鎮守山 帰命寺(ちんじゅさん きみょうじ)。通称:八橋観音。
場所:秋田県秋田市八橋本町2-3-37。旧国道7号線「八橋一里塚」交差点から西へ約330m、「八橋」バス停付近から「八橋陸上競技場」へ向かう道路に入り(南へ)、約80mのところで狭い道を西に入り、直ぐ。駐車場なし。
寺伝によれば、明暦3年(1657年)、唱嶽長音上人を開基として浄土宗系・弾誓派の念仏布教の拠点として創建され、当初の山号は「念来山」であった。天和2年(1682年)、久保田(秋田)藩第3代藩主佐竹儀処が瀧川将軍家の御霊屋(「東照宮」)を曹洞宗「萬固山 天徳寺」(現・秋田市泉)内に造営したが、元禄13年(1700年)頃に現・秋田市八橋に移した。その別当寺として「寿量院」を建立したが、禁令により新たな寺院の創設は認められなかったので、「帰命寺」を「唯常院」と改名して、「寿量院」の塔中とした。このとき天台宗に改宗したという。明治維新により「寿量院」は廃寺となったが、「唯常院」は「帰命寺」に戻り、現在まで存続している。本尊は、中央に観音菩薩、右に大日如来、左に阿弥陀如来を置く三尊仏安置法により、これは「比叡山 延暦寺」の「横川」の流れを汲むとされる。秋田(久保田)三十三観音霊場の第33番札所(打止め)とされている。なお、平成29年1月現在の秋田県宗教法人名簿によれば、包括法人名は「羽黒山修験本宗」となっている。
ところで、当寺院には石田三成の墓がある、との伝説がある。正史によれば、「関ヶ原の戦い」に敗れた石田三成は、慶長5年(1600年)9月21日に捕縛され、10月1日に京都・六条河原で斬首された。その後、首は京都「龍宝山 大徳寺」の塔頭「三玄院」に引き取られ、ここに今も墓がある、ということになっている。一方、当地の伝承では、西軍壊滅後、石田三成は自らの所領があった近江国(現・滋賀県)に逃走し、ここで影武者と入れ替わった。その後、京都の浄土宗「光明山 阿弥陀寺」に身を隠し、弾誓上人のもとで得度して唱嶽長音と名乗った。そして、常陸国(現・茨城県)から出羽国・秋田に移封されてきた佐竹義宣(久保田藩初代藩主)を頼り、当地に移り住んだ。佐竹義宣は京都「知恩院」から名僧を招いたとして、東西70間・南北74間という広大な寺院を建立し、寺領50石も与えた。これが当寺院であるということになっている。当寺院入口に卵型の石塔が並んでいるが、その中に「唱嶽長音上人 宝暦三年」と刻されたものがあって、それが実は石田三成の墓なのだという。因みに、唱嶽長音上人は一名・木食上人とも呼ばれ、寛永10年(1633年)、生きながら鉦を鳴らして墓に入り、音が絶えたら死んだものと心得よと言い残して即身成仏したとも伝えられている。
上記の通り、当寺院は秋田における「東照宮」との関わりが深いが、この「東照宮」は、「関ヶ原の戦い」において中立の立場を採ったために睨まれた佐竹氏が徳川幕府の御機嫌を取るために建立したものらしい。佐竹氏が「関ヶ原の戦い」で中立であったのは、藩中の意見は東軍に与すべきというものであったが、当時の当主・佐竹義宣が石田三成と親交があったことから躊躇した結果ともいわれている。このように曖昧な態度であったために減封のうえ遠隔地に追いやられたということになるが、それでも取り潰しにならなかったのは、佐竹氏が源氏の名門だったからかもしれない。元はと言えば、八幡太郎・源義家の弟、新羅三郎・源義光の嫡流に当たる。徳川氏も源氏を称するが、系図ははっきりしていないのと対照的である。さて、少し横道に逸れたが、徳川家康の神号を「東照大権現」としたのは南光坊天海(慈眼大師)であり、俗説によれば、天海=明智光秀という説もある。ともに名を変えた石田三成と明智光秀がここでクロスするというのも面白い。
しかし、唱嶽長音上人=石田三成というのは、やはり伝説に過ぎないものと思う。いくら影武者が本人に似ていたとしても、源義経の場合とは違って、生存中に捕まって処刑されている。影武者ということに気が付かなかった、というのは無理があるだろう。それに、唱嶽長音上人の素性というのにも諸説あって、石田三成ではなく、その弟であるとの説、長男であるとの説もある。さらに、江戸・神田の松五郎という義賊であったとか、江戸幕府の隠し目付であったとかいう伝承もあるらしい。どうやら、俗名が石田姓であったことから、石田三成に擬せられたというのが真相のようである。背景として、佐竹義宣が石田三成と親交があったということがあり、西軍の敗残者が秋田に流れてきたということもあったようだ。未見であるが、秋田県大館市の「起業山 専念寺 一心院」には真田幸村(信繁)の墓がある。こちらには「信濃屋長左衛門事 真田佐衛門佐幸村之墓」と刻された墓石もあり、大館市のHPにも記事があるくらい有名らしい。
写真1:「帰命寺」本堂(大悲殿)
写真2:阿弥陀如来の石像と念仏の石塔
写真3:狭い境内だが、池がある(弁天池?)。
写真4:卵型の石塔が並ぶ。歴代住職の墓だろうが、どれが「唱嶽長音上人」(石田三成?)の墓なのだろうか。
場所:秋田県秋田市八橋本町2-3-37。旧国道7号線「八橋一里塚」交差点から西へ約330m、「八橋」バス停付近から「八橋陸上競技場」へ向かう道路に入り(南へ)、約80mのところで狭い道を西に入り、直ぐ。駐車場なし。
寺伝によれば、明暦3年(1657年)、唱嶽長音上人を開基として浄土宗系・弾誓派の念仏布教の拠点として創建され、当初の山号は「念来山」であった。天和2年(1682年)、久保田(秋田)藩第3代藩主佐竹儀処が瀧川将軍家の御霊屋(「東照宮」)を曹洞宗「萬固山 天徳寺」(現・秋田市泉)内に造営したが、元禄13年(1700年)頃に現・秋田市八橋に移した。その別当寺として「寿量院」を建立したが、禁令により新たな寺院の創設は認められなかったので、「帰命寺」を「唯常院」と改名して、「寿量院」の塔中とした。このとき天台宗に改宗したという。明治維新により「寿量院」は廃寺となったが、「唯常院」は「帰命寺」に戻り、現在まで存続している。本尊は、中央に観音菩薩、右に大日如来、左に阿弥陀如来を置く三尊仏安置法により、これは「比叡山 延暦寺」の「横川」の流れを汲むとされる。秋田(久保田)三十三観音霊場の第33番札所(打止め)とされている。なお、平成29年1月現在の秋田県宗教法人名簿によれば、包括法人名は「羽黒山修験本宗」となっている。
ところで、当寺院には石田三成の墓がある、との伝説がある。正史によれば、「関ヶ原の戦い」に敗れた石田三成は、慶長5年(1600年)9月21日に捕縛され、10月1日に京都・六条河原で斬首された。その後、首は京都「龍宝山 大徳寺」の塔頭「三玄院」に引き取られ、ここに今も墓がある、ということになっている。一方、当地の伝承では、西軍壊滅後、石田三成は自らの所領があった近江国(現・滋賀県)に逃走し、ここで影武者と入れ替わった。その後、京都の浄土宗「光明山 阿弥陀寺」に身を隠し、弾誓上人のもとで得度して唱嶽長音と名乗った。そして、常陸国(現・茨城県)から出羽国・秋田に移封されてきた佐竹義宣(久保田藩初代藩主)を頼り、当地に移り住んだ。佐竹義宣は京都「知恩院」から名僧を招いたとして、東西70間・南北74間という広大な寺院を建立し、寺領50石も与えた。これが当寺院であるということになっている。当寺院入口に卵型の石塔が並んでいるが、その中に「唱嶽長音上人 宝暦三年」と刻されたものがあって、それが実は石田三成の墓なのだという。因みに、唱嶽長音上人は一名・木食上人とも呼ばれ、寛永10年(1633年)、生きながら鉦を鳴らして墓に入り、音が絶えたら死んだものと心得よと言い残して即身成仏したとも伝えられている。
上記の通り、当寺院は秋田における「東照宮」との関わりが深いが、この「東照宮」は、「関ヶ原の戦い」において中立の立場を採ったために睨まれた佐竹氏が徳川幕府の御機嫌を取るために建立したものらしい。佐竹氏が「関ヶ原の戦い」で中立であったのは、藩中の意見は東軍に与すべきというものであったが、当時の当主・佐竹義宣が石田三成と親交があったことから躊躇した結果ともいわれている。このように曖昧な態度であったために減封のうえ遠隔地に追いやられたということになるが、それでも取り潰しにならなかったのは、佐竹氏が源氏の名門だったからかもしれない。元はと言えば、八幡太郎・源義家の弟、新羅三郎・源義光の嫡流に当たる。徳川氏も源氏を称するが、系図ははっきりしていないのと対照的である。さて、少し横道に逸れたが、徳川家康の神号を「東照大権現」としたのは南光坊天海(慈眼大師)であり、俗説によれば、天海=明智光秀という説もある。ともに名を変えた石田三成と明智光秀がここでクロスするというのも面白い。
しかし、唱嶽長音上人=石田三成というのは、やはり伝説に過ぎないものと思う。いくら影武者が本人に似ていたとしても、源義経の場合とは違って、生存中に捕まって処刑されている。影武者ということに気が付かなかった、というのは無理があるだろう。それに、唱嶽長音上人の素性というのにも諸説あって、石田三成ではなく、その弟であるとの説、長男であるとの説もある。さらに、江戸・神田の松五郎という義賊であったとか、江戸幕府の隠し目付であったとかいう伝承もあるらしい。どうやら、俗名が石田姓であったことから、石田三成に擬せられたというのが真相のようである。背景として、佐竹義宣が石田三成と親交があったということがあり、西軍の敗残者が秋田に流れてきたということもあったようだ。未見であるが、秋田県大館市の「起業山 専念寺 一心院」には真田幸村(信繁)の墓がある。こちらには「信濃屋長左衛門事 真田佐衛門佐幸村之墓」と刻された墓石もあり、大館市のHPにも記事があるくらい有名らしい。
写真1:「帰命寺」本堂(大悲殿)
写真2:阿弥陀如来の石像と念仏の石塔
写真3:狭い境内だが、池がある(弁天池?)。
写真4:卵型の石塔が並ぶ。歴代住職の墓だろうが、どれが「唱嶽長音上人」(石田三成?)の墓なのだろうか。