神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

神戸山 蓮華院 慈眼寺

2022-10-29 23:34:03 | 寺院
神戸山 蓮華院 慈眼寺(ごうどさん れんげいん じげんじ)。通称:灘観音。
場所:茨城県鹿嶋市浜津賀378。国道51号線「浜津賀」交差点から北西へ約400m。歩道橋の手前(南東)の側道を下ると、正門があり、その横に駐車場がある。なお、国道に面して、歩道橋のところに通用門があり、ここからも入れて、境内に駐車も可能。
寺伝によれば、天平勝宝年間(749~757年)、常陸国一宮「鹿島神宮」の神宮寺を建立した僧・満願上人が、「鹿島神宮」の鬼門にあたる当地に神宮寺の三大末寺筆頭として、「鹿島神宮」の主祭神・武甕槌神の本地仏である十一面観世音菩薩と大般若経六百巻を奉安し創建したとされる。当初は三論宗だったが、応仁2年(1468年)、祐悟上人を中興開山とし、このとき、真言宗に改宗したものと思われる。「鹿島さまに参ったら、観音さまに願かけよ」といわれ、「鹿島神宮」参拝後の裏参りと称して、参詣者で賑わったとのこと。現在は、真言宗智山派に属し、本尊は十一面観世音菩薩。所蔵する「両界曼荼羅」は室町時代のもので、彩色が良く残っており、茨城県指定文化財。また、「関東八十八カ所霊場」第34番霊場、「東国花の寺百ヶ寺」茨城第2番の寺院となっている。
蛇足:「鹿島神宮」の神宮寺は既に廃寺になっていて現存しないので、ここで補足しておく。「鹿島神宮」の神宮寺は、天平勝宝年間(749~757年)、修験僧・満願上人に鹿島郡大領・中臣連千徳と元宮司・中臣鹿島連大宗が協力して創建され、承和4年(837年)には定額寺に列せられたという(「類聚三代格」嘉祥3年(850年)及び天安3年(859年)太政官符による。)。満願は、万巻とも書き、伊勢国二宮・式内社(名神大)「多度大社」(現・三重県桑名市)や「箱根神社(箱根三所大権現)」(現・神奈川県箱根町)の神宮寺も創建したとされている。正式名称を「鹿島山 金蓮院 神宮寺」といい、本尊は釈迦牟尼仏。当初は三論宗で、鎌倉時代頃に真言宗になったという。最初は現・鹿嶋市鉢形に建立されたが、嘉保元年(1094年)の落雷による焼失、建久2年(1191年)の大風による本堂倒壊などがあり、建久3年(1192年)に「鹿島神宮」境内(現在の鹿園の辺り)に移転した。「鹿島神宮」別当寺として、最盛時には大末寺3ヵ寺、平末寺18ヵ寺、門徒55ヵ寺、又門徒26ヵ寺などがあったという。しかし、延宝5年(1677年)に「鹿島神宮」境内から現・鹿嶋市宮中に移され、江戸時代末には水戸天狗党や報国正義隊の攻撃を受けて、仏像の破却、本堂への放火等が行われ、明治3年に廃寺となった。


鹿嶋市のHPから(慈眼寺)


写真1:「慈眼寺」山門(仁王門)、寺号標


写真2:同上、山門の直ぐ背後にある「釈迦堂」。堂本尊は銅像誕生釈迦仏立像で、奈良時代に満願上人が平城京より招来したものという伝承があるとのこと。


写真3:同上、本堂。大正15年に火災に遭い焼失、平成2年に再建された。


写真4:同上、鹿島灘観音。本堂等は国道より一段低くなっており、ここで国道とほぼ同じ高さ。


写真5:同上、鹿島灘観音像前から見る本堂と鹿島灘(太平洋)。
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鹿島神宮 東の一之鳥居

2022-10-22 23:33:23 | 神社
鹿島神宮 東の一之鳥居(かしまじんぐう ひがしのいちのとりい)。通称:明石浜鳥居。
場所:茨城県鹿嶋市明石676。国道51号線と茨城県道255号線(鹿島港線)の「スタジアム北」交差点から県道を東~南東に約850m進んで左折(東へ)、約140mで左の道路に入って、約300m。駐車場なし。海岸の堤防の傍に建てられているが、サーファーが大勢来ていて駐車スペースが占領されていることが多い。
常陸国一宮「鹿島神宮」の「一之鳥居」は東西南北にあるが、現・鹿嶋市大船津の「西の一之鳥居」(「鹿島神宮」2017年10月7日記事の写真1)以外はあまり知られていない。東は現・鹿嶋市明石の海岸、北は現・鹿嶋市浜津賀の神戸森、南は現・茨城県神栖市の「息栖神社」(2017年12月2日記事)の大鳥居が兼ねているとされる(元は「息栖神社」の旧地である現・神栖市日川にあったという。)。
「鹿島神宮」の「東の一之鳥居」は、社殿の北東約3.7kmの明石浜にあり、祭神の武甕槌大神が出雲国で大国主命と国譲りの話し合いをした後、上陸した場所とされている(なお、武甕槌神に限らず、神が海からやってくるという伝承は多い。)。「鹿島神宮」は現在、西側から境内に入るようになっているが、御手洗池が境内北東側にあることからして、本来の入口は北東側だった可能性がある。また、東は朝日が昇る方向であり、ここも初日の出を見に来る人が多いという。このようなことから、4つの「一之鳥居」のなかでも、特にパワー・スポットとされることが多いようである。
蛇足:「東の一之鳥居」の西、約740m(直線距離)の高台に「鹿嶋灯台」があって、現在も海上交通の安全を見守っている。鳥居前から西(海の反対側)を向くと、木々の上に灯台の先端部分が見える。


鹿嶋市のHPから(鹿嶋の意外を巡ろう!)


写真1:「鹿島神宮」東の一之鳥居


写真2:「敬神」石碑


写真3:道しるべ。中央に「鹿嶋大神宮」、右に「北 いそはま(現・茨城県大洗町)」、左に「南 てうし(現・千葉県銚子市)」と刻されている。


写真4:堤防上から見る鹿島灘。写真ではわからないが、この日も大量のサーファー。自動車のナンバーを見ると、湘南や横浜ナンバーが多い。
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鬼塚(茨城県鹿嶋市)

2022-10-15 23:32:32 | 史跡・文化財
鬼塚(おにつか)。
場所:茨城県鹿嶋市下津209-1。国道124号線「下津入口」交差点から北東へ約1.7km。駐車場なし。
常陸国一宮「鹿島神宮」の東に「高天原」がある。現在も町名として「高天原」が存在するが、かつては現・鹿嶋市宮中から同・平井までの広い地区であったようで、砂丘に松林が散在する場所であったらしい。「鹿島神宮」の参道は西側から境内に入り、楼門を抜けて東(やや北東)に進む。社殿は参道の南側にあって、北向きに建てられている。参道は更に真っ直ぐ進んで、「奥宮」に至る。その北に「御手洗池」、南に「要石」がある。そして、その参道を境内の外に伸ばした先(社殿から約2.4km)に「鬼塚」がある。今では雑木に覆われて形がわからないが、「鹿島町史」(1972年)では、全長85m・高さ12mの長楕円形の有段古墳であるとしている。
伝説によれば、「鬼塚」は武甕槌神(「鹿島神宮」の祭神)が逆賊である鬼を討ち、鬼の首を埋めた塚で、その流れ出た血により今でも土の色が赤いという。あるいは、武甕槌神が国見をした丘であるといい、今でも「鬼塚」のある一画は「鹿島神宮」の飛び地境内で、明治維新までは新嘗祭が行われていたとされる。また、第16代・仁徳天皇の頃(5世紀前半?)、国摩真人(くになづのまひと)という人が祭壇を築いて日夜祈祷した末に武甕槌神から神妙剣という極意を授けられたといい、これが刀術の最初であり、鹿島古流と呼ばれ、後に戦国時代の剣豪・塚原卜伝の鹿島新當流につながるという。このように、あまり知られてはいないが、「鹿島神宮」所縁のパワー・スポットの1つとなっている。
蛇足1:上記のように、「鹿島町史」では古墳としているが、「いばらきデジタルマップ」では中世の塚となっていて、現地案内板でも「小高い丘」で、古墳とは書かれていない。
蛇足2:「常陸国風土記」香島郡の条に「高天原(たかあまのはら)から降りてきた大神の名を香島天之大神という。」(現代語訳)とあって、鹿島大神=武甕槌神が高天原からやってきたことになっているが、高天原がどこか、ということについて諸説ある。もちろん、天上界という説もあるが、地上のどこか、という説が有力で、九州や大和国(現・奈良県)など西日本が多い。中には関東地方とする説もあって、例えば新井白石は常陸国多珂郡(旧・茨城県多賀郡)であるとしている。なお、当地の「高天原」は「高間ヶ原」とも書かれ、赤い土に小石が混じる原ということで「赤間原」、または松林がある原の「高松原」が訛ったものという説もある。


写真1:「鬼塚」


写真2:説明板。右側の小径を奥に進む。


写真3:数分進むと、雑木林の中に祭壇のようなものが見える。この祭壇と柵は住友金属工業(現・日本製鉄)が設置したらしい。


写真4:その背後が小丘になっているのがわかる。
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降魔山 護国院 経音寺

2022-10-08 23:32:49 | 寺院
降魔山 護国院 経音寺(ごうまさん ごこくいん きょうおんじ)。通称:護摩堂、厄除不動尊。
場所:茨城県鹿嶋市宮中2-6-13。国道51号線と茨城県道192号線(鹿島神宮線)の「鹿島神宮前」交差点から、県道を東へ約100mで右折(南へ)、約100mで東側入口。駐車場有り(境内)。正面は南側になる。
寺伝によれば、和銅2年(709年)、明道上人が開基したという。当初は三論宗だったが、中世には真言宗に改宗したらしい。元は常陸国一宮「鹿島神宮」(2017年10月7日記事)境内にあり、室町幕府初代征夷大将軍・足利尊氏が深く信仰し、神宮神前不断の護摩所との勅号を受けて国家安穏の護摩祈祷を修したことから、通称「護摩堂」と呼ばれるようになった。延宝2年(1674年)、「鹿島神宮」大宮司から排斥を受けて現在地に移ったが、幕末の水戸藩の争乱の中、本尊と一部の宝物を除き堂宇・伽藍が焼失、明治12年(1879年)に再建された。現在の不動堂は現・茨城県城里町の「白雲山 小松寺」(2019年5月25日記事)から移築されたものといわれ、天明年間(1781~1789年)頃の建築とされている。現在は真言宗智山派に属し、本尊は五大明王。なお、不動明王は、「成田山 新勝寺」(2014年1月25日記事)の不動明王と同じ木から彫られた「兄弟不動様」とされ、「北関東三十六不動尊霊場」の第29番札所となっている。
蛇足:「鹿島神宮」の神仏混淆は古く、天平勝宝年間(749~757年)に「神宮寺」が創建されたというが、他にも「鹿島神宮」に社僧・供僧として奉仕する寺院が多くあり、特に「神宮寺」・「広徳寺」・「護国院」・「正等寺」・「普済寺」を「宮中五ヶ寺」と称した。しかし、江戸時代末から廃仏毀釈が動きが激しくなり、明治時代に入ると「鹿島神宮」関連の寺院は殆ど廃寺となり、現在まで残っているのは当寺院と「瑞甕山 根本寺」(2017年11月25日記事。中世に鹿島城主・鹿島氏(大掾氏の支流)の菩提寺として再興され、「鹿島神宮」の社僧ではなかったためらしい。)のみという。因みに、当寺院には安政年間(1855~1860年)に始められた「大師板東(たいしばんどう)」という行事があり、弘法大師像を納めた厨子を背負い鹿島郡内を巡拝するというものであるが、明治5年に明治天皇の認可を受けて「鹿島速證講(かしまそくしょうこう)」と改称された。あるいは、こうしたことが当寺院を存続させることになったのかもしれない。


写真1:「護国院」正面(南側)境内入口。「勅願所 降魔山」とある。


写真2:石仏などが並ぶ中に鹿嶋市指定文化財の「板碑」(鎌倉~室町時代)がある。元は「普済寺」にあったものという。同様な板碑は、関東には多いが、鹿島地方に残っているものは珍しいらしい。


写真3:山門


写真4:本堂(不動堂)。平成8年の台風で被害を受け、同10年に修復。鮮やかに彩色されている。


写真5:東側入口


写真6:大師堂。東側入口の正面にある。


写真7:大師堂を取り巻く石仏。所謂「四国八十八ヶ所のお砂踏み」で、四国に行かなくても巡礼したことになる霊場。


写真8:大師堂背後の弘法大師像。
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龍雲山 普門院 普渡寺

2022-10-01 23:32:25 | 寺院
龍雲山 普門院 普渡寺(りゅううんさん ふもんいん ふとじ)。通称:延方普門院。
場所:茨城県潮来市洲崎603。国道51号線(潮来バイパス)「延方駅入口」交差点から東に約1km、同「洲崎」交差点手前の側道に入り、直ぐ左折(北西へ)、約210mで左折(南西へ)、約80mで駐車場。こちらは寺院の裏手で、山門は南側にある。国道から直ぐ門前まで行ける道路があるが、道幅が狭いのと、こちら側には駐車スペースがない。
寺伝等によれば、天安2年(858年)、秀賢和尚により法相宗「荘厳寺」として上戸村小野詰(現・潮来市上戸)で開基され、後に天台宗に改宗した。建長4年(1252年)、真言律宗の僧・良観坊忍性(忍性菩薩)が布教のため常陸国に下った。忍性は筑波の「三村寺」(「三村山 清涼院 極楽寺」)を拠点としたが、建長8年(1256年)、常陸国一宮「鹿島神宮」に参籠した折、境内の神木の南枝(南向きの枝)から地蔵菩薩像を彫刻して洲崎に祀れば、渡海安全・五穀豊穣・国家安泰となるだろうとの鹿島大神の神託があった。そこで、地蔵尊3体を一刀三礼をもって彫刻し、洲崎、鹿島「普済寺」、大船津「普渡寺」の3ヵ所に安置した。このとき、洲崎の地蔵堂は「荘厳寺」の末寺「海雲山 宝殊院」の管理とした。正長元年(1428年)、「荘厳寺」は上戸村から潮来村(現・潮来市潮来)に移転したのを機に、真言宗の僧・乗賀を招いて真言宗に改宗し、京都「醍醐寺 三宝院」の末寺となるとともに、山号・院号を「竜王山 普門院」に改めた。さて、洲崎は「延方津」とも言って、対岸の大船津に渡る船着き場があった。大船津は「鹿島神宮」への入口でもある(西の一之鳥居がある。)。しかし、洲崎と大船津の間は「鰐川(浦)」といって、外海からの潮の流れが入って瀬が速く、水上交通の難所でもあった。伝説では、巨大な鰐(鮫?)が棲んでいて、渡船をひっくり返して人を喰うなどしていた。ある時、1人の僧が現れて「鰐川」に向かって読経すると、巨大な鰐は大波に攫われて外海に出て行ってしまった。その後、その僧は地蔵堂の中に入っていったので、鰐を退治したのが地蔵尊の仏力と知り、村人は「船越地蔵」と呼んで信仰を集めた、という。また、こうして、地蔵尊の名声が高まると、水上交通安全だけでなく、延命・安産・子育て等の御利益も喧伝されるようになった。元禄14年(1701年)に「宝殊院」が廃寺となったため、水戸藩第2代藩主・徳川光圀の命を受け、翌年には当寺院が潮来から現在地に移転して、寺名を現在の「龍雲山 普門院 普渡寺」に改めた(なお、同市内の「長勝寺」(前項参照)の山門は、元は当寺院が潮来に残した山門を移設したものとされる。)。明治29年、「長谷寺」(現・奈良県桜井市)の直末寺となり、真言宗豊山派に属した。現在の本尊は船越地蔵菩薩。この地蔵像は、丈三尺三寸で船に乗った立像(船は明治時代に付加されたもの)とされるが、容貌の見分けがつかないくらい朽損が進んでいるとのことで、現在は見ることができない。欅(ケヤキ)材の一木造りで、東国で10~12世紀に行われたナタ彫り(荒彫り)の技法によるものとされ、製作が古代末頃にまで遡る可能性があるとのこと。
蛇足:当寺院のほかに忍性作の地蔵菩薩像を安置したとされる寺院のうち、「普済寺」は元は「鹿島神宮」境内にあり、京都「醍醐寺」の塔頭「光台院」末。「滅罪地」として「清めの地蔵菩薩」像があり、「鹿島神宮」の参拝前にお祓いを受ける場所とされていた。この地蔵菩薩像が忍性作のものだったかは、不明。江戸時代には現・鹿嶋市宮中の「護国院」の裏手(西北)にあったが、明治4年に放火により焼失。現在は「普済寺霊園」だけが現存している模様。もう1つの「鶏壁山 普渡寺」は、創建時期等不明、真言宗豊山派の寺院として現・鹿嶋市大船津に現存するが、現在は無住という。本尊は地蔵菩薩だが、現存のものは江戸中期頃の作とされ、忍性作のものがあったかどうかは不明とのこと(「鹿嶋町史」等による。)。


写真1:「普門院」山門。入って正面が地蔵堂だが、参詣時、山門から先は雑草が生えていたので、あまりこちらからは出入りがないのだろうと思った。


写真2:西側の裏参道入口。右の奥に見えるのが山門の屋根、入って左側、直ぐのところに地蔵堂がある。


写真3:地蔵堂。テントのような覆い屋の下にある。江戸時代初期の天和3年(1683年)建立だが、建築様式には室町時代末期の特色が見られるという。また、内陣の須弥檀背面の来迎柱の裏面に朱書きで潮来遊郭の遊女とみられる70名の名前がある。遊女が寄進者となったとみられており、民俗的にも貴重なものとされ、平成5年に潮来市指定有形文化財に指定された。


写真4:同上、彫刻など。


写真5:同上、背後に小さな墓地がある。宝篋印塔など。


写真6:同上、堂の脇の「加波山三社大権現」碑など。


写真7:鐘楼


写真8:大師堂?
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