた。五十猛神は九州から順に種を蒔き始めて日本国中を青山にし、最後に「木の国」(紀伊国)に降り立ち、そこで祀られた、とされる。ということで、当神社も「木の神」を祀ったもので、「青山神社」という社名もこの説話による。しかし、近世には「若宮八幡宮」、「八幡宮」、「鹿島明神」などと誤り伝えられたが、元禄9年(1696年)に水戸第2代藩主・徳川光圀の命により往古の「青山神社」に復したという。「延喜式神名帳」常陸国那賀郡鎮座の「青山神社」に比定される式内社で、現在の祭神は五十猛神。
なお、現・山形県東田川郡三川町に鎮座する「青山神社」は、「後三年の役」(1083~1087年)のとき、源義家が当神社に戦勝祈願し、平定後に当神社の分霊を勧請したという(「常北町史」による。)。
ところで、当神社境内を中心として、東西約400m、南北約150mの範囲に、高さ1m程度の40基余の円墳と方墳2基が集中する「上青山古墳群」が存在している。当神社の神宝として、元禄年間の社殿再建の際に本殿地より発掘された埴輪女子頭部があるという。そして、当神社に関するホームページやブログでは殆ど触れられていないのだが、「常北町史」によれば、当神社の南、約300mのところに「元宮」と呼ばれる場所がある、との記述がある。そこは田圃の中だが、耕作されず、下肥などを使わないという。昭和41年までは「高祓(たかはらい)」という特殊神事が行われていたとされる。ひょっとすると、本来は、現在の「青山神社」の森=上青山古墳群を神聖な場所として、そちらに向かって何らかの祭祀を行う形だったのではないだろうか。


写真1:「青山神社」一の鳥居


写真2:鳥居横の社号標(「延喜式内 青山神社」)


写真3:参道脇の「常北八景 青山の秋の月」石碑。「八景」というのは8つの優れた風景を選んだもので、10世紀の中国・北宋で選ばれた「瀟湘八景」がモデルとされる。その中で「秋月」というのは6番目のもので、定形化されたもの。


写真4:森の中の参道


写真5:二の鳥居


写真6:拝殿


写真7:本殿


写真8:「元宮」? 上の写真を撮った後しばらくして存在を知り、冬に改めて訪問したため、木に青葉がなく、映えない写真なのが残念。


写真9:「元宮」?から「青山神社」の森を見る。鳥居が小さく見える。
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