幸主名馬尊(こうしゅめいばそん)。通称:名馬さま。
場所:茨城県猿島郡五霞町幸主(「幸主農村公園」内)。新4号国道(春日部古河バイパス)「工業団地前)交差点から西へ約900mで右折(北へ)、約90m。駐車スペースあり。
「幸主名馬尊」は、源頼朝から派遣された範頼・義経が源(木曽)義仲と戦った「宇治川の戦い」(寿永3年(1184年))で先陣争いをして勝った武将・佐々木高綱の愛馬「生唼(いけづき。「生月」、「池月」などとも書く。)を祀る祠堂である。「生唼」は頼朝秘蔵の名馬で、同じく名馬「磨墨(するすみ)」を与えられた梶原景季との間で、雪解け水で増水した宇治川をどちらが先に渡るかで争ったが(いろいろ経緯はあるが省略)、結局、佐々木高綱と「生唼」が先陣の栄誉を得た。当地での伝承では、その後日譚のような形になっている。治承4年(1180年)、源頼朝は、若い2人の武将、梶原源太景季に麿墨を、佐々木四郎高綱に生唼という名馬を与えた。2人は、この名馬に乗って「宇治川の戦い」で先陣を争った。その後、頼朝による奥州平定の戦い「奥州合戦」(文治5年(1189年))にも、佐々木高綱と生唼、梶原景季と磨墨は参加し、帰途、現・五霞町に辿り着いた。当地には奥州と鎌倉を結ぶ街道が通っており、高綱の陣屋が現・五霞町幸主(元は幸館村といい、村名は佐々木高綱の館があったことに因むという。その後、幸館新田・主税新田と合併して幸主村となり、明治22年に五霞村大字幸主となった。)にあり、景季の陣屋が現・五霞町小福田にあった。景季の陣屋の傍には大きな沼があり、景季は「鎌倉路 する墨池の 秋の月」という句を詠んだという。この池は大正9年頃まではあったが、現在は干拓されて水田になっている。景季と磨墨は無事に鎌倉に帰ったが、高綱の愛馬・生唼は刀傷を負い、当地で亡くなった。高綱は、生唼の遺体を陣屋(現・五霞町幸主38。通称「天神山」)まで運ばせ、その東約100mのところに塚を造って葬った。後の人々が塚に約3尺(=約91cm)の墓碑を立てた。江戸時代、関宿藩主・久世大和守がこの墓碑を関宿城に運ぼうとして、江戸川の渡しに差し掛かったところ、墓碑が急に重くなり、動かなくなった。やむなく、元の場所に戻された。その後、村人らが墓碑の前に拝殿を造り、馬の神様として祀ったという(現在、拝殿の背後にある石碑はこれとは異なり、明治43年に建立されたもの。)。なお、安政5年(1858年)出版の赤松宗旦著「利根川図志」には「幸館村薬師堂 生月塚」として墓碑の絵も掲載されているが、梵字らしき文字が1字刻された樽のように太い本体に笠が載せてある形となっている。宗旦は、「生月(生唼)というのは信じ難いが、古い駿馬の塚だろう。」(現代語訳)と感想を述べている。物資輸送を馬に頼っていた時代には大変賑わったが、戦後は運送も農耕も機械化されて馬の利用が激減すると寂れてしまったという。
蛇足:佐々木氏は宇多源氏の一族で、近江国佐々木庄(現・滋賀県近江八幡市)を本貫地とするが、高綱の屋敷は現・神奈川県横浜市港北区鳥山町の「鳥山八幡宮」付近にあったとされ、その近くにある「馬頭観音堂」は、「生唼」の墓を高綱が「駒形明神」として祀ったものだという。
五霞町のHPから(幸主名馬尊)
写真1:「幸主名馬尊」前に並ぶ石仏など。
写真2:同上、背後には六地蔵?も。
写真3:十九夜供養塔。如意輪観音は女人講の守護仏である。
写真4:「幸主名馬尊」祠堂。扁額は「生唼名馬尊」となっている。
写真5:「幸主名馬尊」石碑
写真6:傍らにある「薬師堂」
写真7:境内奥の石塔など。後ろに見えるのは首都圏中央連絡自動車道(通称:圏央道)で、トラックなどの往来が激しい。交通手段は馬から自動車に変わったが、今も交通の要衝であることに変わりないようだ。
場所:茨城県猿島郡五霞町幸主(「幸主農村公園」内)。新4号国道(春日部古河バイパス)「工業団地前)交差点から西へ約900mで右折(北へ)、約90m。駐車スペースあり。
「幸主名馬尊」は、源頼朝から派遣された範頼・義経が源(木曽)義仲と戦った「宇治川の戦い」(寿永3年(1184年))で先陣争いをして勝った武将・佐々木高綱の愛馬「生唼(いけづき。「生月」、「池月」などとも書く。)を祀る祠堂である。「生唼」は頼朝秘蔵の名馬で、同じく名馬「磨墨(するすみ)」を与えられた梶原景季との間で、雪解け水で増水した宇治川をどちらが先に渡るかで争ったが(いろいろ経緯はあるが省略)、結局、佐々木高綱と「生唼」が先陣の栄誉を得た。当地での伝承では、その後日譚のような形になっている。治承4年(1180年)、源頼朝は、若い2人の武将、梶原源太景季に麿墨を、佐々木四郎高綱に生唼という名馬を与えた。2人は、この名馬に乗って「宇治川の戦い」で先陣を争った。その後、頼朝による奥州平定の戦い「奥州合戦」(文治5年(1189年))にも、佐々木高綱と生唼、梶原景季と磨墨は参加し、帰途、現・五霞町に辿り着いた。当地には奥州と鎌倉を結ぶ街道が通っており、高綱の陣屋が現・五霞町幸主(元は幸館村といい、村名は佐々木高綱の館があったことに因むという。その後、幸館新田・主税新田と合併して幸主村となり、明治22年に五霞村大字幸主となった。)にあり、景季の陣屋が現・五霞町小福田にあった。景季の陣屋の傍には大きな沼があり、景季は「鎌倉路 する墨池の 秋の月」という句を詠んだという。この池は大正9年頃まではあったが、現在は干拓されて水田になっている。景季と磨墨は無事に鎌倉に帰ったが、高綱の愛馬・生唼は刀傷を負い、当地で亡くなった。高綱は、生唼の遺体を陣屋(現・五霞町幸主38。通称「天神山」)まで運ばせ、その東約100mのところに塚を造って葬った。後の人々が塚に約3尺(=約91cm)の墓碑を立てた。江戸時代、関宿藩主・久世大和守がこの墓碑を関宿城に運ぼうとして、江戸川の渡しに差し掛かったところ、墓碑が急に重くなり、動かなくなった。やむなく、元の場所に戻された。その後、村人らが墓碑の前に拝殿を造り、馬の神様として祀ったという(現在、拝殿の背後にある石碑はこれとは異なり、明治43年に建立されたもの。)。なお、安政5年(1858年)出版の赤松宗旦著「利根川図志」には「幸館村薬師堂 生月塚」として墓碑の絵も掲載されているが、梵字らしき文字が1字刻された樽のように太い本体に笠が載せてある形となっている。宗旦は、「生月(生唼)というのは信じ難いが、古い駿馬の塚だろう。」(現代語訳)と感想を述べている。物資輸送を馬に頼っていた時代には大変賑わったが、戦後は運送も農耕も機械化されて馬の利用が激減すると寂れてしまったという。
蛇足:佐々木氏は宇多源氏の一族で、近江国佐々木庄(現・滋賀県近江八幡市)を本貫地とするが、高綱の屋敷は現・神奈川県横浜市港北区鳥山町の「鳥山八幡宮」付近にあったとされ、その近くにある「馬頭観音堂」は、「生唼」の墓を高綱が「駒形明神」として祀ったものだという。
五霞町のHPから(幸主名馬尊)
写真1:「幸主名馬尊」前に並ぶ石仏など。
写真2:同上、背後には六地蔵?も。
写真3:十九夜供養塔。如意輪観音は女人講の守護仏である。
写真4:「幸主名馬尊」祠堂。扁額は「生唼名馬尊」となっている。
写真5:「幸主名馬尊」石碑
写真6:傍らにある「薬師堂」
写真7:境内奥の石塔など。後ろに見えるのは首都圏中央連絡自動車道(通称:圏央道)で、トラックなどの往来が激しい。交通手段は馬から自動車に変わったが、今も交通の要衝であることに変わりないようだ。