神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

幸主名馬尊

2024-10-26 23:32:28 | 伝説の地
幸主名馬尊(こうしゅめいばそん)。通称:名馬さま。
場所:茨城県猿島郡五霞町幸主(「幸主農村公園」内)。新4号国道(春日部古河バイパス)「工業団地前)交差点から西へ約900mで右折(北へ)、約90m。駐車スペースあり。
「幸主名馬尊」は、源頼朝から派遣された範頼・義経が源(木曽)義仲と戦った「宇治川の戦い」(寿永3年(1184年))で先陣争いをして勝った武将・佐々木高綱の愛馬「生唼(いけづき。「生月」、「池月」などとも書く。)を祀る祠堂である。「生唼」は頼朝秘蔵の名馬で、同じく名馬「磨墨(するすみ)」を与えられた梶原景季との間で、雪解け水で増水した宇治川をどちらが先に渡るかで争ったが(いろいろ経緯はあるが省略)、結局、佐々木高綱と「生唼」が先陣の栄誉を得た。当地での伝承では、その後日譚のような形になっている。治承4年(1180年)、源頼朝は、若い2人の武将、梶原源太景季に麿墨を、佐々木四郎高綱に生唼という名馬を与えた。2人は、この名馬に乗って「宇治川の戦い」で先陣を争った。その後、頼朝による奥州平定の戦い「奥州合戦」(文治5年(1189年))にも、佐々木高綱と生唼、梶原景季と磨墨は参加し、帰途、現・五霞町に辿り着いた。当地には奥州と鎌倉を結ぶ街道が通っており、高綱の陣屋が現・五霞町幸主(元は幸館村といい、村名は佐々木高綱の館があったことに因むという。その後、幸館新田・主税新田と合併して幸主村となり、明治22年に五霞村大字幸主となった。)にあり、景季の陣屋が現・五霞町小福田にあった。景季の陣屋の傍には大きな沼があり、景季は「鎌倉路 する墨池の 秋の月」という句を詠んだという。この池は大正9年頃まではあったが、現在は干拓されて水田になっている。景季と磨墨は無事に鎌倉に帰ったが、高綱の愛馬・生唼は刀傷を負い、当地で亡くなった。高綱は、生唼の遺体を陣屋(現・五霞町幸主38。通称「天神山」)まで運ばせ、その東約100mのところに塚を造って葬った。後の人々が塚に約3尺(=約91cm)の墓碑を立てた。江戸時代、関宿藩主・久世大和守がこの墓碑を関宿城に運ぼうとして、江戸川の渡しに差し掛かったところ、墓碑が急に重くなり、動かなくなった。やむなく、元の場所に戻された。その後、村人らが墓碑の前に拝殿を造り、馬の神様として祀ったという(現在、拝殿の背後にある石碑はこれとは異なり、明治43年に建立されたもの。)。なお、安政5年(1858年)出版の赤松宗旦著「利根川図志」には「幸館村薬師堂 生月塚」として墓碑の絵も掲載されているが、梵字らしき文字が1字刻された樽のように太い本体に笠が載せてある形となっている。宗旦は、「生月(生唼)というのは信じ難いが、古い駿馬の塚だろう。」(現代語訳)と感想を述べている。物資輸送を馬に頼っていた時代には大変賑わったが、戦後は運送も農耕も機械化されて馬の利用が激減すると寂れてしまったという。
蛇足:佐々木氏は宇多源氏の一族で、近江国佐々木庄(現・滋賀県近江八幡市)を本貫地とするが、高綱の屋敷は現・神奈川県横浜市港北区鳥山町の「鳥山八幡宮」付近にあったとされ、その近くにある「馬頭観音堂」は、「生唼」の墓を高綱が「駒形明神」として祀ったものだという。


五霞町のHPから(幸主名馬尊)


写真1:「幸主名馬尊」前に並ぶ石仏など。


写真2:同上、背後には六地蔵?も。


写真3:十九夜供養塔。如意輪観音は女人講の守護仏である。


写真4:「幸主名馬尊」祠堂。扁額は「生唼名馬尊」となっている。


写真5:「幸主名馬尊」石碑


写真6:傍らにある「薬師堂」


写真7:境内奥の石塔など。後ろに見えるのは首都圏中央連絡自動車道(通称:圏央道)で、トラックなどの往来が激しい。交通手段は馬から自動車に変わったが、今も交通の要衝であることに変わりないようだ。
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寳篋山 実相院 大上寺

2024-10-19 23:32:33 | 寺院
寳篋山 実相院 大上寺(ほうきょうさん じっそういん だいじょうじ)。通称:五霞観音。
場所:茨城県猿島郡五霞町元栗橋1125。茨城県道268号線(西関宿栗橋線)の「五霞町役場」北西の交差点(角にコンビニ「ファミリーマート五霞新幸谷店」がある。)から南西へ(案内標識の「元栗橋」方面)、道なりに約1.1kmで参道入口。参道を北西へ約70m進むと境内入口、その右手へ進むと駐車場あり。
社伝によれば、神亀3年(727年)、行基菩薩が当地に等身大の千手観世音像を祀る小庵を結んだのに始まるという。元は法相宗であったが、安永3年(1774年)に真言宗に改宗。明治2年に観音堂が焼失し、明治11年、現・茨城県古河市の「長谷寺」(「明観山 観音院 長谷寺」、通称:長谷観音。明治初年に廃寺になっていた。)から観音堂を移築した。明治22年、五霞村で初の村長・助役・村会議員の選挙は当寺院で行われた。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は千手観世音菩薩。葛飾板東観音観音霊場の第1番札所(発願寺)で、御利益は安産育児。
流石に行基は当地には来ていないだろうし、開基伝承から近世までの資料がないのが残念だが、当寺院は現・五霞町では最も古く、檀家も多いとされている。五霞町は四方を全て川に囲まれた地形にあって、長く水害に悩まされてきたことから、民衆の救済事業として各種の土木工事を行ったとされる行基の名が開基として挙げられたのかもしれない。また、中世、「鎌倉幕府」(現・神奈川県鎌倉市)と関東各地を結ぶ「鎌倉街道」という道路網があった。このうち、「下野国府」(現・栃木県栃木市)を通って、「白河関」(現・福島県白河市)に向かう「中道(なかつみち)」という主要道路の支線が当寺院付近を通っていた。この道路は、現・埼玉県幸手市から権現堂川(旧・渡良瀬川)を渡って現・五霞町に入り、当寺院の背後(西側~北西側)を通って、五霞町小手指~現・古河市前林(近世の利根川東遷以前には陸続きだった。)を北上したとされていて、「鎌倉街道」の中でも古くから存在したものらしい。つまり、当寺院の創建が、鎌倉時代前期、あるいは平安時代に遡る可能性もあるということのようである。


写真1:「実相院」参道入口、寺号標(「真言宗 実相院」)


写真2:境内入口


写真3:本堂(観音堂、大悲閣)


写真4:同上、屋根


写真5:鐘楼堂(「龍華の鐘楼」)
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鷲宮神社(埼玉県久喜市鷲宮)

2024-10-12 23:33:28 | 神社
鷲宮神社(わしのみやじんじゃ)。
場所:埼玉県久喜市鷲宮1-6-1。埼玉県道410号線(鷲宮停車場線)「鷲宮駅入口」交差点から西へ約220m。駐車場あり。
社伝によれば、神代の昔、天穂日命(アメノホヒ)とその子神・武夷鳥命(タケヒナトリ)が東国経営のため、供の昌彦・昌武父子と出雲族27人の部族等とともに当地に着き、鎮守として「神崎神社」を建てて大己貴命(オオナムヂ)を祀ったのが最初で、次いで別宮として天穂日命を祀ったが、これが現在の本殿「鷲宮神社」である。その後、日本武尊が東国平定の際に戦勝祈願を行い、相殿に武夷鳥命を祀ったという。ということで、出雲族の草創に係わる「関東最古の大社」と称するが、「六国史」や「延喜式神明帳」には記載されていない(文献上の初見は「吾妻鏡」建久4年(1193年)の記事で、「鷲宮」社殿に血が流れるという事件があり、鎌倉幕府が神馬を奉納したというもの。)。当神社の成り立ちについては、古代、当地に移住してきた「土師部(はじべ)」(素焼きの土器を作る人々)が祀り、社名も「土師宮(はじのみや)」と称したが、この「ハジ」が「ワシ」に転訛して「鷲宮」になったという説も有力。当神社が重要視されたのは、平安時代末期に成立した荘園「太田荘」の総鎮守とされてからとみられ、当神社の周辺に多くの分社があるが、その分布をみると旧「太田荘」地域に集中している。「太田荘」は関東地方の陸路・河川の交通の要衝であり、特に鎌倉幕府以降の武家支配において重要な地域であったため、その総鎮守である当神社の社格が急速に高まったと考えられている。因みに、当神社は天正19年(1591年)に徳川家康から社領400石の寄進を受けているが、この石高は、武蔵国内では武蔵国総社「大国魂神社」(現・東京都府中市)の500石に次ぐものとなっていた。明治元年には准勅祭社(東京十二社)の1社に指定された(准勅祭社の制度廃止後は県社に列格)。現在の主祭神は、天穂日命・武夷鳥命(「鷲宮神社」本殿)と大己貴命(「神崎神社」本殿)。「お酉様の本社」、「大酉元祖」などとも称し、関東地方各地で行われる「酉の市」の本社として、商売繁盛・縁結びなどの御利益があるという。


鷲宮神社のHP


写真1:「鷲宮神社」鳥居(元・二の鳥居)と社号標(「武蔵國 鷲宮神社」)。鳥居は老朽化のため平成30年に突然倒壊したが、令和3年に再建された。新しい鳥居は鉄製で、高さ約8m・重さ約10t。当神社はアニメ「らき☆すた」の舞台地としても有名で、アニメ・ファンからも鳥居再建のための奉賛金が寄せられたという。


写真2:境内参道、桜並木。


写真3:「鷲宮堀内遺跡」石碑。境内から、縄文時代前期(約6000年前)~古墳時代後期(約1500年前)の住居跡、土器などが出土。


写真4:「光天之池(みひかりのいけ)」。龍神が棲むという神池で、永く土砂に埋もれていたが、1999年に復元工事が行われた。このとき、湧き水が溢れ出し、霧となって龍のような雲に覆われたという。


写真5:拝殿


写真6:「鷲宮神社」本殿


写真7:「鷲宮神社」本殿と並んで、向かって左側に「神崎神社」本殿。「鷲宮神社」の堅魚木(かつおぎ)は5本、「神崎神社」は3本となっている。


写真8:境内社「姫宮神社」(祭神:活玉依姫命)。境内には他にも「八幡神社」や「鹿島神社」など多くの境内社がある。


写真9:社殿前にある「寛保治水碑」。寛保2年(1742年)、関東地方は大規模な洪水に見舞われ、翌年、利根川の大改修工事を行った。この石碑は、その完工記念として当神社に奉納されたもの。
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静御前の墓(埼玉県久喜市)

2024-10-05 23:31:30 | 史跡・文化財
静御前の墓(しずかごぜんのはか)。
場所:埼玉県久喜市栗橋中央1ー2ー7。JR東北本線・東武日光線「栗橋」駅東口から北へ約90m。駐車場なし(隣接する商店街「クラッセくりはし」に、料金の安い有料駐車場がある。)。
静御前は源義経の愛妾となった「白拍子(しらびょうし)」(男装の舞妓)で、その墓とされるものが現・埼玉県久喜市にある。軍記物語「義経記」によれば、日照りが続いたとき、後白河法皇が京都「神泉苑」の池で100人の僧に読経させたものの効験がなかったので、美貌の白拍子100人に舞わせて降雨を祈らせた。99人までは雨が降らなかったが、100人目の静女が舞うと忽ち雨が降り続いたので、法皇から「日本一」の宣旨を賜ったという。その後、義経に見初められて愛妾・静御前となるのだが、歴史書「吾妻鏡」によれば、義経が兄・頼朝から疎まれ追われるようになると、文治元年(1185年)、義経とともに九州に落ち延びようとするも果たせず、義経と別れ、奈良「吉野山」で捕らえられた。鎌倉に護送されて尋問を受けた後、身籠っていた義経の子を出産したが、男児であったため殺された。頼朝の妻・北条政子の助命により解放されたが、その後の消息は不明、ということになっている。ただし、「吾妻鏡」以外には確実な資料がなく、「吾妻鏡」も歴史書とはいうものの、北条氏による編纂のため、殊更に頼朝の残忍さを強調し、政子の優しさを礼賛しているともいわれるように、全て真実とは限らないらしい。
さて、上記の通り、静御前が解放されてからの消息は不明で、終焉の時期や場所はわかっておらず、墓とされる場所が全国各地にある。その中で、当地の伝説は次のとおりである。義経が奥州に潜伏していることを知った静御前は、義経の後を追って現・茨城県古河市下辺見に辿り着いたが、文治5年(1190年)、義経の死を知り、現・久喜市伊坂にあった「高柳寺」で出家したものの同年に病没し、「高柳寺」に葬られた。その後、「高柳寺」は移転したが、江戸時代後期の享和3年(1803年)、勘定奉行・関東郡代であった旗本・中川飛騨守忠英が「静女之墳」の墓標を建立し、明治19年に東北本線「栗橋」駅が新設されたのを機に、翌年には墓域の整備が行われたという。
なお、当地の静御前伝説の真偽は不明だが、「栗橋宿」は、江戸時代には関東三大関所の1つである栗橋関所が置かれ、日光街道・奥州街道が利根川を越える水陸交通の要衝であった。静御前伝説の存在は、栗橋から古河を通って奥州に向かうルートが、少なくとも平安時代末期には確立されていたと考える根拠の1つとなっているという。

巖松山 聖徳院 光了寺(がんしょうざんしょうとくいん こうりょうじ)。
場所:茨城県古河市中田1334。茨城県228号線(原中田線)「利根川堤」交差点から北東へ約400m。駐車場あり。
元は武蔵国高柳村(現・久喜市高柳)にあり、天台宗「高柳寺」と称したが、建保年間(1213~1218年)に住職・円崇興悦が親鸞の弟子となって浄土真宗「光了寺」と改めた。5世住職・感悦のときに高柳から栗橋に移転、更に6世住職・悦信のときに現在地に移ったという。現在は浄土真宗大谷派に属し、本尊は阿弥陀如来。他に、茨城県指定文化財の木造聖徳太子立像(鎌倉時代~南北朝時代頃)があり、静御前所縁の遺品として「蛙蟆龍の舞衣」・守本尊・懐剣などを所蔵している。


久喜市のHPから(静御前の伝承)

古河観光協会のHPから(義経の愛妾 静御前)


写真1:「静御前墳塋参道」石柱。「静御前の墓」の北東、約100m。


写真2:「静御前の墓」入口


写真3:「静御前の墓」(久喜市指定史跡)。伝説では、静御前を埋葬した侍女・琴柱が墓標代わりに杉の木を植えたとされ、近世には杉の大木があったというが、弘化3年(1846年)の利根川氾濫により枯れてしまったという。現在はイチョウの木が美しい。


写真4:「静女之墳」墓石


写真5:同上、中川飛騨守が建立した墓石


写真6:左:「義経招魂碑」、右:「静女所生御曹司供養塔」


写真7:左:静女塚碑、右:江戸時代の歌人・坐泉の歌碑「舞ふ蝶の 果てや夢見る 塚のかげ」


写真8:「光了寺」山門


写真9:同上、「祖師聖人 並 静女旧跡」碑


写真10:宝物殿。県指定文化財の木像聖徳太子立像などが収蔵されている。


写真11:同上、本堂。本堂前のヒバは推定樹齢180年、樹高13m・幹周1.7mで、「古河市の名木古木」に指定されている。
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